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魔女の保管庫*短編集*

訳あり王と黒帽子の魔女

作者: 因果論

 *


 思えば、お師匠様は全て端からお見通しだったのだろう。

「未熟者のお前にはこれくらいが妥当だろ」と言い、無造作を装って手渡された『最上級』の魔法杖。ほうき星の如く空を駆ける『最高速』の(レター)(レイブン)。高位魔族ですら一滴で怯む『最純度』の聖水(アルテミス)。やたらと『高性能』な異空間(ポケット)

 その上、何より、頭の上。

 ありふれた栗色のネコっ毛を僅かながらも隠すように、存在感あふれる黒いシルエット。

 知るものぞ知る、魔女の黒帽子だ。

 譲られた当時こそ、『絶対防御』以外に取り柄などないと思っていたその帽子が、いつの間にやらパックリと横一文字に裂けた時。

 そこから、全ては変化し始めたのだと思う。

 平穏だった日常然り。

 平凡だった運命然り。


 *


『起きろー! 何時まで寝ているのだ、この寝坊すけ娘!!』

「んー……」


 ボフンボフン、無視できなくはないがそれなりの重さを感じさせる『何か』が胸の上を飛び跳ねている。

『何か』などあれに決まっている。

 そもそも今、この家の住人は自分一人なのだから。

 再認識して真っ先に、ソフィアは「勘弁して」と素で呟きそうになる。が、寸前で堪えた。

 何せ、口答えなどしたらどんな報復が待っているか考えるだに恐ろしい。

「うー」だの「はぁ……」だの後で誤魔化しがきく範囲で声にならない不満を外に出しつつ、もぞりと起き上がった彼女の目前に、待ちくたびれたと言わんばかりにでんと構える黒いモノ。

 帽子である。

 それも中程から横にパックリと裂けており、全体に古びた感がある年代物で、闇夜のように黒々とした帽子だ。

 何にもまして違和感甚だしいのが、その『発語能力』。

 帽子の癖にどこをどうやってか『声』を発する訳の分からない存在である。それがようやく跳ねるのを止め、掛布の上からこちらを眺めている。

 いや、目はないのか。


『ふむ。やっと起きたな』

「……知っているとは思うけど、昨日から数えて三時間しか眠れていないのよ」

『それがどうした、この寝坊すけめ! 上質な魔力は朝日を毎日規則的に浴びることでしか得られないと三日前に教えたばかりだろう?! さぁ、窓辺へ行け! 存分に浴びるのだ!』

「……はいはい」


 兎のように充血した目を擦りながら、毎度の如く帽子に起こされて起床する日々がここ数か月続いている。

 正直、身体はとても辛い。しんどい。疲労も甚だしい。

 けれど、この帽子が言うことは大様にして正しいのだ。


「ふわぁ……。ねむ」


 上掛けを羽織り、芋虫が這うような速度で窓辺へと移動するソフィア。朝日に照らされる位置まで来て、長椅子の端に腰掛ける。

 小柄な彼女のその傍らへ、いつの間にやら飛び上がって納まる黒帽子。

 そして始まる、いつもの問答。


「……どうして貴方は帽子の癖に、動けるの?」

『ふふん、この私に掛かればそこらの魔術師が出来るであろう一通りのことは容易く行えるのだ!』

「……帽子の癖に、喋れるのは?」

『同じことを何度も言わせるな! それは私が私だからだ!』

「……帽子の癖に、やたらと偉そうなのも?」

『それも当然だ。この私はお前にとっての大師匠なのだからな!』

「……大師匠、ね」

『違いあるまい!』


 帽子なりに、胸を張っているらしい。ほんの少しだけフォルムが変化した。何だか丸いわ。


「ちなみに今日の分の伝達はある?」


 師匠が出立してから、およそ一年。帽子が姦しく話し始めて、半月以上。

 この朝に慣れつつあるソフィアは、習慣化した『無い! まるで無いな!』の返答が来るだろうと予想しながらも、一応は尋ねる。

(そうしないと機嫌が悪くなるからだ)

 すると待ってましたとばかりに真横の帽子は、その裂け目から息を吸いこみ――


「あるぞ! 国の宰相より寝坊すけへの依頼が一件だ!」


 そして訪れるのは、束の間の静寂。

 小鳥のさえずりが耳に優しい。

 訳の分からないことを唐突に叫んだ帽子を横目に、ソフィアは黙って立ち上がった。そしてそのまま湯を沸かし、おもむろにハーブティーを淹れ始める。やはり朝はこれに限る。

 しかしその内心は疑問符だらけだ。

 寧ろそれしかない。


 ――そもそも国の宰相って誰。心当たりが微塵もないのだけれど。面識もない人物からどうしてこんな未熟魔女へ依頼が来るというの?


『おーい、聞いているのか、寝坊すけ娘?!』

「黙ってて、今ちょっと考えてるの」

『曲がりなりにも大師匠に向かってその口の利き方は無いぞ!』

「……」

『う、うむ……。まぁ、今回に限っては目を瞑ろう。存分に考えたまえよ、寝坊すけ娘』


 無言で見据えれば、珍しく黙る黒帽子。

 静寂を共にして、ソフィアは少しだけ冷静に立ち返る。それにしても、謎だ。不可解だ。むしろそれ以外に何もない。

 淹れ立てのハーブティーをここで一口。

 はぁ、和む。


「それで、さっきの伝達だけれど」

『間違いないぞ! 依頼主は国の宰相、イニアス・グリーフシードだ。依頼内容については登城した時に当人から説明するらしい。無論、行くな? 行くのだろうな?!』

「何がどうして、そんなに乗り気なの?」

『国の次席からの直接依頼となれば、最高の栄誉だからな! 無事に依頼をこなせば名声は今より段違いに上がるし、報酬もがっぽりだぞ!?』

「……ふぅん。後半が本音ではありませんの、大師匠?」

『金があって困ることはないからな!』

「開き直るにも限度があるわよ」


 大仰に溜息を零し、半眼で喋る帽子を見やる。

 すると帽子は、やや斜めに傾いで器用に鼻歌っぽいメロディーを奏で出した。これには地味にイラっとした。


「他にも受けている依頼があるし、そちらが優先ね。今回はお断りして」

『うむ、そうだろう。ではすぐに城へ飛ん…………何だと?!!』


 存分に日光を浴び、ようやく目も冴えた。

 ぐっと背筋を伸ばしたソフィアの迷いのない返答に対し、その驚愕を全身で表すようにして黒帽子が高々と跳ね上がり、勢い余って天井にぶつかり、そしてへなへなと輪郭を崩しながら床へと転がった。

 それはさながら、水から引き揚げられたクラゲの様相に酷似している。


「よし、目も覚めたわ。昼までに森へ飛んで採集依頼を……」

『正気か、寝坊すけ娘?! 国直々の依頼だぞ! 半年は遊んで暮らせる報奨金を棒に振る気か?!』

「……やっぱりそっちが本音なのね。大師匠が聞いて呆れるわよ」


 にべもなく切り捨てられ、帽子の三角があからさまに萎れる。

 ソフィアは内心で「こんなパターンもあるのね……」と観察していたが、ややあって萎れた帽子の周りにじわじわと染み出るものを発見して目を瞠る。


「……まさか、泣いてるの?」

『これが泣かずにいられるかっ……!! 寝坊すけ娘、お前は本当に師匠不幸者だぞー?!!』

「えぇ……」


 そのまま嗚咽を零し始めた帽子を見下ろし、途方に暮れるソフィア。

 そもそも何で、帽子が泣ける。その水分はどこから来ているのか。そもそも目があったのか。

 考えれば考えるほど深みにはまり、思考は泥沼化していく。

 最早その存在をして、不可解かつ面倒極まりない。


「……面倒臭いわ」

『この師匠不幸者めが―!!』


 ソフィアはその後二日に渡って帽子の嘆きを無視し続けたものの、とうとう三日目の朝に音を上げる。

 何しろこの帽子、泣き止まなかったのだ。

 丸一日耳栓をつけて依頼をこなして回るも、正直鬱陶しいことこの上ない。

 それに加えた、浸水被害。このまま放っておけば遠からず床板が駄目になると確信し、ソフィアは渋々ながらも登城することを約束した。

 すると途端に泣き止む帽子。

 ソフィアは地味にイラっとした。


『おい、止めんか! 変形するー! 私の完璧で美しいフォルムがどうなっても良いのか?!』

「被れるなら何でもいいわ」

『家庭内暴力、断固反対―!!』

「黙りなさい」


 前後左右に思う存分引き延ばした結果は、若干伸びた黒帽子。

『もうお婿に行けない……』などと、ふざけた文言を延々と呟くそれを頭に被り、ソフィアは戸締りをして外へ出た。

 扉の横に立てかけておいた箒を手に取り、指先で『飛行』のルーンを描く。

 家は樹上に建てられたもので、年中見晴らしは良好だ。ここら一帯が風の良く吹く土地柄ということもあり、魔女が住処とするのにも申し分ない。


「泣き止まないなら置いていくわよ、大師匠?」

『……ふん。どこの誰が泣いているというのだ』


 それなら、若干頭が湿っているのはどういう事なの?

 ソフィアは呆れつつも、尊大で我儘で意地っ張りな黒帽子を被り直し、青々とした空へ向かって飛び立った。



 *



 王都までは、空を飛んでも二日ほどは掛かる。それに加えて天候が悪ければ、更に二、三日。

 黒帽子にとっては幸いで、ソフィアにとっては不幸なことに、旅程は最短で済んだ。

 つまり、天候は常に良好。

 到着した王都の空は、これ以上はないと思えるほどの快晴だった。


『王都が我らを歓迎しているということだな!!』

「……雲の一片すらないって、どういう事よ」


 喜びに満ち満ちた様子で、高らかな声を上げる帽子。

 一方のソフィアは舌打ちさえ混じらせ、苦々しい顔で王城を見上げていた。

 途中で引き返す口実を作るべく、帽子が寝静まった頃を見計らって幾度も『雨乞い』のルーンを空に向けて描いたというのに、肝心の空はどうだ。

 まるでその努力を嘲笑うかのように、青々と透き通っている。


「いつの間にこんなにルーンの精度が落ちてしまったのかしら」

『さぁ、いざ行かん王城! グズグズするな、寝坊すけ娘!』

「……少しもやる気が出ないわ」


 はぁ、と大きめの溜息を零しつつソフィアは覚悟を決めて跳ね橋を渡る。

 眼前には聳え立つ王の居城。

 その足取りはこれ以上無いほどに重く、さながらカタツムリを思わせる鈍さだった。

 王家御用達の商人らしき面々、その召使たち、王城勤務と思われる数名の貴族たち。

 彼らの隠す気も無いだろう訝し気な視線をすれ違いざまに浴びながら、ソフィアは完全に黙した黒帽子をより深く被り直し、城門の一歩手前で立ち止まった。

 当然のことながら門の両脇に並び立つ門番と騎士たちから、同様の視線を浴びる羽目になる。

 明らかに場違いな小娘が橋の向こう側から歩いてきている合間も、その対応は小声で協議されていたらしい。渋々といった風情で進み出たのは、若い騎士。

 おそらく貧乏くじを引いてしまった形だろう。

 不審げな声色を隠し切れぬまま、彼は精一杯の威圧を込めて尋ねてくる。


「お嬢さん、ここがどこか分かってきたのか?」

「こちらも好きで来たわけじゃないの。この国の宰相は今、城にいる?」

「き、君! 不敬だぞ! いくら年若いと言ったって、敬称を省いて呼んでいい人では……」

「いるの、いないの?」

「素性の知れぬ者に答えることは出来ない!」

「……そう。それなら、もういいわ。居ないということで私は帰……」


『大馬鹿者―!! さっさと依頼状を門番に見せよ! さすれば一発であろうに!』


 この辺りで、どうやら我慢の限界だったらしい。

 どうせなら最後まで沈黙してくれていたなら良かったのにと、ソフィアは溜息混じりに頭上の帽子を軽く抓った。


『痛い! 地味に痛いぞ!』

「余計なことを言うからよ。居ないなら帰る。それで問題ないでしょう?」

『大ありだ! 仮にも国の宰相がそう簡単に城を離れるものか! いる! 絶対にいるぞ!』


 少女と喋る黒帽子。彼女たちにしてみれば普段と変わらぬその遣り取りも、傍目から見れば奇異そのもの。

 周囲が目を瞠り、王城の前がいつにない喧騒に包まれるのも当然の成り行きだった。


「喋る帽子とは面妖な……」「若く見えるが、あれは奇術師か?」等々といった貴族たちの囁きを掻き分けるようにして、一人の人物が足早に城門前へと駆けつけてきたのはそれから間もなくのこと。


