第五十九話 定軍山の戦い
定軍山。
北に漢中の入口陽平関、東に漢中郡の郡都南鄭、西に益州の入口関城がある。
南は二千メートル級の山々が連なる大巴山脈があって侵攻出来ない。
漢中の要所中の要所である。
その要所に張魯の弟張衛が立て籠っていた。
「元直。どう攻める?」
「攻めません。まずは北の陽平関を抑えましょう。攻め手は陳到殿に任せましょう」
は? 陽平関を抑えるの?
まあ、陽平関を抑えるのは賛成だけど、それで良いの?
「張衛は好戦的な性格をしています。我らが攻めずとも勝手に追ってくるでしょう」
ふむ。そこを迎え撃つのか?
「本隊で敵を受け止め別動隊で攻め落とします。これで勝てましょう」
言うほど楽じゃないと思うけど?
「配下の将をお信じ下さい。それと御自身の事も」
つまり俺が皆に発破を掛けろと?
徐庶って俺を試すような事ばかりするんだよな。
それで俺がしくじると思わないのだろうか?
だけど期待されるのは嬉しいし、それに応えたいとも思う。
「分かった。陳到に伝令を! 本隊の指揮は俺が直接取る! 後軍の張南と孟達を殿とする!」
「お待ちあれ! 殿は我にお任せを」
霍峻か。霍峻は副将として千の兵を与えている。遊軍として使う予定だったが、彼に任せても良いのだろうか?
俺は徐庶を見る。
「霍峻殿に任せましょう。張南殿と孟達殿は陳到殿と合流させましょう。そして魏延を本隊にお加え下さい」
「前軍指揮は陳到のまま、それに張南と孟達を加えて、後軍指揮を霍峻に任せ、魏延を本隊の遊軍にする。と言う事か?」
「左様です」
「分かった。霍峻、殿を頼むぞ」
「はっ!お任せを」
軍の編成を替えるのは苦労するが、各隊毎に移動する事で混乱する事なく終わった。
そして、陳到が陽平関に向かった後に俺達本隊も移動を始めた。
「孝直の姿が見えないな。それに伯言も居ない」
いつの間にか法正と陸遜が姿を消していた。
「法正殿と陸遜殿は別動隊を率いております」
ああ、そうか。俺は別動隊は黄忠に任せると思ってたんだよな。黄忠の姿が見えないし。
そうか、陸遜は居ないのか。
「伯言には側に居て欲しかったな」
「私が居りますが?」「私も居るわよ!」
そう言う事じゃないんだけどな。
それに徐庶も尚香も陸遜と張り合うなよ。
陳到が陽平関に到達した頃に、張衛が定軍山から降りて俺達の後背を突いた。
「本当に出てきたな。砦に籠っていれば良いのにな」
「我らが後ろを向けば、張衛の性格からして追撃を掛けたくなるものです。防衛には向かない人物です」
徐庶は張衛の性格を知って相手を釣り出す戦法を取ったが、これって敵の数が多くない?
見た感じ万は越えてると思うけど。
霍峻の兵力は張南、孟達の兵を足して三千しか居ないのに大丈夫なのか?
※※※※※
迫る張衛に対して霍峻は動じる事なく兵を動かす。
「盾兵、構え!」
木の板に皮を何枚も張り合わせた盾を持った兵達が、隙間なく並んで敵を迎え撃つ構えを見せる。
そしてその後ろでは弩を構える兵が並んでいる。
「引き付けろ。まだ、まだ、まだだぞ」
霍峻は張衛の兵がある一定のラインに来るまで待った。
そしてその一定のラインを越えたところで兵に指示を出す。
「射てえぃー!」
霍峻の号令に兵達は弩を放った。
自ら先頭に立っていた張衛は馬を盾にして矢を防いだが、後続の兵はこれをまともに受けて前進を躊躇った。
そこを霍峻は見逃さなかった。
「抜刀! 突撃ー!」
霍峻は自らも剣を抜くと兵達と共に駆け出す。
これにより霍峻と張衛の軍は入り乱れての乱戦となった。
当初霍峻軍は優勢であったが、そこは数の多い張衛軍。混乱が徐々に治まると勢いを取り戻し、霍峻軍を包囲し始める。
張衛軍が霍峻軍を包囲しそうになった時、銅鑼の音が木霊する。
すると劉封本隊の左右から部隊が飛び出し、張衛軍に食い込む。
霍峻軍の包囲に気を取られていた張衛軍はこの対応に遅れてしまう。
そして両軍は再び混戦模様となってしまった。
数の少ない劉封軍は張衛軍よりも装備の点で勝っていた事が、劉封軍の善戦に繋がっていた。
しかしそれは戦局を決定づけるものではなかった。
戦局を決定付けたのは、張衛の後方での出来事であった。
「将軍!定軍山が、定軍山が!」
「定軍山がどうしたか?」
「定軍山が敵の手に落ちました!」
「なにー!?」
張衛が後ろを振り返ると定軍山から煙が上がっていた。
それが張衛軍の兵には定軍山が落ちたように見えたのだ。
だが、この時はまだ定軍山は落ちていなかった。
「そんな馬鹿な!奴らの兵は二万もないのだぞ。例え別動隊が居たとしても定軍山が落ちる筈があるまい。落ち着け、定軍山は落ちてはいまい。落ち着くのだ!」
張衛は必死に兵を落ち着かせようとしていたが、既に兵達は浮き足立っていた。
これを落ち着かせるのは名将と呼ばれる者でも無理だろう。
