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とある男の話。

作者: 桝尾

 小高い丘に降り立つ。ヘリの風圧に乱れる髪をかきあげて眼鏡をかけなおす。迎えが必要になったら呼んでくれ、とパイロットから通信が入った。右手を挙げて了承したようにジェスチャーを送れば、パイロットはこちらに敬礼をして、ヘリを浮上させた。

 しばらく、目を細め、遠くなるヘリを見つめる。

 辺りが急に静かになった。視線を丘の下に向ける。瓦礫だらけの廃虚と化した市街地が広がっていた。しばらく耳をすましたが、やはり銃声は聞こえなかった。

 穏やかな風が頬を、市街地へと誘うように撫でていく。

 また、眼鏡をかけなおし、ゆっくりと丘を下っていく。

 αチームとの最後の通信がこの土地からだった。激戦区だったときく。地図上に記されたフラッグの奪い合いで多数の兵士が死んだ。彼らもその数に追加された。

 道路には建物から崩れてきたコンクリートと、砂塵と、銃痕が散乱していた。つま先で空の弾倉を蹴り、乾いた音が辺りに響く。

 それと同時に、背後からトラックのエンジン音が聞こえてきた。多数のエンジンに振り返ると、何台ものトラックが体をすり抜け、通り過ぎて行った。荷台には武装した兵士が乗り込んでいた。その中に、見知った彼の顔もあった。

 彼らを乗せたトラックは数メートル先で停止する。瞬きをした。そこには、黒く焦げ、あるいは、原型を留めていないトラックだったものが何台か並んでいた。

 そのうちの一つ、彼が乗っていたトラックの荷台に乗る。荷台には菓子やペットボトルのゴミが散乱していた。戦場に赴くまでの、最後の休息。その間、彼らは何を考えていたのか。

 丁度、彼がいた辺りにやけに白い紙切れが落ちていた。端に日付が書いてある。拾い上げ、裏返せば、几帳面そうな文字が並んでいた。手紙だった。



 トラックの荷台の端に陣取り、膝を折り曲げて顔を俯ける。隣の奴の肘がかすかに触れた。視線だけを辺りに巡らせると、皆、チョコレートやビスケットを口に含みながら雑談をしていた。話題は、昨日見た映画についてだった。

 再び、視線を手元に向ける。ジャケットの内ポケットから少しだけ覗かせた白い便箋。野郎ばかりの基地ではまず見ない、一字一字丁寧な文字で綴られた手紙だ。内容は、何度も読み返したからすべて覚えてしまった。だから、手紙を読む、というよりは、その字を眺める為に持っている。これを貰ったのは、彼女と出会った翌日だった。

 今の基地に移動した日の晩、基地近くの町の飯屋で同じく基地を移動してきたあまり柄のよろしくない連中が彼女に絡んでいた。見かねて、それとなくやめるように言うと、多少派手なやり取りにまで発展してしまった。

 こんな奴らと一緒にされてしまったら、この店に来づらくなると思って注意したのだが、結果的には一緒になってしまった。

 のびてしまった最後の一人を店の外に運び出して、飯と壊してしまった椅子分の金を払って出ようとした。

 その時だった。彼女が俺の腕を掴んだ。血が出ていると言われ、見れば、確かに左腕を切っていた。でも、大した傷じゃない。彼女の手を振り払って、ポケットからその時持っていた金を全部取り出し、あっけにとられている店主に押し付けて店を出た。

 その翌日、基地の外で俺を探している奴がいるという伝言が基地中を巡って、俺の耳まで届いた。やってきたばかりのこの土地で一体誰が。面倒だったけれど、妙な噂になりかけている雰囲気を察して、仕方なく基地の入り口まで出向いた。

 そこに、彼女が立っていた。

 彼女は金網越しに俺を見つけると、金網の隙間から小さな手をこちらに突きだした。その手には白い封筒と、それから、俺のタグがあった。

 昨日お金と一緒にこれがあった、と彼女は言った。

 礼を言って受け取るように手を伸ばすと、彼女の指先に触れた。柔らかく、温かい肌だった。タグが陽を反射させながら彼女の手から俺の手に流れ落ち、空になった彼女の手はするりと金網を潜り戻っていった。

 怪我は大丈夫ですか、と彼女が聞いてきた。俺は、別に大した怪我じゃない、と短く返した。すると、彼女は微かに眉を顰め、でも怪我は怪我です。と答えた。

 このぐらい、気にしてられない

 それは、貴方が軍人だからですか?