「静まれ! 其の方は宰相直々にお招きした客人だ。けして不敬があってはならぬ!」


 ソフィアは初め、遠目に老人だと思った。

 けれどもその厳めしい口調とは裏腹、姿を見せたのは年若い少年だ。単純に外見のみで推察するなら十二、三といった風情で、特徴的な真白の髪と紺碧の目をしている。

 若々しい肢体に纏うのは、高位貴族を彷彿とさせる豪奢な衣装。上質な布の光沢に加え、兎にも角にも装飾が細かい。

 普段なら、絶対に関わり合いになりたくないと思う部類の人物。ソフィアは直観的にそう思い、密かに溜息を殺した。


「ご不快な思いをされたなら、直ちに謝罪させますが……」

「いいえ、構わないわ」

「貴女の寛大さに、心より感謝いたします」


 貴族らしい端整な面差しを綻ばせ、少年は流れるような動作で一礼する。


「名乗りが遅れましたが、私は宰相より貴女を迎えに遣わされたルーシエ・オルメルと申します。お困りごとがあれば何なりとお申し付けください」


 さらりと真白の髪を靡かせ、そう言って微笑んだ少年貴族。

 ソフィアは軽く頷いてみせるも、内心ではここへ来たのは間違いだったと既に後悔し始めていた。

 やはり帽子の嘆願に耳を傾けるものではなかったな、と。



 *



 通された応接間はソフィアの棲む家が丸々入りそうな広さがあり、それだけでひどく疲労感を覚えてしまう。

「……何なの、この無駄さは」と思わず口に出し掛けるも、頭上で震える帽子のお蔭でなんとか堪えた。

 どうやら感激しているらしい。

 つくづくソフィアの感性とは真逆をいく帽子である。


「こちらで今暫くお待ちいただけますか? 間もなく宰相が執務を終えて戻ります」

「そう、分かったわ」

「何か飲み物を用意させましょう。お好みがあれば、事前に伺いますが?」

「そちらの用意できるもので構わない」

「承知致しました」


 人形じみた笑みを浮かべて一礼した後、付き添いの少年貴族は慣れた様子で扉の傍まで歩み寄り、外に佇んでいた侍女へ何事かを言付けている。

 さすがは王城といえば良いのか、この部屋の中だけでも二人の侍女が控えている。

 途中で通って来た回廊や扉前にも、等間隔に並び立っていた衛兵たち。彼らからの好意的ではない視線を思い出しただけで、ソフィアはつくづく自分が場違いだということを自覚する。

 そんな彼女の憂鬱などいざ知らず、頭上の帽子の暢気なこと。いや、むしろ大物なのか、馬鹿なのか。

 ソフィアはどちらにせよそう変わりはないと結論付け、心の中で盛大に溜息を零した。


 それにしても、とソフィアは気付かれない程度に部屋の観察を続行する。

 何故って? 他に何もすることがないからだ。

 広さは元より、床から壁、天井に至るまで細部に凝らされた装飾の数々。それに加えて随所に置かれた調度品。目の届く範囲にある全てのものに隙がなく、どれもこれも磨き抜かれている。

 比較することすら烏滸がましいが、ソフィアの棲みかとは雲泥の差だ。

 けして汚くしているつもりはないが、まるで心の休まる余地がないと全身が無言で訴えてくる。具体的には、鳥肌という形で。


「……ここまで来ると、もはや病気ね」

「な、何かご不快な点がありましたでしょうか?」


 ふ、と視線を上げれば侍女の内の一人、褐色の巻き毛をした小柄な女性が両目一杯に不安を湛えてこちらを窺っている。

 珍しいことに、彼女からは不信感や警戒心といったものがまるで感じられない。


「いいえ、気にしないで。ただの独り言よ」

「……あの、貴女様はお噂通りの魔女様なのでしょうか?」

「噂?」


 半ば反射的に、訝しげに問う。

 すると見る見るうちに真っ青になった彼女が「失礼いたしました!」と叫び、その場に身を折ってひれ伏さんとばかりにした為、ソフィアは逆に呆気に取られてしまった。


「申し訳ありません! どうか、不用意な発言をお許しください!」

「止めて、こちらは別段怒っては……」

「何事です、フィリカ。申し訳ありません、こちらの侍女が何か不始末を……?」


 扉の脇から戻って来た少年貴族が冷然とした口調を向けた先、小動物のように震えた侍女――フィリカというらしい――は、結局制止も聞かずにその場に崩れ落ちる。

 一体何なの、この殺伐とした空気は……とソフィアが呆れた様子で見遣る最中。


 カチリと扉が音を立てて開かれ、視界に現れたのは朱髪を靡かせる美貌の男だった。

 まるで蒼穹をそのまま眼窩に嵌め込んだように、青い双眸。それが部屋の中を一周し、唐突に一点へと止まる。

 ぴたりと目と目が合い、おもわず椅子の上で身を引くソフィア。

 そんな彼女の戸惑いなど一蹴するように、感嘆の意図を込めて吐き出された甘い声色が、耳朶を打つ。


「……あぁ、本当においで下さったのですね。緑雲郷(べリアレム)の魔女殿」


 そう呟くや否や、まるで数年来の友人に再会したかの如き満面の笑みを浮かべ、静かに歩み寄ってソフィアの手を掬い取る男。

 そっと落とされようとした唇は、しかし寸前で何かの影に阻まれる。


『そう安易に私の愛弟子に触れられると思ったら、大間違いだぞ!』

「な、これは……喋る帽子?」

『私は大師匠だ! それと同時に、この寝坊すけ娘の身の周りの安全を守る役目も担っている!』

「……それは初耳ね」


 応接間に入ってこの方、ずっと沈黙を保っていた帽子がここに来てソフィアの周りを跳ね回っている。

 ひとまず感動も収まったのか、普段と変わらぬ存在感、変わらぬウザさだ。

 なんにしても、この帽子。

 どう説明したら納得してもらえるものかとソフィアは密かに頭を悩ませる。曖昧に濁すのが正解なのか、もしくは……。


「まぁ、愛らしい帽子だこと。私にも被らせて頂けない?」


 ソフィアが思考の海に沈みかけた、刹那。

 ふいに響いた、鈴の鳴るような声。

 声の出所を探すまでもなく、美貌の男の背後からひょっこりと顔を覗かせた人物が一人いた。

 それは金色の髪を腰まで流した、小さな乙女だ。


「……王女殿下、どうしてここへ」


 はぁ、と溜息を隠す様子もなく呟いた美貌の男へ、にっこりと花開く様な笑みを向けた乙女。

 聞く限り、この国の王女であるらしい彼女は少しも悪びれた様子もなく口を開き、


「どうしてもこうしてもないでしょう? 『兄さま』のご病気についてお話しするなら私以外の適役なんてこの城にはいないもの」


 そう言い切った。

 そしてくるりと身を翻し、ソフィアの目の前まで歩み寄ったかと思えば、その小柄な手からは想像できないほどの力強さで両手を包まれる。


「緑雲郷の魔女様? この城に足を踏み入れた以上、兄さまのご病気を治して頂くまではお返ししませんよ? どうぞご覚悟なさってくださいね?」

「……どうやら想像より、はるかに面倒な依頼のようね」

「ええ。端的に申し上げれば、兄……つまり現王ルーエン・ナーヴィス・クラウディルに掛けられた呪いを解いて頂きたいの」

「……呪い?」


 鋼に拘束されたが如き両の手を、不敬にならない程度に引きながらソフィアは訝しげに問う。

 仮にも一国の王をして、呪い除けの守護を掛けられていない筈もない。それはこの世界における常識といっても過言でなく、そうでなければ実際問題、各国の要人など暗殺し放題である。


『ほほぅ! 初依頼にして解呪とはなかなか悪くない! 悪くないぞ、寝坊すけ娘!』

「煩いわよ、大師匠。少し黙っていて」

『ね、寝坊すけ、仮にも大師匠に対してその口の利き方は…………いや、うん。今回に限り大目にみよう』

「ふふ、やっぱり可愛らしい帽子ですこと。触らせて頂いても宜しくて?」

『却下だ! こう見えても私は潔癖症なのでな!』

「あら、残念」


 王女殿下と帽子が戯れている合間も、ソフィアは思考を巡らせる。

 そして、ふと思い出した。何年か前、ほんの少しだけ耳に入ってきた『風聞』を。


「もしかして、数年前に夢魔に魅入られたという王子……それが今の王さまなの?」

「まぁ! ご存知でしたなら話は早いわ。その通りです。王族に代々受け継がれる『加護』すら突破するほどの高位悪魔に見出され、以来二年に渡って執着され続けている不運な王とは、私の兄のことですの」

『夢魔で、高位悪魔だと……まさかと思うが、それは!!』


 仮にも王族の血脈に受け継がれる『加護』を突破するなど下位、或いは中級位の夢魔では無理な所業だ。

 可能性だけで言うなら……おそらく、色欲の悪魔として名高いアモーデウスあるいは……。


『イヴリス!!』

「大馬鹿師匠。そんな最古の悪魔が、地上へわざわざ執着を向ける訳がないでしょう」


 ざっくりとソフィアに駄目出しをされ、床にはらりと落ちた黒帽子。

 しくしくと例の如く床一面を湿らせているが、我が家とは違い大理石である。腐食することはないし、うん。たぶん問題ないだろう。


「魔女の呪いへの造詣は、とても魔術師の及ぶところではないと伺っております」

「……まぁ、否定はしないわ」


 宰相の呟きを肯定しつつも、正直なところソフィアは今からでも依頼を断る術はないかと懊悩していた。

 元よりソフィアは善人ではない。これは厳然たる事実だ。

 依頼とて、自らの力量と代償……もとい報酬が釣り合った時こそ、生活の為に請け負うだけ。

 その観点から言わせてもらえば、今回の依頼は払うであろう代償が大きすぎる。悪魔を意味なく敵に回せば、今後の仕事にも差し障りが出てくることは間違いないのだから。

 そう……例えば魔女と一口に言っても、自分とは違って人助けに比重を割く者も中にはいる。

 こんな一等面倒臭い依頼は、そんな面々へ盥回しにするのが一番だろうと心の中で結論付け、いざ口を開こうとしたところで――


 ソフィアは、己の目論見が甘すぎた事実を知る。


黄昏(ファタ)魔術師(ウィザーズ)様より、今回の依頼書を発送する際に併せて伝言を預かっています。今、ここでお聞きになりますか?」


 今の今まで気配を殆ど感じさせない位置に立ち、面々の会話を耳にしていたであろう少年貴族が微笑を浮かべて『その名』を出して来た時点で、ソフィアは諦念を覚えた。

 託されたという、伝言。それを聞く前から、告げられる内容はとうに見当はついたから。

 あの人も相変わらずのようだ。幾手先まで読んでいるのか、あの深遠の眼から推察することはついぞ叶わなかったものである。

 そんな懐かしき日々を思い出し、それでも一応念の為にと。

 ソフィアは最後の悪あがきがてら、続きを促す。


「ええ、一応聞かせて」

「……では、失礼して。『最愛の娘、ソフィア。お前に一つ試練を残す。これが最終試練だ。心して望め』……以上です」


 想像通りの文言に、ソフィアは暫し無言で窓の外を眺めた。相変わらず青い。

 そうして心の平穏を保ったところで、思う。どこの世界に師の言葉を無碍に出来る弟子がいるだろうかと。

 養い親にして、魔術の師。正式な名はフェネリーク・アニス・オレガンタ・スフィアターナという至極長いものであった気がする。

 良くも悪くも、あの人以上に強烈な印象を自分に残した存在は未だかつていない。なんと言おうか、濃いのだ。とにかく濃いのだ。

 当人が興味を覚えた対象に対してはトコトン庇護するスタンスをとる一方、その感心を得られなかったモノへ対しては放置こそすれ、目障りだと判断されたが最後、存在そのものを抹消される。

