白い翼
「治療が遅れていたら危ない所でしたよ。」
鎮静剤の投与で眠っていた武が、医者に起こされて、最初に聞いたのがこの言葉だった。点滴やら何やらで身動き取れずベットに縛り付けられている状況を理解するのに、さらに時間を要したが、それが次第に飲み込めるに従い、不安よりも怒りの方が込み上げてきた。
「何が危ない所だっただ、今がその危ないという危機的状況なんじゃないのか?」
この囚われのガリバーのような不都合を生み出している原因はアルコール性肝硬変。場合によってはその命すら奪いかねず、まさしく武の場合があてはまる。まずは肝炎、肝硬変と症状が進み、その先に肝臓癌もあるというが、それぞれがどう違うのか、医療に疎い武には詳しくは分からない。以前から度々原因不明の立ち眩みがあったが、武は店の開店準備をしながら、ビールケースをよいしょと持ち上げた途端、意識が混濁し、気が付いたら新宿区の某病院のベッドの上に居たのだ。看護師に正式な所在を聞くまで、記憶がまったくといって良いほどない。武はなぜかそこが彼が育った田舎の山のふもとにあったと言う、かつての結核療養施設にでも連れてこられたのではないかと思った。それは途方もなく不安な心持だったが、平静を取り戻すと案外アパートから近い、いつも店に出勤する途中にあった建て替えたばかりの大病院だと納得できた。
「今は店の事は、考えないで治療して。」
武が、週末に入る二丁目のバー、ポークマドンナのママの言葉が入院数日後にもたらされた。さして話術にたけているわけでも無く、どんなブ男でも二丁目に捨てるところなしと言われてるにも関わらず、まったくモテない地味な男、武にとってただ只管、飲むということだけが仕事だった。焼酎の瓶を一日に何本も空け、進められればビールのラッパ飲みなど、お手の物だった。武には「ブスだが酒にすこぶるつよい店子」という看板を一人掲げて、店で繰り広げられるバカ話やカラオケを尻目にグラスを洗いながら、お店のカウンターの端に居場所を確保していた。そんな武とは反対に、ピチピチと弾けるような逞しい二の腕をダウンベストから出した、くっきり二重のガッチリムッチリさん。米兵がつけるネームペンダントをシャラシャラ鳴らしながら、喋る会話はそこはかとなくオネエ。しかしその肉体がけして女性的でない所が、酔客を虜にする男、彼の名は大学生のマナブ、愛称マナティも、週末に入る店子だった。夜中12時を回るか回らないか、店の宴もたけなわの頃、
「武ちゃんお願い・・・あたしのグラス。もう今日ダメ。ママには内緒ねぇ。」
とこっそり、客がマナティに進めて来たロックの焼酎を武に回して来る事も度々あった。飲んだ振りをして排水溝に捨ててしまえばいいだけの話だが、そこはお酒あっての店子のプライドが許さないという訳で、自分の体が受け付けなくなると武の胃袋に白羽の矢を当てて来るマナティであった。二日酔いはお肌や学業に悪いからという理由らしいが、なら普通にアルバイトをすればいいだけで、ようはマナティは誰彼構わず利用する心底ずるい質なのである。しかし武は無言でグラスを間髪入れず飲みほして、マナティに突き返した。
「武ちゃん、この借りきっと返すから。あたし武ちゃんが居ないとほんとダメ。」
そっとカウンターの下、武のお尻に手を沿えて優しく揉みつつ、耳元で詫びるマナティは、またコロンを変えたようだ。オネエ嫌いな武にとってマナティは天敵のようなものだったが、先ほどのマナティの所作に武は図らずもうずいた。マイナティの才覚はそのゲイ好みするルックスではなく、夜の世界に生きる人間特有の色香だった。ハンサムなだけの店子は気遣いができずモテない。大概において、自惚れが強いのが難点で、入店初期はうぶで無骨だが、1年もすれば徐々にとげとげしい女々しさが鼻につく。その点マナティは巧に柔と業とを使い分け、時には客同士の小競り合いに入り、
「テメーらよぅ、そういう事は表でやりな」