 そうかもな

 椅子を武器にする軍人なんて初めて見ました

 使えるもんなら、なんでも使うぞ

 なら、一瞬だけ、ナイフに手を伸ばしかけましたよね。でも、それを選ばなかったのはなぜですか?

 飯屋で流血沙汰はマズいでしょ

 むこうは、大きなナイフでしたよ

 むこうさんはむこうさんだ

 優しいんですね

 優しい、と彼女は言った。果たして、椅子で脇腹を殴りつけた俺の行為は優しいのだろうか。彼女の言葉を真面目に捉えていると、彼女はくすくすと笑い出した。

 じゃあ、また。と彼女は金網越しに、こちらに手を振って町の方へと歩き出した。俺はしばらく彼女の背を視線で追いかけ、ふと、渡された手紙の存在を思い出した。

 封筒を破り、中の便箋に目を通して、彼女らしい字だ、と思った。内容はなんてことない、昨日の礼と、それから彼女の事について少しだけ。どうやら花屋で働いているらしい。だから便箋から微かに植物独特の水っぽい匂いがするのか、と花に囲まれた彼女を想像する。

 それから最後に、せめてものお礼にタグを磨いたと書かれていた。タグを見ると、確かに、いつもくすんでいたステンレス製のタグがぴかぴかに輝いていた。

 まるで新兵に戻ったようだと、俺はタグを陽にかざして笑ってしまった。

 そのタグはまだ、俺の首にぶら下がっている。

 ガクン、とトラックが大きく揺れて停止した。顔を上げると、いつの間にか目的地についていた。俺たち以外に人はいない、都市機能を無くした市街地。背の高いビル群を見上げ、ヘリが飛んでいないことを確認する。

 隣の奴の肘が再び腕にぶつかった。見ると、男は少し青ざめていた。手に持っていたペットボトルを放り投げ、荷台から下りて行く。

 あの調子じゃあ、長くは持たないだろう。それは、俺も同じだった。

 便箋を手にしたまま、立ち上がる。まだ、それらしい気配はない。が、直にここも血と硝煙が混ざり合った、嫌な臭いに覆われる。

 便箋を鼻先に付け、そっと彼女の字に口づける。

 もう便箋からはあの匂いはしなかった。



 ノートに軽くメモを取り、そのページに手紙を挟む。荷台から降り、空を見上げた。ビル群の合間に、青空が見える。

 道路沿いに歩く。中心部に向かうにつれて、都市の形骸化も激しくなった。ある所ではビルが何棟か完全に崩れてしまったのか、立ち入ることすらできない瓦礫の山が連なっていた。

 首から下げていたカメラを構え、コンクリートの残骸から剥き出しになった鉄筋にシャッターを切る。ふと、ファインダーに影が走った。影は左手側へ消えていく。

 左手には建設中か、あるいは取り壊し中か、青いビニールの幕がかかったビルが建っていた。破れた幕から中を覗く。丁度、兵士が銃弾に倒れるところだった。兵士はゆっくりと仰向けになり、床に倒れた時には消えていた。余韻として、かすかに埃が舞う。

 装填する音がして、視線を上げると、彼がいた。彼はサイトを覗き、こちらに銃口を向ける。だが、一息ついて銃口をおろし、階段を駆け上がっていった。

 崩れた穴から建物の中へ入り、彼がいた場所を見下す。ぼろぼろになった内壁の断熱材に埋もれ、それはあった。彼が愛用していたアサルトライフルの弾倉。拾い上げる。まだ中に弾が残っていた。