 要するに両極端。

 それに加え、ごく少数しか発現しない男性の『魔女』の血族であり、その実力は荒唐無稽の域へと達している。

 こうしている今も、どこぞで規格外の依頼をこなしている最中であろう。


「……分かったわ、依頼を受諾する。その呪いを受けた当人は今どこにいるの?」

「ではすぐに、ご案内を……」

「わたくしが案内いたしますわ。さぁどうぞ、ついていらして?」


 宰相の言葉を遠慮のエの字もなくぶった切り、微笑みながら手を握ってくる王女殿下。

 この小さな乙女、あらゆる意味で脅威的である。

 ソフィアは改めてその辺りを認識しつつも、ここは頷いておいた。そしてシルク張りの長椅子を立ち上がり、優雅な指先に導かれながら応接間を出る。

 背後の焦ったような声や気配を後に、ソフィアは城の中央部へ向かってトボトボと歩き始めた。


「ね、宜しければ普段はどんなお仕事が舞い込んでくるのか、教えて頂ける?」

「……生憎、魔女の誓約書には守秘義務が記載されておりますので」

「まぁ、そうなのね。そうとは知らず、無知でごめんなさい?」

「……いいえ、お気になさらず」

「うふふ、魔女様は寛容でいらっしゃるのね。他の方々とはどこか違ってらっしゃるわ」


 小鳥が囀る様に、愛らしい。恐らくそう形容されるであろう計算されつくした仕草や声の調子に、紛れもなく彼女が王族であるという事実を改めて見ることになる。

 進む最中も、王女殿下の興味は少しも薄れる気配がなかった。


 ねぇ、魔女様は今迄に幾つのお国を回ったことがある?

 好きなお色は?

 嫌いな食べ物は?

 今迄に恋をしたことはお有り?

 どんな殿方が好みか、教えて頂いても宜しくて?


 ……途中から、なにやら捕食者的な視線で見定められ、巷で言うところの女子的会話が後半に混ざりこんでいたように思えたのは、多分気のせいだと思う。思いたい。


 巡った国は、十二か国。うち、七か国は密入国で、個人的に好きな国はフーラベルの空中国家。

 好きな色は、森の緑。

 嫌いな食べ物は、マンドラゴラの青菜漬けとコカトリスの砂肝焼き。

 恋をした経験は、覚えている限りゼロ。

 好み云々以前に、好ましいタイプは此方へ一切の関心を向けない男。

 以上のような回答を淡々と述べると、何やら意味深な微笑みを頂くことになった。解せない。そして色々な意味で、なんとなく怖い。


「まさに理想だわ。ふふっ、初回から引き当てるなんて……」


 可憐な姫君はそんな呟きを零しながら、つい、と指先を引いてくる。

 言っている言葉の意味が半分も……いや、まるで分らないことに今更ながら途轍もない危惧を覚えつつも、その歩みを止める訳にもいかない。


 結局ソフィアは、その扉の前に辿り着いてしまった。

 見上げただけでわかる、その意匠。荘厳な、両手開きの白亜の扉。


「さぁ、どうぞ?」

「……これを、開けるのですか?」

「どうぞ?」


 有無を言わせぬ微笑みを傍らに、恐る恐る触れたドアノブ。受諾こそしたものの、あまりにも気の進まない展開に、躊躇いを隠す気力すらも出てこない。

 いっそのこと、鍵がかかっていればいいのに。


『何をグズグズしているのだ! 開いてみなければ何も始まるまい!』

「……いつの間に追いついたの、大師匠」

『今だ! 今この時に私がいなくてどうするというのだ!』

「……はいはい」


 いつの間にやら定位置へと納まった黒帽子。被り直しながら、とうとう扉を半開きにする。

 願いも虚しく、易々と開いた扉。

 そっと覗き込むと、そこには――色とりどりのドレスが散乱していた。


 パタン、と静かに扉を閉める。

 これが所謂、そっ閉じ。見なかったことにしようとした場合、大変有効な手段だ。


「……何なの、あれ」


 思わず素のままで呟いてしまったのも、仕方がないと思う。

 見渡す限り一面のドレスとか、一体何の儀式だ。狂気的な何かすら感じた。


『閉めるのが早すぎるだろう! お蔭でほとんど何も見えなかったぞ?!』

「……見えるの、ねぇ? 何処に目があるの?」

『もう一度だ! さぁ、さぁ!』

「そのテンションがこの上なくウザいわ……」


 渋々、再びドアノブへと伸ばした手。

 けれどもそれが触れる前に、内側からくるりと回り、キィと微かな音を立てて扉が開く。

 見合う、目と目。

 吸い込まれるような、深緑の双眸に、束の間驚愕の色が混じり――


「うわ、ありえない」


 そんな一言と共に、パタリと扉は閉じられた。

 そして訪れる、ささやかな静寂。

 無言で傍らに説明を求めるべく視線を向ければ、可憐な王女は「ご覧になりました?」と可愛らしく小首を傾げてみせる。

 コロコロと笑いながらも、どこか目が冷めているように見えるのは陽光の悪戯だろうか。


「あれが私の兄であり、この国の現王ですわ」

「……どう見ても、貴女より年下に見えたのは目の錯覚?」

「ふふふ、元より童顔だったのは否定いたしませんけれど、身長が縮んできたのは呪いの影響であろうと城の魔術師は申しておりました。それもここ数か月の間に、劇的に」

「……遅効性? そんな手間のかかる呪術を悪魔がわざわざ掛けていくなんて、今まで聞いた覚えが……」

「悪魔の正体に見当はつきまして?」

「いいえ。何にしても情報が少なすぎるわ」

「なら、当面はこちらに滞在されますわね? 部屋を用意させますわ。他に必要なものがあれば、私に何なりとお申し付けくださいませ」


 さらりと話を進められ、口を挟む暇も、まして固辞する隙もない。

 ようやく追いついて来た(というか来るのが遅すぎるだろう……)宰相と年若い少年貴族の二人にさり気なく視線で助けを求めるも、何やら示し合わせたように満面の笑みを寄越された。

 何これ、まるで使えない。


「兄さま、話は聞こえておりますわね? くれぐれも失礼のないようにお願いいたします」

「……俺は何も聞こえていないし、正式に招いた覚えもないよ」


 こんこん、と白魚の如き手で扉を叩いた王女殿下がそんな文言を言い含める一方で、扉の向こうに閉じこもったままの小さな王様は冷めた声を寄越した。


「あらあら、道理の分からないことを仰るのは何処の子供かしら? 兄さま、これが最初で最後の機会ですのよ。もし協力しないというのであれば、明日にでも私は議会に廃嫡を申し出て参ります。私がこの世で一番大嫌いなのは有能な役立たずだと、兄さまは知っておられるでしょう?」

「王女殿下……」

「相も変わらず怖いお方だ……」


 そんな彼女の後方で、銘々に顔を蒼褪めさせる男性陣。

 何となく同意しそうになった口元を辛うじて留められたのは、単純な話、慣れているからだ。

 師匠の前での失言は、即日の課題追加。

 帽子の前での失言は、連日の精神疲労。

 要するに、なるべく口が堅いに越したことはないし、面倒事とも無縁でいられるという話。


「……イザベル。君は本当に、幼い頃から口が回るよね」


 カチリ、と解放された扉の前。とうとう全開にされた王の居室を背にして立つ少年が一人。

 隠す気も無いのであろう諦念の笑みを浮かべながら、扉の片側に寄り掛かってシャキリ、と手元のハサミを鳴らしてみせた。

 もう片方の手には、見事な紅のドレスが下げられており――それはものの見事に、ズタズタに引き裂かれている。


「では、私はこれで」

「逃がしませんわよ?」


 本能に従い、そのまま来た廊下を引き返そうとしたところを、首の後ろから伸ばされた白い両腕が難なく止める。

 振り返すことすら恐ろしく、ソフィアはそのまま片手で頭を抑えた。


「……悪魔付きが猟奇的になることは、大して珍しくはありません。ただ、真昼間から凶行に及ぶとなればそれはまた別の話。紛れもない末期。それすなわち厄介事です。どうぞ、お放しください」

「いいえ、離さないわ? ここは王城内。王族の権威をお忘れになったわけではないでしょう? 依頼不履行となれば、私は王族の名のもとに貴女を永劫、城の地下に繋ぐことも出来ますの。そんな未来をお望み?」


 ぞっと冷えた背筋を、辛うじて震えに出さずに済んだのは――


『舐めるな、小娘!! 例え王族であろうと、それ以上の雑言は許さぬぞ。愛弟子をそんな目にあわすことをこの私が看過すると思うのか!?』


 高らかにそう言い切る、頭上の存在があったからだ。

 質量的にはひどく軽いが、何だかんだでいざという時はこの上なく頼もしいのも事実。

 本当に不可解で、不思議な黒帽子なのだ。


「まぁ、可愛らしく囀ること」

「……王女殿下、どうかお戯れも程々に。仮にも黄昏の魔術師殿の愛娘を王族の名のもとに裁断などすれば、まず間違いなく国ごと潰されます。流石にそんな滅亡は御免被りたい」

