第百一話 春風 五丈原
魏軍撤退する!
この報を受けた蜀軍は魏軍追撃に動いた。
「追撃は迅速に行います。張飛殿を先頭に敵を追い込み、これを撃滅して下さい」
孔明の命を受けて、張飛が真っ先に軍を動かす。
「趙雲殿は張飛殿の補佐を、張飛殿が討ち漏らした敵を逃さないように」
趙雲は張飛の次の役目を与えられた。
「黄権殿はゆるりと二人の後を追って頂きたい。敵の逆撃に注意するように」
張飛、趙雲の二人が深追いし、魏軍がその隙間を突いてくる可能性を考慮して黄権を配置する。
孔明の指示は的確であった。
「孔明。私も追撃に加わりたいのだが?」
そして、劉備は自分もと孔明に問い掛ける。
「それは成りません。我が君が危険を犯す必要は有りません。ここは各々の将軍達に任せて、吉報をお待ち下さい」
「しかしだな」
尚も食い下がる劉備に孔明は苦笑する。
「仕方有りませんな。ですが、前に出過ぎないようにして頂きますよ。よろしいですな?」
「うむ。分かった」
劉備は満足そうに頷くと軍を動かすように指示を出す。
「では我が君。私は後方にて指示を出しまする。後は存分になさいませ」
「ああ、ありがとう孔明」
「但し、黄権殿の軍より決して前に出ては成りませんよ。良いですな!」
「分かった。分かった。決して無理はせん。大丈夫だ」
孔明はそれを聞いて満足そうに頷き、天幕を後にした。
「曹操。今度こそは」
劉備は曹操との決着に胸を熱くした。
そして天幕を出た孔明は……
「孔明様」
「楊儀。首尾は?」
「万事整っております」
「そうですか。ふふふ」
孔明は不適な笑みを浮かべる。
その目は何を見つめているのか?
※※※※※※
「申し上げます。敵の先陣に張の旗が見えます。おそらく張飛と思われます」
撤退する魏軍は追ってくる蜀軍に十分な警戒をしていた。
「やはり張飛でしたな。公?」
「当然だな。私が劉備なら同じようにしただろう」
曹操と賈詡は余裕だった。
「お前の罠を張飛は食い破るかな?」
「例え張飛と言えども」
「そうか。ふははは」
曹操の笑い声が辺りに木霊する。
※※※※※※
この魏軍の撤退は曹操の仕掛けた罠であった。
兵糧の少なかった魏軍は戦局を動かす為にわざと撤退して見せたのだ。
魏軍の泣き所は兵糧に有る。
大軍を維持するには大量の物資が必要で、その輸送も大変な物である。
兵糧に関しては長安に戻れば何の問題も無かったが、ここ五丈原に輸送する事が難題で有った。
牛車が不足していたのだ。
冬の間は何の問題も無かったが、春になって牛車に使用していた牛を農耕に使わなければならなくなったからだ。
もし、農耕に牛を使わなければ大軍を維持する為の兵糧が確保出来なくなる。
しかし、大量の物資を戦場に運ぶ為には牛車が必要だ。
二十万もの兵を動員した魏軍は長期間の戦線を維持出来なかった。
兵数を多く集めるのは当たり前の事。
しかし、その兵数を維持するのが難しい。
特に地形の険しい戦場ではだ。
一方で蜀軍はどうか?
