第五十七話 葭萌での雌伏
建安十六年 春
百日宴が終わり梓潼郡葭萌関に入った俺達は張魯を攻める為に軍の練兵と、葭萌関を拠点として活用する為に内政に取り組む事にした。
また、書類に囲まれる日々に逆戻りである。
交州刺史の真似事をしていた経験がここで生きてくるとは思わなかった。
しかし劉巴、潘濬、蒋琬に囲まれながらの書類書きは何の罰ゲームだと思ったね。
三人から回される書類に判を押したり決済したりとしているのだが、この三人の処理速度の速い事速い事、いつの間にか俺の机に積まれる書と竹簡の数々。
更に俺の間違いを見付ると書き直しが待っているとか、勘弁して欲しい。
たまに徐庶と陸遜が献策してくるのが書類書きから逃れる術。
そして鬼軍曹の練兵に付き合うのが息抜きになっている。
もっとも、鬼軍曹の練兵は息抜きとは言えないのだがしょうがない。
書や竹簡に囲まれるよりは百倍ましだ。
それに劉巴が読むようにと寄越した『韓非子』と言う書物がまた問題だ。
これを読んで勉強しろと彼が言ったので読んでいるのだが、これがまた内容がきついのだ。
これは性悪説を元にした本だと思われて、日本人の感覚には合わないと思う。
なるほどと思わせる物も多いが、人の上に立つ者がどれだけ孤独で在るのかと説いているような物だ。
これって確か孔明が劉禅の教材に使ってるんだよな。
劉禅はこれを読んだから逆に人を信じたいと思ったりしたのかもしれないな。
だってこれ。妻から殺されるかも知れないから注意しろとか書かれてるんだよ!
この項目を見た時はここまで人を疑わないと行けないのかと思ったね。
家臣や外戚に注意しろとかは分かるよ。
でも好きになった女に殺されるとか、そんな事思いたくもないよ!
俺は尚香から殺されたくはない。
側室を迎える時は注意しようと思う。
俺の側室が誰かは決まってるんだよ。劉華だ。
益州に行く前に劉備と甘夫人からはっきり言われたのだ。
益州平定が終われば俺は華を嫁にする。
これは尚香も知っている事だ。
尚香は華を妹と見て可愛がっている。
だから大丈夫だと思いたいのだが、この本を読んだらもしかしたらと思ってしまう。
まあ、そんな事はないよな。
だって俺はまだ、その、あれだし。
ああ、こんな事考えてもしょうがない!
今は張魯討伐に専念しよう。
「曹操が動きました」
机に置かれた書と竹簡の処理をしていた時、徐庶がそう報告した。
「ほう、動いたか」
「狙いは漢中ですかな?」
劉巴と潘濬は即座に反応した。
「曹操は年明け早々に漢中平定を発しましたが、ようやく軍を動かし始めました。この動きに馬超と韓遂が兵を東に向けて動かしています。このまま行けば長安を占領すると思われます」
「我らがここに呼ばれたのは対張魯、そして対曹操の為でしたな」
蒋琬は静かに筆を置くとそう言った。
俺はこの曹操の西征の結果を知っているが、劉巴達がこの曹操の動きにどう考えてどう結論を出すのか興味を持った。
「曹操は漢中まで来るかな?」
「それは有り得ませんな」
「左様。漢中に入る前に馬超と当たりましょう」
「そうなれば、優先すべきは漢中よりむしろ関中でしょうな」
打てば響くとはこの事だろうか。
劉巴、潘濬、蒋琬は即座に答えた。
彼らは曹操の狙いを言い当てた。
やはり優秀な人材だなこの三人は。
そうなると俺達が取る方針は?