と凄んだり、寂しげな風情のおひとり様がいれば、他愛のない会話をしつつ、彼らに寄り添い、男たちのぽっかり空いた心の隙間に、ふるふると震えながら滑り込んでくる子猫のようにしなやかな所を見せた。また試験の後は知恵熱を出したと言ってコンコンと咳をする、日中催した草野球の後は絆創膏を顔に貼るといった計算高い小細工も、若者好きの客の欲望をかきたてた。マナティに惚れた客が渡したブランドバックのプレゼントには、
「わぁ素敵、これ欲しかったのよぉ?本当にいいのぉ?マナ嬉しい~~」
と、客の膝に両手を添えて、二度三度揺さぶって、身をしなだれかけるマナティは、性別が違えば夜の蝶としてその手練手管で大物になっていたかもしれない。マナティが日頃欲しいと公言していた為に、違う客からまったく同じバックのプレゼントを貰ったハプニングには、たじろぐどころか、
「ええ嘘?これが欲しかったのぉ!マナティの事、何でも知っててくれて嬉しい~~今夜はずっとマナの傍に居てね、絶対だからね。」
と渾身の大芝居を見た時には、この界隈に生息する海千山千を嫌と言うほど見て来たママも見習い中の武もただ唖然とするだけだった。
片や武は男同士の世界のド真ん中に居ても、客のあしらい方も分からず、酔って絡んできた中高年の客に無視を決め込むと、
「ブスのカマ野郎がお高く留まりやがって!その面鏡で見ろ!」
と激しく罵られることもあった・・・。客が引けた時はマナティはママと一緒に、よく武のことを「飲んでも潰れないブスのザル」とからかった。こういう時のママもマナティも一度口を生コンか何かでふさいでやればすっきりするだろうと思ったが、真に受けてはダメなのである。この世界の嘘は真。真は嘘。所詮は店子の毒舌など朝晩の挨拶のようなもので、武のような客一人あしらえない者も、この世の春を謳歌しつつ店を出さないかと出資を申し出る者さえ居た売れ筋のマナティも、一様に嘘を吐き出しつつ生きねばならないのである。夜の静寂に仇花をひっそりと咲かせる隠花植物達にとって、その未来に昼の日差しはまったくといって良いほど差さない。ネオン輝く夜の世界にしがみついて生きる覚悟があれば路は開けるが、甘く考えている中途半端なものは夜光灯の下で息絶える羽虫のように、力尽きて落ちていくだけである。
武は親の時々の小遣い、そして週末の店の応援のみでギリギリの生活をし、日中は安いアパートに身を横たえ、趣味もなく、恋もせず、このままでは描けようもない未来図に溜息をつきながら、男たちが奏でる甲高いカラオケの不協和音をバックに、ただひたすら酒が注がれるグラスを空ける事だけに専念していた。日中は不安で仕方ない宙ぶらりんな気持ちが、ママの乾杯の音頭と共に飲めば、胸のつかえと共にすっきりするような気がした。他の客のように仕事や家庭を刹那でも忘れるために飲むのではななく、今いる不確定な自分を保つために飲む。武と酒は、そういう間柄だった。
しかし武もただの人の子。肝臓はママやマナティが揶揄したようにザルではない。酒を注げば、臓器が叫びを上げながらアルコールを処理し続ける。よく言うように肝臓は沈黙しているが、今度は武が肝臓様の苦境を代変わりして悲鳴を上げる番だった。
それは阿鼻叫喚の日々と言っても大仰ではない。浅い眠りを妨げられて、繰り返される痛みを伴う治療、注射針につぐ注射針、とてつもなく苦い薬に、トイレに立つことすら容易ではない倦怠感、故に武は何度か幼少以来のお漏らしをした。中でも一番堪えがたいのはドア越しに昼夜聞こえてくる「殺してくれぇ殺してくれぇ」と叫ぶ痴呆の患者の絶叫であった・・・どれもこれもが不快の絶頂で、果たしてこの病院の患者の中でも自分は一番、苦痛を享受しているのでは無いかとすら思われた。一思いに殺してほしいのははこちらである。
