86.蜘蛛の女王
いきなり聞こえた見知らぬ声にビクリとする。
急いで全員固まって武器を構える。フランカも急いでシリウスに飛びつく。
洞窟の奥から出てきたのは、真っ白な体をした巨大な蜘蛛だった。
体長は二メートル程で、デーモンスパイダーと比べると小柄だ。細身の脚と身体は真っ白で、お尻の部分には赤い斑点があり、一見すると目玉のようだ。そして何より他の蜘蛛と違うのは、蜘蛛の胴体の部分から人間の上半身が生えている。
これまた真っ白な肌の細身の女性で、長い髪は純白の蜘蛛糸のようだ。赤く光る眼と裂け気味の口。恐らく言葉を発していたのはこの口だろう。人間の言葉を理解している時点でかなり知能が高いこともわかる。
「ア、アラ……クネ……!?」
目を見開き、声を震わせながら呟くパーシヴァル。今までの蜘蛛を見た時の歓喜の表情とははっきりと違う、驚きと恐怖に染まった顔だ。
「パーシヴァル、アラクネって何だ?」
パーシヴァルの腕をつつき尋ねる。勿論視線は蜘蛛人間から外さない。俺につつかれハッと我に返ったパーシヴァルは震える声で説明する。
「アラクネとは、神話に出てくる蜘蛛の王で、大地の神ガイアスが太古の昔に創った魔物とされています。その強さは圧倒的で、全ての蜘蛛の頂点に立つ存在です。」
まさか実在するとは……資料にも全く記述がなく、誰もが伝説上の生き物だと思っていたのに……と呟き続ける。が、今目の前にいるのは間違いなく本物だ。
アラクネは俺たちを前にしても余裕の表情だ。傍らに転がる仲間を見ても顔色一つ変えず、寧ろ「久しぶりに骨のある餌に出会った」と嬉しそうだ。そして俺たちを値踏みするように、上から下へとじっくり観察する。人間の顔に付いている二つの赤い目が動くのと同時に、蜘蛛の方の頭にある八つの目もギョロリと動いた。どうやらどっちの目でも見ることができるらしい。
「人間にエルフに鬼人か……人型の生き物は脆弱な割に味が良いからな。良いぞ良いぞ。」
にんまりと笑いながらゆっくりと歩み寄る。
「さて、まずは私のかわいい僕をこんな姿にしたそこの人げ……ん?」
アラクネが言いかけて目を見開く。視線の先には冷ややかな目をしたシリウスの姿があった。
「さて、私に何か御用でしょうか?」
「あ、あなたは……なぜ地龍が……」
「今はこちらのケイ様の世話係を務めさせていただいております。ええ、あなたが『脆弱な餌』とおっしゃったこの方です。」
冷酷な笑みを浮かべたシリウスは一歩、また一歩とゆっくりアラクネに近づく。磁石が反発するように、アラクネは脚を止め、逆にじりじりと後ずさる。先ほどまでの余裕は姿を消し、はっきりと焦りの表情が見て取れる。
「いや、なぜ人間などに「あなたは我が主であるケイ様を侮辱し、あまつさえ危害を加えようというのですね。大地の系譜であるあなたが。」
「あの、いや、その」
「ということはつまり、大地の精霊及びその守護者に敵対し、その恩恵を断つということでよろしいかな?」
「すみませんでしたあぁぁ!!!」
…………え、なにこれ?
