6話 語彙的緊密性-Lexical Integrity-
お盆休みが終わり、文芸部の教室には一人、ルリがいた。ホワイトボードにあらかたのことを書いて、三人を待っていた。
ホワイトボードの表から裏まで文字を敷き詰めて、かつ見やすさを保てるよう何度も書き直す。
「こんなものですかね」
誰もいない部室で、ルリは大きく背伸びをする。朝日を受けた髪が茶色に透けた。ティーセットは湯気を上らせており、サンドイッチが机の上に開かれる。
ルリは日課として朝の散歩をしているのだが、そのついでに部室に立ち寄った次第だった。朝食を終えると伊達メガネを取り出し、読書を始める。小鳥が鳴き、風が爽やかに吹き込む中で、ルリは優雅な朝を過ごす。
姫「みたいに書けばいいですか」
ル「うーん、まあ悪くないです。これでルリの人気も上がることでしょう」
姫「そうですね、きっと」
ルリの指示により、まるで朝から準備をしていたかのように書いてはいるが、当然ただの脚色である。罪には罰を、ということで、ルリの悪行を含めて冒頭に記した。
ル「それでは今日の授業です。それなりにハードなので、二回に分けるかもです」
宗姫「了解しました」
桜「どのような内容になるのでしょうか」
ル「ハードですけど、難しくはないです。分かりやすく説明するので」
ル「前回は合成語が特殊な意味を持つ現象、『語彙化』を確認したと思います。黒板が単なる黒い板ではなく、緑色だったり学校にあるものだったり、語彙化が進むと余計な意味を持ちます。今回は語彙化が進んでいることを確認する方法、その精査の仕方を深めていきます」
ル「まず、語彙化すると、それまで二語だった言葉が一語になるわけですから、語として強くまとまります。それを三つの観点から、意味的なまとまり、形態的なまとまり、文法的なまとまりと呼びましょう」
ル「意味的なまとまりは、前回やっていた、意味の違いの精査です。語彙化に伴って、単なる語の足し算ではなくなる。そういう話です」
宗「ということは、前回は今回の授業の先取りだったんですか」
ル「そうですね。分割して教えないとややこしくなるので、私なりの配慮です」
姫「へえ……珍しい」
桜「ルリちゃんもたまには優しいんですね」
ル「…………」
ル「はい。次に形態的なまとまりです。これは音韻の話になります。さくらん、インドって言ってください」
桜「インド……ですか?」
ル「はい」
桜「インド」
ル「宗谷くん、カレーって言ってください」
宗「カレー」
ル「では姫ちゃん、インド、カレー、繋げて読んでください」
姫「インドカレー」
ル「インド、カレー、それぞれの発音そのままで繋げて読んでください」
姫「インドカレー」
ル「これ文面にしたとき全く伝わりそうにないですね……」
別々の発音
イン¬ド、カレー
語彙化による発音
インドカ¬レー
ル「文にしたとき用の保険ですが、¬の部分で音が下がります。アクセントと言います。アクセントの変化が起こります。『東京、大学』とか、何でも起こるので、試して遊ぶと良いでしょう」
ル「次が連濁です。日本語の面白いやつです」
花、火(はな、ひ) → 花火
腹、黒い(はら、くろい) → 腹黒い(はらぐろい)
ル「語彙化に伴って、このように連濁が起きることも多々あります」
ル「最後が母音変化。これは最初の最初の授業でちょこっと触れました」
雨、傘(あめ、かさ) → 雨傘
風、車(かぜ、くるま) → 風車
ル「こうやって、音韻の変化が見られるときは、形態的なまとまりの度合いが強まっていると考えられます」
宗「その形態的ってどういうことなんですか」
ル「形態って、見た目です。機能と対比されるものですね。見た目や形、構成。合成語では、それが音韻によく現れます」
ル「次が文法的なまとまりの話です、が、すごく長いので、姫ちゃんには前後半に分けて執筆してもらいましょう。見づらいので」
姫「はあい、分かりましたよ」
ル「では前半の最後はこの言葉を置いて締めましょう。語に関する規則で、語彙的緊密性というものがあります」
語彙的緊密性(Lexical Integrity)