しかし、そんな獄門の数々にもようやく慣れが生じて来た。朝晩の規則正しい時間組みと、三食の食事のリズムが、昼を卑しみ夜の片隅で人知れず病んでいた武の心に余裕をもたらした。また幸いに酒を欲しいと思った事は不思議となかった。思えば無理をして好きでもないものを飲んでいたのである。飲んだ直後は多少眠くなることはあっても、陽気になったり泣き上戸になったりする酩酊感を武は感じた事はなかった。どんなに飲んでもアパートまでは確かな足取りで帰る。頭は自分でも嫌になるぐらい冴えていたので、かなり特異な体質なのかもしれない。それゆえ、健康を害す落とし穴も大きかったわけだが。
武が入院生活にも慣れ、何かしらの精神的刺激を欲し始めた頃、日中ベットの上ですることの無い武にとっては、治療のために入れ替わり立ち代わりの医師や看護師の行動や言葉全てに注視し、観察するのが日課となっていった。ある日、
「この調子だと希望が持てそうだ。」
と担当の医師が他の医師に対して小声で言ったのを聞いた。
「やっぱり今日の今日まで、危ないどころの騒ぎじゃないかったんだ。さっさと直して退院させろヤブ医者どもめ。」
武はなんだか、狸の穴か何かに迷い込んだ猟師である自分が、寄ってたかって、妖術使いの狸たちに、あの手この手で馬鹿にされているような気持ちになって、一人憮然とした。
しかし医者の言葉通り、明るい兆候の兆しは数日後、明確な変化となって現れた。武は所謂、重篤な患者が入るナースセンターの真向かいの部屋から、南向きの4人部屋に移る事になったのだ。緊急入院で、荷物も下着の替えすら持っていなかった武の引っ越しは、数分で終った。4人部屋は、やはり若干患者の毛布にしみついた匂いやら、棚に無造作に置かれたバナナ等が放つ生活臭がして、懐かしいような気分になった。
部屋の移動を皮切りに、治療のほかはすることの無い武は、人間観察に勤しもうとした。しかし、4人部屋の患者は、誰もが数日もすると、退院したり、あるものはいびきがうるさいからと別の部屋への移動を願い出たりと、出入りが多く、観察のしようもなかった。まだ外出の許可が出ない武は、散歩がてら、トイレやお茶を買うために頻繁に廊下を行き来したが、ひとつカーテンを隔てて寝ている患者達と、日中すれ違う事があっても、ごくわずかの付き合いの為に軽く会釈するのも悪いような気がして、他人を貫き通した。
そんな中、隣のベッドに移ってきたロッシーと出会う。ロッシーは名を妙義宏と言い、夜のお店の源氏仮がロッシーだった。夜と言っても、二丁目界隈ではなく、同じ新宿の大歓楽街、歌舞伎町の住人であるのが、二丁目にいまだ馴染めない武としてはおおいに観察しがいのある人間だった。
ロッシーは、数日前に武と同じく急患として救命病棟を経て、この病室に来たが、まったくもって病人特有の悲壮感が無く、シルバーアクセサリーをいじりながら、持ちこんだコンポで音楽を聴いたり、客のプレゼントだという、黒い光沢のあるブランドもののパジャマを粋に肩がけにして、ベットに片膝を立てて、看護婦と談笑する様子は、華やかな夜の世界のそのままだった。また彼は人の心をつかむ話術に長け、医者も看護師も彼と話すと陽気になるようだった。食事は偏食があるようで、
「カレーが食べたいよ、毎日カレーで良いから、看護師さん」
そんな子供のようなワガママを平気で言える、甘えん坊な感じがマナティを思わせた。夜の世界のエリートは可愛げがないといけないのであろうか?武は自分の可愛げのなさを、マナティでからではなく、ロッシーを通じてようやく理解するに至ったわけである。
武が先だったのか、ロッシーが先だったのか、定かではないが、互いに病気に至るまでの身の上を話すようになるのに時間はかからなかった。
