第九十六話 劉封敗戦の報
建安二十一年 冬
天水郡祁山蜀軍 劉備本陣天幕内
「その報は誠か!? 孝徳が、孝徳が本当に……」
劉備は伝令の報を聞くと胡床(携帯用座具)から立ち上がり伝令に掴み掛かろうとした。
「落ち着かれませ、我が君。伝令、もう一度正確に報告するように」
「は、はい」
孔明の声を聞いて劉備は胡床に座り直す。
そして伝令は再度報告する。
「荊州南糸において劉将軍は曹操と対峙、これと争い負傷して上庸に兵を退きました。劉将軍はその後、亡くなったとの事です」
「こ、こ、孝徳~」
劉備は顔を手で覆って踞る。
「我が君。どうぞ、奥にてお休みくだされ」
孔明に手を取られた劉備だが、これを振りほどいた。
「おのれ孟徳! 全軍に命を出せ! これより総攻めを行う。孝徳の弔い合戦だ!行くぞ孔明!」
劉備は涙を流しながらも声を張り上げる。
「はは、分かりました」
劉備の命を聞いた孔明はそう答える。
そしてその目は笑っていた。
劉封戦死の報は蜀軍全てに知らされ将達の嘆きと兵達の悲しみに包まれた。
しかし、劉備の命が発せられると将達の顔つきは変わり、兵達の士気は天を突かんとする程高まった。
そんな蜀軍の中で、法正と陸遜は二人だけで会っていた。
「まさか、このような事になるとは」
「事前に掴んで置きながら…… ですが、本当でしょうか?」
「伝令が間違った報をすると?」
「孝徳は、あれは天に見放される男とはとても思えません。もしかしたら、子初殿が?」
「で、在れば。心配要りますまい。我らは我らの役をこなすとしましょう。それと」
「諸葛殿の動きですね。お任せを」
「頼みます。私は玄徳様を支えましょう」
そして二人は動き出す。
それぞれの役目を果たしに。
一方で孔明は……
「ふふふ。これほど上手く運ぶとは」
自身の天幕に一人佇む孔明。
その口元からは笑みが溢れていた。
羽扇で口元を隠し声に出すつもりは無かったようだが、つい本音が漏れていたようだ。
「さて、これで将も兵も普段以上の働きをしてくれる筈。注意すべきは暴発する者をどう裁くかだが?」
孔明が思案していると挨拶も無しに天幕に入ってくる一人の男。
「孔明。貴様!」
「元直? な、何を。ぐは!」
徐庶は天幕に入って来ていきなり孔明を殴った。殴られた孔明は尻餅をついて倒れる。
徐庶は倒れた孔明を見て殴った右手を左手で掴んでいた。
そうでもしないとまた孔明をまた殴ってしまいそうだったからだ。
「孔明。貴様と言う奴は… なんて事をしたのだ!」
「何の事だ。元直」
孔明は何事も無かったように立ち上がると汚れを羽扇で払った。
その冷静な態度の孔明を見て徐庶の怒りは再度噴出する。
「貴様! 知らぬとは言わせぬぞ!」
徐庶は孔明の襟を両手で掴み持ち上げる。
しかし、孔明の背が高すぎて満足に持ち上げる事は出来ず孔明は爪先立ちする形になった。
「落ち着け、元直。熱くなるな」
「落ち着けだと! 劉将軍を、孝徳様を殺した貴様を見て、落ち着けと。あれほど手を出すなと言ったのに! 貴様と言う奴は……」
徐庶は孔明の襟を持つ手に力を込める。
そのまま絞め殺す勢いで。
しかし、孔明は徐庶の手を掴む。
「勘違いをするな。元直。私は手を出していない。孝徳殿が死んだのは魏軍の、曹操の手によって死んだのだ。私ではない」
「それを私に信じろと?」
「誓って言う。私は手を出していない」
徐庶の手が孔明から離れる。
そして、この場を去ろうと後ろを向き孔明に言い放つ。
「私は上庸に向かう」
「待て、元直。それは無用だ」
孔明は徐庶を止めるが、徐庶は孔明の言葉に再度抑えていた怒りにスイッチが入る。
しかし、その場に留まる事で怒りを堪えると孔明を見ずに話す。
「無用とは何だ? それは上庸に残っている者達を見捨てろと言うのか?」
