85.蜘蛛の巣
降り立った床は白かった。今までの洞窟は黒っぽい石だったが、この階層は色も材質も違う。
感触もさっきの石と違うみたいだし、というか、石?岩?よくわからない不思議な感触だ。
「これ、糸じゃないですか?」
「え?」
少しの恐怖をはらんだ声はイヴァンだ。それに続くように、パーシヴァルが壁や床を丹念に調べだす。
「ええ、これはどうやら蜘蛛の糸のようです。床だけでなく壁も、天井も。どうやらここは巨大な蜘蛛の巣の中のようですね。」
巨大な蜘蛛の巣。その一言だけで恐怖で身がすくむ。さっきのヘルスパイダーでさえ簡単に人間を喰ってしまいそうな大きさだったのに。それ以上の存在がいるってことか?もしかして小さい蜘蛛たちが追ってこなかった理由もそれか?
さっきとはうってかわって生き物の気配がない蜘蛛糸の洞窟を慎重に進む。『水神の眠り』を持つ手にも力が入り、鬼人たちも緊張して見える。パーシヴァルでさえ、少し緊張した面持ちだ。「この糸、少し持って帰ることはできますかねぇ……」という独り言は聞こえたが。
「そこを曲がったところに空間がありますね。なかに魔物がいますよ。」
シリウスの声に一行に緊張が走る。互いに顔を見合わせ、うなずく。そして注意深く洞窟の角を曲がった。
そこにあったのはだだっ広い空間だった。吹き抜けのドームのようなそれは上から下まで真っ白な糸で覆われ、天井にはいくつもの巨大な蜘蛛の巣がかかっていた。
そして、ドームの真ん中には見たこともないほど巨大な蜘蛛が鎮座していた。しかも二体もいる。体長は座った状態で二・五メートル以上あり、足を広げたら四メートル、下手したら五メートル以上ありそうだ。真っ黒い体に太い脚、背中には毒々しい赤色の縞模様が入っている。
「あれはデーモンスパイダー……まさか本当にお目にかかれるとは……しかも二体も……」
ほとんど放心状態でつぶやくパーシヴァル。そのままフラフラと近寄っていきそうな勢いだが、間違ってもそんなことをしないように腕をつかんで制止させておく。
まずは友好、ほとんどダメもとだがシルキィが声をかけてみる。が、シルキィが「キィ」と鳴いた瞬間、「キシャアアァア!」という甲高い声と共に足を振り上げ、飛びかかってきた。
「うわああ!!!」
俺達は思わず叫び声をあげる。シリウスの結界で無事だということはわかっていても、四メートル超の大蜘蛛が飛びかかって来たんだからその恐怖は計り知れない。
ガキンッ!という大きな音が響き渡り、俺達の顔の前には赤黒く光る巨大な顎が広がっていた。針金のような鋭い毛がびっしりと生えた太い脚は結界を破ろうと何度も引っ掻いている。
しかし、無駄だとわかったのか、はたまた俺が『水神の眠り』を刺そうとしたのを察知したのか、デーモンスパイダーは素早く飛びのき、俺達と少し距離をとった。
「くっ、すばしっこくて『水神の眠り』が刺せない!」
「やはり攻撃するしかないのでしょうか」
「だとしても、我々の物理攻撃ではほぼダメージを与えるのは不可能かと!」
ブシャアァァアアアア!!!
膠着状態かと思われたその時、デーモンスパイダーが俺達に糸を吐きだした。それに続いてもう一体も同じように糸を吐く。俺達を結界ごとぐるぐる巻きにする気だ。
避けようと思っても、結界は集団全体にかかっており、単独行動はできない。うまく動けずにいる一瞬の隙を突かれあっという間に捕らえられてしまった。前も後ろも真っ白の糸に囲まれ、視界もゼロ、デーモンスパイダーたちがどこにいるのかさえ分からない。
「どうしよう。」
「もはや物理攻撃もままなりません。なにせ相手が見えないのですから。」
「いっそのこと魔法攻撃をしてみますか?水や火なら少しは聞くかもしれません。」
「ケガさせたくないとか言ってられないか。」
「ええ、というより、あのレベルになりますと下手な魔法ではケガを負わせることすらできません。」
俺達が困りあぐねていると、シリウスが「コホンッ」と咳払いをした。
「ケイ様。どうぞ私にお命じください。この程度の蜘蛛に後れを取るような私ではありません。もちろん、ケイ様がお望みになるならできる限り怪我無く安全に捕らえて差し上げます。」
自信たっぷりの顔。やりすぎやしないかと少し不安なところもあるが、今は頼るほかない。
「よし、シリウス、あのデーモンスパイダーたちを無傷で捕えてくれ。」
「かしこまりました。」
にっこり微笑んだかと思えば、結界を覆いつくしていた蜘蛛の糸がスルスルとほどけていく。そしてものすごいスピードで逆流し、糸を放った張本人に襲い掛かった。蜘蛛たちもまさか自分の放った糸が自分に向かってくると思わなかったのだろう。思わず硬直したところをぐるぐる巻きにとらえられ、頭以外を白いボール状にされてしまった。ついでに口も塞がれている。
横たわるいびつな雪だるま二体を前に、「おわりました。」と涼しい顔で報告してくるシリウス。なんというか、すごいな。こんなチート級の魔法が使えるのか。
鬼人二人は強敵が去ったことに安堵しているが、警戒は完全に解かない。
パージヴァルは早速捕らえられたデーモンスパイダーに近づき、「なるほど、目がこんなになっているんですね!」「なんという鋭い顎!」「あああ、足や体の模様も見たかったのですが……残念です。いや、命には代えられません。」など一人ぶつぶつと言ってはせっせとメモを取っている。
まあ、危機が去ったのはありがたい。とはいえ、
「シルキィ、『蜘蛛の女王』ってのはどっちなんだ?」
俺はシルキィに尋ねた。シルキィの生みの親、『蜘蛛の女王』に会って協力を得るのがそもそもの今回の目的だ。二体の内のどちらかだとしたら交渉に入りたいんだけど。
いや、そもそも攻撃されてる時点で脈なしか?
通訳係のフランカに近くに来てもらう。フランカはさすがにこのデーモンスパイダーにビビっていたけど、シリウスに顔を押し付けて見ないようにしてたらしい。怖々とシリウスの腕から降り、シルキィに向き直った。
「えっとね、『どっちも違う』って言ってるよ!」
「え?違うのか?」
苦労してここまで来たのに、まさかの違ったという展開とは。
「えっとね。『こんな奴らは知らない。蜘蛛の女王は――」
「久しぶりに変わった餌がやって来たかと思えば、なかなか骨のある餌のようだ。」
ふいに見知らぬ人間の声が聞こえた。