「ふふっ、それもそうね。でも、魔女様にはどうしてもお力添えいただかなくてはならないの。貴方たちもそれを忘れた訳ではないでしょう?」

「……はい」

「それは確かに、そうなのですが……」


 何やら後方で意味深なやり取りを躱されていることだけは、分かる。

 そして今更、どうあっても引き返せない事もまた。

 ソフィアは王女殿下の腕の中で、ひっそりと溜息をついた。


「まず、ハサミをどこかに置いて頂ける? 話はそれから伺うわ」


 王女を背に乗せたまま、振り返ってそう提案すると、何故か驚いた様子で丸くなる深緑の双眸。

 カタン、とテーブルに置かれた音を始まりに、奇妙な王様との奇縁は始まったのだろう。

 振り返ってみれば、ただそれだけの話。



 *



 薄い紗を通し、辛うじて陽光が差し込むばかりの広々とした一室。

 ぞんざいに足で払われ、部屋の隅に積み重ねられたドレスのなれの果て。

 悲惨である。職人が見たら、その場に崩れ落ちて泣き伏しそうな光景だ。

 ソフィアは気の滅入りそうな光景を横目に、淡々とお茶を飲む。あぁ、なんて心の落ち着かないお茶会があったものか。

 右隣には宰相、左隣には小さな王女殿下、そして向かいには世界広しといえど、稀に見る悪魔憑きの王様がちょこんと鎮座している。

 これがもし悪夢だとしたら、今すぐに覚めて欲しい。


「悪魔の名、あるいは特徴でも構わない。知っていることを端的に聞かせてもらっても?」


 奇妙なお茶会が始まる前に、ソフィアは小さな王様へそう問うたものである。

 けれども肝心の当人から得られた回答は、彼女を落胆させこそすれ、一かけらも救いはしなかった。


「あれに関して話すことを、俺は禁じられている」


 ゴミのような回答だった。まるで役に立たない。実際、ソフィアの目には隠し切れない失望が色濃く表れていただろう。

 向かい合った王様は、どこかバツの悪そうな表情を隠さなかった。


「では、憑かれることになった経緯を出来るだけ詳しく、推察を交えても構わない。話して。とにかく情報を得ないことには、何の対策も立てようがないわ」

「……分かった。把握している限りのことは、できるだけ話すよ」

「それと、何よりもまずあなたの意思を確認しておきたいの」

「……待って、それはどういう意味?」


 じっ、とソフィアが一拍おいて見据えた先。そこに佇む『今はまだ』人の形をした、王様。

 まるで見透かすようにして、魔女の深遠なる眼は、静かに問う。


「貴方自身が、悪魔からの解放を望んでいるのか否か?」


 静かな湖面に、小石を投げ入れた後に広がる波紋のように。

 静寂の中に、居並ぶ者たちの視線が集まり、そして紡がれる一語。


「勿論。俺は、解放を望んでいる」


 まっさらな笑顔でそう告げ、初めて微笑んだ王様に、魔女は微かなため息をもって答えた。


「それがあなたの望みなら。それに沿うべく、私は動かせてもらうわ」



 *



 ポトン、ポトンと琥珀の水面に落とされる角砂糖。

 カラカラと銀の匙で掻き混ぜ、色彩の変調がないことをじっと眺めて確認。

 それからようやく仄かな甘みを口に運び、一息。

 ソフィアは聞かされた内容を頭の中で、反芻する。何度も、何度も。


『寝坊すけ、目星はついたのか?』

「少し黙っていて」


 拭えぬ違和感があった。それは歓迎の宴と称して招かれた(強制に近い)夕食の席において、やや離れた位置から改めて『彼』を見たことで、より一層深まったといっていい。

 ソフィアはこれまでに、両手の指には納まらない人数の悪魔付きを見てきた。その経験が、囁くのだ。

 今回の依頼は、通常の悪魔祓いでは対処の仕様がないと。


『……なぁ、寝坊すけ。考えるよりも先に、行動することも時には有用だぞ?』

「珍しく真っ当なことを言うのね、大師匠?」

『珍しくとは何だ、珍しくとは?!』


 膝の上に、ふっくらと輪郭を丸くした黒帽子が乗っている。

 声を荒げたり興奮したりする際には、まるで猫が背中を丸めて威嚇するようなフォルムになるのが、ほんの少しだけ面白い。


「そうね。たまには大師匠の顔を立てることも大切かしら」

『たまにはでなく! いつも敬ってこその弟子というものだろう!?』

「はいはい」


 軽く流して、ソフィアは膝の上の黒帽子をそっと両手で持ちあげる。

 今宵は半月。

 月の光を喜ぶのが悪魔であるとするならば、それすらも厭うのが魔女たる証だ。

 深く深く、月の光すら届かぬ深遠の底でじっと身を隠し、呪われた生を生きるモノたち。

 それにも関わらず、陽光を浴び、心身の充実を得ることの叶う矛盾。

 哀しみを超えて、もはや滑稽ですらある。


「……正攻法で語らないのなら、それ以外の方法で暴くだけね」

『そのやる気を、どうして普段から発揮しないのだ! 嘆かわしいぞ!』

「面倒臭いのは嫌いなだけ。私は出来るだけ静かに生きて死にたいの。余分な狂騒や、鼻につく血の臭気、身を滅ぼすだけの欲望に晒されるのは、もう御免だわ」

『……寝坊すけ』


 ぽん、と座っていた椅子に帽子を置き、ソフィアは酷薄に笑う。


「だから、出来るだけ早く依頼を終わらせる。その結果がどう転ぼうと、国が一つ傾こうと、依頼主の望みを叶えれば、それでおしまい」

『うむ! まぁ、なんだ。……あれだ。出来れば穏便にまとめるに越したことはないな! 肝心の依頼主が傾いては依頼料も満足に得られまい!』

「……ふふっ。揺らがないわね、大師匠?」

『金は程々にあって、困ることはない!』


 相変わらずの発言にソフィアは苦笑を零した。まぁ、でも間違ってはいないのだろう。いつの世にも衣食住に金銭が欠かせないことは事実。

 ただ、発言しているのが人間以前に帽子というだけでどうしてこうも微妙な気持ちにさせられるのだろう。

 ソフィアは宙ぶらりんな心持ちを解消すべく、目の前の黒帽子をぐにーっと真横に引っ張ってみた。


『おい、止めろ、止めるのだ! いたずらに師匠の身を玩ぶとは、弟子にあるまじき行為であろう!?』

「……さてと。少しだけ苛立ちも解消されたわ。そろそろ行きましょう、大師匠」

『無視か!?』


 騒がしい黒帽子の嘆きを頭上に聞きながら、ソフィアは部屋の窓を一気に開け放つ。

 北方の吹き込む風には、身も凍えてしまいそうな冷たいものも混じっている。けれども、好ましい。

 身を優しく抱き込むような暖かな春風よりもずっと、冷えた夜の風を愛しているのだ。


<風の愛し仔よ、運んでおくれ。疾く、音無く、地を這う者たちの目に触れぬ加護をもって>


 飛行のルーンを口遊み、魔女は夜色に染まる。

 往く先は、告げる必要もなかった。



 *



「……一体全体、どういうつもり?」

「夜分遅くに御機嫌よう、王様。申し訳ないとは思うけど、生憎私は自分の目で見て確認したことしか信用できない質なの」

『お邪魔するぞ!』


 日にちこそ跨いではいないものの、深夜といって過言ではない時間帯。

 目指した先の窓は、まだ明かりを灯していた。

 ふわり、と音もなく舞い降りた先で四方に張り巡らされた『守護』をソフィアは煩わし気に破り捨てつつ、窓越しに確認できるシルエットの主がそろそろと近づいて窓を開けるまで、無言で待っていた。

 ちなみに無視した場合、最終手段を発動することも辞さないつもりで。具体的には? 黒帽子を窓の外に置いて、延々と叫ばせ続けるつもりでいた。鬼畜? 否定はしないけれど、それより何より今はただ早期解決が望ましい。

 だからこそ王様が姿を現した時は、正直安堵の気持ちが勝った。

 こんな手段を取っておいて虫が良すぎるのは重々承知。それでも、面倒事を極力避けたいのは確かだったから。


「……一応、確認しておくけど。夜這い云々ではないよね?」

「それは遠回しな愚弄のつもり?」

「いや、分かってはいるよ。……だから、その。念の為に聞いたまでで」

『無理もないな! 王である以上、その子種には相応の価値がっ、』

「そうね。一応は王族だもの。その血は決して軽いものではないのね」


 言葉を被せ、強制的にうやむやにする。

 微妙な空気を作るのも吸うのも御免だ。

 カーテンを捲り、呆然と立ち尽くす小さな王様を見下ろす形でソフィアは立ち、小さく溜息を零す。

 仮にも王族に対し、約束も何もなく、夜間に窓からの訪問となれば通常即刻で首が飛ぶ。ただし、それは只人に限った話であるわけで。

 魔女を害そうと思えば、それ相応の準備なり、人手なり、大義なりが必要となる。傲慢でも何でもなく、それは純然たる事実だ。

 積んできた経験や年数からすれば、ソフィアは魔女たちの中では新参者。とは言え、師匠がかつて魔女長に推挙されたほどの人物であること、ソフィアが魔女になる際に捧げた代価の大きさなどの諸々を鑑みれば、最低でも選りすぐりの魔術師を十名以上、騎士団を二つは動かさないと到底天秤は釣り合わない。

 従って、世にいう常識も魔女には当てはまらないという暗黙の了解が成り立つのだ。

 魔女、それすなわち非常識であると。


「それで? 具体的には何を望んでの訪問なのかな?」


 迷惑そうな表情を隠しきれてこそいない(そもそも隠す気があるかすら不明だ)が、基本的には話の分かる王様だ。

 初対面の折の印象を除けば、個人的にソフィアは嫌いではない。


「観察」

「は?」

「対象から語られる言葉よりも、対象から得られる印象や導き出される情報を()て、魔女はそれを知るの。私はまだ昼の貴方しか知らない。だから、夜の貴方を観にきた。ただそれだけよ」

『うむ、それは魔女として至極真っ当な言い分だな!!』

「……よ、夜の自分? なんか言葉尻だけ聞くとヤラシイ感じがしないでもないんだけど……」

『うむ、ヤラシイとは実に良い響きだな! 人の夜の営みとは、その実……』

「それはあくまでもあなたの主観よ。魔女の私に同意を求めないで頂戴」


 ウザい。兎にも角にも合間合間の帽子がウザい。

 ソフィアは心の底から後悔した。やはり部屋に置いて来るべきだったと。

 変態に反応を返せば、全部ご褒美。それを知るソフィアは決して反応してやるものかと内心に言い聞かせるが、言葉や態度の端々に苛立ちが隠し切れるわけもない。

 まるで冬の夜のように、底冷えのする声が出た。

 それはいつにも増してざっくりと言い捨てられた言葉だった。

 真正面から受けた向かいの王様(要するに被害者)が、やや引き攣った面持ちで「……魔女ってこんな感じなんだ」と呟きを零すのも無理はない。

 その発言に対し、ソフィアは肯定も否定もしない。

 何故って、それはもちろん面倒だからだ。


「でも、まさか一晩中観察し続ける気じゃないよね?」

「何か不味いことでも? 今の貴方を観る限り、夜伽を出来るゆとりがあるようには思えないわ」

『男としての能を失うなど……まさに悲劇だな! さぞ口惜しかろう!』


 どの口がそれを言うのか。そもそも帽子に哀れまれる状況からして、意味が分からない。

 ソフィアは無言のまま、悲鳴を上げる帽子をギリギリと音を立てて左右に引っ張る。断末魔じみた叫びも、真に受けてはいけない。

 この帽子が有する『絶対防御』の四文字は伊達ではないのだから。

 それでも制裁に踏み切る理由。簡単だ。このままでは進む話も進まない。

 要するに、強制的に場の空気を断ち切るだけの意図しかない。あと、ほんの少しだけストレスの解消。

 そもそも悪魔憑きが異性と交わろうとした場合、大抵は相手が壊れる。至極単純な話、悪魔の魔力に充てられて無事でいられる人間など、史実を辿っても数えるほどしか確認されていない。大抵の人間は心身を喪失し、最悪の場合は死に至ることすら無くもない。

 しかし、この王様の場合はそれ以前の話だろう。退行化の呪いが掛けられている為に、そも身体的に交情が可能なのか、という疑念が拭えないのだ。

 まぁ、言葉にして言えない分は暈すに限る。善人ではないとはいえ、殊更非情であるつもりもないのだから。


「まぁでも、違いないよね。……さすがに、こんなにはっきり言われる日が来るとは思わなかったけど」


 乾いた笑いを零す、小さな王様。

 その背後に見える王の私室は、昼間とはまた印象も違う。四方に吊るされて灯るのは華明りと呼ばれるランプだろう。無機水晶と呼ばれる特殊な鉱物に、様々な効果を付与して創られると聞く。

 さすがは国の頂点へ贈られたものだけあって、装飾の美しさだけに限っていえば目を瞠るほどの出来栄えだ。ただ、そこに付与された『祝福』はソフィアの目を通しても、あまりに粗末に過ぎる。