サーファーのように茶髪をなびかせ、モデルのように小顔で、目鼻がはっきりとした妙義宏ことロッシーは、ヒップホップやジャズダンスを僅か三畳ばかりのステージで見せつつ、上演後は女性客の隣でお酌をする、ボーイズパブのダンサーだった。一見、スリムだが、意外と頑丈そうな足腰をしている。しかし、女性客ならば誰もが狂喜しそうなルックスと、しなやかなダンス、太陽から産み落とされたように明るい天真爛漫キャラの彼も、踊りと共に供された魔法の媚薬、アルコールの前では無力だった。ボーイズパブの新規の店の店長に選任の話が出て、有頂天になった彼は、ただ目先の売り上げだけに固執した。彼は律儀にファンが入れるボトルを、豪快に飲み干して見せ、またボトルを入れさせ・・・を馬鹿正直に繰り返した。全ては順調で、時には夜の情報番組に話題のダンサーとして出演したこともあった。七色のカクテルライトや淫靡なブラックライトを浴びてなお、自らの肉体の黄金の輝きを失わないロッシーに迷う術など無かった。彼は頭にスカーフをまいて、汗ばんだ胸をはだけ、琥珀色に染まるお酒の海を悠然と航海していれば、金銀財宝にあやかれると信じて疑わない海賊の船長であった。風は心地よく順風満帆、波に踊るイルカも空に舞うカモメも彼の航海をありったけの声で賛美した。さらなる光明を掴まんとイケイケだった彼の体内で、肝臓が静かに根をあげた。
お店で出すショーのリハーサルで、ただの二日酔いとは思えぬ、異様な脂汗が流れ始め、膝がガクっと落ちてから、記憶こそ無くさないが、緊急入院してからは武とほぼ同じ路乗りだった。何事も、頃合いや限度を図れない生真面目な人間ほど、アルコールとは無縁であった方が良いのかもしれない。孤独を感じるものには、酒は酩酊のうちに心を慰める良き理解者であり、友達と言えるがだが、また同時に友を簡単に裏切り牙を剥く点では魔物と言っても過言は無かろうと武は、だいぶ後に思うようになった。
「俺、神様なんて信じないんすよ。やっぱ運とお金。運とお金だけが神様だと思ってるんす。」
ロッシーの口癖がこれだった。芸能界でそこそこ有名であった父母は忙しさを口実に、子供の彼になんでも買い与えたが、わが子をひと時たりとも顧みず、代わりに資産家のお爺さんが溺愛でもってロッシーの人間形成をした。芸事を通じ他人と歓びを共有する事を良しとした祖父の影響と、父母譲りの美貌も相成って、10代でダンサーを志したロッシー。地味な下積みの割には薄給のステージダンサーよりも、刺激的で稼ぎの良いボーイズパブに入店し、三畳のステージで夢を紡ぐ歌舞伎町の王子様として人気者となる。店で催された彼のバースデーイベントなどには、有名タレントの名が記された花束が届く。女性ファンのプレゼントは、カルティエのアクセサリー、アルマーニのスーツに、グッチの香水、そして小型犬、高層マンションのカギ・・・。彼の振り付けたお得意のスパニッシュダンスを繰り出されると、客が投げたお札が花吹雪のように舞った。留まる事を知らない自慢話の極めつけは、京都の舞妓や、売り出し中の美人モデルが招待される彼のパトロンが主催する庭園パーティで、話を聞いているだけでのぼせそうだった。当然、そんな自慢を吹聴すれば仕事仲間に妬まれそうだが、ロッシーの口から語られると不思議と嫌味がなく、子供が興奮してお母さんに遠足で楽しかった話を報告しているような彼のまだ幼さが残った顔立ちを見ると、もっと聞いていたい気分になった。話の締めくくりには聞き役を立てる事も忘れない。
「俺、馬鹿っすよね、飲み過ぎで倒れるなんて。毎日刺激、刺激で俺たち、おかしくなってるんすよ。ねぇ・・・俺喋りすぎますか?何か飲み物いりますか?買ってくるっすよ、武さん。あとで武さんの話も聞きたいな。ちょっと待っててくださいね。」
気遣い、労い、そして可愛げのある素振り・・・ロッシーはショーウインドウの中のクリスタルガラスのように眩くて、自分に似た地味目な男を求める武のタイプではなかったが、もし武が女性ならば踊る貴公子の玉の汗にかかりたいと、身を売ってでもお金をつぎ込んでいたに違いない。愛が故に苦界で果てることになっても本望と感じる、壮絶な犠牲。ペットボトルを手に戻って来たロッシーの颯爽とした足取りは、そんな女性たちが紡いだ苦しみのタペストリーの上で鍛えられたのであろうか。
