第九十七話 夏候淵の妙技
建安二十二年 春
荊州上庸郡上庸城
上庸城内は喧騒に包まれていた。
「申し上げます。北門の防備に就いていた雷同将軍が負傷、代わりに張翼殿が指揮を取っております」
「も、申し上げます! 東門の呉蘭将軍が討ち死になさいました!」
「南門。陳到将軍の指揮により被害は軽微との事です」
次々と上がってくる報告に彭羕は的確な指示を出していた。
「北門はこのまま張翼に任せる。東門は申眈殿を向かわせる。それまで堪えるように。南門の陳到将軍にはそのままで警戒を厳にするように伝えよ」
「「「はは」」」
「ああ、それと。西門の黄忠将軍には決して外に出ないようにと伝えてくれ。これ以上怪我を悪化されては困るとね。全くあの御仁は無茶ばかりして、少しは軍規を守って欲しいもんだ」
彭羕はヒラヒラと手を振って伝令に伝えた。
「はは。あの、伝えますが…… 素直に聞いてくれるとは思えませんが……」
「分かっている。それでもだ! 行け!」
伝令は答える事なく無言でその場を離れる。
部屋には彭羕だけがぽつんと一人残った。
彭羕は疲れた顔をしてため息を吐いて呟く。
「雷同は負傷し、呉蘭が死んだか。これ以上は不味いな。しかし向こうも辛い筈。ここは我慢よ。我慢」
彭羕は誰に聞かせる訳でもなく独り言を呟いた。
「早いとこ帰って来てくれねえかなぁ~。ほんと頼んますよ。大将」
上庸城近郊 魏軍本陣
「申し上げます。北門より出てきた敵将は負傷し、下がったもようです。されど敵の防備に隙なく苦戦しております」
「申し上げます。東門の敵将を朱霊将軍が討ち取ったとの事です。このまま入城する勢いです」
「南門の防備は固く、一旦兵を退くとの事です」
魏軍本陣で報告を受けていたのは于禁であった。
于禁は顎髭を触りながら指示を出す。
「北門と南門の兵は下げよ。東門の朱霊には増援を送れ!」
「「「はは」」」
于禁は隣に居た趙儼を見る。
「北と東が釣れましたな。やはり堪え性のない将だったようで、こちらの誘いに乗るとは… 敵も粘りましたがここまでですかな。将軍」
「まだ、敵の旗には生気が見える。おそらくは東は落ちないだろう」
「では、包囲するに留めますか?」
「いや、兵を遊ばせる余裕はない。上庸が落ちれば隣の魏興も落ちる。このまま攻めるぞ」
「早く終わらせたいところですな」
「全くだ。大将である劉封はすでに死んでいるのに士気が落ちんとはな。やはり誤報と見るかな?」
「そうでしょうか? 殿は劉封は居ないと言って我らに兵を任せました。やはり死んでいるのでは?」
そう、この上庸には既に曹操は居なかった。
曹操は上庸を包囲すると指揮を于禁に任せてこの場を去っていたのだ。
曹操は捕虜から得た情報で劉封が死んだと知ってこの戦場に興味を無くしたのか。護衛の兵を連れてさっさと居なくなってしまった。
残った于禁は曹操から上庸郡、魏興郡を取り返すように命を受けてそれを実行している。
与えられた兵は十万近い。
これだけの兵を与えられた于禁に対する曹操の信頼は厚い。
そしてその信頼に応えようとする于禁ではあったが、上庸は未だに落ちていない。
それに徐々にではあるが兵の損失が増えて来ていた。
しかし、趙儼の策を取り入れて北と東の将を釣り出す事に成功する。
そして、北の雷同は負傷し、東の呉蘭は戦死した。
このまま攻め続ければ上庸は落ちるだろうと于禁は思っている。
思ってはいるのだが……
「ふぅ。あれこれ考えても始まらぬか」
「将軍?」
「後、十日で落とすぞ。趙儼」
「分かりました」
魏軍の猛攻が始まろうとしていた。
雍州五丈原
劉備は天水郡に駐屯していた魏軍を撃破し、冀県に入っていた。
劉備の天水郡占領を知った南安、安定郡の人々は次々と投降の使者を送って来ていた。
しかし、劉備は天水郡に留まる事なく進軍し、隴関、陳倉を越えて、五丈原に陣を張っていた。
その劉備軍の前には天水郡にて敗れた夏候淵が居た。
劉備軍十万に対して夏候淵軍は六万であった。
そして夏候淵の後方には上庸から戻った曹操が長安にて十万の兵を集めていた。
夏候淵は曹操の援軍が来るまで耐えるのが役目であったのだが……
「申し上げます。敵将張飛が我が陣近くまで来ております」
