第四話 槍の稽古
あれから数日が過ぎた。
その間俺は何度も自分の名前は『柳保』だと言ったが、相手には『劉封』として認識された。
関平に真顔で大丈夫かと言われて諦めた。
どうやら俺はこの世界で『劉封』として生きなければならないようだ。
奇妙な事に俺には『寇封』としての記憶がある。
だから俺が劉封として生きて行くのに支障がない。
そして記憶が確かなら今居る場所は荊州新野と言う事になる。
しかし、劉封か。
劉封の最後は死刑だ。
正史の著者『陳寿』に言わせると自業自得だと酷評されている。
確かに劉封はうかつだったと俺も思う。
だけど、劉封を殺したのは早計だろう。
あの時期の蜀で劉封ほどの戦場経験者を殺すのは勿体無い。
それに劉封は劉備の養子だ。
劉備が漢中王になった時に後継者から外されたが、それでも劉封は劉備の養子で有り続けた。
そしてそれは劉封を最後まで蜀に劉備に仕えさせる動機にもなった筈だ。
劉封は劉備を裏切らなかった。
その一点だけでも当時を考えると素晴らしいと思う。
でもそれは考慮に入れられる事はなかった。
せめて死刑ではなくて庶民に落とす等して、劉備が皇帝に成ったら恩赦を与えて復帰させる等の手が打てたと思う。
しかしそれはあり得ない。
このまま歴史通りに物事が進めば、俺は死ぬ。
もしかしたら死んだその瞬間目が覚めて成都の武候祠に戻れるかもしれない。
でもそんなリスキーなことはしたくない。
だって、物凄く痛い筈だ。今の俺が食らった痛さの何倍も辛いに違いない。
「ぐはっ! げほ、げほ」
い、息が……
「大丈夫かい。劉封」
関平が俺の背中を擦っている。
「なんで、なんでい。このくらい避ける事も出来ねいのかい。だらしねいなぁ~。これじゃ稽古のつけようもねいやなぁ~」
張飛が稽古用の槍を肩に担いで俺を見下ろしている。
「益徳殿。大人げないですぞ。本気で相手するにはまだ早すぎます。これでは怪我をするだけです!」
「うっ。そう言うがよ。子龍」
「このまま続けるつもりなら、御主君に言いますよ」
「そ、それは勘弁してくれぃ」
趙雲に責められた張飛が彼に謝っている。
趙雲に謝るなら俺に謝れよ!
事の起こりは俺と関平が一緒に趙雲から槍の手解きを受けていた時だった。
起きた次の日には趙雲から槍の稽古を受ける事になった。
趙雲は劉備軍の中で一番の槍の名手。
そんな贅沢な槍の稽古を受けていたのだ。
趙雲は基本の型を見せて、それを俺達にやらせた。
趙雲から習ったのは基本だけだが、これがまた難しい。
いや、難しい訳ではないのだ。
単純だが奥が深いと言うべきなのだろう。
槍を的に向かって一心不乱に点く。
もやもやとした思いを忘れるくらいに無心で稽古に打ち込む。
そしてそんな俺を趙雲は褒めてくれた。
「劉封殿は筋が良いですな。私も教えがいが有りますよ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ、これなら戦場に出てもおいそれと遅れは取らないでしょう」
あの趙雲に褒められたのだ。
少しだけ、いや、かなり嬉しかった。
寇封の記憶では既に初陣は済ましている。
その初陣の記憶では何人もの曹操軍の兵士を殺して、隊長格の兵士も討ち取っている。
それを劉備に認められて寇封は劉備の養子に迎えられたのだ。
しかし、俺は現代人だ。
人を殺す事に抵抗がある。
だが今はそれを考える余裕はない。
少なくとも自分の身は自分で守れるようにならないと行けない。
そんなふうに稽古をしていたところにふらっと張飛が現れた。
そして張飛は言う『俺が稽古相手になってやるよ』と。
俺は知っている。
この数日槍の稽古をしてきたが、その時視界の隅に張飛がチラチラと見えていた。
こっちをじっと見ており、声を掛けろと言っているのが丸分かりな態度だ。
そしてそれは趙雲と関平も気付いていた。
しかし俺達は張飛を無視して稽古をつづけたのだ。
そしてとうとう我慢の限界に達したのだろう。張飛が直接俺に声を掛けたのだ。
趙雲が張飛に注意したが、彼がそんな事を聞くはずがない。
趙雲はため息混じりに少しだけと言って許可した。
いやいや待ってくれ!?
