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たとえばそんな、世界で二人だけしか知らない物語

作者: quiet

 現世にこんなに暇なバイトがあっていいんだろうか。



 頬杖をつきながら考える午後四時には、図書館の天窓から金と橙の入り混じる夕陽が差し込んで、一日がもうすぐ終わりますよ、と、人生はそれほど長くはないですよ、と、伝えている。館内の空調はやや過保護で、セーター一枚でもほっとするような、そんな暖かい空気が僕らを取り巻いていた。


 冬休みだった。大学の。


 つまり一般的な大学生である僕は普段の暇人ぶりに輪をかけて暇を持て余していて、そして暇で暇で仕方ないときは時間をそのままお金に換えて将来に備えておくのが賢い生き方だということは把握していて、だからこうして久しぶりに帰ってきた地元の図書館でバイトをすることにしたわけだ。


 わけなのだけれど。


 ちら、と視線を落としたのは手元のメモ。

 バイトの初日に指示されたのはカウンター業務。「何かあったらとにかくメモを取って職員に伝えてね」「それから来館者数の記録を取っておいてもらえると嬉しいな」僕は言葉のとおり、真面目に仕事をこなしていた。


 その結果、白紙だったメモ帳には、正の字が二十個ほど並んでいる。

 それだけ。

 なお、今日はバイトの三日目であり、かつメモ用紙は一枚も破っていないという情報を付け加えておく。


 いいのだろうか、こんなに暇で。


 ぼーっと座って日が傾いていくのを眺めていると、なんだかこのまま消えてしまいそうな気もしてくる。それくらい暇だった。閉館時間は午後六時。僕がここに座っているのもそれまで。時間が来ればカウンターの後ろの事務室にぺこりと頭を下げて、寒すぎる帰り道を、中学の頃に使っていた自転車で、凍り付くまでに走り抜けることになる。


 勝手に本を読んだりしてたらさすがに怒られるかな、と考えた。

 案外いけそうな気もする。名元(なもと)さんが戻ってきたら打診してみよう。


 夕陽にきらめく塵の数を数えていると、ぱちぱちぱち、とくぐもった拍手の音が聞こえてきた。


 児童室からだ。

 絵本や児童書が背の低い棚に並べられた部屋で、たまに扉を閉め切って、中で職員が子供たちに読み聞かせをしている。学校のある期間はともかく、長期休暇では意外に集まりが良いそうで、拍手の数も結構多い。


 数分空いて、扉がゆっくり開かれた。

 中からぞろぞろてってこ、子供たちが歩き出してくる。扉の横に立つのは優しげな雰囲気の若い女性で、あの人が名元さんだ。「おねーさん、さようならー」と子供たちから口々に声をかけられることからもわかるように、見た目にはとても綺麗な人である。子供は容赦がないので、テレビに出るような芸能人と雰囲気の異なる二十代を相手には、平気でおじさんおばさん呼ばわりする。


「さようならー」

「はい、さようなら」


 子供たちは、去り際僕にも挨拶をしていくから、僕もそのとおりに返す。ちなみに僕はまだギリギリ十代なので、特に何らの判定があるわけでもなく、お兄さんと呼ばれている。


 最後の一人が図書館を出た。

 ふう、と一息つくと、視線を動かした先に名元さんがいる。微笑んだまま、子供たちが出ていった図書館の出口をまだ見つめている。僕はあまり子供が得意でないので、子供が好きそうな人を見ると何やらとても性格が良さそうだ、と勝手にイメージ付けしてしまう。


 そのまま見ていると、ぱちり、と目が合った。


「ごめんね、佐倉(さくら)くん。カウンター一人にしちゃって」

「いえ、誰も来ませんでしたから」


 僕が言うと、名元さんはとても微妙な表情をした。


「そ、そう……。でも、一人二人くらいは来たでしょ?」

「いえ、本当に誰も来ませんでした。ゼロです」

「そ、そう……」


 名元さんが児童室に入ってから三十分あまり。

 それまでの間、本当に一人として新たな来館者はなかった。

 ちなみに来館者数についてはかなりゆるめに見ている部分があり、当然さっきの読み聞かせ児童も、迎えに来た保護者も数え上げているし、午前中を勉強して過ごしている大学受験生らしき二人については、出入りするたびに数え直している。