ル「これは原則として語の内部には、句や文に適当される規則が浸透できないというものです。要するに、語の内部はいじれないっていうことです」
桜「内部をいじるとは、どういうことでしょうか」
ル「それを後半で示していきましょう。5つほどの方法で文や語をいじります」
ル「はい後半です」
姫「え、前後半で分けて投稿するって意味じゃないんですか!?」
ル「間大きく開けたら大丈夫だと思います。多分」
ル「では、文法的なまとまりの話です。これはいくつかの文法操作をしてみて、それを受け付けないことを確認します。文法操作が利かないなら、語彙的緊密性があるということ、つまり語としてのまとまりが強いことが示されます」
[1]要素の割り込み
学級の新聞 → 学級の[古い]新聞
学級新聞 → *学級[古い]新聞
桜「古いという修飾語が、新聞の前に入り込めるかどうか、ということですか」
ル「そうです。句である前半には要素の割り込みが可能ですが、後半は語彙化によって緊密性があるので、語の内部に修飾語を割り込ませることができません」
[2]要素の部分修飾
靴を入れる箱 → 革製の靴/を入れる箱
靴箱 → *革製の靴/箱
ル「合成語は合成前の2要素で成り立っていますが、その前半だけ修飾するのは無理だということです」
[3]要素の置き換え
英語を読むことはできるが、それ(=英語)を書くことはできない。
*勉強机でそれ(=勉強)をする。
*勉強をそれ(=勉強)机でする。
ル「これは分かりづらいですが、要素の一部が代名詞で置き換えられるかっていう話です」
ル「次はちょっと長いです」
[4]重複要素の削除
兄は[北海道への旅行]に出かけ、弟は[九州への旅行]に出かけた。
兄は[北海道への旅行]____、弟は[九州への旅行]に出かけた。
兄は[北海道への__]____、弟は[九州への旅行]に出かけた。
兄は[北海道____]____、弟は[九州への旅行]に出かけた。
兄は[新婚旅行]に出かけ、弟は[修学旅行]に出かけた。
兄は[新婚旅行]に___、弟は[修学旅行]に出かけた。
兄は[新婚旅行]____、弟は[修学旅行]に出かけた。
*兄は[新婚__]____、弟は[修学旅行]に出かけた。
ル「このように語を中途半端に切ると、文章が成り立たなくなります。これは語彙化によって、語としてのまとまりの度合いが強くなっているからです」
宗「合成によって一語になっているから、切っても切れないという認識で良いんですかね」
ル「そうですね。あなたと姫ちゃんみたいなものです」
宗姫「今の面白いと思いましたか?」
桜ル「息ぴったりですね」
全員「…………」
ル「つ、ぎ、で、す」
[5]機能語の排除
a、生徒会 → *生徒たち会
b、煮ざかな → *煮たざかな
c、[東京行き]のバス → *[東京へ行き]のバス
d、親子げんか → *親と子げんか
ル「上から順に、複数形、時制の付与、助詞の付与、&の付与です。語の内部ではどれもできません」
ル「そうそう、これらは形態とは逆で、機能です。役割のあることの話ですね。形態的なまとまりのときに触れた、形態と機能で言うところの機能です」
宗「ああ、なるほど。形態は音韻の変化だけで意味への影響はなくて、でも字面や発音が変わるってことなんですね」
ル「はい正解です。そこまで分かれば上出来でしょう」
姫「それで、5つ終わりましたけど、これが何なんですか?」
ル「んー、これらはですね。例えば2つの似た単語について、どういった振る舞いの違いを見せるのか、精査するときに使います。宿題にしても良いですけど、果てしなく長い作業になりますよ」
姫「それは遠慮したいかなあ……」
桜「似た単語とは、例えばどのようなものですか」
ル「はい。このへんですかね」
花の模様/花模様、木の葉/木の葉
ル「このようなものの違いについて精査するときに、ここまで見てきた操作が使えます。そして、できるだけ多くの操作を試すほうが、より振る舞いの違いが見えるので優秀です」
ル「はい。では長くなったのですが、ここで終わります」
全員「ありがとうございました!」
宿題
暇だったら花の模様と花模様について、意味的・形態的・文法的なまとまりの度合いの違いを、それぞれ精査してください。