5話 先生は通学しない! 緑色の黒板!
昨日の放課後、先生の奢りで夕飯に出掛けた文芸部一同。先生の薦めで、少々寂れた定食屋に入った。その席では専らルリ先生の授業内容について語り合っていた。
姫「『っぽい』が主要部ですって」
桜「いいえ、そればかりは譲れません。その子を指して言っているのですから『子』が主要部です」
宗「派生語には成り立たないんじゃないですか? あの原則」
三人が箸を止めながら議論する。四人席に
先「上機嫌だな、苫屋」
ル「当然です。こうやってまっすぐ向き合って、悩んでくれるなんて教師冥利に尽きるというものです」
ルリは魚の背骨を上手に取りながら言う。
ル「先生さんも、こういうのが好きで教師なんかやってるんでしょう?」
先「そうだったかもな。もっとも、今となっては慣れちまったがな」
懐かしい、という表情をする。しかし、安易に教師になることを勧めたりはしない。ルリならば自分で道を見つけられると、彼は知っているからだ。
ル「先生さんはなんで教師になろうと思ったんです?」
先「友人の勧めだ」
ル「ふうん」
姫「だーかーらー!!!! 右側が主要部!!!!」
宗「主要部の原則はない!!!!!!!!」
桜「お二人とも落ち着いてください……」
二人の議論は帰宅後にも続くのだが、ここで敢えて語ることもない。
翌日、宗谷と瑞姫は昼過ぎまで部室に来なかった。その理由などは言うまでもなければ、そもそも部室に集まる義務もないのであって、誰が何を言うこともなかった。
姫「右……」
宗「ない……」
ル「ああ、もう。少し早いですけど、始めますか」
答えを求める二人だったが、ルリから答えを聞き出そうとはせず、この時間を待っていた。そういうところの誠実さは、ルリの生徒として優秀だっただろう。
ル「結論から言いますが、右側主要部の原則は、凡そあります。ほとんどの場合で成り立ちますが、複合語ほど露骨ではありません」
踊り子っぽい、もの悲しさ、都会派ぶる
ル「宿題ではこれらを提示しましたが、宗谷くんは驚くでしょうが、これらでは成り立ちます」
宗「なんでですか? 『っぽい』の一種って何ですか、『さ』の一種って」
ル「そうですね。そうなると思って、昨日は主要部の意味を掘り下げませんでした。主要部とは『文の中核的な意味や品詞を決定するのは、一番右に来る要素』だという意味です」
a、彼女は{*踊り子 / 踊り子っぽい / 美しい}
b、あの{*悲しい / 悲しさ / 約束}は忘れない。
c、ここぞとばかりに{*都会派 / 都会派ぶる / 火を放つ}
ル「こうやって、実際の用例を観察するのです。これで分かるのは、文の品詞が一番右の要素で決定されているということです」
桜「品詞は確かにそのようですね。意味についてはどうですか?」
ル「意味はちょっと難しいんですよ。直感的な理解ができないという点でどうしようもないですし、あとは……」
不十分、未到達、replay
ル「これら、接頭辞による派生語は、意味の中核が前者に来ています。不十分は『十分であること』の一種ではないですし、未到達は到達して『いない』ことです。このように意味の中核と品詞の決定部分が一致しない場合があります」
姫「それで、宿題の答えはどうなんですか?」
ル「まあ、おおむね成り立つということで」
宗「姫が八割勝ちってところか……」
姫「えへへ」
ル「さて、合成語について掘り下げましょう。面白いのはここからです。合成語において、これは単なる二つの語が合わさっただけとは言えない現象が見られます」
黒い板、黒板
暗い部屋、暗室
学校に通う、通学する
ル「はい、それぞれにどんな意味の違いがありますか」
桜「黒い板と黒板は分かりやすいですね。黒板と言えば学校で使うもので、黒板を黒い板とは言いませんね」
宗「暗い部屋と暗室は、後者は理科的なものですよね。例えば寝室を暗い部屋とは言いますけど、暗室とは言わないですね」
姫「三つ目は……あっ、そうだ! 先生は学校に通うけど通学はしないよね!」
ル「はい、その通りです。黒板は単なる黒い板ではなく、暗室は単に暗い部屋ではなく、通学は学生という身分が付属します。このように、合成語が単なる二語の短縮でなく、新たな意味を持つ現象を、語彙化と言います」
語彙化(lexicalization)
ル「語彙化とは言い換えると、合成語が単なる語の短縮ではなく、新しい語として話者のレキシコンに登録されることです」
桜「黒板は単に黒い板の略ではなく、緑色のものという新しい意味を持つんですね」
ル「そして、ここからは正当な議論の方法を教えます。暗室を『理科的なもの』というのではなく、誰が見てもはっきりと意味が伝わる方法を取る必要があります」
教室に{黒い板 / 黒板}がある。
{*黒い板 / 黒板}は緑色だ。
実験に{暗い部屋 / 暗室}を使う。
電灯が壊れて{暗い部屋 / *暗室}になっている。
生徒が{学校に通う / 通学する}。
先生が{学校に通う / *通学する}。
ル「このように、実例を示すことで意味の違いを観察するというのが、合理的な推論というものになります。曖昧を許さないのは理系の大好きなところでしょう」
宗「確かに、これは……」
姫「うう……なんだか数学っぽい……」
桜「今後の議論にはこういう形を使うということでしょうか」
ル「ですです。今日の宿題からまずは練習してみましょう!!」
時刻はまだ四時。あと一時間のこってはいるが、授業はここで切ることになった。残り一時間では、次の膨大な内容をまとめきれないからだ。
そこからは雑談と、ついでに豆知識程度の話が始まった。
ル「と、いうわけで補足しましょう。右側主要部の原則の、右側とは何かです。アラビア語などの右から左に書く言語では、実際に左側に主要部が来やすいです」
桜「つまり左から書く言語では右側ということでしょうか」
ル「はい。つまり最後の要素、という点が重要になります。で、なんで右側なんて名前がついてるかというと、英語圏でこの分野の研究が進んだからです」
ル「日本語に自由形態素の動詞がないのは、動詞が自由形態素になる言語圏、英語圏で研究が進んだからです。日本に研究の第一人者がいたなら、そうはならなかったかもしれません」
宗「そういうのもあるんですね……言語間の差をどう埋めるか、その辺りも課題でしょうか」
ル「お、結構乗り気ですね。どうですか言語学の道は」
宗姫「それは無理ですね」
ル「あ、うー、二人してそんな」
桜「ルリちゃんはどうしてこんなことを知っているのですか?」
ル「うーん……秘密です」
桜「そうですか」
ルリのことをよく知る桜だから、なんとなく察しはついていた。ルリの過去の話は、また別のところで語られることだろう。
さて、今日のルリはここで授業を終わらせた。明日の授業は、それなりにハードになると宣言して。
宿題
以下の語について、本文中に示した手順に従って意味の違いを示せ。
「植木」と「植えてある木」、「草を取る」と「草取りをする」