「いつもこんなに人が少ないんですか」


 隣に腰を下ろした名元さんに聞いた。

 名元さんは館内を見回して、悲しいことにそこに人影がひとつもないことを確認したうえで、口を開く。


「そうね。昔はもう少し賑わってたんだけど。でもほら、市町村合併で駅前の方に大きな図書館が立っちゃったから」

「ああ、なるほど」


 僕が高校を卒業する頃にできた、新しい図書館の話だ。僕は折り悪く一度も足を運んだことはないけれど、まあそりゃあ、大きくて新しいところが別にあるなら、わざわざこっちに来たりしないよな、と思う。僕も小学生の頃はこの図書館に通ったものだけれど、もしもその時点で駅前に図書館があれば、やっぱりそっちに行ってたんじゃないかとは思う。


「私立図書館だとどうしても大きくはできないしね……」

「まあ、そうでしょうね」


 僕の言葉を最後に、会話は途切れた。

 ついさっきまで夕陽の差していた窓の向こうは、いつの間にか青紫色の闇に覆われている。蛍光灯の明かりが白々と降ってきて、沈黙は自分の吐息を随分大きく強調させた。


 さすがにこの流れで「暇なんで本読んでていいすか? すかすか?」とは言えない。僕はそこまで人を馬鹿にしながら生きてはいない。


「ちなみに、」


 とまで口に出してから、喋りすぎるのもいかがなものか、と思った。

 思ったけれども、相手に聞こえる形で声にしてから、「いえ、何でもありません」というのも中途半端で気持ちが悪いので、引っ込みがつかずそのまま続けてしまう。


「なんでバイトを雇ったりしたんですか? いや、ありがたいですけど」


 僕の質問に、名元さんは、それはもっとも、と言わんばかりにああ、と頷いて答える。


「別にたった今必要なわけじゃないの。ただ、もうすぐ、今週の土日からね、年末に向けて大掃除と書庫の整頓が始まるから、その頃には人手が必要になって……。でもいきなりカウンターでずっと一人になっちゃったら不安でしょ? だからちょっと早めに人を入れて、慣れてもらおうってことでね」

「ああ、なるほど。っていうことは、基本的にカウンターは僕一人になるってことですか」

「うーん……。ちょっとそういう場面が多くなるかも。でも事務室か書庫にはいるから。呼んでくれれば駆けつけるから、あんまり心配しないで」


 ここ苦情とか全然来たことないし、と付け足した名元さん。まあそりゃあそうだろうなあ、と僕は思った。心配はまったくしていなかった。


「結構大変なんですか、大掃除」

「うーん、大変っていうか……。楽しい、かも」


 へえ、と僕はちょっと感動する気持ちで頷いた。掃除が好きな人というのがこの地上には存在していると風の噂に聞いてはいたが、いざ現実に対面するのは初めてのことだった。


 名元さんはにこり、と笑って言う。


「本って、触ってるだけでも幸せになるもんね」


 どうも掃除好きとはまた異なる人種な気がした。

 へえ、ともう一度頷いた僕の声が引き気味になっていないことを祈る。


 それから、また会話が途切れた。


 三度目はさすがにしつこいだろう。

 そう思って僕は口を閉ざす。するとまた暇になる。


 ペン回しは一度机に落として音を立ててしまったので、以来やっていない。両手の指先を合わせて、人差し指と人差し指を、触れないように回してみる。思いのほか滑らかにくるくると回り続けるので、少し楽しいような気もしたけれど、冷静になると僕は一体何をしているんだ、という気分にもなる。