 彼の癖だとよく知っている。この弾があれば、彼の戦況は何か変わっただろうか。遠くに銃声が聞こえた。



 階段を駆け上がった先にいたスナイパーを撃ち殺し、リロードしそうになって、慌ててその手を止めた。先ほどしたばかりだ。変な癖をつけてしまったと舌打ちする。

 残りのマガジンはまだ多少の余裕がある。が、最後には弾がないと嘆く羽目になるのだ。いつもならそれでもなんとかなった。だが、今回は恐らく。

 再び銃声が響く。自チームの銃じゃない。残りはあと何人だ。焦りに突き動かされ、廃虚ビルを駆ける。

 焦るとろくなことにならないとは分かっている。そんな性分を、彼女にもよく怒られた。

 彼女の花屋はいつも、色んな人が訪れる。俺は店先で言われた通りに、ナイフで花を切りそろえながら、店に訪れる客を眺めていた。店の奥では、彼女が客の為に花を選んでいる。鉢が天井から下がり、時折、彼女の髪に花が絡む。彼女はそんな花達に、もう、と怒ったように、でも笑いながら絡んだ髪をほどいた。まるで、花相手に遊んでいるみたいだと思い、初めて花屋に訪れた時、俺が髪に絡んできた花の蔓を乱暴に引っ張って怒られたことを思い出した。

 まって、と彼女は言って、小さな脚立を持ってきて、俺を見下す高さまで上ると、慎重に俺の髪と蔓をほどいた。

 あなたの背だとここはちょっと歩きづらいんですね。と彼女は言った。確かに、天井からつるしてある鉢はほとんど俺の目の高さだった。脚立に乗った彼女を見上げると、彼女は脚立を一段降りて俺の目の高さに来た。

 背、高いですね

 いや、普通ぐらいだろ

 軍の中でも平均的な方だと思う。むしろ、彼女の方が少し小さいのではないだろうか。脚立から降りた彼女の頭は俺の胸の高さにあった。

 お怪我はどうですか?

 彼女は脚立を片付けながら聞いてくる。

 もう治った

 俺は面倒臭くなって嘘をついた。すると、彼女が俺を振り返った。少し、怒ったような顔だ。

 嘘でしょう。そんな早く治るなんて

 治ったようなもんだ

 治ってないじゃないですか。ねえ、軍の方って、どうしてそんな皆せっかちなんですか?

 せっかち?

 ほら、治ってないのに、治ったって言って。自分の体を無視してるじゃないですか。それで、戦いにいくんでしょう?

 それが仕事だからな

 いちいち浅い切り傷でどうこう言っていたら勤まらない。前線に突っ込むことを繰り返していたら、頭や心臓、腹さえ撃たれなかったら、死ななかったら、全て大したことない傷だと、誰だって思う様になるだろう。

 彼女は俺の返答に少し考え込んだ後、せっかちは損ですよ、と寂しげに笑って言った。

 そんなことをぼんやり思い出している間に、全て花を切り終えていた。茎や葉の残骸を集めて新聞紙でくるんでいると、彼女が店先にやって来た。

 また来てください。と彼女は手を振って客を見送った。客は角を曲がる時、こちらを振り向いて一礼した。律儀な奴だ、と思いながら、彼女にならって俺も会釈する。

 花の扱い方、お上手ですね。花屋さん、私よりも向いてるかもしれないですよ

 と彼女が俺の前にしゃがみこんで言った。俺と彼女の間には切りそろえられた花たち。赤や青や、色鮮やかな花たちが新聞紙の上に並んでいた。

 ナイフの扱いが上手いからだろ。それに、切るだけなら誰にでもできるんじゃないか

 いいえ。それだけだと、花が機嫌を損ねて萎れてしまいます。すごく丁寧に、優しく花を切るから、花も美しくいようとしてくれてるんです

 まさか、そんな褒められ方をするとは思わなかった。いつも戦場では銃を丁寧に扱えと怒られてばかりいたし、前の任務でも弾を大事にしなくて死にかけたばかりだ。

 何にしても雑で、多少慎重さにかけるところがあって、彼女の言う通り損な性分だと自覚していた。

 私、そうやって花を相手にしているあなたが好きです

 彼女はそう言って、一本、ダリアの花を手に取った。その花がダリアと分かったのは、彼女がいつか教えてくれたからだ。

 ぼんやりしてて、穏やかで、すごくあなたらしいです

 そのダリアがそっと俺の耳にかけられる。ふわりと花独特の水っぽい匂いがたった。

 それじゃあ、戦場には立てないな。と言って笑えば彼女は、立たなくていいですよ、と言った。

 いつも何かに焦っているあなたより、花屋の店先でぼんやりしながら花を世話しているあなたの方がきっと、ずっと幸せです

 彼女は俯いて呟いた。

 いや、それは俺の幸せじゃない。

 それは、たぶん、彼女の幸せだろう。

 とは、言えなかった。俺は耳にかけられたダリアをとって、彼女の耳にかけた。そして、指先で彼女の頬を撫でて、上を向かすように顎をすくった。やはり、寂しげな微笑みを浮かべた彼女と目が合い、そんな彼女の耳にかかるダリアに口づける。