ほんの数秒前まで余裕の笑みで俺らを追いつめていたアラクネが、今やシリウスの足元に跪いている。八つの足を器用に折りたたみコンパクトにしゃがみ込む姿はどう見ても伝説の魔物には見えない。
「謝罪する相手を間違えていますよ。私の前に、まずはケイ様に先ほどの非礼を詫びなさい。そしてケイ様の仲間の方にも。」
「は、は、はいぃ!その、すみませんでした!なにとぞご無礼をお許しを……!」
シリウスの冷ややかな声にすぐさま従い、今度はこっちを向いてコンパクトな謝罪のポーズを示すアラクネ。ここまでくるとさっきまでの恐怖の感情はどこかへ飛んで行ってしまった。
「ケイ様、この無礼な蜘蛛はいかがいたしましょうか?ご不要とあらばすぐにでも片づけますが?」
「あ、ああ、いや、ちょうどいいから聞いておこうよ。あのさ、『蜘蛛の女王』ってあんたのこと?」
すっかり縮こまったアラクネに尋ねる。
「その通り、私が蜘蛛の女王でございます……どうか、お許しを……」
「そんなびくびくしなくても、こっちは友好目的で来たんだ。シリウスも、威圧やめて。」
さすがにかわいそうなのでやんわりとシリウスに注意する。シリウスは「おかしなマネをすればすぐに一族もろとも消しますからね」と釘を刺し、威圧を解いた。
威圧を解かれたからか少しはさっきまでの威厳を取り戻したアラクネが改めて俺たちに向き直る。
「いきなりやってきてごめん、実はさ、あんたの子どもが今うちの村で暮らしてるんだけど、シルキィのこと覚えてるか?」
そういってシルキィを呼ぶ。シルキィはおずおずとアラクネの方に近寄った。
母と子、とはいえ、生まれてから一度も会ったことがないのだ。あの何千匹といる蜘蛛たちのことをすべて覚えているものだろうか。
「ああ……これは間違いなく私の子だね。この様子を見ると進化して間もない。良い環境に住んでいるようだ。」
「実は今日来たのは、シルキィの姉妹たちをスカウトしたいからなんだ。」
俺はこれまでの経緯を話した。シルクスパイダーの糸が村にとって有用なこと。雌のシルクスパイダー及びその上位種が妊娠期に食べる食べ物により生まれる子に変化が訪れること、だからシルキィの姉妹の雌蜘蛛、できればキルスパイダー以上を数匹派遣してほしいこと。
「もちろん寝床と食事は保障するよ。あと俺たちに危害を加えない限り蜘蛛たちにも乱暴な真似はしない。……どうかな?」
「ふむ。確かに我々は妊娠期の食物によって子にその形質が残ることがあるが、ごく稀だ。正確に把握しているわけではないが百匹生んでもせいぜい一、二匹というところだろう。あとは生まれる直前に食べる方が形質は現れやすい。妊娠してすぐの蜘蛛よりは、妊娠後期の蜘蛛を連れて行った方がいいな。」
「じゃあ、協力してくれるのか?」
「妊婦に食事を提供してくれるのだろう?だったらこちらとしてもありがたい。生まれた子を殺すとかでもあるまいし。」
「そんなことはしないし、させないよ。蜘蛛の特性を調べたら山に返す。あ、もし俺たちにとって有用な糸を吐く個体が生まれたら、ぜひとも村で暮らして働いてほしいんだけど……」
「安全が保障されるというのなら別に構わん。そもそも生まれた時から自分の生きる場所は自分で選ぶものだ。ただ定期的に里帰りはさせる必要がありそうだが。」
ちらりとシルキィを見るアラクネ。へ?里帰りの必要?なんでまた?
……まあいいか、今回みたいに危険を伴う里帰りじゃないし。なんなら蜘蛛たちだけで行けるだろうし。
こうしてアラクネ一族と俺たちの村で和平条約?のようなものが定まった。
お互いに危害は加えないこと。研究の一環で妊娠後期の雌の蜘蛛たちを派遣し、研究に協力してもらうこと。
さらにお礼の意味も込めて冬場など食べ物が乏しい時期に少しではあるが差し入れを持ってくることを約束した。
シリウスによって雪だるま状態から解放されたデーモンスパイダーがさっそく伝えに行ったらしい。あの広い洞窟にあの数だ。時間がかかるんじゃないかと思ったが、どうやら一族だけが発する超音波のようなもので全体に連絡がいきわたるらしい。さすが洞窟に住む種族。独自の発達を遂げているんだな。
シルキィは久しぶりの再会を喜んでいるのか、キィキィと鳴き、アラクネと言葉を交わしていた。