第三十三話 老黄忠
劉備による南荊州攻略が始まった。
劉備自ら率いる三万が武陵に向けて出発。
俺率いる別動隊が途中まで劉備本隊と一緒に行動し、途中で別れる。
向かう先は生まれ故郷の長沙。
しかし俺が率いる兵はたったの二千。
これだけで南荊州四郡の最大都市を落とせとは無茶を言う。
現在の長沙の太守は韓玄。
本来の歴史通りでちょっと安心した。
そして彼の下には韓玄よりももっと有名な人物が長沙の兵を率いている。
その名は『黄忠 漢升』
世に有名な『老いて益々盛んな人 老黄忠』だ。
そして俺の武術の師匠でもある。
俺(劉封)がまだ長沙に居る頃に彼はやって来た。
守備隊長として兵の練兵に忙しい中、わざわざ劉家の屋敷に来て俺に武術を教えてくれたのだが、実際は体が大きくなって来て元気の余っていた俺(劉封)に手を焼いていた両親が黄忠に頼んだのだ。
黄忠の武術の鍛練はそれはもう厳しい物だった。
文聘の鍛練が優しすぎると感じるほどで、はっきり言って彼は鬼軍曹だった。
しかし彼は早くに子供と奥さんを亡くしていたので弟子である俺を本当の子供のように思っていた節がある。
時折見せる優しさがとても暖かかったからだ。
でもそれは単なる気まぐれだったかも知れない。
だって優しくしてくれた翌日は『修行じゃ!』と言って更に鍛練の量を増やされた。
やっぱり彼は鬼軍曹だ!
そして俺(劉封)が家を飛び出す原因も彼に有った。
あまりに苛烈な鍛練に耐えかねた俺は劉備が戦をするとの噂を聞きつけ、彼の募兵に応じたのだ。
黄忠は最後まで反対していたが俺は両親を説得すると、劉備の下に向かい無事初陣で武功を得た。
そしてその活躍を認められて俺は劉備の養子に迎えられたのだ。
ぶるぶるぶる。うわっ、思い出したら寒気がしてきた。
それほど俺(劉封)は黄忠が苦手なのだ。
彼に再会したら俺はなんと言われるだろう?
久しぶりの故郷なのに全然帰りたくない。
それに両親と会うのも怖い。
俺は柳保であって劉封ではないのだ。
両親と会ったらきっとボロを出してしまうに違いない。
はぁ、憂鬱だ。
「どうしました。元気が有りませんな、孝徳殿?」
「ああ、いや。ちょっと昔を思い出したもんで」
「黄忠殿の事ですか? 彼は有名ですからな。孝徳殿の師に当たる人物と聞いてますが」
ぶるぶるぶる。駄目だその名前を聞くと震えがくる。
「本当に大丈夫ですか? 確かにまだ寒くはありますが、もしかして病ですか?」
「いや、これは、そんなんじゃないんだ。本当、大丈夫。病じゃないから」
陳到や徐庶と一緒じゃなかったら逃げだしていたかも知れない。
それほど黄忠と会うのが怖い。
今にも彼の怒鳴り声が聞こえてきそうだ。
『こりゃ~!何をもたもたしておるか!!さっさとやってこんかー!』
はは、幻聴まで聞こえてきた。これは重症だな。
「何をやっとるかー!さっさとやってこんか!この馬鹿弟子がー!」
はっ!違う。この声は本物か?
俺は俯いていた顔を上げて声の主を探す。
「ここじゃ、ここじゃ。わしはここに居るぞ!」
「あそこです。孝徳殿」
徐庶が先に気づいて指差す。
そこには鎧兜を着て仁王立ちしている白髭の男が立っていた。
「し、ししょう?」
「こりゃ~!何をもたもたと。さっさとやって来てわしと殺り合わんのか!」
うわー!?
「ちょっ、孝徳殿。どこに行かれるのです!」
俺は回れ右をすると馬で逃げた。
「待たんか。この馬鹿弟子がー!」
いーやー!こっちくんなー!
俺は振り向く事なく逃げ出した。
黄忠の声が聞こえて来なくなるまで突っ走った。
怖い、怖い、怖い。無理、無理、無理。
絶対無理だー!
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。よし、追ってこないな。ふぅ」
「……孝徳殿」
徐庶と陳到が呆れた顔で俺を見ていた。
いやだって、無理だって、俺が逃げたしたんだじゃないよ。
劉封が逃げ出したんだよ。
俺じゃない。俺じゃないよ。多分。
「それほど黄忠殿が苦手なのですか?」
俺は無言で頷いた。
すると後方の兵が矢を持ってきた。
あ、あれは、黄忠の矢だ!
ひえー!
「ちょっ、また。陳到殿」
「お任せを」
「ちょっ、陳到。離せ、あれが来る。逃げないと殺される。離せ、離せー!」
俺は陳到に羽交い締めにされて手足をバタバタさせている。
もう恥も外聞もない。
とにかく逃げたい。この場に居たくない。
兵から矢を受け取った徐庶は矢に括り付けられた竹簡を見て読む。
「えー、何々」
『無事な姿に安心した。いつもの場所にて待つ』
「と、ありますな。いつもの場所とは何処ですか?」
いつもの場所? はっ!? あそこか!