 じゃあ、また

 俺は立ち上がると呆然とする彼女を置いて、歩き出した。

 目の前に、あの時の、ダリアの花弁が散った。

 いや、血飛沫だ。俺の前に飛び出してきた味方が銃弾の雨を浴びた。向こうは四人、ヤバい。味方の死骸を盾にして、壁の後ろに滑り込む。激しい銃撃に伏せると、顔間近に真っ赤な血が流れてきた。元に視線をやれば、原型を留めていない人だったものが血だまりの中に転がっていた。

 心臓が早鐘をつく。一旦引くか、いや、でも、どこへ?

 先ほどリロードしたばかりだから、マガジンの中身は十分だ。弾を撃ちきる前に、四人仕留められるはずだ。やるしかない。

 冷静さを欠いた判断。だが、大抵、それで生き延びられている。

 ぼんやり、穏やかにしていたら、死んでしまう。

 これが自分だ。と言い聞かせる。

 なのに、花屋の店先での出来事が無性に懐かしく、うらやましいと思ってしまった。



 茶色い染みが壁に飛び散っていた。数人分の血液が足元に流れ、崩れた床の穴から下の階へと滴っていく。一歩踏み出すと、血液は消え、砂塵と埃が舞った。吹き抜けになった建物内に、乾いた風が通り抜ける。

 さらに上の階へ登る階段の前に、空の弾倉を見つけた。先ほどと同じ型の、彼のものだった。それをバッグにしまい、階段を上ると、その先は屋上だった。

 見上げると、空がずっと近くなってそこにあった。手をかざして、太陽の方角を確認する。もうじき、夕暮れになる。

 屋上の縁に立ち、眼下の跡地を撮影する。何度かシャッターを切った後、バッグから水筒を取り出して水を飲む。乾いた喉に水が染み込んでいった。口端を拭う。それからノートを取り出して、これまでのメモを取った。

 彼について、感じたこと全てを記していく。

 気づけば、メモ用紙がオレンジ色に染まっていた。顔を上げ、眩しい夕陽に目を細める。急に気温が下がった様にも感じた。ジャケットの前をしめ、戻ろうと踵を返した。その時だった。足を引き摺り、屋上から隣のビルへ飛び移る彼の姿を見た。瞬きして視線を下に向ける。先ほどは気づかなかった、点々と滴った跡が、屋上の入り口から彼が消えた方に続いていた。

 そちらに歩み寄る。少し飛べば難なく着地できそうな位置に隣のビルの給水タンクがあった。そのタンクの上にも茶色い大きな染みがある。

 痛みに蹲る彼がいた。咳き込みながら、もがき苦しんでいる。彼はジャケットを脱ぎ、袖をナイフで切り裂くと、足にジャケットの切れ端を巻きつけた。そして、足を引き摺り、タンクから落ちていく。

 カメラをバッグにしまい、バッグのボタンを留め、彼の跡を追って屋上からタンクに飛び移る。勢いがついて、落ちそうになったが、何とかタンクのバルブにしがみついた。そのバルブは赤錆色に染まっていた。

 かすかに彼の手の跡もある。その手の跡に触れ、頬に滴るものを拭う。

 タンクを降りると、配管が剥き出しのビルの屋根に出た。茶色い染みは建物の天窓のほうへと続いていた。

 ガラスの割れた天窓を覗き込むと、吹き抜けの構造になった空間が広がっていた。商業施設らしい。

 中に降りる。飛び降りた先に、ぼろぼろの布切れがあった。埃かぶったそれを拾い上げると、先ほど彼が脱ぎ捨てたジャケットだった。袖部分が切り裂かれ、他にも虫食いのような穴もある。少し黴臭い。丁度、窓の下にあったから、長いこと雨に吹きさらされたのだろう。