武の病状が改善に向かいつつあった反面、朝一に髪型をセットしていたロッシーはというと、武の素人目には良いように思えた。看護師といつもの冗談を言い合い、時に見舞いの品として届くマスクメロンを武にもどうぞと差し出した時は、元気そのものにも見えた。ところがある日、ロッシーの回診に来た医者の表情をカーテン越しに、ふいに見た時に、武はゾゾッとして、目を反らして、布団を目深にかぶった。
「妙義さん、大丈夫ですよ。大丈夫です。」
単調に、大丈夫を言った後に、念を押して大丈夫を言うのが、ロッシーの担当医の癖ではあったが、マスクの上に見開かれた医者の目には、明らかに嘘のニュアンスが見て取れたのであった。患者が不安がれば、医者は診察のたびにロボットのように「大丈夫」を投げかけるであろうが、毎回が同じとは言えず、真実は8割、嘘は2割とその時々に応じて嘘と真の配分を変えていると言える。武は入院生活での、退屈しのぎの人間観察によってそれを感知する事が出来た。また夜の人間としては未熟であったが、カウンター越しに見て来たマナティたちの悲喜こもごもの騙し合いや、愛憎のもつれを目にしていたのも役だったのかもしれない。
「兎も角もあの医者は紛れもない0割の真実を言っている。」
武は一人で納得したが良いが、数メートル先の隣人を思うと胸が激しく痛んだ。事実、それを境に、看護師たち全員ではないが、ロッシーの投げかける冗談に明るく対応していた新人看護師が、今までの気軽な感じではなく、一秒にも満たないわずかの躊躇があってから、
「・・・またまたぁ、妙義さん、ふざけないでちゃんと治療して下さいよ~、検温もごまかしちゃだめですよ~」
と言って武のいぶかりを確信に変えた。その点、ベテラン看護師は何も変わらない。長い経験が患者の病状などにいちいち感情を入れないようにさせているのか定かではないが、ある看護師はバレバレのお芝居で、あるものは完璧に無表情な鉄仮面でもって、何も察する事が出来ない哀れなロッシーに接していた。
「店の後輩らが、弁当を送ってきたから、食べるっすか?俺これから、CT検査で食べちゃダメなんすよ。武さんの口に合うかなぁ?」
高級和牛のすき焼き弁当が、華麗なる隣人の元に送られてきたようだ。まずい筈なんてあるわけもない。牛肉は霜降り、添えられたキンカンの煮つけと、紅葉型に切った生麩が、風味など微塵もない、薄味の病院食に飽きていた武の目と舌を驚かせた。無言でほおばる武に、ロッシーは、新店舗を開店したら内装は西海岸風にしたい、ダンサーも外人を集めて、照明器具はレーザーを使って・・・などと言った事などを、軽快に話し始めた。太陽を背にした、ロッシーのたなびく金髪はいつも通り完璧なウエイブを描き、言葉の端々からも、身振り手振りからも、光の粒子がサラサラとこぼれるようだった。餓えた武に高級弁当を施し、無邪気に退院後の自分を語る愛されるべきものの姿。人はそれを天使にも例えただろうが、想像力に欠けた武は、
「畜生、なんて良い人だ。同じ夜の住人でも、ママやマナティとは大違いだ。人に育ちをと口やかましく言う割には、開店直前までジャージにサンダル、くわえタバコでパチンコに行くママや、モテキャラ作りに必死で、客同士の競争心をあおってほくそ笑んでいる性悪のマナティとは大違いだ。爪の垢でも煎じて飲めばいいのに。」
と思うばかりであった。
ふとロッシーが窓の外に目をやると、窓から差し込む日が、粘土をこねて作った人形のように生気の失せたロッシーの不自然な肌を照らし、武はまたもやゾッとして、弁当の味などは分からなくなってしまった。
検査から帰ってきたロッシーが、その晩は珍しく沈黙を貫き、寝入っていたが、夜中の2時ににゴソゴソと着替えている気配がした。かなり寝汗をかいたのであろう。今度は明け方、またしても着替えている様子なのである。起こされた武も寝付けなかったが、何度か寝がえりを打っているうちに、寝入ってしまった。