 察するに、器が上等過ぎたため、中身が釣り合っていないのだろう。


「ねぇ、王様。どうして昼間はひたすらにドレスを切り刻んでいるのかしら?」

「……随分と率直に聞いたものだね。うーん、言うなればあれは代償行為? みたいなものかな」

「何に対しての代償?」

「生身の女性を切り刻むより、マシでしょ?」


 どうやら『あれ』は俺にそうさせたいみたいだけど、流石に個人的にも一国の王としても、そんな欲求に唯々諾々と従う訳にはいかないから、と。

 なるほど、まさに悪魔憑きである。

 自らが望んでいない筈の行為であっても、その心身を宿主とされた時点で湧き上がる破壊衝動や、悪魔自身が抱く欲求が伝播し、影響を受けることは儘あるものだ。

 ソフィアは無言で頷き、微かに嘆息する。


「王様。率直に一つ、聞かせてもらいたいことがあるの」

「……立ち話もなんだし、とりあえず窓を閉めて入っておいでよ。どうせ魔女殿は帰るつもりもないのだろう?」


 初めて目を合わせた時から、絶えず感じる違和感。

 ソフィアは未だにそれを掴み切れてはいなかった。

 幼げな容貌に見合わぬ憂いを纏う王様の問いに、小さく頷きながら、改めて思う。


 ――確かなことは一つだけ。それはこの人が何かを『恐れている』こと。

 だからこそ、一等面倒なのだ。

 人が根源的に持ち合わせる感情として最も強いのは、憎しみ以上に恐怖であることをソフィアは知っている。

 経験にして、最悪。

 故に、吐き出す溜息もいつも以上に重いのだ。



 *



「その帽子、ふざけた口調こそしているけど内包されている魔術量はとんでもないよね? あの子が興味を示すのも、正直無理はないと思ったよ」

『ふざけた口調とは何だ! 至極真っ当であろう?!』

「……あの子、というのは末恐ろしい王女様のことね?」

「イザベルは幼少期、宝物庫を遊び場にして育った変わり種でね。思い返せばあの頃から、妹にはモノを見る目が育っていたのかもしれない」


 コトリ、と国の王自らが運んできた茶器から漂う湯気。

 ふわりふわりと高い天井へ向かって上がっていくそれを横目に、ソフィアは子犬のように膝の上で騒ぐ帽子を撫でて落ち着かせた。


「これは、師匠から譲り受けた一つ。確かに普通の魔法具には分類し難いと思うわ」

『むしろ至上の存在と呼ぶべきであろう!』

「なるほどね」


 小さな王様は相槌を打ちながら、テーブルに身を乗り出すようにして茶器の中の茶葉の開き具合を見計らっている。

 中々微笑ましい構図ではあるが、同時に少なくない違和感がもう一つ積み重なって音を立てる。


「王様?」

「質問を許すよ。ただし、条件が一つ」


 ポン、と茶器の中で広がる花の薫り。

 開いた花弁の色は、きっと薄桃色。王都周辺にしか出回っていない、貴族御用達の高級茶だと思う。


「魔女が扱う秘術の中に、モノ探しの術式はある?」


 王は、まるで全てを諦めた様な眼差しで問う。

 僕がかつて失くした指輪を、魔女である貴方なら見つけられるだろうか、と。


「それは、いつ、どのような形で失くしたの?」


 まるで、何かに縋る様な微かな希望を眼差しに込めて王は語った。


「……あれを失くした日、俺はあの悪魔に魅入られたのだと思う。夕刻に亡くしたことに気付いて、城内を隈なく探したけれど、結局見つかることはなく夜を迎えたから」

「失ったきっかけは?」

「……それは、思い出そうとしても靄がかかったみたいでまるで駄目なんだよ。今もそれは変わらない」

「そう……ああ、そうね。その指輪はそもそも誰の持ち物だったの?」


 魔女の問いに、青い双眸が束の間翳る。

 少し、迷うような素振りの後。小さく、途切れがちに王は答えた。


「亡き、母の形見なんだ。唯一の形見で、だからずっと肌身離さず、右の小指に付けていたのだけれど」


 どうしてそれが、あの日。いつの間に指から外れていたのか。

 彷徨うような眼差しが、言外にその疑問を魔女である自分へ伝えているようだとソフィアは思う。

 だから、静かに頷いた。

 魔女である彼女からの、無言の受諾。それを受けた王は、そこで初めて笑みを浮かべて見せた。

 泣きそうで、今にも笑い出しそうな。

 相反する思いを内包したそれが、本来の彼の表情なのかもしれないとソフィアは思う。


 一時の静寂の後、カップを置いた彼は再び王の顔に戻って告げた。

 その時にはいかなる問いかけにも答えよう、と。



 *



 翌日の朝、刻にして六つ。

 王都の教会の高らかな鐘の音で目覚めたソフィアは「ふぁー」と気の抜けた様な声を上げた後、純白でふかふかの寝台の中から芋虫の如く這い出て、ひとまず窓辺で陽光を浴びることに半刻を費やした。

 久々に満ち足りた睡眠を貪ったソフィアは、いつになく機嫌が良い。


『寝坊すけ! おい、寝坊すけよ! 今後の指針はもう決めたのか?』

「あぁ、おはよう大師匠。今日も素敵な囀りね。まるで天上を舞う小鳥の様よ」

『……ね、寝坊すけ? おーい、どうした? いつもならここで「煩いわよ、大師匠。少し黙りなさい」と氷河の如き眼差しで私を罵倒するところだろう……? も、もしや具合でも悪いのではないか?!』

「まぁ、なんてことを仰るの? 大師匠を常日頃から敬愛してやまない私が、そんな不遜で失礼な物言いをする筈がないでしょう。大師匠こそ、具合が悪いのではなくて?」

『……ね、寝坊すけ?! もしや、もしやお前……! 眠り過ぎたのか?! し、正気に戻るのだ! しっかりせよ!!』

「大師匠こそ、興奮し過ぎではありませんの? ここで横になってくださいませ。すぐにお医者様を呼んで参ります」

『や、止めてくれ! そんな急に敬われて、優しくされたら私はっ……!!』


 ――とまぁ、あまり弄り過ぎて帽子が精神を病みかけたため、この辺りで止めておく。

 ほんの少しの悪戯心がもたらした被害は、思いの外大きい。寝台の周りだけ、集中豪雨に見舞われたように、びっしょりと一面に浸水した。

 はたしてこれは、汗か涙か? 

 内訳が謎ね。


「そろそろ落ち着きました、大師匠?」

『このっ、大師匠を散々玩ぶとは……何と言う、何という師匠不幸者か……!』


 打ちひしがれた黒帽子は、まるで波打ち際に打ち上げられた瀕死の魚の如くだった。

 余裕があるからといって、帽子で遊ぶのも程々にしておかないといけない。

 ソフィアはまた新たな学びと反省を得た。


「大師匠、そろそろ朝食の準備が整ったようなので食堂へ行ってきます」

『ま、まさか……泣き伏している私を置いていくとは言うまいな? な?』

「……だっていつ泣き止むともしれませんし。そもそも大師匠に飲食の必要性はないでしょう?」

『わ、私も連れてゆくのだ!! よいな、これは大師匠の命令なのだ!』

「……まぁ、そこまで言うなら」


 びちゃびちゃに湿った黒帽子を浴室でぎゅーっと、力の限りに絞ってみる。


『わ、私に雑巾絞りの要領を応用するでない!!』

「……えぇ。だって、そのほうが効率的……」

『この師匠不幸者がぁ!!』

「……面倒臭いわ」


 結局のところ、普段とそう変わらぬ朝となった。



 *



「指輪? あの兄が、指輪の捜索を貴女に依頼したとそう仰るの?」


 真ん丸に見開かれた深緑は、流石は兄妹といえば良いのか。色彩は瓜二つだ。

 元より、古今東西多くの国において国主となる血筋に発現されやすい色味といってしまえばそれまでだが。


「ええ、確かにそのように。ですので今日は丸一日、解呪ではなく物探しに費やすことになるかと思われますので、先立って報告を。ついては王城内の捜索を許可いただけますか?」

『限りなく不本意ではあるが、国主の出した条件となれば無碍にも出来まい!』

「たった一日で、あの兄をそこまで懐柔してのけるなんて……。あぁ、何てこと!」


 ブツブツと何事かを囁いた小さな王女殿下は、なぜか頬を夢見るようなバラ色に染めながら「期待以上ね。もう絶対に逃がすものですか……」と、どこか不穏な呟きと共にじりじりと間合いを詰めてきた。

 見目は小動物といっていい可憐さなのに、色々と台無しである。


『結界、発動!』

「きゃあ、痛たた……まぁ、たった一言でなんて硬度の結界を張られるのかしら? 本当に興味深い帽子ですこと」

「大師匠、やりすぎよ」

『そうは言うがな、ちょっと怖かったのだ! それに私は食事の邪魔をされるのが嫌いだ!』


 まぁ、そこは何だ。同意したい気持ちだったのは否定しない。確かにちょっと怖かった。

 具体的には、捕食者的な目つきが特に。

 しかし相手は、仮にも王族である。周囲に付き添うお付きの面々から、只ならぬ視線を向けられている状況に何も思わずに食事を続行できるだけの気力もない。

 城専属の料理人が魂を込めて作る朝食。その看板に嘘偽りは全くない。だからこそ生じる未練の先には――。

 ホカホカと湯気すら見えそうな、香ばしい中にもふっくらとした芳しい香りを放つ至高のパン。

 せめて、せめて……あの焼き立てのパンをもう一つ食べておきたかった……。

 ソフィアは内心で、血の涙を流していた。


「……十分頂きましたので。私たちはこれで部屋に籠って探索に掛からせて頂きます。では」

『何っ?! まだ腹は六割弱といった具合だぞ?!』

「まぁ、魔女様は随分小食でいらっしゃるのね? せめて食後のデザートを向こうのテーブルでご一緒にいかが?」

「折角のお誘いですが、遠慮しておきます」

『寝坊すけ?!』

「それはとても残念ですわ」


 朝から、断腸の思いで席を立つ。

 王女の慰留をすげなく拒否できることもまた、魔女であるが故の選択肢。

 ソフィアは指定された食堂を背に小走りに逃げ出し、小さくない溜息と共に吐き出しかかった「何がどうして王族専用食堂……」を無理やり口の中に押し込めた。


『……うぅっ、せめて、せめてあの焼き立てパンだけでも……』


 珍しく意見が一致したわ。

 ソフィアは自らも若干の空腹感を誤魔化しつつ、兎にも角にも件の指輪を見つけだすのが最優先だと気持ちを切り替える。

 ぐずる帽子を被り直し、与えられた部屋へ戻るやいなや、決然とした面持ちで言い切った。


「大師匠、手を貸して頂戴。魔力を足して、少しでも失敗のリスクを減らして望みたいの」

『腹が減っては、戦は出来ぬ……』

「ねぇ、どこに出る腹が?」

『!!!』


 その真っ当な問い掛けがもとで、再び寝台周りが浸水の憂き目にあったのは想像に難くない。

 情緒豊かな帽子を持つと、こうした苦労があるのが頭痛の種であったりする。



 *



「……それで? 報告できるだけの成果はあったのかな?」

「地上にないことだけは、確かね」

『うむ、確かだな!』


 昨夜と同じ光景の中で、ソフィアは一応の経過報告を行う。

 与えられた私室で『探索』のルーンを紡ぎ、広範囲での魔力物体の関知を行うと同時に『探知』の<印>を刻んだ使い魔たちに、城の至るところを這ってもらった。

 結果、時々城のあらゆるところから侍女や文官たちの悲鳴が木霊することもあったが、そこはそれ。

 まぁ、蛇やトカゲに親愛の情を抱ける人間の方が少ないだろう。無理もない。配慮が足りなかったことについては少なからず反省している。

 それに対し、向かいの王様は大して驚きもせず、まして落胆の色も見せなかった。昨晩とは違う茶葉をティースプーンに掬い上げながら、苦笑を返すのみである。


「まぁ、予想はしてたよ。要するに現世にはすでに無く、向こう側にあるんだろうね」

「随分、淡々としてるのね?」

「これでも一応は、国を預かる身の上だからね。私心を隠すことくらいはお手の物だよ」

『貴族のトップだからな! 腹芸に長けずして傀儡以外の道はあるまい!』

「聡い帽子だね。君の言う通りだよ。所詮、王族なんて仮初の統率者。いざという時の国の贄で、唯一血の流れをして、高貴と奉られる存在でしかない。……ふふ、それを忘れたらどこまでも堕ちていけるさ。何しろ頂に立つ以上は、下手を踏めば転がり落ちる一択しか端から無いんだから」


 見た目はお子様でも、その双眸は凍え切り、色彩の殆ど感じられない諦念に満ちている。

 紛れもない王の眼だ。


「自虐的ね」

「……ゆとりがないだけの話だよ。周辺国家の国主たちに比べ、俺自身に誇れるだけの異能の類はない。国が保有する戦力も、先の大乱を経て縮小された結果が、辛うじて領土を守れる程度。名のある魔術師を抱える訳でもなく、英傑と呼ばれた面々もすでに多くを喪った。まさに瀬戸際さ」

『その認識は正しいな! ここクラウディルの両隣は古の黒き龍皇帝、先読みの姫巫女が統べし宗教興国と、どちらをとっても濃い面子に固められているにも拘らず! 今代まで、どうして併合されずに生き残れたかと常々不思議に思っていたところだ!』


 帽子が高らかに名を上げたところの、古の龍皇帝と先読みの姫巫女。

 どちらも師匠の古くからの知人だ。ソフィアも、一応は面識がある。だからこそ『彼ら』がどうして今までこの国に完全なる制圧を仕掛けてこなかったのかは、容易に想像もついた。

