第九十九話 五丈原の戦い 前編
劉備と曹操の会見が終わった翌日から魏軍の攻撃が始まった。
「申し上げます。敵将夏候淵の軍勢が渡河を始めました!」
「申し上げます。曹の旗を掲げた一軍が渡河を行っております。趙雲将軍が向かっております」
「申し上げます。更に数軍が渡河を始めております。張飛将軍が指示を求めておりますが……」
劉備本陣には前線の陣地からの伝令がやって来ていた。
その伝令の報を聞いて劉備の膝は笑っていた。
『ふぅ、いつもこうだな。孟徳を相手にするとどうしてもこうなる。あいつと戦うと言う事はこういう事だったな』
劉備は久しく忘れていた感覚を思い出し、苦笑いを浮かべる。
それを見た孔明もまた苦笑いを浮かべて伝令に答える。
「夏候淵に対しては黄権殿を向かわせよ。趙雲殿はそのままに、張飛殿には各将の指揮を任せる。存分に暴れて貰いたいと伝えよ」
「「「はは」」」
孔明の指示を受けた伝令は各地に散っていった。
その姿を見届けた孔明は劉備を見る。
「始まりましたな」
孔明の問に劉備は立ち上がり答える。
「ああ、始まった。これからは激しくなるぞ」
「はは」
劉備は曹操を知っている。
そして劉備の知っている曹操は決して攻め手を緩めない。
「これが曹操の率いる軍勢か。なるほど、確かに違うな」
黄権は眼下の光景を見ながら呟いた。
対岸から渡ってきている魏軍は一度に大軍で動いていた。
黄権の見立てでは一方を囮にして注意を惹き、本命を別にして渡河するだろうと読んでいた。
しかし、魏軍は一斉に全軍を持って渡河してきたのだ。
それは黄権の思惑を越え驚嘆に値する出来事であった。
「敵の渡河の頭を抑えよ!渡りきる前に河に叩き落とせぃー!」
「「「おおー!」」」
黄権の指示に答える兵達。だが黄権の胸の内は複雑であった。
「……これは止められんな」
渡河を始めた魏軍に対して防ぐ蜀軍の数は少なく、始めから二倍近い兵力の違いが有るのだ。
魏軍全ての兵が一斉に動けばこれを防ぐのは容易ではない。
だが、リスクはある。
渡河の最中は無防備に近い為、兵の損失は馬鹿にならない。
例え敵より兵の数で勝っているとは言え、その損失を痛いと考えるのが普通の指揮官である。
そしてその損失を減らす為にあれこれと考え、兵の損失を最小限に抑えようとするだろう。
そうなれば、魏軍は渡河する為に無為な時を掛ける筈であった。
それは持久戦を望む蜀軍に取っては願ってもない展開になる筈で有ったのだが……
しかし曹操はその損失を恐れず渡河を強行する。
時間を掛ける事なく、兵の損失を恐れず、ただ勝つ事を目的に動いていた。
そしてその行動は蜀軍の動揺を誘ったのだ。
「趙将軍。敵の数が多すぎます。これでは止められません!」
「落ち着きない。大丈夫です。冷静に対処すればここは渡れません」
「しかし!」
趙雲は冷静だったがその兵達は違う。
蜀兵は何度矢を射っても向かってくる魏兵に対して動揺していた。
そしてそれを見逃さないのが魏将曹洪であった。
「進め、進めい!このまま渡りきるぞ。進めい!」
曹洪の檄に魏兵は答える。
殺到する魏の大軍に趙雲率いる蜀軍は渡河を許してしまうのであった。
「へ、こんな奴らにびびんじゃねえぞ。お前ら!」
「「「おおぉー!」」」
張飛の檄に蜀の兵達は雄叫びを上げて魏軍に殺到する。
張飛配下の兵達は敵兵より張飛が怖いのだ。
張飛が進めと言えば、例え自分達よりも多い兵が待ち構えて居ようとも突き進む。
そしてその兵達を率いる張飛も雄叫びを上げて魏軍に向かう。
「げぇ!ちょ、張飛だ!張飛が居るぞ!」
「おう、そうだ。俺様が張飛よ!燕人張飛様よ!」
張飛はわざと魏軍を渡河させるとそこに向かって突撃した。
魏の兵達は無事に渡河に成功した事で安堵したところで襲撃を受けた事で混乱する。
その混乱に拍車を掛けたのが張飛の存在で有った。
張飛は魏軍に取って最悪の存在であった。
長坂でのあの豪傑ぶりを魏の兵達は忘れていなかったのだ。
更に先の天水郡祁山の戦いでもその勇猛さは遺憾無く発揮された。
