第七十話 木牛流馬
前話を少し加筆してます
兵糧輸送に関する新しい輸送手段に関して、俺は劉巴達に話をしていた。
蜀の桟道を使って大量の兵糧を運ぶ方法。
そのヒントは史実の孔明の北伐にある。
それは『木牛・流馬』だ。
孔明はこれらを使ってあの桟道の危なっかしい道での輸送に成功している。
ただ問題は木牛と流馬がどんな物なのか。
はっきりとした物が存在しない事だ。
しかし、推察は出来る。
木牛は書いてある通りに木で出来た牛と言う事だろう。
なら、現代で木牛に成りそうな物は何なのか?
それは『手押し車』だと思う。
手押し車ならあの道でも使えるし、それに食料の入った袋を詰め込めば人の手を使うよりも多く物を運べる。
構造も簡単なのでこの時代でも作れるだろう。
俺は手押し車を書いた紙を皆の前に広げる。
「ふむ。これは荷を運ぶ物か?」
「ああ、そうだ。以前、漢中の険しい道を見て馬車や牛車が使えないのを知って、それらに変わる物を考えていたんだ。『手押し車』『木牛』と名付けようかな。これを見てどう思う?」
「う~む。この部分に荷を置き、この二つの棒を持って押すのですか?」
法正が紙を指差し聞いてくる。
それを受けて俺は手押し車の利点を説明する。
「そうだ。この棒を掴んで押し進める感じだ。どれくらいの量を運べるか分からないが今まで人一人が運ぶ量よりは多く運べる筈だ。とりあえず試作して見ようと思うがどうだろう?」
「私は良いと思います。実際あの道を使っての輸送には問題が有りますし。これならあの道でも使えると思いますよ。それに他にも使いどころが有るでしょう」
お、陸遜の賛同を得られたぞ。
「そうですな。あそこは馬も通れぬ道ですからな。これは使えるかも知れませんな」
張松も賛同してくれた。
「ふん。こんな事を考えていたのか。視察と称して色々見て回っていたのはそう言う事か。他にも何か有るのではないのか?」
おっと鋭いね劉巴は。
「実はこういうのを考えてたんだ。これなんだが……」
俺はもう一つの紙を取り出した。
それには『リュックサック』を書いた。
これならある程度の重い物も運べるし、手押し車を使って荷物をひっくり返す心配もない。
多少ふらついてしまうかも知れないがそれは慣れれば何とかなるだろう。
素材は動物の革とかだし、作り事態は簡単だ。
「これは、背負うのか?」
「そうだ。木牛でも運べないところ。人一人が通るくらいの道ならこれを使えば運べるだろう」
「これは何と言うのですか?」
うっ、リュックサックは駄目だな。何と言えば良いのか?
「背に背負うのだ。背負ではどうだ?」
まぁ、それで良いか。
劉巴が言う『背負』ととりあえず決まった。
そう言えば背負子って呼ばれる物が有ったな?
登山で使う物だったよな。リュックとは違うな。
荷運びに便利だったような~?
これも作ってみるか。構造事態は簡単だったからリュックよりはこっちが使えるかも知れないな。
そして問題は流馬だ。
この流馬に関しては全く分からない。
分からないのだが、有る本には流馬は船ではないのかと書かれていた物が有った。
孔明の四次北伐で木牛を使用していたのは分かっている。
そして流馬はその後に登場している。
記録では四次北伐の時は長雨が続いて河が増水し、桟道が使えなくなり補給が続かなくなって北伐を断念したとある。
つまり河が増水して桟道が流されたのか、水没したかで木牛が使えなくなったと言う事だ。
ではその後に登場した流馬はその問題を解決した物だと思われる。
河が増水しても輸送出来る方法。
それは船しかないと思う。
しかも水陸両用ではないのか?
推測でしかないが多分そうだと思う。
流馬が船だとするならば、相談する相手は決まっている。
俺は陸遜に水陸両用の船が作れないかと相談した。
陸遜は半ば呆れながらも一緒に考えてくれた。
それから皆であーでもない、こーでもないと北伐の準備に関して話し合った。
建安十八年 春
今年史実では劉備の益州攻めが本格化しているが、既に益州は劉備の物。
この年、魏と呉に大きな動きはない。
しかし前年、魏では重臣の荀彧が亡くなり、曹操は魏公の位に就いた。
魏公国の誕生だ。
呉では孫権が本拠地を建業に移して、合肥を狙っている。
そしてこの世界で生き残っている周瑜は襄陽で北上する機会を待っている。
ちなみに史実で孫権は合肥を何度も何度も攻めているが、これは何故なのかと言うと?
実は建業から合肥までの距離は非常に近い。
船で二日間と掛からない距離なのだ。
その為、中原に出る為と言う理由だけでなく防衛の為にも合肥を落とす必要性が有った。
案外建業に本拠地を移したのは孫権の決意の表れで、不退転の覚悟で挑んでいるのかも知れない。
でも、建業はまだ建設中で孫権は柴桑武昌に居る。
では、俺達はどうか?
益州を得て一年。蜀の法律『蜀科』を制定して発布し、国内の引き締めを行っている。
軍資金に関しては塩と鉄の専売を行った事で、国庫が満たされ始めている。
それに交州の交易で得た財貨も多い。
荊州南郡と交州の統治も問題ない。
後は引き続き内政に力を入れて来るべき時に備える。
その来るべき時は何時なのか?
それが問題なのだが。
そして曹操が魏公に就いた事である動きが起きていた。
「漢中王?」
「そうだ。孔明が中心になって劉備を王に、漢中王に就けようと動いている」
漢中王か。
確かに漢中は俺達が抑えているから名乗ってもおかしくはないが、どうなんだろう?
「それって大丈夫なのか?」
「私は反対だ!」
ああ、確か劉巴は劉備が王に成るのを反対していたな。
人心が離れるとか何とか言っていたと有ったな。
それに劉備の漢中王就任に反対したのは劉巴だけじゃないんだよな。
そして劉備は漢中王就任に反対した者は何らかの理由を付けて処罰してる。殺したのだ。
劉備は慈悲深い人物のように思われているが、実はそうではない。
結構感情に任せて人を死なせている。
俺(劉封)もその被害者の一人だ。
劉巴はその対象にされなかったがな。
「王を名乗るには時期尚早。それに安易に王を名乗れば民が付いてこなくなる。全く孔明は何を急いでいるのか?」
ああ、それはあれだな。
「高祖劉邦の故事に倣う。と言う事じゃないのか?」
漢の始まりは劉邦が漢中王に成った時からだ。
つまり漢中王を名乗ると言う事は高祖劉邦と劉備を一つに繋げる事になる。
その先は皇帝への即位に繋がるだろう。
「高祖。高祖と劉備を並べるのか。漢中王を名乗ればその後は、一つしかない」
皇帝。
「王を名乗れば、か。だが曹操は公の位に就いた。その次は王だ。義父が曹操に対するには王を名乗らないと行けないんじゃないのか?」
もっとも、曹操は皇帝に即位するつもりはなかったみたいだけどな?
劉備?
劉備は皇帝になる気満々だったと思うよ。
曹操の息子の曹丕が皇帝の位に就いたら、劉備は直ぐに皇帝に即位したからね。
「そうだとしてもだ!まだ早い!」
劉巴は漢王朝に対する思いが強い。
劉備に仕えるのを避けていたのも、劉備がいずれ今の皇帝に取って変わるかも知れないと思っていたからかも知れない。
「そうだな。まだ早いな」
「うむ」
だがその時はそう遠くはないだろう。
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