 多分、この国は両国にとっての境界であり、同時に楔なのだろう。


「大馬鹿師匠、そんな簡単な疑問の答えにいつまでも頭を悩ませないで頂戴」

『!!!』


 バッサリと言い捨てれば、見る見るうちに萎れていく黒帽子。

 聡いと持ち上げられた直後の大馬鹿への急転直下だ。無理もない。でも、本当に簡単な答えなのだから、他に言いようがない。


「ハイディア帝は自国に害を及ぼすと判断しない限り、積極的な争いは望まない方よ。フェルターナ巫女長は現時点でこの国を占領するほどの興味を抱いていないわ。多分、この先もない。それで龍の怒りを買うことのほうが遥かに厄介だから。それにクラウディルの南端にある白銀渓谷に隠棲している『あれ』の存在を忘れたの?」

『……そ、そうであったな! たしかに『あれ』の平穏を乱すことは、両国主にとって災いとなろう……』


 萎れた帽子が、膝の上でたちまち直立する。その様子を見る限り、失念していたのは本当らしい。

 ソフィアは呆れると同時に、少しだけ感心してしまった。

 懐が深いというか、何というか……うん。


「……ちょっと待った。君たちが言う『あれ』って何のこと?」


 小さな王様は、たぶん彼自身が思うほど酷い王様ではない。

 本当に愚かで蒙昧だと称されるのは、分からないことをそのままに、無責任の付けを臣下や民に支払わせる統率者であると。

 いつであったか、師匠はそのように言っていた。

 氷のような両目で、どことなく愉しげに。


「大馬鹿師匠、こういう事の説明はあなたの方が長けているでしょう?」

『う、うむ! 流石は愛弟子よ!』


 場を譲れば、途端に再起する。ぴん、と直立した先っぽはまるで黒猫の耳のようだ。


『遠回しな言い方は却ってややこしくなろう! 故に! 簡潔に申せば、白銀渓谷に隠棲しているモノとはすなわち、先代の妖精王だな!』

「……妖精王?」

『何だ、知らぬのか?』

「無理もないわ。こちら側の災いや不思議の類は、総じて悪魔や精霊の仕業として片付けられてしまう傾向にあるもの」

『なるほど! ふん、彼奴らにとっては棲みやすい世の中になったものよ……』


 悪魔たちが契約を依代に、地の底より這い出てくるものと定義すれば。

 精霊は、自然の中に生まれ、そこに息づくモノたちであり。

 そのどちらにも類せぬ者たちを、惑わしのモノ。或いは、妖精と呼ぶ。

 自然の中で遊び、人の営みを傍らにして、時に饗応し、時に食い扶持とする。実は、上の二者以上に関わり方が難しい種族の代表例だ。


「妖精の厄介なところは、契約や加護といった形で人に縛られず、時に大いなる災いを、時に過分な寵愛を、あくまでも一方的に与えてくる点に尽きるわね」

『ふむ! 実に簡潔な要約だな! 師匠冥利に尽きるぞ!』

「はいはい」


 ご機嫌な帽子を抱え直し、ソフィアは目の前の王様の表情を密かに観察する。

 琥珀色に朱を混ぜた様な、深みのある紅茶の水面にポトン、ポトンと角砂糖を落としながら、あくまでもさりげなく。


「……妖精、か。御伽語りの存在でしかないと思っていたけど」

「この世に存在する伝承の殆どに、元を辿れば起源となる存在があったの。今は亡き、古の真竜や北東の巨人族、霧海の大烏賊や、西南の八つ目蜘蛛。吟遊詩人たちのように歌い継ぐ存在がいなければ、存在した事実すら知られずに歴史の中に山積され、埋められていくばかりの種族が、この世の中には掃いて捨てるほどいるわ」


 多分、魔女もいずれはその中に含まれていくのだろう。

 それはいつからか、自然に生まれたソフィアの感慨。そしてそれを思うたび、思い出す。

 いつであったか、本当に『覚悟』はあるのかどうか、師匠に問われたあの瞬間を。


 ――魔女は、遠からず確実に周りから忌まれる存在になる。根拠のない蔑視の眼差し全て、お前に受け止めて生き抜くだけの意思があるのか?


 一呼吸の後、迷わずに返した言葉。

 それを聞いた師匠が初めて瞠目し、苦笑を返したあの瞬間から、たぶんソフィアは本当の意味で魔女となった。


『先代は殊更、人間で遊ぶのを好む傾向にあったな! 故にあれが在位の数百年は多分なる災害、大きな戦乱で尽く世が荒れたものよ!』

「ええ。疫病も各地で蔓延したことで、最悪な状況に拍車をかけたわ。まさに地獄絵図といって過言ではない歳月を送らされたものね」


 淡々と語る眼差しの中に、ぐるぐると渦を巻いて踊る災禍の数々。

 瞼を閉じ、一瞬の嘆息と共にソフィアはそれを心の奥底へと仕舞い直す。


「それはさておき、そろそろ話を本題に戻すわ。指輪のことだけれど、違う次元にわざわざ足を運んでまで探す必要はないと思うの。こちら側に無いと分かった以上、誰がそれを持っているかなんて今更話す必要もないものね?」

「……まさか、直接取り返すつもり?」

『恐らくだが! 王家に伝わる指輪となれば、そこに込められた加護は相当のものであろう! 故に、それさえ取り返して再び加護を上乗せしてしまえば、憑りついた悪魔がどれほど格上の存在であろうとも、地の底へ帰らざるを得まいよ!』

「そうね。ただ加護の隙間に入り込み、存在を維持しているだけの場合なら……それでも十分に対処は可能でしょう。問題は、憑りつかれた本人が悪魔と何らかの取引を交わしているか否か」


 じっ、と魔女の眼差しが王を射抜く。

 見透かすようなそれは、夕暮れの空と同じ色を宿している。


「ねぇ、王様。貴方は一体誰を守ろうとしてその身を悪魔に明け渡したの?」


 静かで、向けられた相手の心が震えそうなほど優しい声色でソフィアは静かに問う。

 人は愚かしい種族だ。けれども同時に多種族が持ちえない美点をも併せ持つ不思議な種族でもある。

 かつて、人として生きていたソフィアはそれを十分すぎるほどに知っている。

 長く、気が遠くなるほどの歳月を振り返る度に、綺羅星の如く心に微かに灯る熱。

 時として誰かの為に何の見返りも求めず、献身的な愛を示すことがあった人と出会う度、ソフィアは憎悪に染まりかけた心を今までに幾度も洗い流してきた。


 怠惰と平穏が創り出す、偽りの情愛などではない。

 本来の意味で人が試されるのは、命も、心も脅かされ、追い詰められた先。

 己が身を省みず、向けられた眼差しの清廉さは何よりも美しく、尊い。

 時に強く、時に勇ましく、時に涙に濡れて、時に挑みかかるような。

 決して自分が宿すことのない、美しい命の色を見る度に。

 ソフィアは、人への憎悪を少しだけ忘れることが出来る。


「……恐ろしいね、魔女というものは。何も語らずとも、とっくに見透かされているんだから。今までの苦労全て、ひどく馬鹿馬鹿しいものみたいに思えてきたよ」

「契約の内容は初めに貴方が言った通り、他者へ語ることを封じられているのでしょう? 元よりその言葉が出た時点で、貴方が悪魔と契約を交わしていることは明らか。悪魔は、余分な言葉を厭うものよ。まぁ、人くらいなものでしょう。言霊の力を安易に考え、時としてそれを要因に破滅の道を自ら選び取るような生き物は」


