2話 本当の辞書はこれ! レキシコンと語彙素
部員四人によるトランプ大会。大富豪では宗谷が、ポーカーではルリが、神経衰弱では瑞姫が、ババ抜きでは桜が勝利し、それぞれ引き分けで終了した。五戦目をしようかという話はあったのだが、おやつの時間になったため、おひらきになった。
先生が置いていったシュークリームを食べながら、それぞれ違うお茶を飲む。紅茶に緑茶、アップルティーに抹茶。抹茶以外はティーバッグを一人一つ使うという、エコの欠片もない日常だった。
「そろそろ始めても良いですか、第二回」
「え、あれ続くんですか?」
当然です、とルリは唇を尖らせる。
「どうせ暇じゃないですか。毎回一時間くらいルリに付き合うです」
「まあ、それは良いですけど……一体どんな話なんですか?」
ルリは抹茶に角砂糖を落として、マーカーのキャップを咥え取る。そしてホワイトボードにこう書いた。『形態論』と。
「私がするのはこの、形態論の講義です。ある言葉、単語がどう成り立っているのか、どう使われるのか、どういう規則性があるのか、それを観察・研究する言語学の一端ですね。辞書反対派が増える素敵な学問なのです」
「なるほど、ルリちゃんにはお似合いですね」
桜の言葉にルリはふふん、と鼻を鳴らすが、それが皮肉でしかないとは気づく余地もない。
「それじゃあ、軽く始めるです。まずは基礎です」
レキシコン(Lexicon)
「これは『心的な辞書』とも訳される、本当の辞書です。この辞書にはその人間の知る全てが書いてあります。なかなか、が目下の人への使用に向いてるとか、バラがどういう花なのかとかまで」
「バラがどういう花かって、どういう意味ですか?」
「姫ちゃん良いですね。では紙の辞書でバラを引きましょう。いきます。『バラ科の低木。観賞用に栽培される。高さ1~3メートルに達し、とげがあり、時につる性となる。葉は奇数羽状複葉。花は重弁、時に五弁。ヨーロッパ・中国・日本産の野生種を交配改良したもので、多くの系統がある。しょうび。そうび。 [季] 夏(出典:大辞林)』です」
「な、長いです! せめて息継ぎをしてください!」
ぜぇはぁと肩で息をするルリに、桜が苦笑いをする。
「要するに、辞書に書いてある内容を知らずとも、私たちはバラがどの花を指す言葉か知っている。そういうことでしょうか」
「正解です。さくらんは理解が早いですね。あの渦を巻くような花びらの形、あれを見てバラだと思うのは、その花の様相が、レキシコン内の『バラ』という単語に相当しているからです」
さて、と一息置いて、ルリは抹茶を飲み干す。
「さて、レキシコンについてもう少し補足します。これには言葉の用法までしっかりと内蔵されているということを観察しましょう」
まいご【迷子】:道に迷った子、連れにはぐれた子。(出典:広辞苑)
「この迷子という単語ですが、レキシコンにはその細かい意味、用法まで刻まれています。次の例を見てください。あと、表記が混雑するので編集さんはここから話者を示してください」
a、しりとり、りす、すいか、かざぐるま、"まいご"、ごま、……
ル「まず、『ま』から始まって『ご』で終わるという音韻情報です」
宗「それは当然じゃないですか?」
ル「心のとはいえ辞書なのですから、当然の情報しか書いてませんよ」
宗「は、はあ……」
b、迷子{が /を /に }……
ル「名詞だということです。主語や目的語になります」
c、迷子{の / *な}集会所
ル「形容動詞ではないので、『な』は使えません」
姫「この*マークは何ですか?」
ル「非文の印です。文として成り立たない場合に使います」
姫「ふむふむ……」
d、迷子が{いる /*ある}。
ル「生き物を対象に取る単語なので、後者は使えません」
e、迷子が{ひとり/*いっぴき/*いっぽん/*いっこ}
ル「数え方です。いっぴきについては解釈の余地があるとは思いますが、私のレキシコン内では不当です」
桜「とすると、個々人でレキシコンは違うのですね」
ル「そうです。でも、母語話者ならば大抵は一致したレキシコンとなっています。現に、ここまでのa~eの用法に、納得できるはずなのです」
姫「まあ確かに納得はできますけど、なんだかしっくり来ません」
ル「概念の話は難しいですから。とりあえず先に進みましょう」
ルリが背伸びをしながら文字を消すところ、宗谷が手伝って、ホワイトボードがまっさらになる。
ル「こほん。こういった具体的な単語とは別に、語彙を構成する要素として語彙素があります。そして、同一の語彙素がさまざまな姿かたちで表記されるとき、それらはある語彙素の異形態と呼ばれます」
語彙素(lexeme)、異形態(allomorph)
姫「つまり、どういう?」
ル「あめとあま、が典型ですね。雨と、雨傘、これはどちらも同じ『雨』という語彙素による単語ですが、後者は /あま/ と発音します」
ル「語彙素が代表的な形で、それ以外の形があれば異形態があると言います。ただしそのとき、/あめ/も含めて全てを異形態と呼ぶので注意です」
宗「その代表的な形というのは、どういう基準で決まっていますか」
ル「あなたが辞書の見出しに /あめ/を使うか/あま/を使うか、そういう話です。母語話者なら前者を選ぶでしょう」
桜「……? では、似た形なら同じ語彙素の単語になってしまうのですか?」
ル「さくらん鋭いですね。でもそれは違います。語彙素の分別は、その語の意味や形式に応じて決める必要があります。あくまで同じ語である必要があるのです」
replay、player、playable
ル「これらはplayの姿が変わっただけで、playと同じ意味だ、なんて言わないでしょう? つまり、これらはplayの異形態ではなく、全く別の語彙素の語です」
本、本立て、本棚
ル「これらも語彙素『本』の異形態ではなく、個々に別の語彙素のものですね」
本、書籍
ル「これらは同一の意味ではありますが、違う語彙素として扱われます。ここまでよろしいですか」
一同「はい」
The window was 〈clean〉.
I will 〈clean〉 the window.
ル「このcleanは同じ形をしてはいますが、前者は形容詞、後者は動詞であり、別の語彙素として扱われます。意味と形だけではなく、その用法も考慮する必要があるということですね」
と、そんなところで、五時の鐘が鳴った。ルリは、物足りないといった様相で、マッキーのキャップを閉められずにいる。
ル「さ、最後に! 形態素という言葉があります」
形態素(morpheme)
ル「これは言語表現を校正し、意味や機能を有する最小の単位のことです。難しいので、また次回に説明するのです」
桜「まあ、キリも良いことですし、この辺りで解散でしょうかね」
姫「んー、頭使って疲れた! 宗くんアイス買って帰ろ!」
宗「そうだな、下のコンビニで良いか」
姫「うん!」
ル「待ちなさい」
せっせと帰り支度をする三人に、ルリはマーカーのキャップを外して言う。
ル「今回から宿題があります。次回の導入が楽なので、考えてきてください」
一同「ええー!?」
夏休みを存分に使ったルリの講義は、こうして始まったのだった。
今日の宿題です。
「こねこがいる」という文章は、いくつの要素に分解できるか考えなさい。
補足:この文章はどこまで細かく分解できるでしょうか