 そのジャケットは茶色く滲みていた。

 再び眼鏡の下を拭った。



 脱ぎ捨てたジャケットはなんのクッションにもならなかった。硬い床に蹲り、激痛に歯を喰いしばる。朦朧とした意識を何とか繋ぎ止めるようにジャケットを握り締めた。

 撃たれた場所が悪かった。右の太股から溢れ出る血の臭いに吐き気を覚える。

 また銃声が近くから聞こえた。まだまだ俺を追ってきているらしい。逃げなければ。

 涎を拭って、上半身を起こす。それから左足に力を入れようとしたが、感覚が麻痺してしまっていて、二、三歩歩いたところで躓いて硬い床に身を打ち付けた。尋常じゃない痛みにとうとう我慢しきれず、胃の内容物を吐き出す。意識を手放してしまったほうが、楽なのは百も承知だった。きっと、失神している間に頭を撃ちぬいてくれるだろう。

 でも、できなかった。死のうとする意志を記憶が邪魔する。彼女が、邪魔をする。

 そっと頬を撫でられ、顔を上げると彼女がいた。

 あなた、お酒飲めないのなら、そう言えばいいのに

 と、彼女は不機嫌な様子でエプロンの袖で俺の口を拭った。

 それは、収穫祭の夜のことだった。大人には出来たての若いワインが、そして、子供には葡萄ジュースが配られた。下戸な俺は子供に交じって葡萄ジュースを貰った。はずだったのだが、野外にある祭り会場の料理が並んだテーブルを巡って、中央にあるステージの音楽を楽しんで、適当に談笑している内にグラスを間違えてしまったらしい。

 祭りの浮かれた雰囲気に飲まれるようにワインだったグラスを煽って、数分もしないうちに会場から外れた草むらで吐いていた。

 そんな時に彼女がやってきたのだ。料理をふるまっていた彼女は白いエプロンを身に着けていた。汚れるぞ、と言っても彼女は、エプロンは汚すものです、と言って拭うのをやめなかった。

 お水いりますか?

 ああ、口、すすぎたい

 なら、桶で持ってきたほうがよさそうですね

 待ってて、と彼女は祭りの明かりのもとへ消えて行った。俺はこの間に帰ってしまおうかと考えた。酒を飲んで気持ち悪い上に、頭痛もしてきた。これ以上彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。けど、歩ける体力が回復する前に彼女が小さな桶を手に帰ってきた。

 はい、どうぞ

 と彼女は俺の前に桶を置いて、しゃがみこんだ。頬に両手をつき、どこか恨めし気だ。どうしてそんな顔をするのだろうか、と気にはなったが、聞くほどの気力はなかった。口の中をすすいで、ついでに顔も洗うと、彼女がハンカチを手渡してくれた。

 ありがとう、助かった

 どういたしまして

 彼女は相変わらず不機嫌な口調だった。

 そんな彼女を追いかけてきたのか、祭り会場の方から一人の男がこちらにやってきた。そして、グラスを片手に彼女の肩を叩いた。

 一杯、どうですか?

 と男は笑みを浮かべて言った。軍の奴と違って、爽やかな野郎だと思った。だが、彼女は、いらない。ときっぱり断った。男はそれでも彼女にグラスを手渡そうとしたが、彼女は頑なに受け取らなかった。面倒臭い押し問答が続き、いい加減受け取ったらどうだ、と言いそうになった時、男と目が合った。

 彼は基地の奴だぜ?

 と男は笑った。

 パン、と乾いた音が響き、気づけば、彼女が男に平手をお見舞いしていた。痛そうだ、と思っていると男は、

 明日死んでもおかしくない連中が、なんでここにいるんだ

 と俺を見て吐き捨てた。

 ほっといてよ! あっち行って!

 それは今までに聞いたことのない怒鳴り声だった。そんな声もだせるのか、と妙に感心してしまった。彼女の迫力に気圧されたのか、男はそそくさと逃げるように消えて行った。

 彼女は俺に背を向けたまま、しばらく、肩を震わせていた。俺なら気にしてない。とその背に言葉をかけると、彼女は今度、こちらを振り向いて睨んできた。

 あなたもどうして……、どうしてワインを飲んだんですか?

 俺はワインを飲んだつもりはないぞ。ジュースだと思ってたのが、いつの間にかワインに代わってた

 え……、だ、誰かに、渡された、とかでは?