 だからこそ、滑稽で愛おしいのだと。

 いつであったか、ある悪魔が言っていたものだ。共感など死んでもするつもりは無いが、その言葉の意味は分かってしまう。


『全くだ! 言葉というものは本当に恐ろしい。その選択次第で、魔術を扱う者にとっては致命的となり兼ねん!』

「……余分な言葉を厭う、か。でもあれはどちらかと言えば……」

「何か気になったことがあるの?」

「まぁ、大して役には立たないと思うけどね……」


 一言言い置いて、王が魔女へと語った『印象』が、ソフィアの脳裏に一つの仮定を結ぶこととなる。

 それは今までの前提を、根底から覆すようにして導き出される答え。

 黒帽子の先っぽが、ピンと尖ったことからも、きっとおそらくそうなのだ。



 *



 与えられた部屋へと戻った頃には、空はだいぶ明らみ始めている。

 差し込み始める陽光に目を細めながら、ソフィアは無造作に窓を開け放つ。


「……ここはやっぱり、専門家の意見を伺うべきね。そうでしょう?」

『……うむむ。気は進まぬが、仕方もあるまい!』


 頭上の帽子からも、一応の承諾を得た上でソフィアは口許へ指先を当てる。

 そしてヒュイー、と高らかな口笛を響かせた。

 その呼び出しは、速やかに受諾されたらしい。

 大気がほんの微かに揺らぎ、空間の隙間からするりと姿を現した濃紺が、バサバサと羽音を立てる。


『親愛なる主殿、呼び出しに応じて速やかに罷り越しました』

「久しぶりね、ルイル」

『何なりとご用命下さい。この身に出来得る限りのことは、迅速に成し遂げてみせます』

「心強いわ。じゃあ、早速で悪いのだけれど……」

『ルイル! 速やかに妖精博士(エルフィエル)の下へ行き、妖精祓いに関する知見を聞いてくるのだ!』


 言いかけたソフィアの言葉を遮るように、突如として頭上から高らかな声が一つ。

 言うまでもなく、黒帽子だ。

 ちらりと全身と同じ濃紺の眼差しを向け、ふいと首を逸らしたルイルはどうやら聞かなかったことにしたらしい。


『主殿、伺います』

「まぁ、私の言いたいことは……先立って上がった声が言った通りよ」

『主殿より伺ったことのみ、私は用向きとして聞き届けることにしております』

「相変わらず真面目ね、ルイル」

『私の主は、貴女様お一人でございますれば』


 その後、多少のひと悶着があったことはあったものの、結局のところはルイルが一枚上手である。

 いや、むしろ大人と言った方が良いのだろうか。

 縄張りに入り込まれた雄猫が精一杯の威嚇をして、相手を速やかに追い出そうとする様にも酷似していた黒帽子がいる一方で。

 その存在を視界の隅に据え置いたまま淡々と用向きを聞き、聞き終えるや早々に、ひらりと身のこなしも軽く大空へ両翼を広げて去ったルイル。

 昔から、何がどうしてこの両者の相性は絶望的にかみ合わないのだ。


『ううっ……使い鴉の分際で、この私の言葉を一つ残らず無視するとは!! 許しがたいぞー!!』


 まるで手本の如き負け犬の遠吠えを傍らに、ソフィアは次の手を打つべく異空間(ポケット)の整理に入る。

 良い仕事をするためには、周到な準備が欠かせないからだ。

 フシャー、フシャーと未だに落ち着く気配を見せない帽子をそっと窓辺に置き、ソフィアは内心で思った。

 もう少しだけでいい。ルイルにも譲歩をしてもらいたいものだ、と。



 *



 物事には犠牲がつきもの。

 どうしても、その人物と向かい合って話をする必要性があると悟った時点でソフィアは決めていた。

 我ながら非情だとは思うものの、他に出せる選択肢もなかった。


『……ううっ、この師匠不幸者め……』

「あら、意外に手触りは素敵ですわね。古ぼけてみえるけれど、汚れもさほど気になりませんし……うふふ、魔女様共々、是非手元に置きたいものですわ」


 尊い生贄である。

 何としてもその犠牲を、無駄にしてはならない。

 その恨めし気な呟きは、いかに魔女として数多の悲劇を見過ごしてきたソフィアをしても、それなりに胸に応えるモノであったのは事実だ。

 それでも、あえて見過ごす。

 後半に漏れ聞こえてくる本音っぽいものが、地味に怖かったりもするが、そこはそれだ。

 黒帽子もまた、王女殿下の膝の上でブルブルと震えを隠しきれていないあたり、同じ恐怖に晒されているのだろう。


「イザベル王女、率直にお尋ねしても?」

「ええ、私と貴方様の仲ではありませんの。気兼ねなく、お聞きになって?」


 どんな仲だ。

 しかし、決して突っ込んではいけない言葉というものが、この世の中には確実に存在する。

 ソフィアはその辺りを重々承知していた。


「貴方のお兄様が失くされたと言った指輪。元々これを付けていたのは、貴女では?」

「ええ、確かに。元々失くした指輪は私のものです。あの日、不注意で指輪を失くしてしまった私に兄さまが自らが嵌めていた指輪を代わりに付けて下さったのですわ」


 微笑みながらそう言って、微かに首を傾げてみせる小さな王女。

 それが本当の意味で成熟を迎えていない仕草であるのか、もしくは装っているだけなのか。

 いずれにしても、ソフィアにとっては関わりのないことだ。

 必要なことが確認できただけで、十分。

 これ以上の詮索は、魔女の領分を逸脱してしまうのだから。


『あの王様も、中々に難儀なことよ!!』


 震え声でも、思わずと言った調子で声を上げてしまう帽子の方が、余程に自分よりも血が通っている。

 そう思わずにいられない、今日この頃。


「貴重な時間を割いてお会い頂き、感謝します」

「少しでもお役に立てましたかしら?」

「ええ、とても」


 無駄のない歩調で歩み寄り、王女の膝から黒帽子を回収したソフィア。

 微笑む彼女に一礼して、招かれた部屋を後にした。

 重厚な扉を背に、真紅の絨毯が目にも鮮やかな回廊を淡々と進む。


『……ううッ、未だに寒気が治まらん。おい、寝坊すけよ。この貸しは高くつくぞ!!』

「ごめんなさい大師匠。でも助かったわ。お詫びに一つ、叶えられる範囲の要望を聞くから機嫌を直して頂戴?」

『な、何でも……だと?』

「勝手に言葉を曲解しないで。叶えられる範囲でと言ったでしょう?」


 ソフィアが呆れ声で念を押すも、肝心の帽子は何やら頭上で『何でも……となれば、少しくらいの逸脱は……いやいや、程々にしないとあいつに殺されるか。いやでも……』と譫言めいた言葉を繰り返しつつ、恋する乙女が如くモジモジとした様子を崩さない。

 内心、かなり引いた。

 やっぱりこの帽子とは、徹底的に合わない。

 ソフィアは図らずも、その辺を再確認することとなった。



 *



 夜半、月明かりを宵闇のルーンで遮りながら、うつらうつらと『返信』を待つソフィア。

 長椅子に寝そべるその腕の中には、ご満悦の黒帽子が抱えられている。


 ――今宵は、私を抱き枕代わりに眠ることを命ずる! これ位の望みを叶えるのは、容易かろう?!


 数時間にわたって悩みに悩んだ挙句、突如としてそう叫んだ黒帽子にソフィアが微妙な眼差しを向けたのは、もちろんその要望が荒唐無稽で、とても叶えられたものではないと思ったからではない。

