第1話 そして、俺は死んだ
その子は、泣いていたーー
爽やかな水色の髪が特徴的な少女は、頬から伝う涙を両手で必死に拭いながら、俺に語りかける。
「どうして…どうして貴方は、そこまで……」
身体がすごく熱くて、俺は激痛で腕を上げるのもやっとなくらいボロボロだった。
それでも、その時の俺にはそんなことはどうでもよくて、俺は零れ落ちる彼女の涙を片手で拭うとーー
「な…? 言っただろ…? 体を張るのは…得意だっ…て…」
声を振り絞って、彼女にそう伝えた。
◇◇◇◇◇
「何だ……今のは……」
夢…にしては少し違和感を感じる。
身体に走る激痛、彼女の涙の温かさ、まるで経験したことがあるかのような現実味が、その夢には存在していた。
「頭痛ぇ…顔でも洗いに行くか」
カーテンの隙間から差し込む朝日に、目を顰める。
まだ重たい体をようやくベッドから起こすと、音楽でも聞きながら寝たのか、耳からイヤホンを外して洗面所へと向かった。
どこにでもいるごく普通の高校2年生、暁朔夜のごく普通な日常が幕を開けた瞬間である。
◇◇◇◇◇
なんの変哲もなく、いつも通りの学校生活は平和に過ぎ、放課後へと移行する。
「朔夜ー!こっちこっちー!早くしないと売り切れちゃう!」
「分かった、分かったから引っ張るな!」
幼馴染の鈴白詩葉に手を引っ張られながら、朔夜はショッピングモールへと誘導される。
小さな頃は朔夜の後ろにばかり隠れていた、引っ込み思案の詩葉。
それが、いつのまにこんなにもオテンバになってしまったのか…朔夜はそんなことを思いながら、渋々詩葉の買い物に付き合っていた。
「良かったぁ!一日50個限定の『天使のほっぺプリン』、最後の一個だったよー」
「だから急ぐことなんて無いって言っただろ? もし売り切れてたとしても、また明日来ればいいんだしさ」
朔夜はネクタイを緩めて息を整えると、オシャレな箱に収納されたプリンを嬉しそうに抱えている詩葉に、そう言った。
「おやおやぁ? また明日も買い物、付き合ってくれるつもりなのかなぁ、キミ?」
朔夜の顔を覗き込むと、ニヤニヤとした表情を浮かべながらからかう詩葉。
「も、もしプリンが売り切れてたらの話だ! まぁ、特に予定もないから別にいいけどさ…」
「あ、あれ? まさか本当に良いとは…」
朔夜は赤くなる耳を隠しながら恥ずかしそうに飛び退くが、まんざらでもないのか頬を掻きながら詩葉の申し出を承諾した。
予想外の回答に詩葉は一瞬戸惑い、羞恥心は伝染すると詩葉まで耳を赤くして下を俯く。
少しの沈黙が続いた後、詩葉は気を取り直すと頬を緩めて、
「約束…したからね! 絶対に破っちゃダメだぞ!」
右手の小指を朔夜に向けて差し出し、照れ臭さと嬉しさが混在した笑顔を浮かべてそう答えた。
「お、おう…! 男に二言はない!」
彼女の笑顔に体が一瞬硬直するような感覚を覚え、朔夜は緩めていたネクタイをきつく結び直して気を引き締める。
そして、差し出された小指に、朔夜の小指が触れ合う瞬間であった。
「キャーーー!! だ、誰かーーー!!」
朔夜と詩葉の後方から女性の叫び声が、ショッピングモール中に響き渡った。
その叫び声に反応して、自然と周囲の一般客も声がした方向へと視線を向け、人集りができ始める。
「な、何だ…? 誰か人でも倒れたのか…?」
「朔夜…私…」
詩葉は不安そうな表情で、朔夜の制服の裾をきゅっと握り締める。
そんな詩葉の仕草に、朔夜は引っ込み思案だった頃の詩葉の面影に触れたような気がして、少しだけ安心した。
「大丈夫だよ! いざとなったら昔みたいに俺が守ってやる! 体を張るのは俺の専売特許だからな!」
朔夜は胸を叩くと、自慢げに詩葉に向けて微笑みかける。
