第五十五話 益州入り
建安十六年 年明け
益州より道案内の使者がやって来た。
法正と孟達の二人であった。
「法正 孝直と申します。劉封様。どうぞよろしくお願い致します」
「孟達 子敬です。以後お見知り置きを」
俺は劉備から二人を紹介された。
益州攻略は当初の予定通り劉備が江陵に残り、俺が益州に入る事になった。
これは劉備自ら益州に入ると劉璋の家臣が動揺し、劉備の益州入りに反対する事になると法正達の報告が有ったからだ。
法正の言によると、彼が益州に戻り劉璋に報告すると劉璋は喜んだが家臣達が難色を示した。
特に王累、黄権が反対したので張松と法正は劉璋を説得するのに手間取ったと言った。
劉璋自身は俺達劉備軍が来るのは構わないと言っているが、家臣達は反対しているのが現状だ。
なぜこんな事が起きているのかと言うと。
それは劉備のこれまでの行動から、劉備が益州を奪い取るのではと劉璋の家臣らは警戒しているのだ。
全く持ってその通りである!
さすがに一州を治める家臣達は鋭い。
劉備の危険性をよく分かっている。
だから劉備自らの益州入りを警戒しているのだ。
史実では益州入りに反対していた王累は劉璋が城を出て劉備を向かえに行く時に、自らを縛り城門から逆さ吊りにして反対した。
それを劉璋が無視した為に王累は自ら縄を切って自殺したのだ。
自殺してまで諌める家臣が居るほど当時は劉備を警戒していたのだ。
では俺が劉備の代理として行けばどうなるのか?
俺は最近になって急に名前が売れてきているが、その内容は劉備のそれとは違う。
『劉孝徳。信義厚く知勇兼備の良将なり。劉備に孝を尽くし、民に慈悲を持って接し、呉の孫権に妹を与えられるほどの信の持ち主』と言われている。
誰だこいつは?
孫呉から帰って来た俺の風評はこんな感じで盛りに盛られた物だ。恥ずかしいにも程がある。
ちなみにこの風評を流した人物が居る。
徐庶と劉巴だ。
あの二人は~
そんな風評を持つ俺が益州入りすれば、劉璋の家臣達もその目的が益州攻略とは思わないだろうとの事で有った。
でもこれって俺が主導で益州攻略をしたら俺の評判が地に落ちるのでは無かろうか?
でも、その辺りは徐庶と劉巴がちゃんと考えているそうなので大丈夫なのだそうだ。
本当だろうな?
実は俺の死亡フラグはまだ立っている。
俺が任務に失敗するとそれイコール死だ。
また劉備の命に背くこともNGだ。
劉備の命に背くことはしないが、任務失敗は責任を取らされるので絶対に失敗出来ない。
それと阿斗が無事に成長しているので、俺を後継者から外す動きが見え隠れしている。
誰が動いているのかはお察しだ。
今の段階ではまだ目立った動きはしていないが、俺が何か失敗すればそこで糾弾されるだろう。
例え俺が孫権の妹尚香を妻にしていても、それはそれ、これはこれである。
逆に孫権と誼を通じて劉備軍を乗っ取る計画が有るのではと思われている可能性だって有るのだ。
実はこれが一番危ないのではないのかと思っている。
それと言うのも呉の有力豪族陸家の陸遜と孫策の娘孫英の存在がそれを証明している。
もし仮に劉備が益州に入り俺が江陵で留守番となった場合。
劉備が劉璋と戦っている間に俺が江陵で独立し、孫呉の軍勢を招き寄せて荊州を制圧する。
なんて事が出来てしまうかも知れないのだ。
それならばと俺と孫呉の距離を離してしまえばいいと考える者達が俺の益州入りを熱望している。
誰がとは言わない。
こんな事なら尚香とは呉で別れてしまえばと思ったが、それはそれで孫呉との関係が悪くなるので俺の立場が悪くなっただろう。
くそ、どっちに転んでも駄目だ!
