第九十二話 覇王の勧誘
く、空気が重い。
あの男の存在感がそう感じさせるのか?
それとも、戦場ゆえの事なのか?
何れにせよ。俺の目の前にはあの曹操がいる!
「久しいな。劉封」
「そ、曹操」
距離は離れているがそれでもはっきりと分かる。
派手な赤い鎧と赤いマントであの時と変わらぬ姿。
見れば奴の回りの兵達も上等な鎧を着ている。
あれが噂に高い『虎豹騎』だろうか?
曹操が近づいて来る。
俺の隣に居る黄忠が今にも飛び出そうとするが俺は左手を伸ばして出るなと合図する。
「若?」
「曹操は、俺に用があるようだ。皆、動くな! 良いな!」
「「「はは」」」
俺は馬から降りて曹操に近づく。
長坂で会ってから既に七年。
あの時の曹操は兜を被っていなかった。そして今も被っていない。当時の曹操の髪は少し白髪が混じっていたが、今はほぼ白髪だ。曹操の年齢を考えれば当たり前だな。
彼は老人だ。
だが老人とは思えないほどしっかりとした足取りで歩いている。
その歩みは正に王者のそれだ。
俺はそんな曹操の間近まで歩く。
少しだけ体が震えているが、これは恐怖によるものなのか。それとも武者震いによるものなのか。或いは両方か?
互いに約百歩の距離まで近づいた。
「よく抑えの効いた良い兵達だな?」
「それはどうも」
曹操の澄んだ声は耳に心地い。
だが同時にその声を恐ろしいと感じる。
「どうしてここに? 長安に居たのではないのですか?」
ここに来る前、斥候の報告では曹操の主力は長安に集まっていた筈だ。
「ふ、ふふ。ふははは」
「何が可笑しい?」
「我の目的は貴様だ! 劉封!」
はっきりと名指しされた。
曹操は劉備ではなく、俺を優先したのだ!
「劉封。降伏しろ。貴様は劉備には勿体ない。我が下に来い。貴様にふさわしい地位を与えよう」
随分と余裕だな。そして思った通りだ。
曹操は俺を敵ではなく有用な人材として見ている。
曹操に認められて喜ぶべきなのか?
「どんな地位です?」
とりあえず聞いてみようか。
「我が近くで天下に仕えよ。それがお前に与える地位だ」
天下の近く? 皇帝の近くと考えれば……
宰相? それとも……
「それは俺には不似合いな地位だ。ごめんだな」
「ふっ、貴様も関羽、張飛と同じか?」
「前にも言いませんでしたか。俺は劉玄徳の子だと。その俺が何で貴方に仕えないと行けないのですか? それに貴方の側に行けば俺は不孝、不信、不仁、不忠の謗りを免れない。それは俺の死を意味する。それを知らない貴方ではないでしょう?」
俺が曹操の下に行けば、それはすなわち。
親を捨てる事、不孝。
仲間を裏切る事、不信。
蜀の民を敵にする事、不仁。
主君を変える事、不忠。
この時代、儒教の教えに背く事は凡そ全てを敵に回す事だ。
俺は劉備の養子で、彼を裏切る事は不孝、不忠の謗りを受ける。
そして長年戦って来た仲間と蜀の民を敵に回す事は不信、不仁を表す。
例え曹操の下で高位の地位に就いても誰も俺を相手にしないだろう。
そこらに居る武将が裏切るのとは訳が違うのだ。
前世で俺が孟達の誘いを断ったのはこれが有ったからだ。
正史では俺は「先主(劉備)に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である」と書かれた。
三国志正史を書いた陳寿は俺を酷評したが、それは俺の立場を理解していないからだ。
それに対策を立てていないとあるが、それは誤りだ。
俺は劉備に何度も上表して身の潔白を訴えていた。しかしそれは全て孔明によって握り潰されていたのだ。それを遠くに居た俺が知る筈もない。
死んでから知ったのだぞ! 俺は!!
それに俺が魏に寝返ったなら彼は俺をこう書くだろう。
『親を裏切り、命惜しさに敵に寝返った不孝、不忠者。まさに天下の笑い者だ』と。
そして俺が魏に行ったとして、時の皇帝曹丕は俺に高位を与えたかも知れないがそれだけだろう。
その後はあの性格の悪い曹丕の事だから、俺に曹操と劉備の事を聞いてからかったに違いない。
つまり臣下の前で俺を笑い者にした事だろう。
そんな事に俺が耐えられる筈がない!
俺に待っているのは憤死する未来しか無い。
あの時の俺に残された選択は不孝、不忠者として恥をかいて死ぬか。孝を尽くし忠を貫いて死ぬか。その二択しか無い。
どれを取っても死しかない。
だが当時の俺は劉備の養子である事で、死は免れると思っていた。
不孝、不忠でない俺が死ぬ筈がないと信じて。
しかし、現実は無情だ。
俺は孔明の罠に掛かっていたと言う事を知らず、処刑された。
まさか、二度目の生を受けた俺が裏切りを薦められるとは思わなかった。
しかもそれがあの曹操からだ。
だが、俺の答えは変わらない。
俺は決して、劉備を裏切らない。
仲間を捨てたりしない。
蜀の民を敵に回したりしない。
その為に死んだとしても、俺は決して後悔はしないだろう。
「お前も古い考えに囚われるか?」
古い考えか。曹操はリアリストだからな。そう思うのも無理はないな。
「貴方の思いや考えに皆が皆、付いてこれる訳ではないですよ」
「惜しい。惜しいな。そう考えるお前は我に最も近い。いや、我よりももっと先を見ているようだ。だからこそ貴様が欲しい。欲しいぞ!劉封」
そんなふうに言われてもねぇ~。
「評価されているのは素直に嬉しいですね。それも貴方からなら」
曹操に認められた事は本当に嬉しい。
あの男に認められるよりはよっぽど嬉しいよ。
「ふぅ、残念だ。我が物にならぬならここで殺すしかあるまいな」
「それは俺も同じですよ」
「ふははは。では殺し合うとしようか?」
「ええ。そうですね」
俺はそう言うと曹操に背を向けて歩き出した。
それは曹操も同じ事だろう。
「若。立派な態度でしたぞ」
黄忠、聞こえてたの?
「孝徳様は私が御守りします!」
ドンっと胸を叩く傅彤。
そして周りの兵を見れば皆、顔を赤くして興奮している。
「頼りにしているよ。皆」
オオオォォー!!
兵の雄叫びが響く。
誰も曹操に怯えていない。
頼もしい事だ。
「さぁ、殺ろうか?」
オオオォォー!!
こうして俺と曹操の戦いの幕が上がる。
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