張飛の相手をするのは俺なんだぞ!
あの燕人張飛ですよ!
曹操達が直接相手するのを躊躇ったあの張飛ですよ?
嬉しそうに構える張飛を見て俺は諦めた。
ならば背一杯抵抗させて貰おう!
ただ殺られるだけで終われるものか!
俺は気合いを入れて張飛に向かっていった。
そして今、無様な姿を晒している。
俺はこれでも武道の嗜みがある。
剣道二段の腕前に柔術もかじっている。
張飛と対峙した時は相手が本気ではないのが分かっていたから、おもいっきり向かっていったが気付いたら胸元に槍を当てられていた。
全然本気じゃないのにこの差だ。
これが戦場なら俺は死んでいる。
ゾッとすると同時に悔しさが込み上げてくる。
趙雲からは筋が良いと褒められて、俺もこの世界で何とか生き残れるんじゃないのかと思った矢先にこれである。
相手が悪かったと言えばそこまでだが、本気を出していない相手に一撃でのされたのだ。
この先やっていけるのかとの不安と悔しさで心の中は乱れていた。
「大丈夫か。劉封。それにしても劉封は凄いな。あの益徳殿が本気を出すなんて信じられないよ?」
え、そうなの?
「だから、ちょっと手元が狂ったんだよ」
「手元が狂って急所を狙うんですか?」
「いや、その。なかなか鋭い突きだったから、その、ちょっとな」
張飛と趙雲の会話から俺は張飛に少しだけ本気を出させたらしい。
俺は関平を見ると彼は無言で頷く。
そうか。俺も少しは自分に自信を持っても良いのかもしれないな。
「と言う訳で今日の夕飯は張飛殿の奢りです。良いですかな?」
「お、おう。俺様が奢ってやるよ」
趙雲と張飛で話し合いが終わったようだ。
何処かで飯を奢る話になったようだ。
「ほう。益徳が飯を奢るのか? なら私も一緒に行こうか」
「えっ、兄貴いつの間に?」
「ほうほう。そうか、そうか。兄者が行くなら私も一緒だな。そうだろう。益徳」
「げっ。関兄まで!」
「げっ、とはなんだ!げっ、とは!」
「く、苦しい。は、放してくれ。関兄」
関羽が張飛の胸ぐらを掴んで持ち上げている。
すげえな関羽。
あの筋肉ダルマの張飛を軽々と持ち上げてやがる。
「大丈夫か。劉封。それにしても腕を上げたな。嬉しいぞ」
劉備が俺に近寄って肩に手を掛ける。
「み、見てたんですか?」
「勿論だ。息子の成長を見守るは親の努めだ」
俺は劉備の言葉がグッと胸に来た。
「げほ、げほ。全く手加減してくれよな。うん? おい、どうした。劉封。まだ痛むのか?」
え?
「全く。あの程度の事で涙を流すとは軟弱な」
涙?
「ふふ。少し強く打ったみたいですね。益徳殿」
「そうなのか。益徳?」
「うぇ! いや、そんな強くは……」
「全く。これだからお前に相手させるのは嫌だったのだ。明日からは手を出すなよ。益徳」
張飛の周りに劉備達が集まって彼を責めている。
ふふ、少しだけ気分が良くなった。
それにしても俺は泣いていたのか?
みっともないところを見られたもんだ。
「ほら。劉封。行こう」
関平が手を差しのべてくれる。
「ああ」
俺は関平の手を取って立ち上がる。
そして劉備達のところに行こうとして周りが騒がしくなっているのに気付いた。
なんだ。何か有ったのか?
俺が不審に思っていると、あの男がやって来た。
あの男『孔明』が……
「失礼致します。劉備様。手の者の報告が有りました。曹操が動いたようです」
「曹操が?」
「はい。およそ二万の軍勢がこちらに向かっているそうです」
俺がゆっくりとこの世界に馴染む暇はないようだ。
早くも最初の試練がそこまで来ていた。
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