 指先に向いていた目線を起こす。薬指が引っかかる。

 視線を上げた先では天井近くの窓に月がぽつん、と浮かび上がっているのが見える。あんまり黄色く輝いているものだから、一瞬ハリボテかと思った。


 閉館時間まであと三十分。


 うん、と背伸びをすると、少し肌寒くなってきたような気がした。

 館内でこれじゃ、外は相当だろう。コート一枚で足りるか、今から不安になる。


「今日は寒くなるってね」

「あ、そうなんですか」


 名元さんが口を開いたので、僕もまた応えた。


「うん。今年一番の冷え込みだって。佐倉くん、自転車だったよね。大丈夫?」

「そうなんですね。でもまあ、動けば暖かくなりますから、大丈夫ですよ」

「そっか。おうちってこのあたりなの?」

「はい」


 ここから自転車で十五分。

 地域の名前を告げても名元さんはぴんと来ていなかった様子だったけれど、出身小学校の名前を挙げたら、それでわかったみたいだった。


「じゃあ、あれだね。昔も図書館に来たりしてたの?」

「はい、結構……。あ、そうだ」

「うん?」

「ちょっと聞きたいんですけど、名元さんって小説に詳しかったりします?」


 ふと思い出したことがあったので時間つぶしに、と僕は軽い気持ちでその話題を口にした。


 反応は劇的だった。


 名元さんは僕の顔を一度、まじまじと覗き込むように見つめた。それから目を合わせながら、にまーっ、と子供っぽい笑みを浮かべて、


「もっちろんっ」


 と胸を張り、ふんす、と鼻息を吐いた。


「詳しいも詳しい、むしろ大得意っ。学生の頃は文学のぶーちゃんって呼ばれてたんだからっ。何でも聞いてっ。どんなことでもっ」


 名元さんは大興奮だった。

 僕はちらりと時計を見た。最後の時間潰しと思って出した話題だったのだけれど、これは展開によっては長引いてしまいそうだ。明日に取っておけばよかったかもしれない。


 しかし始まってしまったものを始まる前に戻すことはできないので、話を続ける。


「昔……、小学校高学年くらいの頃かな。もしかしたら中学生の頃かも。ここで小説を読んだんですけど、そのタイトルが思い出せなくて」

「どんなどんな?」


 名元さんが距離を詰めてくる。目が輝いている。スマホを取り出している。検索する気満々だ。僕はそれを見て言う。


「キーワードで検索しても出ないんですよ。著者名も出版社も覚えてないし」

「ほほうほう、まあ話してみたまえ佐倉くんっ」


 なんかちょっとこの人変な人だな。

 そんな失礼な感想が浮かんでしまうが、割に順当な感想な気もした。


「ええっと、主人公は小学生の男の子で、あ。舞台は近未来っぽかったんですけど」

「ジュブナイルSFだねっ。となると年代的にはあのへんかな……」

「海面上昇で陸面積がだいぶなくなってて、東京から出るのにも船が必要って設定で、主人公は夏休みに実家に帰ることになって……」

「…………」


 急に名元さんが黙ってしまった。


「あの?」

「あ、ごめん。続けて続けて」

「はあ。で、時間を持て余してうじうじする主人公の前にかわいい女の子が現れて、なんかわちゃわちゃして」

「なんかわちゃわちゃ……」

「細かいところは覚えてなくて。それでその地方では青い雨が降るんですけど、それが、えーっと。人口が増えすぎた世界で人が死ぬと、魂が天国に入りきらずにまた地上に戻ってくるって話で、青い雨は魂が降ってるんだ、とか、人が死ぬと海が増えるんだって、とかそんな話で……。すみませんまとまらなくて。これ、伝わってます?」

「…………うん、伝わりすぎるくらい伝わってるよ」


 なぜかテンションがガタ落ちしている。

 何かこの話に嫌な思い出でもあるのだろうか。


「名元さん心当たりありそうですけど……。この小説、タイトル何なんですか? 面白かったからもう一回読みたくて」

「おもしろ……! 面白かった? 本当に?」

「ええ」


 嘘をついて何の意味があるんだろう。

 僕は首を傾げながら、何やら苦渋の決断的な表情を浮かべる名元さんを見ていた。


「……一応、ひとつだけ確認したいんだけどね」

「はい」

「その小説、『雷が鳴ればいいのに、と思った。その手を握る、きっかけがほしかったから。』で終わらなかった?」


 僕はその質問を受けて、考え込む。何しろ古い記憶だ。掘り起こすのにも時間がかかる。

 だけど瞬きを二回する頃には、その答えも出る。


「……そうですね。そんな終わり方でした」


 よく覚えてるなあ、流石は文学のぶーちゃんと呼ばれるだけのことはある。なんて感心してる間に、名元さんは両手で顔を覆っていた。


「それはですね」

「はい」

「……私の自作小説です」

「え?」



*




 暇だったのだそうだ。

 冬休みで、大学生だったから。


 名元さんは久しぶりに戻った地元で、その暇な時間をバイトに費やすことにした。職場に選んだのは幼いころに通いなれていた私立図書館。ちょうど年末年始だけ増員を雇っていることもあり、あっさりと採用されたのだという。


