第二十六話 十万本の矢
こんな事は正史には書いてないよ!
矢を集めるイベントなんて演義とかの作り話でしかなかった筈だ。
それにこの話は演義で周瑜が孔明を困らせる為の物なのに、実際に自分の身に降り掛かるとは思っても見なかった。
船での戦いで弓矢はとても重要な物だ。
実際に孫呉の矢の備蓄を調べると確かに不足している。
それと言うのも周瑜はこの赤壁に陣を敷いて以来、ほぼ毎日のように船を出して曹操軍を牽制しているからだ。
そしてその時に牽制の為に矢を射るのだが、相手は最低でも二十万以上の兵と数百の船を出してくるのに対して、こっちはせいぜい四万の兵と百余の船しかない。
局地的な戦いではあっちは百艘余り出してくるのにこっちは二十も出せば良いほうだ。
それでも緒戦の戦いで勝利して以来、孫呉は勝ちっ放しだ。
でもやはり数の暴力の前には敵わない。
いくら操船技術で勝っても、船戦に慣れていても消耗と回復に差が有りすぎる。
それに曹操軍は烏林の陣を固く守って出て来ないのだ。
そして孫呉の船が近づくと大量の矢が降り注がれるそうだ。
周瑜が曹操軍を封じ込めているのか?
それとも曹操軍が孫呉に消耗戦を強いているのか?
これはどちらとも言えるだろう。
俺はこの後の結末を知っているので現段階ではどちらが有利とは言えないと思っている。
曹操軍はこの後疫病が発生して大量の死者を出して戦うどころの話ではなくなってくる。
一方で周瑜も長期戦に持ち込む事で曹操軍に疫病が起こる事を予想している。
時が経てば孫呉に有利に働くのだ。
だが今の時点では曹操軍はまだまだ元気だ。
こちらから動いて曹操軍に自由な動きをさせないのが肝心だ。
その為の牽制なのだ。
だから軍事物資の消耗も激しい。
矢の消耗も激しいが船の損傷も激しい。
このままではいずれこちらの矢が尽き、動かせる船も少なくなると向こうが元気な状態なら孫呉は負ける。
実はこの戦い孫呉が有利なだけではないのだ。
曹操軍にも勝つ可能性が十分に有る。
油断するとやられる。
周瑜が焦るのも無理はない。
そして矢の補充方法なのだが……
第一に現場で造る。
これはここ赤壁で鉄が取れるので出来ない事はない。
しかし、職人の数が足りない。
柴桑から連れてくる事も出来るがそれでも足りない。
第二に敵から奪う。
これは長江を上って江陵を襲う事だ。
しかしこれは無理だ。
江陵には留守の兵を置いているだろうし、そもそも江陵を襲う兵がいない。
第三にこれは一番やりたくない方法だ。
ふぅ、あれだよ。演義の孔明の策だよ。
あれは正直やりたくない。
実際にあれをやって成功するのかと問いたい。
でもね。ご本人様は望んでいるようだ。
周瑜と別れて宛がわれた天幕で孔明が俺達に説明している。
「明朝。日が上る前に船を出し、烏林の陣に近づくのです」
自信満々の孔明に俺は最後まで話させなかった。
だって内容は分かっているからな。
「それは危険ですよ孔明殿。もしかしてと思いますが、孔明殿の言う矢の調達方法はまさか?」
分かっているが問わずには要られない。
「そのまさかですよ? さすが孝徳殿。私の考えをお見通しとは!」
孔明は羽扇で口元を隠して目は笑っている。
イタズラを見付けられたような、そんな目をしている。
そして俺達の短いやり取りで魯粛と陸遜も察した。
「朝から敵陣に向かう? あ、なるほど!」
陸遜は理解したのかポンっと手を叩く。
「いやはや大胆な策を思い付かれるもんだ。これは劉封殿の言われる通り危険ですな。しかし、成功すればこれほど効果的な調達方法は御座いますまい」
魯粛はやれやれと両手を広げて呆れたとポーズを取っている。
さすがは孫呉の誇る歴代司令官だ。
演義では魯粛は孔明に言われるまま用意して最後まで矢の調達方法に気付かなかったが、ここでは簡単に分かったようだ。
まあ、演義では魯粛は可哀想な役回りをさせられているが、本来はもっと凄いのだ。
それに陸遜も直ぐに気付いた。
知恵者は時として同じ事を考えるものだと思ったね。
俺はカンニングしてるけどね。
でも知ってるからこそ俺は孔明にこの策の危険性を聞いてみた。
「もし、もしですよ。相手が火矢を用いてくる可能性も有るじゃないんですか?」
それを聞いた孔明がキョトンとした顔になる。
そして直ぐに何を言っているのかと馬鹿にした顔になった。
「はぁ、火矢を用いる? 本当にそんな事を思っているのですか?」
あ、あれ? なんか聞いちゃ行けない事だったか?