次の日は、看護師とやれ解熱剤だ、やれ痛み止めの薬だとやり取りと共に、いつものように談笑をしていたロッシーが、看護師が去ってから、背中を向けたきり、武とは会話をしようとはしなかった。イヤホンで音楽を聞いているのか、寝ているのか、食事の時もお物音ひとつ立ててない所をみると食べている様子は無かった。突然、王族に生まれたブッタのように、今までの贅沢と慢心の罪をあがなう為、断食や無言の行でも始めたのかと思うぐらいであった。お隣の様子を探りたい好奇心と、仮にも寝食を共にした病人同士、それだけは犯してはならないという義理の心との板挟みで、武はいつになくヤキモキした。心配だから気遣うのは当然だと己に言い聞かせれば、下種な勘繰りをいさめる良心が阻む。これがマナティなら何かしらの機転で隣人をさりげなく労わると見せかけて、病状を聞き出すであろうが、人付き合いは不器用そのものであった武は、息を殺してただ執念深く観察するほかないのは、真の意味で愚かだった。
そしてその晩、消灯時間が過ぎてから、ロッシーが久々に沈黙を破り声をかけてきた。
「武さん、まだ起きてますか?XXが来るんで、その時はすみません。お世話かけます。」
とバカに丁寧な口調で言った。・・・はて、こんな夜中にXXとはいったい誰なのか。よく聞取れないが、主治医なのか?お店の熱烈なファンなのか?大富豪のお爺ちゃんか?それとも彼に恵まれた容姿と金品だけは与えて、子と共に過ごすたわいもない時間から目を背け続けた父母たちの事なのか。
その日、朝一番の検温の時間まで、武はうつらうつらしていたが、ロッシーの元に、バタバタと足音を立てて医者と看護師が来たようで、無言のやり取りのあと、彼のベッドから人の気配が消えた。こうなっては、武も朝食に手が出ない。パンを一ちぎりだけ口に押し込みと、朝食の回収の時に来た看護師に聞いた。
「お隣の妙義さんは、どうかされました?」
「ああ、転院されたようですね。」
と機械的な答えが返ってきた。
「彼はいろいろ良くしてくれたんで、転院ならお別れを言えればなぁと思ってるんです」
「ああ、そうですよねぇ」
と看護師はこの件に関しては聞いてくれるなと言わんばかりの言葉の濁し方をしてそさくさと食事のお盆を下げていった。
午前中にロッシーの空いたベッドから布団が剥がされた時に、掃除の係の人が何かをベットの柵に発見したようで、看護師と相談したのちに、今度はカッターで、その何かを切り出した。カーテンの隙間から覗くと、白く光る生地で出来た埼玉の山奥にあるという神社のお守りの紐がきつく柵に、何重にも結び付けてあり、しぶとく絡みついて切れないのである。
「俺、神様なんて信じないんすよ。」
朝の日差しの中で、底抜けに明るかったベッドの主の声を聞いたような気がした・・・。
果たしてロッシーがどうなったのか、転院して治療に専念し事なきを得たのか、以後分からずじまいで、もやもやとした気持ちのまま、武はその翌週に退院する事となった。武の肝臓に打撃を与え続けたマナティが迎えに来れば、この顛末はとても感慨ぶかい、ハッピーエンドともなるが、誰も迎えに来ず、武は久々にアスファルトの感触を足に受けながら、帰宅する事となる。新聞受けに押し込まれたマンションやピザ屋の広告の束、部屋に残った洗濯ものと、散らかったままのカップ麺の容器が異臭を発していたほかは、いつものわびしい我がアパートであった・・・。
「武ちゃん生きてたの?美人薄命って言うけれどブスは病魔も逃げてくのね。」
とその週末、マナティはすげない言葉で、まさに彼岸の向こう側を見て、命からがら生還した武を出迎えた。暫くはママの恩情で必要以上に飲まない事を条件に、ポークマドンナで働く武であったが、復帰早々マナティがまたしても耳元で囁いた。
「武ちゃん、マナティのね、最後のお願いなの。これ飲んで。」と売れっ子は客が勧めたグラスを武に見せた。武は流石に無言で断った。マナティが舌打ちすると、ママがその様子を見逃す筈はなく、マナティはグラスの酒にオエっとなりながら飲み干し、
