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1話 文系or理系? 嘘つきな辞書

 部室に冷蔵庫が配備された。部費を使い切らないと、来年度の部費が削られるとかいうシステムのためだ。大人の都合なので仕方がないのだが、どうも合理的とは言いづらいだろう。


 ここ、文芸部室は毎年家具を増やしている。原稿用紙や筆記具などの備品は当然揃えてはいるが、部費を使い切るほどの備品があるはずもなく、先生の気まぐれで適当なものを買い揃えているのだ。

 昨年ついにクーラーを設置したこともあって、夏休みだというのに部員全員が集まっていた。


「この冷蔵庫、何入れるんですか」

「さあ……飲み物でも冷やしましょうか?」


 多少困惑しつつも、真面目に用法を検討する宗谷と桜。その隣から、ルリがゴマ豆乳プリンを入れた。瑞姫は軽やかな鼻歌と共に、原稿用紙にペンを走らせている。

 ガラララ、と勢いよくドアが開けられた。


「文月、終わったぞ」


 顧問の西村先生だ。瑞姫に小説の校正を頼まれていたのだが、昨日の今日で終わらせる有能な先生だ。それだけに信頼は厚いのだが、今回の冷蔵庫しかり、よく分からない行動も多かった。


「本当ですか!? 大丈夫でしたか、誤字とか」

「大丈夫だ、あとの手続きは任せろ。コピーはこっちで取っておくから、あとで持ってくる」

「はい、ありがとうございます」


 瑞姫は深々とお辞儀をして先生を見送るが、ドアを出る直前に、先生は思い出して振り返った。


「そうそう、文月に吉松は進路調査も早めにな」

「先生さん気持ち悪いくらい真面目じゃないですか、何か悪いものでも食べたんじゃないです?」

「バカ言うな、これでも進路担当なんだよ。じゃあな」


 ルリの冗談を受け流して、先生は今度こそ出て行った。


「進路って文理のだろ? 姫は文系で、俺が理系で、分かりきってると思うんだけどな」

「分かりきってる、です? どうしてです?」

「だって俺は数学が得意で、姫は国語が得意なんですから」


 ルリはふうん、と返して、ホワイトボードを引っ張ってきた。


「宗谷くん、姫ちゃん。私には嫌いなモノが二つあるです。『常識』と『辞書』です。どうもこの二つは厄介なもので、世の中の常識は往々にして奇妙なものでありますし、辞書はその象徴とも言えることでしょう」


 ルリがやけに真剣な表情をするものだから、宗谷と瑞姫、通称「宗姫ペア」は背を伸ばして立っていた。桜は、また面白い事をしている、と微笑んでいた。



 ルリはホワイトボードにこう書いた。


 『なかなか』


「それでは二人……いえ、さくらんもですか。三人とも。この「なかなか」という単語の意味を説明してみてください。相談は自由です」



――議論中――


桜「なかなか面倒な問題ですね」

宗「そういう使い方ですよね。なかなかない、なんて言い方もありますかね」

姫「なかなかできる(動詞)、とかいうのもあるけど、基本的には形容詞に付くよね」


桜「結構、と似てませんか。結構難しい、なかなか難しい。程度を示す副詞ですよね」

宗「平均よりは上って感じがしますよね」

姫「なかなか良い目してるね。言い換えるなら結構より、『思っていたより』かなあ」


桜「思っていたより、想定以上だ、なんてところが中心ですね」

宗「なかなかできない、という言い方もありますけど、これも同じですね」

姫「想定以上を否定して、想定未満の成果だっていう感じだね」


桜「では、この辺りが答えということでよろしいでしょうけ」

宗「そうですね。良いと思います」

姫「私も。じゃあまとめるね」


答え『物事の程度が想定以上であることを示す副詞』


――議論終了――


「はい、お疲れさまです。そうですね。実際の辞書の表記もこんな感じです」


大辞林「物事の状態・程度が予期した以上であるさま」

明鏡「物事の程度が通常や予想を上回っているという気持ちを表す」


 ルリはくるりとマーカーを回転させて、懐から取り出した眼鏡を掛ける。


「では、実際にその用法で喋りましょう。二学期が始まったすぐの授業でこう言うのです。『先生の授業、なかなか面白いですね』と」


 言わんとすることが分かったと、三人とも苦笑いをしている。


「どうしたんです? 予想していたよりももっと面白い授業だと言えば、何も誤用ではないはずでしょう?」


 いじわるっぽく笑うルリ。三人はどう言い返したものかと、悩んでいる。


「そうは言いますが、予想以上だ、という言葉には、見くびったような意味が付随しませんか」

「そう、それです。これが辞書の本当に問題である点で、『通常、目上の者に使うと失礼に当たる』あるいは『主に目下の者に使う』という表記はどこにもないのですよ。これは、辞書が一冊の本に収める際、削れるところを削っているからこそ起きる障害です」


「その辺りは普通書かなくても分かるんじゃないですか?」

「ふふ、宗谷くんはまだまだです。あなたこそ感覚否定派、超論理型の人間ではありませんか」

「それはそうですが……でも言葉を使うときって、少なからず感覚に頼ってはいますよね」


 ルリはマーカーを置いた。そして、神妙に語り出す。


「言語の辞書というのは定義的であるべきなのです。ある言葉の意味を知りたいのに、現実とはズレた意味が返ってくる。そんなのは言語の辞書としては不適切なのです。私たちは事実、辞書よりも現実に即した用法を身に付けています」


 ルリがホワイトボードを叩くと、狭い室内に反響して、なかなか鳴り止まない。


「何度でも言いますが、言語の説明に曖昧さは不要なのです。辞書には言葉の意味なんて全く正しく書いてはありません。実例を観察してこそ得られる、完全な根拠に基づいてこそ、言語の意味は分かるというものです」


「これは物理実験と何も変わりません。仮説から推論を立てて、実験してデータを取って考察。この過程が果たして、あなた方の言う『文系』『理系』のどちらにあてはまるか、考え直してほしいですね」


 ルリは一呼吸置いて、高らかに宣言する。


「国語こそ、最も理系の輝く場所なのですから!!」

今回の宿題


 なし。初回なのでなしです。次話を待つのです。

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