その徐庶の放つ言葉には殺気が込められていた。
「そうだ。彼らには春までその場を死守してもらう」
「…孔明」
「そして、最後は降伏するように伝える」
「考徳様を亡くした彼らが降伏すると思うのか? それに伝令が届くか、分からぬのだぞ」
徐庶の肩は微かに震え、その手には拳が握られ、そしてその手から血が流れていた。
「それでもだ。全ては我らの勝利の為」
「それはお前の、ではないのか?」
「私は玄徳様の勝利の為と言ったつもりだ」
「そうか。ではな」
「軍規に背くか。元直!」
「許可は貰う。勝手はせん!」
そう言って徐庶は天幕を出ていった。
「元直。君も離れるか」
孔明は徐庶が去った後をただ見ているだけだった。
徐庶は劉備に直言して兵一万を率いて陣を離れる事にした。
その見送りには法正と陸遜が来ていた。
「孝直。伯言。後は任せる」
「お任せを」「しかと」
「二人とも側に」
多少距離を取っていた法正と陸遜は徐庶に近寄る。
「孔明から目を離すな。あれはまだ、何かをやるかも知れん」
法正と陸遜は顔を見合わせる。
徐庶の思わぬ言葉に驚いたようだ。
そして陸遜が小声で囁く。
「元直殿。孝徳は」
「分かっている。分かってはいるが確かめずには要られんのだ」
「孔明の事はお任せを、好きにはさせません」
「頼むぞ。二人共」
徐庶は二人に後を託すと一路、上庸に向かった。
徐庶の率いる一万には魏延と王平が居た。
二人は馬に乗り並んで話をしていた。
「文長殿。本当なのでしょうか。孝徳様が亡くなるなんて」
「子均。あの師匠が居るのだぞ。誤報に決まっている。そうだ! 誤報に違いない。そうでなければ俺は。俺を許せそうに、ない」
魏延は本来なら漢中に残って劉封軍に加わっている筈だった。
しかし、彼は張飛の副官で有った為に劉備本隊に無理やり組み込まれてしまった。
魏延は何度も劉封の側にと劉備に直訴したが、駄目だった。
魏延は劉封に『役に立てず申し訳ない』と謝ったが、そんな弟子の姿を見た黄忠は胸を張ってこう言った。
『わしが居るからには若が手傷を負う事など有り得ん。お主は何も心配せずにおれ。それと、必ず手柄を立てるのだぞ? 手柄を立てておらねば分かっておろうな?』
当時、魏延は黄忠の言を聞いて安心したと同時に手柄を立てなかった自分を想像して恐怖した。
そして魏延には張飛から厳命が下っていた。
『いいか。俺は兄者の側を離れらんねえ。本当なら俺も上庸に行きてえ~。だが、それは出来ねえ! だからお前が孝徳の仇を、俺に代わって取れ! 曹操の首を取れと言いたいがそれは無理だろうから、敵将の首を二、三個は必ず取ってこい! 必ずだぞ!』
魏延は張飛の想いと一緒に上庸へ急いだ。
張飛は魏延達が上庸へ行くのを見送っていた。
そして魏延達が見えなくなると愚痴を溢していた。
「くそったれ」
張飛も自分が行けるなら行きたいに決まっている。
しかし張飛は劉備の側に居なければならなかった。
将軍である張飛が戦場を離れる事は全体の士気に関わる事だ。
例え、劉封の弔い合戦をと士気が上がっている軍でも、張飛ほどの人物が持ち場を離れれば動揺する兵が現れるかも知れない。
それは長年戦場に出ていた張飛にはいやと言うほど分かっていた。
だから離れられない。
劉備も同じ気持ちだろうと張飛は思った。
劉備も出来るなら今すぐ上庸に向かいたいだろう。
だが、それを許してくれるほど眼前の敵は甘くない。
なら、一刻も早く眼前の敵を葬り長安まで進軍する。
そうすれば曹操は必ず出てくる。
『その時こそ!』 と張飛は想いを馳せる。
様々な想いが入り交じりながらも時は進んでいく。
そして、建安二十二年を迎える。
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