 いや、自分のだと思ってとったグラスが違ったらしい

 俺の返答に彼女は、両手で顔を覆った。

 私、なんてことを……。ああ、ごめんなさい、そんなつもりじゃあ……

 なあ、ワインに何か意味があるのか? よく分かってないんだが

 彼女が両手を外して俺を見た。月明かりでも分かるぐらいに顔を真っ赤に染まっていた。そんな顔できるのか、と思っていると、彼女は小さな声で呟いた。

 ワインを授けあった男女は結ばれる、という風習があって、今日は、そのための祭り、です……

 ああ、だから、さっきの野郎はワインを持ってきたのか

 俺の言葉に彼女は再び顔を両手で覆った。

 私、てっきり、あなたが誰かからもらったのかと……

 いや、自業自得だ。それに、酒は全く飲めないから受け取れない

 軍でも弄られるほどの下戸だ。桶を見おろして自嘲気味に笑った。グラス一杯でこのザマなのだから、渡されたとしても困るだけだろう。

 それは、私からでも、ですか?

 彼女の消え入りそうな言葉を聞いてしまった。顔を上げると、彼女は真っ直ぐに俺を見ていた。

 どう返事をすれば、彼女が喜ぶか分かった。だが、俺は首を振った。

 受け取れない。言っただろ? 酒は飲めないんだ

 彼女は寂しげに微笑んだ。本当はそんな笑みが見たいんじゃない。あの、花と遊ぶように無邪気な笑みが見たい。

 だから、精一杯、今の自分なりの答えを出した。

 葡萄ジュースは、あれは、美味かった。できれば、毎年飲みたい

 そう、笑って言えば、彼女は俺の両頬に手を添えてきた。彼女のやけに輝いた目が近づき、それが閉じて、俺も目を閉じた。唇に、ほんの少し甘い味がした。あの葡萄ジュースだ。彼女も子供に交じってジュースを貰ったのだろうか。それを想像した後で、来年、子供に交じって二人、ジュースを貰いにいくのもいいかもしれないと思った。

 目を開けると、朽ちた壁が崩れる瞬間だった。辺りに埃が舞い、少し咳き込む。脂汗がひいた。痛みも先ほどのようには感じない。

 これなら、行けるかもしれない。

 立ち上がり、手摺に持たれながら右足を引き摺り、階段を降りる。銃声はすぐそこまで迫っていた。まだ敵は俺を諦めてないらしい。その方が好都合だ。

 商業施設ならばあるだろう、放送機器を探す為に立ちあがった。



 ジャケットをビニール袋に詰め込んで、再び血の跡を追って歩く。次第に日が沈み、崩れた壁も、折れた手摺も何もかもがオレンジ色に染まる。茶色い跡も見えづらくなってきた。

 だが、その跡は唐突に終わっていた。角を曲がると、急に視界が開けた。建物の半身が綺麗に削り取られたみたいに、無くなっていた。目の前にはビルの中に入る前に見た瓦礫の山が広がっている。

 崩れた床の縁に立ち、瓦礫を見おろす。その横を彼が、通り過ぎて行った。建物の延長を、右足を引きずりながら一心不乱に。

 階段を駆け下りて、地上に降りる。そして、先ほどいた位置を確認しながら瓦礫の山を登った。何度か、不意にあいた穴に足をとられ、あるいは瓦礫が大きく崩れ、それに巻き込まれかけた。

 だが、それでも彼の姿を追った。彼はそこにたどり着くと、緊急用の動力源を呼び起こした。辺りにノイズが響き、その後、彼が苦しそうに血を吐き出しながら、挑発をかました。

 慣れない挑発に、下手くそ、と罵って彼を見上げる。

 彼の真下に来た時に、やっとそれを見つけた。それは瓦礫から突き出た鉄辺に引っかかっていた。

 一枚のドッグタグ。

 絡んでいた鎖を外すと、無線に通信が入った。彼からの最後の通信だ。今、敵を引き付けている。ここに爆撃を落としてくれ、と彼は言った。

 αチームからの最後の通信をとった自分は、その苦しそうな声に唇を噛みしめた。



 口内に血の味が広がった。それでも、頭に浮かんだ適当な言葉を吐き散らす。決して、自分を大した奴だと驕ったことはない。だが、周りの評価から考えれば、こんなに下手な挑発でも乗ってくれる奴はいるだろう。