「またか」
夏候淵はうんざりした顔をしていた。
それは彼の周りに居る将達も同じであった。
「やい、夏候淵! さっさと出て来やがれ! この張飛様と殺り合おうじゃあねえかー!」
張飛の挑発はすでに何度も行われていた。
「どうした! 出て来ねえのは俺様が怖いからか? それとも逃げるのが癖になっちまったのか? 情けねえ奴だな~。がははは」
夏候淵は天水郡で劉備に敗れてからこれまで、敗走に次ぐ敗走であった。
その為当初十万を越えていた兵は六万まで減っていたのだ。
その六万の兵も負傷兵が多く、まともに戦える兵は半数にも満たない。
夏候淵は亀のように陣に閉じ籠っているしか無かった。
そしてその夏候淵軍の内情を知った孔明が張飛に命じて挑発行為を繰り返させていた。
「夏候淵は誇り高い男です。挑発行為を行う事で彼を陣から誘い出すのです」
「しかしそう上手く行くのか。孔明? 夏候淵の軍は先の戦いで負傷している者も多い。陣に籠って援軍を待つのではないのか?」
劉備は孔明に問う。
「先ほども言いましたが夏候淵は誇り高い男です。その彼がいつまでも我慢出来る筈がありません。必ず出て来ます。それに援軍がやって来れば我々の勝ち目は薄くなります。今のうちに魏軍を叩けるだけ叩くのです」
孔明は劉備の問に語気を強める事なく淡々と答える。
孔明は自らの策の成功を疑って居なかった。
凄い自信である!
そしてその策は成功した。
夏候淵が陣から出てきたのだ!
「おのれ! これ以上は我慢出来ん! 張飛の兵は少なく奴は油断している。その油断を突くのだ! 行くぞ!」
陣を出て行こうとする夏候淵を年若い参謀の郭淮が止める。
「お待ち下さい将軍。挑発に乗せられてはなりません。これは敵が我らを罠に嵌めるのが狙いです。迂闊に出ては行けません!」
郭淮は強い口調で夏候淵を諌めるが、夏候淵はこれを聞かなかった。
「張飛を追い払うだけだ。深追いはしない。お前はここに残り敵が来ればこれを防げ。いいな!」
「将軍!」
郭淮の右手は夏候淵を掴もうと伸ばされたがそれが届く事は無かった。
「やっと出てきたか。夏候淵」
「待たせたな。張飛」
二人は劉備が曹操の所に居候していた為に旧知であった。
それに張飛の嫁は夏候淵の親族にあたる。
しかしその嫁は張飛が拐ってきた人である。
張飛は夏候淵と十合ほど打ち合うと一旦距離を取って逃げ出した。
「何処に行く張飛!」
「今日はこのくらいにしてやるよ。じゃあな夏候淵」
捨て台詞を吐いて去っていく張飛を夏候淵は追い掛ける。
夏候淵はこれが罠である事を分かっているが、味方の陣地が近くに有るので張飛を追う事にした。
そして張飛は追ってきた夏候淵に再度一騎討ちを行う。
「この!」
「そらそら、どうした夏候淵? 陣に籠って体が鈍ったか? がははは」
張飛は十合ほど打ち合うとまた距離を取って去っていく。
「この野郎!」
夏候淵は去っていく張飛を追い掛ける。
「しょ、将軍。お待ちを!」
夏候淵の兵が慌てて追い掛ける。
張飛はこれを数回繰り返すと、夏候淵はずるずると敵地深くまで踏み込んでいた。
その頃には夏候淵の周りには味方の兵は居なくなっていた。
「この辺だな」
張飛は立ち止まり辺りを見渡す。
「張飛!」
そんな張飛に夏候淵は弓を構えていた。
「夏候淵。周りを見てみろ。お前は囲まれているぜ。もう戻れねえぞ」
張飛に言われて夏候淵は周りを見渡すと周りを兵達に囲まれていた。
「ふん。この程度の囲み。この俺が食い破れないと思ったか!」
そう言うと夏候淵は自身の後ろに向けて矢を放つ。
「ぐわ!」
その矢は見事に当たり兵は倒れた。
そして夏候淵は次々と矢を放ち兵を倒して去っていった。
「さらばだ。張飛。ははは」
「くそ忌々しい弓だぜ。しかし見事な腕だ」
張飛は夏候淵の弓の腕前を素直に称賛した。
孔明の罠は夏候淵の弓の前に敗れた。
そして、夏候淵は曹操が来るまで粘る事が出来たのである。
『流浪の大器 劉備 玄徳』
『乱世の姦雄 曹操 孟徳』
劉備と曹操。
二人は遂にここ五丈原にて対峙したのであった。
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