「孝徳。火矢を用いるには準備が要るんだ。私達がいつ攻めてくるのか分からないうえに、濃い霧の中では火種を作るのにも苦労する。だから火矢を警戒する必要はないんだ」
な、なるほど。これは勉強になった。
俺は陸遜の説明で納得した。
でもこれは危険な仕事だ。
下手をしたら死んでしまう可能性もある。
だが、この孔明の馬鹿げた案に魯粛と陸遜は飛び付いた。
乗り気で黙々と準備する陸遜に孔明と魯粛は談笑している。
俺はそれを黙って見ているしかなかった。
いや、俺は動いた。もしもの事を考えて対策を打つ事にした。
明朝。朝靄の中を十隻の船が孫呉の陣を出る。
その船団を統率するのは陸遜。
俺と孔明と魯粛は邪魔に成らないように船の中に引っ込んでいる。
俺達の乗っている船は斥候と呼ばれる船で偵察や船団の指揮をするための船だ。
そして斥候に備え付けられた高い櫓の上で陸遜は船団を指揮している。
俺はこれからの事を思うと心臓がバクバクと高鳴っているのを感じていた。
そんな緊張している俺とは違って孔明と魯粛はリラックスしている。
まるで危険など無いかのように。
外を見ると霧が立ち込めていて全く前が見えない。
こんな視界ゼロの世界なのに船は何事もなく進んでいる。
本当に大丈夫なのかよ?
「見えました。曹軍の船です!」
見張りの声に俺は外を見てみるが、やはり何も見えない。
「銅鑼を鳴らせ!」
陸遜の指示で銅鑼が鳴らされる。
するとしばらくしてひゅんひゅんと音がしたかと思ったらドスドスと何かが刺さる音がした。
俺は急いで中に入る。
あ、危なかった。
俺がさっきまで居た場所に矢が突き刺さっていたのだ。
「おお、さすがは荊州兵。この霧の中でも当てて来ますな」
「全くです。これなら問題ないでしょう」
本当、余裕だなこの二人!
俺は早く帰りたいよ!
「ほ、本当に大丈夫なんですか? 敵がこちらに殺到するのではないのですか?」
俺は不安を孔明にぶちまける。
臆病者と呼ばれても構わない。
俺は怖いんだよ!
「この霧です。相手も迂闊には近づいては来ません。それに連日の周瑜殿の攻撃で手痛い被害を受けているのです。ここは離れて矢を放つしか手はないでしょう」
「孔明殿の言われる通りです。我らの相手はこれまで何度も戦ってきた荊州劉表の兵です。彼らの戦術は熟知しております。しかし陸遜殿はやりますな。さすがは陸家の者ですな」
孔明と魯粛は相手を熟知していたようだ。
「で、でも。この霧もいつまで持つか分かりませんよ?」
「大丈夫です。霧が晴れる前に帰りますよ。孝徳殿は心配性ですね。ははは」
心配性でも何でもいいよ。早く帰ろうよ!
一刻あまりこの周りを前進したり後退したりした後に反転して陣に戻った。
赤壁の周の旗を見た時は本当に安心した。
曹軍が追ってこないかとドキドキしていたのだ。
陣に着いて船の外に出た時にギョッとした。
「す、すごい」
呆れて物も言えない。
船の全面に木盾を用意していたがその盾を破壊して船体に無数の矢が突き刺さっていた。
「ふむ。少々近づき過ぎましたね」
「申し訳ありません。少し調子に乗ってしまいました。次はもっと上手くやりますよ」
陸遜さん。もっと慎重にやろうよ。
心臓に悪すぎる!
いや待て!次って何だよ、次って!
俺達の船に付いてきていた他の船も前面が針ネズミ状態だった。
これで矢の確保は上手く行った。
死ぬほど怖かったけどね!
「これを後数日行いましょう。それでしばらくは持つ筈です。それからは柴桑からの補充で足りるでしょう」
「ま、まだやるんですか!」
「これだけでは足りませんからな。使えない矢も有りますゆえ」
魯粛は船に刺さった矢を回収するよう命を出していた。
勘弁してくれよ!
「では、明日の準備をしておきます」
陸遜は笑顔で走っていった。
俺は精神的に疲れたので天幕で休んだ。
もう矢だよ、こんなの!
そしてこの日から霧が出た日を選んで俺達は出撃した。
俺は抗議するのを諦めて船に乗った。
陸遜だけに任せる訳にも行かず、それに孔明と魯粛も船に乗り込むので一人留守番する訳にも行かず、日々俺のストレスは溜まっていった。
そしてこれで最後の出撃の日にそれは起こった。
いつものように銅鑼を鳴らして派手に居場所を教えて接近する俺達の船。
いつものように矢の雨が降ってきて、いつものように去ろうとしたその時。
「そ、曹軍の船が接近してきます!」
櫓の見張りからその声を聞いた時背筋が寒くなった。
「振り切れ!」
陸遜の慌てた声が聞こえる。
しかし大量の矢を受けて船は重くなっている。
この船本来の速度が出せない。
それに船には必要最低限の人数しか乗っていない。
このまま追い付かれたら俺達の命は……
「これは、まずいですね」
孔明、何を落ち着いてるんだよ!
迫り来る曹軍の船。
いつの間にか霧は晴れていた。
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