「飲めばいいんでしょ!飲めば!あたしが体壊して死んだら、誰が骨を拾うのよ!あたしはお酒と程ほどのお付き合いがしたいのよ!!店子が肝臓壊すの見るのがそんなに面白い?壊れたらオシマイのお遊びじゃないのよ?正直言うとねぇあたし向いてないのよ!夜のせ・か・い!」
と本音をぶちまけて、客を笑わせ、お酒を進めた客にまでが「マナボウは正直だなあ」と目を細めて株をさらに上げていた。
「何、この子ったら、忌々しいったらありゃしない!あんたの替えなんていくらでも居るのよ!」
とママは言うがマナティ無しでは、もはやこの店の経営は成り立たない。持ちつ持たれつで、マナティには憎まれ口を好きなだけ言わせておくしかないのである。武にはマナティのように、百戦錬磨のママや客に切り込んでいく勇気も知恵も無い。今まで通り飲むか、今後は程ほどを貫くか。その両極しか選択できない。陰か陽に例えて言えば、武は明らかに混沌とした陰の側の人間だ。未来を見据えて、客や従業員を手ごまにして、夢を達成する世渡り上手な陽の人間にはなれないし、仮に雲に乗った神様が、お前に白く光る羽を授け陽の人間にしてやろうと言っても、迷わずカウンターの端で、グラスを洗っているさえない陰の自分で居たいと答えるであろう。それは神に対する信心が足りないというからではなく、感覚的なものであって、武がこの短い期間に、生きるか死ぬかの選択肢を究極に迫られた結果、導き出した本能と言っても良いものだ。欲を出して、変わりたいと焦れば、不器用なだけの武はまたワダチにはまる。
「もぉ・・・武ちゃん、あんたみたいなゲコのブス、給与泥棒よ、あんた今に落ちる所落ちるわよ。」
マナティが、閉店時間、酔いつぶれながら武に悪態をついた。伝票を数えながらママが言った。
「もう武ちゃんは落ちたばかりなのよ。そりゃ、もう少し飲んでほしいわよ。仕事だからねぇ。ただ黙ってカウンターに立たせとく訳にはいかないでしょ・・・。」
ここにいる限り、いずれはまた浴びるように飲めとそういう事なのだ。ママは何でも正直に言う。ママは電卓の手を止めて続けた。
「先週の朝ね、歌舞伎町に焼き肉食べに行ったのよ。そしたら、黒いカラスの集団の中に一匹だけ真っ白いカラスが居たのよ。最初ハトかと思ったら、違うのよ。その子が他のカラスみたいにね、ゴミをつつかずにね、お日様の方にサ~っと飛び去って行って、羽が光ってて綺麗だったわ~。あたし、落ちるとこ落ちても良いの。でも生まれ変わったら、ああなりたいわ。」
「ママの来世は、それこそ腹の中まで真っ黒なカラスよ!あたしはさしずめ、エーゲ海の人魚かしら?」
マナティが、人魚に生まれ変わるとしたら、ひねりが足りないであろうことは承知で、マナブは言った。客が引けた後には流石にゲイトークもだらしない。武は自分なら、何に生まれ変わりたいかと言うと特に何も浮かばなかった。
外は朝日が差す時間であったが、久々に入った店では開けぬ夜だった。あくびをしながら残り数枚の伝票と格闘をしているママの隣で、エーゲ海の夢でも見ているのであろうか。マナティがカウンターに頭を載せてぐーぐー寝ていた。
~おわり~
世紀末の1995年頃、友達に連れられて行った、数々の二丁目のバーでは、容姿端麗な男の子は天下を取ったように、パトロンを従えて乱痴気騒ぎをしていました。夜の世界のホステス、ホスト、ニューハーフ、花柳界の芸者さん達まで、連日メディアに登場していた時代です。高嶺の花に貢ぎ、あるかなきかのチャンスを虎視眈々と狙う人々の情熱は、男も女も、そして時代も関係ないように思えます。お酒と、お金と、欲望がせめぎ合う夜の世界で繰り広げられる人間模様は、低俗とひとくくりに出来ない魅力をはらんでいます。
かつて二丁目のバーに従事していた友達の話や、勤務していた歌舞伎町のショーパブや、病院の清掃アルバイト経験などを繋ぎ合わせ、一つの夜のおとぎ話にできないかと挑戦してみたのがこの作品です。ちなみにロッシーのモデルは、2000年頃実際に踊っていたロッシー君です。闘病の部分はまったくの創作なので、今も元気でご活躍の事と思います。