「俺が殺されそうになった兵の練兵場だ。街の外だから少数なら近づけると思う」
「そうですか。では向かいましょう」
徐庶は笑顔で俺に処刑宣告をした。
「無理、無理、無理。殺される。絶対殺されるー!」
「わざわざ矢文を寄越してまで会いたいと言っているのですぞ。殺される筈は有りません。さあ、行きますよ!」
俺は徐庶と陳到に無理矢理連れていかれた。
兵が笑っていたが『お前達はあの爺を知らないからそんな笑ってられるんだ!』と言ってやったがやっぱり笑っている。
ふっ、お前達が笑ってられるのも今のうちだ。
もうすぐ地獄を見るぞ。
練兵場ではさっきと同じ姿の男『黄忠』が仁王立ちしていた。
彼の側には兵は居らず、俺達も徐庶と陳到、それに護衛の兵が十人しか居ない。
これでは万が一黄忠が俺に挑み掛かってきたら、俺は殺される。
この中で黄忠の実力を知っている俺にしか分からない事だ。
徐庶と陳到から背を押され、俺は黄忠の前に立つ。
しかし、足は恐怖で震えていた。
初めて会うのに初めてじゃない。
体が黄忠の恐怖を覚えているのだ。
曹操と会った時と同じかそれ以上の恐怖だ。
「お、お、お久しぶり、です。こ、黄忠殿」
声も震えている。
あまりの恐怖に気が遠くなりそうだ。
俺が挨拶をしても黄忠は黙っている。
黙って俺をじろじろと見ている。
怖い、この無言の圧力が本当に怖い!
「よく生きて帰った。若!」
そう言うと黄忠は一気に俺に近づいて俺を抱き締めた。
「この黄漢升。若が戻られるまで生きた心地がしませんでしたぞ!噂では曹操やら孫呉の輩やら、それに文聘と殺り合ったと知って本当に心配したのですぞ。父君も母君も大層心配しておりました。本当によくぞ無事で。う、うぅぅ」
「し、心配掛けました」
俺は黄忠の背中をポンポンと叩いて抱き締めた。
ほっ、良かった。単に心配して城から飛び出しただけか。
なんだそうだったのか。
俺が早とちりしただけか。
そうか、そうか、良かった、良かった。
「では、遅くなった訳を聞きましょうか。鍛練は日々怠っておりませんでしょうな?この漢升が確かめさせて貰いますぞ」
いーやー! やっぱり帰る!
久々に会った鬼軍曹はやっぱり鬼軍曹だった。
俺は練兵場に大の字になって寝転んでいた。
そしてそれは俺だけではない。
俺に付いてきていた全員が黄忠の練兵に付き合わされたのだ。
あの陳到が肩で息をしているのに対して黄忠は涼しい顔をして立っている。
「うむ。見事な腕前。若の副将として立派に務めを果たされよ」
「ご教授、かたじけない」
そう言うと陳到は倒れた。
「しかし他の者は練兵が足りんのう。これでは若を任せられん。これからはわしがみっちりしごいてくれよう。はっはっは」
こ、この化け物め。
「少し宜しいですかな。漢升殿」
「うむ。何かな元直殿?」
あ、一人だけ被害に有ってなかった奴が居た!
自分は文官だからと言って早々に逃げやがった卑怯者。
さすが軍師は先を見てるぜ。
「漢升殿は長沙の守備を任されておられる方。ならば我らがここに来ている目的も分かっておられる筈です。孝徳殿に会いに来たのが目的では有りますまい。何か他の目的が有るのでは有りませんか?」
「ふむ。まあ若の根性を叩き直すのも目的の一つでは有るが……」
やっぱり俺が出ていったのを恨んでやがったか!
「長沙の太守韓玄殿は曹操に降伏してここの統治を任されましたがな。その曹操の援軍はもう見込めませぬ。故に劉備殿が降伏せよと言われるのでは有れば、喜んでその傘下に加わりましょう。しかし、問題が一つござってな」
そうだろうな。
俺達が江陵を抑えた事で曹操の援軍が来る事はない。
曹操の主力はとっくに帰ってしまったからな。
無駄な血を流す必要はない。
「問題と言われますと?」
「実は曹操に降伏した際にわしとは別に守備を任された者がここを離れたのです。その者はこの近辺で賊に成りましてな。この辺りを荒らしておって手が付けられんのです」
「ほぅ、それはお困りですな。して賊の規模と名前は?」
あ、いやな予感。
「賊はこの長沙の守備をしていた者が多く加わっておりましてな。その数二万」
に、二万!?
「賊の名は『劉磐』と申します」
りゅ、劉磐!?
劉表の一族じゃないか!
これはまた厄介な事になったぞ。
すみません。師匠と弟子と言ったらあの二人が頭に浮かびまして、本当は違ったやり取りの予定だったんですけどね。
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