騒がしいショッピングモールの中、詩葉の耳には朔夜の声だけがやけにはっきり届き、詩葉は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「う、うん…ありがとう! でもなんか負けた気がして、ちょっと悔しいかも…」
そう言って詩葉は頬をふくらませると、より強く朔夜の裾を握りしめるのだった。
「うわっ! みんな下がれ下がれ!!」
「早くここから離れるんだ!!」
そんな一般客の声が微かに聞こえ始め、人混みは前方から次第に散らばり始めていく。
ひどい騒音と人混みで身動きのとれない朔夜と詩葉には、前方の状況の変化を知る術などまるで無かった。
そんな中、人混みを掻き分けて二人の視界に飛び込んできたのはーー
「…っ!!」
鋭い包丁を突き出し、黒いフードを深く被った男。
目を血走らせて焦点も定まっておらず、明らかに正常な状態とは思えない。
あまりに突然の出来事で朔夜は一度思考が停止するも、男が向けている刃物の方向を見て、すぐに思考は現実へと引きずり戻された。
「え…?」
運が悪くも、詩葉に向けて一直線に走る男の姿を見てもなお、詩葉自身は恐怖で足が竦んでいるのか動くことができず、ただ立ち尽くしていた。
瞬間、詩葉の肩に強い衝撃が走り、気が付くとショッピングモールの地面に倒れていた。
そしてまだ残る肩の痛みを感じながら、詩葉はゆっくりと顔を上げる。
「嘘…でしょ…?」
目の前の光景に、詩葉は絶句した。
そこには、男の包丁が右腹部に深々と刺さった朔夜の姿があった。
床には鮮血がポタポタと滴り落ち、朔夜は激痛に耐えるように歯を食いしばって眉間にシワを寄せた。
「お、お前が避けないから…悪いんだ…!」
「ぐあっ…!!!」
男は勢いよく包丁を朔夜の腹部から抜くと、震えた声でそう言い残して走り去っていった。
朔夜の出血はみるみるうちに加速してゆき、一瞬にして足元が真っ赤に染まる。
そして朔夜はゆっくりと膝から崩れ落ちると、床に全身を叩き付けた。
「朔夜ーー!!」
詩葉は大粒の涙を零して横たわる朔夜に駆け寄ると、無気力な朔夜の手を強く握り締めて名前を必死に叫んだ。
「う、詩葉…言っただろ…? 俺が…守ってやるって…」
「ごめん…ごめんね…私のせいで…朔夜がこんな…!」
朦朧とする意識の中、朔夜は途切れ途切れに詩葉に語りかけると、ぎこち無い笑顔を浮かべた。
朔夜の視界は次第にぼやけ始め、指先から伝わる詩葉の温もりが薄れてゆくのを感じ、全身がゆっくりと死んでいく感覚を覚えた。
「朔夜…! お願い、死なないで!! 明日一緒に買い物付き合ってくれるって…それにこれからも、朔夜といっぱい楽しいこと…したいよ…!」
「悪…い…その約束…守れそうにない…かも…」
朔夜の右腹部の止血をしようと、詩葉は必死に手で傷口を塞ぐ。
しかし、手で抑えても抑えても溢れ出てくる朔夜の血を前に、詩葉は絶望と落胆の表情を浮かべて、唇を震わせた。
あぁ…俺、死ぬのかぁ…
とうとう詩葉の声すらも届かなくなり、朔夜は死を受け入れるしかなかった。
詩葉にあんな顔させるなんて…何が守るだよ…俺、最低だな
それに、こんなことになるんだったら…父さんや母さんと、もっと話をすればよかったな…
死の間際の刹那な時間、朔夜の脳内は懺悔や後悔がひたすらに駆け巡っていた。
そんな中、聞こえるはずのない耳に、聞き覚えのない声が突如として介入した。
『貴方は、英雄の器を満たした』
恐らく女性であろう綺麗な透き通った声色は、朔夜の耳というより、脳内に直接語りかけてきた。
ん…? 誰…だ…
『私と共に参りましょう、暁朔夜様』
参るって…どこに…っていうか、何で俺の名前を知って…
謎の女性の声を最後に、朔夜は息を引き取った。
その日、普通の高校二年生、暁朔夜は確かに死んだ。