蜀軍は劉封の考案した背負子と木牛を使う事で、大量とは行かないが定期的な物資の輸送が可能となった。
漢中、下弁を経由しての補給では有るが、魏軍に比べたら蜀軍にはまだまだ余裕があった。
兵糧に余裕の有る蜀軍は持久策を取る事で、魏軍を撤退に追い込む事が出来た。
……筈で有った。
「おうおう。またお前か、徐晃?」
「ここは通さんぞ、張飛!」
曹操本隊を追っていた張飛の前に徐晃が立ちはだかる。
だが、徐晃は数合打ち合うと直ぐに撤退した。
「おい、待てこら!」
「待てと言われて待つ者など居らん」
徐晃は挑発を繰り返して張飛を奥に奥にと引き込む。
「ち、囲まれたか」
張飛が気づいた時には既に遅かった。
張飛の周囲を魏兵が囲んでいた。
張飛は以前夏候淵を追い込んだ状況に自身が陥ってしまったのだ。
張飛は単純な挑発に乗せられやすかったようだ。
張飛を所定の場所に誘い込んだ徐晃は再び張飛に向かっていく。
「張飛。ここがお前の墓場よ!」
「はっ、それはお前だ!」
張飛が罠に掛かっていた頃、趙雲もまた賈詡の敷いた罠に嵌まっていた。
「これは?」
「ふははは。深追いし過ぎたのよ。お前らはな!」
趙雲は深追いする張飛を追って兵を進めたが、曹洪に邪魔されていた。
曹洪は趙雲相手に無理はせずに副将の曹休と代わる代わる相手する。
そして趙雲もまた、張飛と同じようにズルズルと敵陣深くまで誘き寄せられてしまっていた。
「これは不味いですね」
「ふふん。観念しろ趙雲!」
趙雲に襲い掛かる曹洪と曹休。
しかし、趙雲に焦りの色は無かった。
「直ぐに終わらせて益徳殿を助けなければ」
「こ、こいつ。俺を無視するか!」
「叔父上、冷静に!」
趙雲は曹洪、曹休を全く相手せずに包囲を食い破った。
「おのれ~ 趙雲~」
「叔父上。お待ち下さい!」
今度は曹洪、曹休が趙雲を追う事になる。
そして残された魏軍は趙雲の副将に付けられた厳願が蹂躙する。
「それ、それ、追いたていー!」
「曹将軍ー!」
一方で黄権もまた魏軍の伏兵に会っていた。
「ううむ。これは嵌められたか?」
黄権達蜀軍の左側面から曹真が、右側面から杜襲が襲い掛かって来た。
「敵は罠に落ちたぞ。ここで叩けい!」
「これ以上先に行かせるでないぞ!皆の者付いてこい!」
魏軍に両側から襲われた黄権であったが、慌てる事なく対処する。
「円陣を組めいー!」
黄権の号令に蜀兵は即座に反応する。
瞬く間に円陣が組まれ、魏軍の攻撃を跳ね返す。
「ぬお!」「これほど早く立て直すとは!」
曹真、杜襲が驚く中、黄権は冷静に軍を動かす。
「後続の馬謖に伝えよ。援軍は不要。急ぎ戻り我が君を御守りせよとな。急げ!」
「はは」
黄権は自分よりも自分の後ろに居る劉備の身を案じ、副将の馬謖に劉備の下に行くように指示する。
しかしそれは遅すぎる指示で有った。
曹操は撤退する時、わざと本隊を晒して撤退した。
自身を囮として活用し、蜀軍を味方陣地深くまで引き込んだのだ。
先頭の張飛には徐晃を当てて陣地深く追撃させて包囲し、趙雲はその責任感の強さを利用して曹洪達を当て馬とした。
曹操も曹洪達で趙雲が討てるとは思っていない。
せいぜい足止めが出来ればそれで良いと考えていた。
そして張飛、趙雲を追ってきた黄権には隠れ潜んでいた曹真、杜襲が襲い掛かる。
これもまた足止めに過ぎない。
曹操の真の狙いは……
「ま、まさか」
「そこに居るのは耳長だな!」
「か、夏候淵!?」
曹操の狙いは自分を追って必ず出て来る劉備で有った!
そして、劉備を完全に仕留める為の矢は絶対の信頼を寄せる夏候淵に任せたのだ。
夏候淵にしてみれば劉備は曹操の覇業を邪魔する者であり、また自身も天水郡で敗北させられた相手。
夏候淵は真っ直ぐ劉備の下に向かった。
突然な夏候淵の襲来で混乱する劉備本隊。
劉備にしてみれば撤退する敵を追撃する楽な展開である。
しかも追撃するのは張飛と趙雲。
それに自身の前方には黄権が居る。
その為に本隊は楽勝ムードが漂い、完全に気が緩んでいた。
夏候淵の襲来で混乱した本隊を治める為に劉備は指示する事に注意を向けていたので、夏候淵自身の接近を間近まで許してしまっていた。
「死ねい、劉備!」
夏候淵の刃が劉備に迫る!
危うし劉備!
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