 こんな瀕死の男でも撃ち殺せば、昇級には役立つはずだ。

 耳をつんざくノイズを最後に、この施設がそれまでため込んでいた動力が尽きた。持っていた無線をかける。しばらくホワイトノイズが響き、それからよく知った声が聞こえた。血を吐き出して、つぶれた喉を震わせる。恐らく、これが最後の会話になるだろう。

 彼女に告げた最後の言葉は、おやすみ、だった。

 夜中、基地をいつものように抜け出し、彼女の待つ花屋に向かう。

 遠くからでも、花屋の二階、彼女の部屋の明かりがついているのがわかった。起きているらしいから、呼び鈴を押せば、彼女が下りてくるだろう。と思ったのだが、店先まできて、外に彼女がいるのに気付いた。彼女は俺の特等席になっていた店前の箱に座っていた。

 風邪ひくぞ

 と声をかければ、ガウンを纏った彼女は立ちあがって駆け寄ってきた。とんと胸にぶつかる。軽く抱きしめて、背を撫でてから彼女の肩を掴んで引き剥がした。

 どうした?

 嫌な夢を見て……

 彼女は目を伏せて言った。

 そうか

 内容はあえて聞かなかった。聞かなくとも、大抵、俺にまつわることだと分かってしまった。彼女は俺の手を引いて店に入っていった。薄暗く、植物たちが静かに眠る店内を、屈んで通り抜ける。店の奥にあるリビングに通されて、椅子に座らされた。テーブルの上には枯れかけたダリアが瓶に活けてあった。最後のその時まで、ちゃんと見てあげるのだと、いつか彼女が言っていたことを思い出す。

 彼女はコーヒーを淹れて、俺の前に座った。緑色のマグカップ。いつの間にか俺の物になっていたそれに口をつけて熱いコーヒーを啜る。

 明日、また行ってくる

 俺はなんてことないように言った。彼女は静かに頷いた。いつものやり取りだ。彼女は俺が帰ってくることを信じて何も言わない。だから、安心して彼女にきちんと告げることができた。

 でも、明日は、違う。

 明日は、きっと、帰って来られないだろう。

 だから、俺は努めてなんてことないように、普段通りに振る舞った。彼女が立ち上がると、俺の横に並んだ。そして、俺を抱きしめる。その胸に顔を埋めて、背に手を回した。

 心音が聞こえる。穏やかな心臓の鼓動。彼女らしい、とぼんやり思った。

 顔を上げると、彼女が口づけてきた。浅いキス。すぐに唇が離れていくから、俺は立ち上がって彼女を抱き上げた。

 ん、と彼女を急かせば、彼女は頬をかすかに染めて唇を重ねてくる。何度も重ね、キスを繰り返しながら、彼女を二階の寝室へと運ぶ。ベッドへ彼女を下した時には、彼女は乱れた呼吸を繰り返していた。

 このぐらいで息を切らしたら、きっと、戦場では五分も持たないだろう。なんて、つまらないことを考えて、笑ってしまう。すると、彼女が不思議そうにこちらを見上げてきた。

 どうしたの?

 いや、なんでもない

 彼女は知らなくていいことだ。

 彼女は、この花屋で花たちと遊び暮らすからこそ彼女で、だから、俺はせっせと彼女のもとに帰ってくるのだ。

 彼女に覆いかぶさり、口づけを交わす。植物の、水っぽく冷たい匂いの合間に甘い花の香りがたつ。彼女の匂いだ。彼女の髪を撫で、首筋に顔を埋めて深呼吸する。その間に、ガウンを脱がせ、自分もジャケットを脱ぐ。彼女に触れるたび、ちゃんと、生きているのだと感じた。戦場で触る冷たく硬直した人形のような死体じゃない。その柔らかさが、温かさが、全てが、彼女がそこにいて、生きているのだと思い知らせてくれる。当たり前の事なのに、俺にはいつもが新しいことのように感じた。

 服を脱ぎ捨て、彼女の服も脱がすと、白い肌が明かりに照らされた。彼女は恥ずかしそうに俺が脱ぎ捨てたジャケットで前を隠して、明かりを消して、と言った。

 いいだろ、別に

 いやよ。消して

 このままがいい

 ジャケットを奪い取って押し倒せば、俺の首にかかったタグが彼女の胸に垂れ下がった。真っ白なシーツの上に裸体を晒す彼女は、とても綺麗だった。これが誰かの手に触れられてしまうのは惜しい。でも、きっと、そうなるだろう。だったら、せめて、彼女のその肌に我儘ではあるけれど、俺を残したい。

 でも、彼女に触れる前に、彼女が俺の頬に触れた。

 ねえ、どうしたの?