「徐庶。曹操が馬超と戦っている間に張魯を倒せるか?」
「今のままでは無理でしょう。練兵が間に合いませぬ」
はぁ、やはりそうだよな。
百日宴の影響なのか。俺達の兵の士気が緩んでいる。それに劉璋から与えられた兵がこれまた練度の低い者達で役に立たないのだ。
鬼軍曹が言うには新兵の集まりだと言っていた。
今の俺達の兵は二万。
劉璋から与えられた兵数が一万、武具は二万人分でこれは奮発してくれたのだろう。
ただ兵糧は少なかった。
潘濬と蒋琬が叩き出した数字では半年と持たないと言われたのだ。
だから不足分を補う為に俺は書類仕事をしている。
民から糧食を出させる為に仕方なくだ。
徴発しては民の反発を買うので、それは避ける。後の統治を考えると民との揉め事は避けないと行けない。
最悪、民に対する事は劉備に丸投げする可能性も考えている。
今の俺達は兵も少なく、兵糧も少ない。
これでは張魯討伐など出来る訳がない。
百日宴の催しを行う余裕が有るのならもっと兵と兵糧を寄越せと言いたい。
これでは動きたくても動けないじゃないか!
もしかして劉璋は劉備を、俺達を疑っているのか?
「劉璋は俺達の目的を知っていると思うか?」
「それはない」「ないでしょうな」「あれが気付くはず有りますまい」
劉巴以下二人が即答した。劉璋ではないとすると。
「では、家臣達が疑っていると言う事かな?」
「そう思われます。法正殿が戻り次第確認致しましょう」
法正は今は成都に居る。
これは張松にうかつに動かずに俺達を信じて待つようにと伝える為だ。
今の段階なら法正を戻しても疑われる事はないだろう。
表向きは法正に劉璋に兵と物資の御礼をと俺が頼んだ形だ。
そして俺達と合流する次いでに張松と会って来てもらう事にした。
史実では張松が劉備を信用しきれずに焦って連絡を取ろうとして兄張粛に見つかって密告されて死んでいる。
張松は優秀な男だ。
法正の後の活躍を知っているので彼が無能な男である筈がない。
それに彼自らが今回の発起人なのだ。
彼には生き残って役に立って貰わないと困る。
それにしてもだ。
「頼む。ああ、せっかくの機会なのになぁ~」
思わず愚痴が溢れた。
曹操が馬超と戦っている間に張魯と一戦出来れば良かったのだが、これは無理そうだなと思った。
「失礼。白水関から今戻ったよ」
「ああ、伯言。お帰り。どうだった」
「そうだね。一言で言えば。使えないな」
「そうか」
陸遜には葭萌関の北に有る白水関に行って貰っていた。
葭萌関で兵を鍛えた後に白水関を通って漢中と梓潼の境目に有る関城に入る予定だ。
その為に陸遜は現地に先のりして貰って周辺の地形や白水関と関城の規模と兵達の様子、それにそこを守っている将を調べて貰ったのだ。
白水関を守っているのは楊懐と高沛の二将だ。
史実ではこの二人は名将とはっきりと書かれている。そして劉備が兵を挙げる時に斬られている。果たしてこの二人は本当に名将だったのか?
そんな疑問を持った俺は陸遜に二人の人となりも調べて貰った。
陸遜の出した結論は。
「二人の劉璋に対する忠義は本物。裏切る可能性は低いな。それと戦上手とは思えない。武芸は並、兵法に精通している訳ではないね。二人が白水関を守れているのは兵が精強だからだ」
「ならば話は簡単。二将を斬り捨て、その兵を奪えばいい」
劉巴は躊躇がないな。
「白水関の規模はここと大差はないな。関城は整備が必要だ。あのままだと使えない」
「ふむ。関城を防衛にと思っておりましたが。白水を対張魯の防衛の要としましょう」
「それと白水の兵は一万数千。武具が豊富で兵糧も数年分は有るようだね」
「おお、それは朗報。白水を抑えれば兵糧の問題は解決ですな」
白水の二将は必要なし。そして白水を抑えて兵と兵糧を奪うか。
「元直。伯言の言を入れて策を考えてくれ。二将を仲間に出来るのなら良し。出来なければ兵と兵糧は確保したい」
「はは、お任せを」
「それと暑くなる前に張魯と一戦したい。法正が戻り次第。関城に向かうぞ!」
「「「はは」」」
年内までに張魯と戦う。
そしてその後に益州取りだ!
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