そして混乱している兵達を切り伏せて張衛の下に迫る将がいた。
「我が名は魏延。そこに居るのは張衛か!」
「魏延だと? 聞かぬ名だな」
「これから知られるようになる。貴様を討ち取ってからな!」
「黙れ、小わっぱ!」
「俺の手柄になれー!」
魏延と張衛が一騎討ちを始めると兵達の混乱を治める者が居なくなった。
そこを霍峻が突いた。
「押せい。今こそ敵を押し返せー!」
「「「おおう!」」」
中央で粘っていた霍峻軍は張衛軍の混乱を突いて押し出す。
これに張衛軍は堪えきれず、一人、また一人と逃げ出し始める。
如何に信仰心の篤い兵達でも命は惜しいのだろう。
今まさに張衛軍は瓦解しようとしていた。
そして、魏延と張衛の一騎討ちも終わりを迎えていた。
「ぐ、これほどとは」
「貰ったー!」
「そこまでじゃ!」
張衛に止めを差そうとした魏延を止めたのは黄忠であった。
「師匠、なぜ止める?」
「軍師からは張衛は捕らえるように言われておる。魏延よ。張衛は殺さず捕らえるのだ」
「分かりました。張衛を捕らえよ!」
「「「はは」」」
「これまでか」
張衛が魏延の兵に捕らえられた事で戦の勝敗は決した。
「敵将張衛はこの魏延が捕らえたりー!」
「張衛を捕らえたぞー!」「張衛捕らえたりー!」
魏延の兵達が張衛を捕らえた事を触れ回ると、張衛軍の兵は武器を手放して降伏する者達が続出した。
そしてそれは定軍山を守っていた楊昂の知る事となり、楊昂は別動隊を率いていた陸遜に降伏した。
一方で陽平関を攻めていた陳到は敵将楊任を切り捨て、陽平関を占拠した。
こうして劉封軍は定軍山と陽平関を占拠し、敵将張衛、楊昂を捕らえた。
また降伏してきた兵は二万を越えており、これを吸収して兵力を増やした。
これで劉封軍の前に南鄭までの道は開けたのである。
※※※※※
定軍山に入った俺は早速皆の働きを褒めた。
「霍峻、見事な働きだった。それに魏延、張衛を捕らえるとは良くやった。陸遜も少数の兵でよく定軍山を落としてくれた。さすがの働きだったぞ。三人には恩賞を取らせる。受け取るがいい」
「は、有り難き幸せ」「あ、は、あ、ありが、し、幸せ」「有り難く頂戴致しまする」
ふ、霍峻は堂々と、魏延は緊張して上手く言えず、陸遜は淡々としている。
「陽平関に居る陳到にも恩賞を与えよう。元直。手配を頼む」
「はは」
でもこんな簡単に定軍山と陽平関が落ちるとは思わなかったな。
いや、簡単とは行かなかったな。
張衛の指揮能力は高かった。危うく霍峻は包囲されて殲滅されるところだった。
その張衛軍の動きを見て援軍を出した徐庶の指示は的確だった。
あれが少しでも遅れていたら、霍峻は全滅。
そしてその勢いのまま張衛が俺達本隊に当たっていたら、俺達も危なかっただろう。
それに別動隊を率いた陸遜も見事だった。
法正の案内を受けた陸遜は無理に定軍山を攻める事はしなかった。
定軍山の砦の周りで火を炊いて煙を起こし、遠目には定軍山が落ちたように見せ掛けた。
あれが有ったから張衛軍の混乱に拍車が掛かったのだ。
その後は張衛軍が瓦解した事を確認して楊昂に降伏を促した。
兵をいたずらに失う事なく定軍山を落としたのだ。
さすがは陸遜と言ったところか。
それに陳到もわずか五千の兵で陽平関を落とすとは思わなかった。
陳到は敵将楊仁が陳到軍の兵の少なさを見て、のこのこと出てきたところを冷静に逃さずに討ち取った。
そして残りの兵達を蹴散らして陽平関を落としたのだ。
やはり陳到は名将だ。
なんでこの人こんなに凄いのに列伝が無いんだろうか?
そして定軍山と陽平関を落とした事でここに蓄えられた兵糧を得られた。
それに降伏してきた兵は二万を越えているが、俺達にそれほど敵意は無かった。
これは徐庶が張衛を捕らえるように言い、それが実行された事が原因だ。
もし、張衛を殺していたら一部の兵は死ぬまで抵抗したかも知れない。
信仰心の篤い者達はそんな人達だ。
赤壁で黄巾の青州兵を見ているから覚えている。
徐庶は黄巾の乱で、黄巾党の信者が戦場でどう戦ったのかを知っているので、敵将を殺す事よりも生かして捕らえる事を優先させたのだ。
陽平関では一部の兵が頑強に抵抗していたが、張衛が捕らえられた事を知って抵抗を止めたそうだ。
皆が皆、信仰心の篤い信者ばかりではないが、一部の者達が戦い続けるとこれに続く者達が現れるかも知れない。
それを防ぐ為にも敵将を捕らえる事で降伏を促し易くなったのだ。
徐庶の深慮遠謀には頭が下がる。
降伏した兵は一部負傷兵を除いて取り込んだ。
反乱を起こす可能性も考えたが、教祖張魯を害さないと約束しているので、その可能性は低いと徐庶に言われた。
さて、残るは南鄭に居る張魯のみ。
俺達は漢中平定に王手を掛けた。
今回、劉封君は何もしてませんでした
誤字、脱字、感想等有りましたらよろしくお願いいたします
応援よろしくお願いします