だから俺の微妙な立ち位置はまだ続いている。
いや、さらに悪くなったのかも知れない。
当初は美人と結婚して孫権との関係強化が出来ておいしいと思っていたが、思わぬ落とし穴が有ったものだ。
と言う訳で俺の益州入りは予定通りとされた。
俺は法正達の案内を受けて益州州都『成都』の北、梓潼郡涪県を目指す。
大将 俺(劉封)
軍師 徐庶 劉巴 陸遜
副将 黄忠 陳到
武将 魏延 馮習 張南 霍峻 傅彤
後方担当 潘濬 蒋琬
これが主な人員だ。
残念な事に関平は人員から外された。
「孝徳。武運を祈っているよ」
「ああ、そっちも大変だろうけど頑張れよ」
「君ほどじゃないよ」
関平は残って武陵の守備を命じられたのだ。
俺は益州、関平は荊州でそれぞれの役目を果たす。
いずれまた再会を果たした時、俺達の立場はどうなっているのだろう。
江陵で劉備達の見送りを受けて俺達は出発した。
兵は一万。
ちょっと少ないのではと思ったが、これ以上の兵は割けないと言われたので我慢するしかない。
徐庶と劉巴は心配ないと太鼓判。
その自信はどこから来るのだろうか?
荊州と益州の境目巫県を通る。
左右を標高三千メートルの山々がそびえ立ち、長江を遡りながら船で移動する。
陸路よりも江路の方が早い。
左右の断崖絶壁が益州と荊州の地を分けている。
荊州の平野から益州の山岳地帯を通るのだ。
その絶景は現代と多少の違いは有るものの、やはり凄いと言わざるを得ない。
日本でこの光景が拝める場所は果たして有るのだろうかと思ってしまう。
「はぁ~、凄いわね。こんな山の中を通るなんて」
「見て見て姉様。あそこ」
「こんなところに住むなんて信じられない」
結局、尚香は付いてきてくれた。孫英と言うオマケ付きで。
尚香と英は船から集落を見ていた。
確かにこの断崖絶壁の谷底と言える土地で暮らすのは想像出来ないだろう。
「この辺りは船の渡しで生計を立てたり、魚を取って永安に運んでいるのです」
俺達が外を眺めていると法正がやって来た。
「ふーん。そうなの」
「ははは。興味御座いませんか?」
「全然。それより益州は何が有るの。教えてよ」
「分かりました。これより通る道のりで取れる物を説明致しましょう。孝徳様もどうですか?」
「あ、ああ。頼むよ」
「畏まりました」
法正の説明を聞く限りだと、益州では鉱物資源が豊富で容易に取れるのと、特産品として絹が作られている。
特に蜀の製鉄技術は進んでいるそうだ。
これは兵の装備では負けているかも知れないな。
それと四川料理に必要な豆板醤はまだないみたいだ。
ちょっと残念だが仕方ない。
豆板醤はこの時代から千五百年以上後に出来る物だ。
俺は作り方を知らないし、何の材料を使っているのか分からない。唐辛子を使っているのかな?
あれってこの辺りで取れるのかな?
しかし、ここ益州でまたしても日本に繋がる食品を見つけた。
味噌の原型を見つけたのだ!
豆腐が作られているのだ。味噌が有ってもおかしくないと思ったが、やはり存在していた。
しかし日本の赤味噌、白味噌とは違い醤と呼ばれる醤油と味噌になり損ねた感じの曖昧な物だった。
だが、これはこれで調味料としては有りだ!
豆腐にこれを付けて食べるとまた旨い。
陸遜と尚香と英は鱠に付けて食べていた。
呉の人間は川魚の鱠に馴れているのかお腹を壊さないようだ。ちょっと羨ましい。
ちなみに俺は怖くて食べれなかった。
またお腹を壊すのではないのかと思って遠慮したのだ。
肉の鱠も有るが俺は必ず火を通して貰った。
生肉なんて怖くて食べれないよ。
しかしこの時代の人は当たり前のように生肉、川魚を鱠にして食べている。
この時代の人は胃腸が現代人とは違うのかも知れない。
旅は一月近く掛かった。
江陵から、巫県、永安、江州、広漢、を通り目的地涪県に着いた。
そこでは益州牧劉璋自らが迎えてくれた。
涪の城門前で待っていた劉璋。
「おお、よくぞ来てくれた。歓迎致すぞ」
「宜しくお願い致します」
「何を他人行儀な我らは同族ではないか。ささ、城に参ろうぞ」
そう言うと劉璋は俺の手を引いて馬車に乗せてくれた。
この少しふっくらとした気の良さそうな人を俺は騙すのかと思うと胸が痛んだ。
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