今や張飛の名を聞いて恐れぬ魏兵は存在しない。
だが、そんな張飛に果敢に挑む将が居た。
「我が名は徐晃! 張飛よ。掛かってこい!」
張飛の前に飛び出したのは徐晃であった。
徐晃は名乗りを上げると張飛に襲い掛かる。
「へっ、逃げ上手の徐晃か。お前じゃ相手になんねえよ。曹操を出せ。曹操を!」
「魏公は貴様など相手にせん!貴様の相手は俺で十分よ!」
「しゃらくせい!」
張飛と徐晃の一騎討ちが始まると両方の兵が戦いを止めてその成り行きを見ようとしていた。
「何をしている! 張将軍が敵将を相手にしている隙に敵兵を渭水に叩き落とせ!」
静止しようとした戦場を再び動かしたのは張飛の副将を任された二人の将馮習と張南であった。
「敵の足は止まっているぞ!押せ、押せい!押し出せい!」
馮習と張南の檄に蜀兵は突き動かされる。
魏の兵達は持ち堪えてようとするも支えられずに河に落とされる。
そこに新たに渡河した魏将が馮習、張南に襲い掛かる。
「そこの敵将。俺と打ち合え!」
「誰だ貴様は?」
「我が名は曹真!貴様を討ち取る者だ!」
「曹真だと? 面白い。この馮習が相手するぞ!」
馮習と曹真の打ち合いが始まると張南が馮習の加勢に向かう。
「馮習。加勢するぞ!」
「させんぞ!」
「何奴!?」
馮習の加勢に向かう張南の前に立ちはだかる魏将。
「我は成公英。お相手致す」
「ええい、邪魔をするなー!」
張飛の守る場所では魏兵の損失は多く、結局渡河は失敗した。
「夏候淵に曹洪は成功。徐晃は駄目か?」
「張飛が相手では無理ないかと」
魏軍本陣の天幕では曹操と賈詡が居た。
「兵の損失は?」
「全体の一割も有りませぬ」
「存外多かったな」
曹操の予想よりも兵の損失は多かった。
曹操の予想では一気に渡河を始めた事に蜀軍は動揺して対処が遅れると思っていたのだ。
しかし、蜀軍は思いの外抵抗して兵の損失が多かった。
それは曹操の知っている劉備の軍勢の姿ではなかった。
「劉備は良い軍師を見つけたな」
「諸葛孔明ですな」
「聞かん名だな? 妙才からは法正の名を聞いたぞ。それに陸遜とか言ったか。確か劉封の側に居た者達だったな」
曹操の興味は劉封に有った。
孔明の事など眼中には無かった。
「今蜀軍を動かしているのは諸葛孔明です。聞いておりませぬか?」
「いや、知らんな」
曹操は孔明にそれほど興味を持たなかった。しかし……
「孔明か。小賢しい男だな。我らを誘い込んだ訳だな?」
「そうですな。我らをここに止めるのが狙いでしょう。そして……」
「素直過ぎるな。定石を外さん。面白くないな」
「魏公」
曹操は不満であった。それを顔に出している。
賈詡はそれを見て困った人だと思った。
曹操は戦いを楽しみたいのだ。
曹操は常に戦場に身を置いて居た。
そして、常に自分達よりも多い兵と戦い、その中で自身の策を使い相手を打ち破る事に快感を覚えていた。
しかし、歳を取ると相手の策に興味が沸いてくる。
相手がどのような策で自分と戦うのか?
それを楽しみにしていた。
劉備が自分に対してどのような策を用いるのかを考え予想し、子供のようにワクワクしていたのだ。
しかし、その期待は裏切られた。
劉備は凡庸な策を用いた。
すなわち持久戦である。
亀の甲羅のように陣地に籠る。
何の面白みもない策。
曹操はガッカリした。
「つまらん。つまらんぞ。賈詡」
「そう言われましても」
「劉封はそこそこ楽しめた。なのに劉備がこれではな」
はぁ、とため息を吐き落胆する曹操。
曹操には既に戦場の結果が予想出来た。
「つまらんな。これでは負けようがない」
「公。油断は行けません」
「そうなんだがな」
曹操は胡床に腰掛けて右手で顎を支える。
「この程度か。玄徳」
曹操の呟きに誰も答えなかった。
次で実質百話です。何か要望が有れば答えたいと思います。
出来る範囲でですが……
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