 彼女の指先が離れる。その指先が濡れていた。滴が滴り、彼女の胸に、そして彼女の胸に乗ったタグに落ちる。

 なにか、あったの?

 彼女が不安そうに聞いてくる。だから、俺はそんな彼女を抱きしめて、なんてことの無いように声を発そうとした。でも、喉が震えて上手く喋れなかった。

 ごめん、なんでもない。なんでもないから

 嘘だと、すぐにばれてしまうだろう。でも、

 頼む、いつも通りに、笑ってほしい。普段通りに、しててほしい

 彼女は俺の我が侭に頷いてくれた。

 あっという間に夜が明けて、空が白んだ頃、俺は彼女のベッドから抜け出して、眠る彼女に口づけた。

 おやすみ

 願わくば、俺が生きている間は眠っていてくれ。全て終わった頃に、夢として目覚めてくれればいい。

 咳き込んで、再び血反吐を吐き出す。通信の相手は必死に俺に向かって叫んでいた。でも、どうすることもできないと、奴自身が一番分かっているだろう。

 最後に、できたらでいい、俺のタグを彼女に届けてほしい

 お前、それは、どんなに最低なことか分かってるのか

 分かってる。でも、俺が死んだあとなんて、正直、どうなるかなんてどうでもいいんだ。今、俺はそう願ってる。その願いを嘘でもいいから叶えるって言ってくれ

 こっちだって、てめえがくたばることはどうでもいいんだよ

 そうだな

 目がかすんできた。敵に撃ち殺されるよりも、爆撃に巻き込まれるよりも先に、このままここで死ぬ方が早いかもしれない。案外安らかに死ねることに、少しおかしくて笑ってしまった。その声が向こうにも届いたのか、息を震わせながら奴が言った。



「悪い、色々ごたついてて、遅れた」

 ドッグタグに向かって呟いた。

 眼鏡を外し、目元を袖で拭う。救援要請だって指示することができたはずだ。でも、最終的に爆撃命令を自らの手で下した。

 彼――友を殺したのは自分だった。

 今日やっと、その友の願いを受け取ることができた。

 瓦礫の山を下り、日が暮れてしまった為、その場で一夜を明かす。翌日、丘の上でヘリに乗り込んで、そのまま友が最後にいた基地に向かった。

 その基地に訪れるのは初めてだった。だが、様子は友からの手紙や電話でよく聞いていた。噂通り片田舎の寂れた基地だった。けれど、近隣にある小さな町はいい場所だった。人々が穏やかに日々を営み、ここだけ切り取られたように、平穏な時間が流れていた。

 道行く人に花屋を訪ねると、皆、嬉しそうにぞろぞろ連れ立ってそこへ案内してくれた。そして、子供が花屋の中にかけていき、店主を呼ぶ。

 店から出てきた店主は、彼が言う通り、綺麗な人だった。作りかけの花束を抱え、色とりどりの花に彩られた彼女は、咲かけの蕾を連想させた。期待した眼差しをこちらに向け、頬を上気させている。けれど、バッグから友のドッグタグを取り出すと、彼女は察したように両手で顔を覆った。花束が地面へ落ち、花弁が散る。

 笑みを浮かべていた人々が一人、また一人と決まり悪そうに去っていった。彼女を呼んだ子供も、母親の手に引かれ不思議そうにこちらを振り返りながら角に消えていった。

 彼女と、花と、自分だけになる。

「彼は、最後に、何と言っていましたか?」

 彼女は涙を拭いながら聞いてきた。最後の言葉は、あまりにも声がしゃがれすぎて、聞き取れなかった。だから、

「あなたに会えて、幸福だったと」

 と、勝手に言葉を作った。それで、彼女が満足するなら友も許すだろう。

 彼女はしばらく呆然としたように地を見つめた後で、顔を上げ、やっとドッグタグを受け取った。

「私は、不幸です」

 彼女はそう言って、ドッグタグに頬を寄せ、涙を流しながら微笑んだ。

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