 しかし暇潰しも兼ねてバイトを始めたはずなのに、これがまた暇で暇で仕方ないようなバイトだった。


 さすがに今よりは人も来ていたらしいが、貸出も返却も、一度やり方を覚えてしまえば職員を呼ぶ必要もなく、特別な用事を持って訪ねてくる人もいない。ほとんどの時間はただ座っているだけで過ぎてゆく。

 大掃除を手伝おうにも誰かは館内に座っていないと防犯上問題があるし……。


 ということで名元さんは、まずはこう打診したそうだ。

 「暇な時間は本を読んでいてもいいですか?」


 二つ返事でオーケーが出たそうだ。

 元々玄関に置かれた木彫りの熊以上の役割は求められていなかった。名元さんはその返事に気分を良くして、図書館の本を片っ端から読み漁り始めた。


 一日八時間だ。

 それほど連日読書を続けていると、大抵の人の心に浮かんでくる思いというものがある(らしい)。


――自分でも、書けるんじゃない?


 次の名元さんの打診はこうだった。

 「暇な時間に、小説を書いてもいいですか?」


 二つ返事でオーケーが出たそうだ。


 こうして唐突に小説を書き始めた名元さんは、初心者に特有の熱量(というものもあるらしい)でもって中編小説を見事バイト期間内に書き上げた。

 そしてせっかくだから、と一冊だけ製本依頼して記念に寄贈していこう、と考えて、バイト最終日に図書館まで持ってきた。


 しかしバイト最終日というのはつまり大掃除の最後の仕上げの日、ということで。

 そのときのドタバタで、どこかに紛れてなくしてしまったのだそうだ。


 そしてそれから月日は流れ……たのかどうかは知れないが、この図書館を訪れ、そんな作者以外の、誰も読んだことのなかったであろう小説をたまたま手に取った少年が一人。


 名前を、佐倉といったのだろう。



*



「いやー……、でもまさか、あれを読んだ子がいるとは思わなかったな……」


 六時を過ぎても話は続き、ほかの職員の人たちはみんな帰ってしまった。驚くべき早さだった。六時十分にはなんと僕と名元さんしか残っていなかったのである。


「あの小説、タイトルは何て言うんですか」


 コートの前ボタンを留めながら聞くと、名元さんは目を伏せながら、何やら口の中でもごもごと呟いた。全然聞き取れなかった。


「え、なんて言ったんですか?」

「『七月の青い雨を僕らは魂と呼んだ。』って言ったの! ほら早く出た出た! 鍵閉めちゃうからね!」


 背中を押されて裏口から追い出される。驚くべき寒風が僕を襲い、当然のように背筋が震えた。寒い。


 名元さんもすぐに出てきて、裏口をがちゃん、と施錠する。


「あ、駐車場はこっちね」


 言われるままについていく。いつもは六時になった途端に正面玄関から帰っているから、裏口を使うのは初めてだったのだ。


 駐車場へは結構歩く。


 まだ少しくらいなら、話す時間もあった。


「その小説、今はどこに行ったんでしょうね」

「さあ、どうだろ。目撃報告も初めてだからね。個人的には燃えてるといいなあと思うんだけど」

「何をどうしたら燃えるんですか」

「……自然発火?」


 残念ながらうまいツッコミは思い浮かばなかった。

 だから代わりに素直な感想を述べる。


「もったいないですよ。せっかく面白い小説だったのに」

「…………そう? 私の記憶では本当にダメダメだったと思うんだけど」

「僕は好きでしたよ。もし見つけたら燃やさないで譲ってください」


 僕の申し出に、名元さんは非常に悩ましげな表情を浮かべ、むむむ、と唸った。


 駐車場に着く。

 たったひとつ、残っている車の前まで辿り着く。駐輪所はもう少し先だ。


「考えておきましょう」

「そうしてください」


 名元さんは頷き、僕は頭を下げて自転車の方へと向かう。

 ぴ、と車の開錠音がして、背中から声が届く。


「今日もお疲れ様。また明日もよろしくね」

「あ」


 と、僕は振り返る。また明日、で思い出したことがあったからだ。


 名元さんは動きを止めて、僕を見ている。


「そういえばひとつ、聞きたいことがあって」

「ん、何?」



「暇な時間に、小説を書いてもいいですか?」



 名元さんの顔が引きつった。

 僕はそれにお疲れさまでした、と声をかけて。


 明日の持ち物に原稿用紙をとペンを付け加えることだけ忘れないようにと頭に刻みつけながら、自転車に乗った。

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