 寧ろ、そんな事で良いのかと内心では拍子抜けしてしまったくらいだ。

 そもそも昼間だって抱えて運ぶこともあるのだ。夜眠るからといって、大した違和感もない。とは言え、若干の戸惑いは隠しきれずに半眼で抱え込んだ訳ではあるが……。


『うむ、中々程よく育ったものよ! 寝坊すけ! もっとギュッと抱えるのだ!』

「……はいはい」

『むふふ、至福なり! 偶にはこれ位の役得が無ければな!』

「大師匠? セクハラじみた発言も程々にして。気が散って仕方がないわ」

『なっ?! ……もしや諸々、ば、ばれていたのか?』


 寧ろどうして、ばれていないと思うのか。

 抱えるなり、スリスリと猫が額でマーキングをするが如く摺り寄せる仕草にしても。

 口しかない筈なのに、鼻息が荒いとしか表現のしようがない興奮度合いを見ても。

 さながら童……失礼、初心な青少年が如きその有様を見て、何も察せずにいられるほどに天然お花畑な思考はしていない。


「そこらの生娘同様に扱わないで頂戴。何年生きていると思っているの?」

『ふ、不覚! ならばもっと……』

「あまり度が過ぎるようなら、次に会った時に師匠に報告するわよ。覚悟はできていて?」

『……』


 無言で固まる帽子に、然もありなんと溜息を落とすソフィア。

 改めて言うのもあれだが、師匠が自分に向ける過保護度合いは常識を軽く上回っている。

 魔女になってこの方、まともな恋愛すら経験していないと言えば何となくでも察してもらえることだろう。


 ちなみに、大方の魔女が性に関しては割合に奔放であるというのは、それなりに有名な話だ。


「師匠はそういう所、ひどく真面目で潔癖なのよね……なぜかしら?」

『……あれは過保護云々以前に独占欲とか、執着の類だろう……』

「何か言った?」

『いや! 独り言だぞ! 断じて私は何も言っておらんからな!』


 帽子にしては、もごもごと喉の奥に小骨を閊えさせたような、ひどく曖昧な小声。耳を傾けるも、今一何を言っているのか分からなかった。

 聞き返すも、何やらひどく怯えた様子で胸の奥へ縮こまる一方でさっぱり要領を得ない。

 珍しいこともある。


「……まぁ、いいわ」


 面倒事を掘り下げるような性格は、元よりしていない。ソフィアは抱き枕化している帽子に頬を寄せ、定期的に来る眠気と戦いながら、ふわぁーと大口を開けて欠伸を零した。



 *



『主殿、ただいま戻りました』

「おかえりなさい、ルイル。ご苦労様」


 夜陰を纏い、折りたたまれた濃紺の翼はいつ眺めても艶々としている。

 窓枠に到着するなり、トントンと嘴でガラスを叩いてみせる仕草すら、どこか優雅に見える不思議。

 帽子同様、お師匠様から授かったというのに、この差は一体どういうことか。

 色々と解せない。


『何だ? 何か言いたげな眼差しだな?!』

「……いいえ」


 思わず腕の中に視線を落とせば、訝し気に帽子は問うてくる。

 いかに魔女とて、身内に甘くなるのは致し方ない。いいのだ、多少の欠点は目を瞑ってしかるべきだろう。

 心の中でそう言い聞かせ、さて肝心の返信を受け取ろうとソフィアは窓の方へ向き直った。

 けれども、肝心のルイルの様子がおかしい。

 彫像のように固まり、何か一点を凝視している。視線を辿り、行き着く先には、何故か『ふふん』と得意げな黒帽子。


『……この腐れ帽子風情め。穴だらけにしてやろうか……』

『ふふ。羨ましいのだろう、ルイルよ!! これはご褒美なのだ!! 日々傍に侍る魔法具だからこそ許される特権だぞ?!』

『……紛い物のくせに、己が主へ対してなんと不埒なっ……』

『悔しければ、もっと成果を上げてみせよ!! まぁ、遣い鴉風情にどの程度の役割が期待できるかは、正直微妙な線ではあるがな!!』

『……原型を留めぬようにしてやる!!』

『ははは、やれるものならやって見せろ!!』


 幾度かの問答の末、遣い鴉と黒帽子による仁義なき戦いが勃発したのは想像の通りだ。

 そして最終的な戦いの結末も、おおむね予想した通り。

 何と言っても、帽子のもつ『絶対防御』の名は伊達ではない。


『お見苦しいものを、……っ、失礼いたしました。主殿』

「良いのよ、ルイル。この帽子が子供過ぎるのが一番いけないの。主として教育が行き届いていないことを謝りこそすれ、貴方が悔やむ必要などどこにもないのだから」

『……っ、主殿!!』


 戦いに敗れ、憔悴しきった濃紺の羽を撫でておく。

 見るみる内に生き生きとしたルイルは、普段の冷静さを取り戻してくれた模様だ。

 すい、と差し出された書簡の筒をようやく受け取ったソフィアは心底ほっとした。


「……なるほど。まぁ、予想はしていたけれど、今回の依頼は中々骨の折れるものだったみたい」


 知っていたら、絶対に関わり合いにはならなかったのに――。

 深い深い溜息の後に、少しの間、瞑目したソフィア。

 次に目を開いた時、そこには諦念の色があった。

 煙るように長い睫をゆっくりと開け、魔女の眼差しを遣い鴉へ向けて、告げる。


「ルイル、貴方にはもう一度飛んでもらうところが出来たわ。安全は確約できない。それでもお願いできる?」

『喜んで、主殿』

「貴方のような遣い鴉を持てて、心から誇らしく思うわ」


 少し待っていて。

 そう言い置くなり、ソフィアはテーブルに向かい、短い封書をしたためる。

 書き終えたのは数刻の後。

 クルクルと指先で丸め、窓枠で待機するルイルに預けると、羽音と共にすぐさまその姿は闇へと溶けた。


「この貸しは後々大きく付くかもしれないけれど……」

『ね、寝坊すけ? もしや今の封書の行く先は……』

「お察しの通りよ」

『!!!』


 黒帽子が腕の中で体積を膨らませ、そのまま言葉を失うのも無理はない。

 けれど、恐らく、この場合においてはあれ以上に適した協力者はいないのだ。

 蛇の道は、蛇に聞く。

 妖精にとっての天敵と呼ぶべき、かの存在の名は――


「悪魔が厭うものは、なにも無駄な言葉だけではないものね……」


 月明かりを忌々しげに見仰ぎ、ソフィアは夜風に身を晒す。

 いずれにしても、穏便な決着は望めまい。

 最善は既に潰えている。

 その上残された手段は限られていて、結局のところは次善と思える策を手にとって臨むしかないのだから。


「魔女として、契約を果たすべく代償を支払うのは当然のこと。そうでしょう?」

『……寝坊すけ……』


 明日の夜、いずれにしても決着はつく。

 その果てに、誰が笑むことになるのか。

 それは魔女が持つ深遠なる眼差しを以ってしても、まるで見えなかった。



 *



 ――妖精祓い。

 それは余り公には知られていない上に、手段は煩雑で、限られた方法論しか残されていない暗がりの分野だ。

 魔女が悪魔祓いや呪詛に深く精通している存在として知られる一方で、妖精祓いを行うとなった際に『誰』の手を借りればよいかと問われれば。

 答えは非常に限られているといってよい。


 ひとつ、妖精博士と呼ばれる常世の魔術師の中でも異端とされる面々。

 ふたつ、古より生きる大精霊や神代の龍の血筋を引く面々。

 みっつ、地の底に棲まいし、古の悪魔。特に代々の首領筋として名を馳せる面々だと尚良し。


 上に挙げたモノのうち、書簡を頼りにして意見を聞くことが出来る数はさらに絞られる。

 現実的に考えれば、分かるだろう。

 単純に伝手があるか否かもそうだが、それ以前に『人語を解する能』を有し、『短期間』で答えを返してくれる相手を選べば自ずと片手の指に絞られてしまうというだけの話だ。

 だからソフィアは、ひとつめとみっつめを選ぶ他になかったのである。

 いずれにしても、支払う代償は少なくない。



 *



 新月の宵、星明りだけを見上げる夜空。

 魔女にとっては強ち悪くないそれを背景に、ソフィアは張り詰めた表情を少しも崩さない。

 目の前に座る、小さな王様。

 隣の部屋には王女殿下とお付きの人々、宰相殿、少年貴族、その他諸々がじっと息をひそめて様子を窺っている。

 深夜、風の音だけが耳を打つ静寂の中で向き合う。

 深緑と、夕暮れの色が、見合う。

 足元には息を呑むほどに美しい、瑠璃と白銀の二色の魔術陣がところどころで重なり、星屑のように煌めいている。

 正直、少しもやる気は出ない。

 それでもやるほかなく、鬱々とした気持ちを隠しきれていないソフィアの双眸は普段に増して仄暗く、落ち込んでいる。



 時を遡ること、数刻前。

 応接間にて『妖精祓い』を行うと告げた時、集まった面々は大きく目を見開いたものだ。

 その反応は予想してしかるべきで、実際ソフィアは特に感慨も抱かなかった。


「妖精祓い? 兄さまに憑いているのは悪魔ではありませんの?」

「ええ、いずれにしてもすべて今宵の内に明らかとなります。故に、祓いの儀式を行う間はどんなことがあっても部屋に一歩も踏み入らないことを宣誓してください」

「ですが、それは……!」

「宣誓を。そうでなければ最悪、踏み入った者も含めて城にいる全員が妖精の災禍に巻き込まれて自滅します。それほどの相手なのですから」


 冷え冷えとした色を乗せた魔女の眼差しは、耐性のないモノにとっては恐怖そのものだ。

 生まれて初めて目にした『魔女』を前に、ソフィアが同じものを感じたように。

 それを意識して向けるのだから、お世辞にも性格が良いとは言えない。そこは自覚している。

 おそらく国主の身を案じてだろう。

 思わずと言った風に声を上げた少年貴族に対してすら、それは変わらない。

 容赦や情状など、魔女にとっては酌量するだけの意味など存在しないのだから。


「承知いたしました。すべて、魔女殿の手腕に託します」

「……王女殿下、しかしそれでは万一の……」

「お黙りなさい、宰相。他に思いつく手立てもなく、否定を述べるだけの無能に用はありません」

「……」


 花のように微笑みながらも、その可憐な口から零れ出る言葉は苛烈の一言に尽きる。

 見た目と言葉のギャップが甚だしいこと、この上ない。

 魔女であるソフィアですら、正直これを敵に回したくないなぁと思わせられるだけ、末恐ろしい王家の娘だ。

 このまま成長したら、もしかすると周辺国との微妙なバランスに変化も起こり得るのかもしれない。

 まぁ、そこはそれ。少なくとも、今回のことが終われば一切合財関わるつもりのないソフィアにとっては関係のない未来である。

 無言のまま微笑みあった後、ソフィアは「では、準備がありますので」と口上を述べるなり、速やかに退散の道を選んだ。


 その後は、気楽なものである。

 小さな王様の下へ『妖精祓い』の許しを得るべく向かう。

 真昼から顔を合わせるのは、初めて対面した一日目以来。ついでに加えると帽子は留守番だ。

 晴れ晴れとした心地で、白亜の扉を叩いたわけだが――


「……まさか悪魔じゃなくて、あれが妖精だったなんてね」

「悪魔祓いについての許しは得ましたが、妖精に関してはその範囲に含まれませんから」


 改めて、参りましたと。

 そう言って軽く膝を折ったソフィアに、小さな王様は微かに目を瞠って、ほんの少しだけ微笑んでみせる。

 貴族じみた美貌が、陽光を背に眩しいばかりだ。

 これを鑑賞対象として愛でるか、目の毒だと忌避するかは向けられた相手次第だろう。

 因みにソフィアはどちらかと言えば後者寄りだ。


「はは、妙なところで律儀だよね。魔女殿は……何だろう。冷血なようでいて意外と優しい、とか?」

「それは、当人へ問うたところで仕方のない質問の類ではありません?」

「まったくだね。でも君とこうして話すことを、案外俺は嬉しく思っているのかもしれない」

「……は?」

「自由を望む一方で、俺は魔女殿と話をする機会を失うことを惜しいと思っているんだ。愚かだろう? 笑ってくれていい。でも、それだけ貴女は俺にとって新鮮味溢れる対象で……ふふ。仮にだけど。貴方が人の娘だったなら、或いは国主の我儘で囲うくらいのことは考えたかも知れない」

「冗談にしても、少しも笑えませんね」

「うん、冗談じゃないから」

「……」

「ふぅん、絶句した魔女殿も中々可愛らしいね。あ、御免。ちょっと調子に乗り過ぎたかもしれない……」


 氷塊を詰め込んだような冴え冴えとした眼差しを向けて、ようやく理性を取り戻したらしい。

 往々にして権力者ほど愛妾だの、様々な名称をむやみやたらに付けて異性を囲いたがる傾向にあるものだが、小さな王様とて例外ではないのだろう。

 軽蔑する意欲こそ湧かないものの、心の距離は半歩以上遠退いたと言ってよい。



 *



 そんなこんなで迎えた、夜半。

『催眠』のルーンで意識を沈ませた王様を椅子に座らせ、向かい合う形で仁王立ちするソフィアの頭上には黒帽子がでん、と鎮座している。

 ちなみに機嫌は今一つ。

 空模様に例えれば、曇りくらいだろう。

 ほんの少し湿り気の残る帽子を被ることに躊躇いを覚えなかった訳でもないが、そこはそれ。

 万が一を考えれば、片手間に相手取れるような格下が相手ではない為、泣く泣くそのまま被る他なかった。


『……寝坊すけ、二番目に出した封書の返信はどうなったのだ?』

「……まだよ。ルイルは戻っていないわ。まぁ、そもそも駄目元で送ったようなものだから、間に合わなければ別の手を考えるだけね」

『具体的には?』

「切り札は最後に明かしてこそ、意味があるの」


 ぼそぼそと囁き合う、魔女と帽子。

 まるでその会話の途切れる瞬間を図ったように、クスクスと暗闇に響いた笑声。

 ようやくお出ましか、とソフィアは溜息と共にそれを見据える。


 ゆっくりと開かれた双眸に宿るのは、金色。

 猫のように、パチリパチリと愉しげに瞬いた。


「ふぅん、可愛らしい魔女だこと」


 ひどく耳障りの良い、鳥の囀りを思わせる声。

 一言目で魔女であることを看破され、ソフィアは改めてこの場に立たざるを得なかった己が不運を思った。

 微かな嘆息と共に、スルスルと口元から溢れ出す文言は彼女の周囲に不可侵の壁を築く。


<風よ、触れれば切れる刃となり、円に集え>

「あらあら、初対面からそんなに拒絶されたら悲しいわ。ねぇ、仲良くしましょう?」

<暗がりよ、対する者の目を晦ませる幾重もの幕となり、我を覆え>

「言祝ぎのみで精霊の残滓を従わせるなんて、将来が楽しみな娘だこと」

<円陣、解放>

「……っ!?」


 前置きが長くなった分、得られる成果は程々でなくては意味がない。

 妖精博士の助言をもとに、悪魔祓いの魔術陣をアレンジした今回の代物。

 きっと、これが最初で最後になる。

 妖精祓いなんてものは、もとより百害あって一利なしだ。

 本来なら関わること自体、忌避すべき事案なのだから。


<妖精王の妃よ、疾くその器より出で、永遠(ティルナ)花園(ノーグ)へと還り給え>

「……ふふ。よくもまぁ、ここまで妖精が厭う文言や鉱物を塗り込めたこと。可愛い顔をして、なんて不遜で傲慢な魔女らしさ。あはは、愉快。愉快よ!」


 ピリピリと纏わりつくようにして、小さな王様の周囲に纏わりつく黒鉄の拘束。

 それはさながら、漆黒の茨の如く顕現した。

 しかし、王の中に立ち現れた『彼女』はそれを他愛もなく片手で払ってみせる。

 その微笑みは喜悦であり。

 その微笑みは苛立ちであり。

 その微笑みは、かつて妖精の頂、その傍らに在って『永遠の美』と称されしもの。まさしく女王の艶笑だ。


「身の程を知りなさい、魔の娘」


 花のような微笑みで、一振りされた白魚の手指。

 その先に立つソフィアの頬、両腕、両の足が切り裂かれ、朱色の花が咲く。

 加護を破られた代償だ。

 けれども、ソフィアの表情はどこまでも平坦だった。当然だ。欠片も動じていないのだから。


<……一つ、その御霊に問う。その身に許された故郷は存在するのか否か>

「……」


 静かで、それでいて揺るぎない声で紡がれた魔女の問い掛けに初めて『彼女』の微笑みが凍り付く。


<二つ、重ねて問う。その御霊は先代の王に追放されたのち、洗い清められたか否か>

「……黙りなさい」

<三つ、最後に問う。その御霊はかつて犯した自らの罪過を認めているか否か>

「黙れ!!」


 激高した美貌は、どこまでも醜悪で見られた代物ではなかった。

『彼女』の手指が振るわれる度、魔女は血を流す。それはやがて、足元を浸すほどに。

 滴り落ちた血により、魔術陣は一面の真紅に染めあげられてゆく。

 頭上の黒帽子が、震えている。

 怒りに、その身を震わせている。

 けれどもソフィアが望んだ以上、あえて『絶対防御』を発動させはしないのだ。

 最低限、命を維持できるだけの守護だけを約束させたから。それでも、辛いのだろう。

 優しいのだ。優しすぎる。ソフィアの周りは皆同じ。

 だからこそ、報いたいと思うのだ。

 ソフィアは、魔女として為すべきことをする。

 それだけが、彼女が生きる術。

 魔女としてしか生きられなかった、ある少女の誓い。


 だから、どんな依頼に対しても手は抜かない。


 今回何よりも大切なのは、怒らせること。

 我を忘れさせるほどの憤怒は、それの本性を露わにさせるためには最も有効な手段であり。

 器から溢れ出るほどに増長した『彼女』の姿を魔女の眼差しが射貫き、縫い止める。


<血を代償に、その者を磔よ>

「……?!」

<契約に基づき、顕現せよ。汝の名は蟲の首領。黄昏の魔人『レファロ』よ>

「……いや、止めて!」


 ――元より、妖精祓いに関しては正式な手順も方法も確立されてはいない。

 古くからの知己であり、数少ない妖精博士である紳士からの便りにはそのように書かれていた。

 それでも妖精に関する知識や造形の深さにかけて、人として右に出るものは存在しないだろう。

 妖精が厭う色彩、構成、鉱物、言の葉だけではなく。

 長年に渡って自ら『妖精の小路』に通いつめ、少なくない数の妖精たちとの交流の末に気付いた彼だけの情報網。

 王家の加護を破り、その血に巣食うだけの力を持つ妖精がいるか否か。

 ソフィアのその問いに、彼はたった一言で断じてみせた。

 本来ならばあり得ないと。

 それに続く言葉が、命題を明らかにした。

 ――もし、それが有り得るとするならば最低でも妖精の頂に立つモノ。あるいは、その傍らに立つモノのいずれかだろう。


 すなわち妖精王。あるいは、その伴侶――妖精王の妃だと。


 彼らを弑する為の方法や、その御霊を滅するだけの力など古の世に君臨した破邪の大巫女ならばいざ知らず、今の世には伝わってはいない。

 けれど、あるいは器から彼らを引き剥がし、元居た世界に返還するだけならばどうか?

 その命題に辿り着いた時、ソフィアはすでに諦念の笑みを浮かべていた。

 明らかな正解がないのなら、あとは試せる方法全てを片っ端から試してみるだけのこと。

 ひどく簡単で、面倒な結論。

 それにどうして諦念以外の感慨を抱けるだろう?


 ――まずは、視覚的に攻める。

 ソフィアは自ら大量の血を流すことで、短時間ながらも強固な魔女の<磔>を築いてみせた。

 すでに『彼女』から憤怒の感情を引き出し、本来の姿は露わになっている。

 まさに好機。これを逃す手はない。


『召喚に応じ、速やかに罷り越しました。我が主』


 その静かで、ぞくりとするほど美しい声が耳朶を震わせると同時。

 召喚の陣を兼ねていた円の中より、湧き出るように犇き合いながら姿を見せたのはあらゆる姿の畏敬の虫たち。

 そして、虫の間から赤黒い触手を伸ばして最後に姿を見せたのは――


「きゃあああっ!? いやっ、何、あり得ないわ! 気持ち悪い、離してええええっ!!」

『まずは、この不敬の輩を始末するところから始めても宜しいでしょうか?』

「……そうね。ひとまずそれの口を封じて。流石にこれ以上、身体を削られては堪らないわ」

『承知』

「!?」


 その顔貌は『彼』曰く、月替わりらしい。

 真名こそ差し出させてはいないものの、仮契約を結んで久しい魔人の一人を見上げ、ソフィアは嘆息する。

 確か、前回は渋い御顔の武人風。

 どうやら今回は、趣向を変えて綺麗どころを狩ってきたらしい。

 どこぞの貴族が犠牲となったのか、やたらと秀麗な肢体を被って現れた。白皙の肌はまるで蝋のように白く、ほの白い炎を供にして一礼する姿はどこまでも優美である。

 ルイルといい勝負ができるだろう。無論、帽子は選考外だ。


『これで宜しいでしょうか?』

「ええ、結構よ。相変わらずもの凄い密度の触手ね。……何だか前より太くなっていない?」

『……っ、太くて逞しいなどと。私には勿体ないお言葉です』

「いえ、そこまでは言っていないわ……」


 モジモジと触手をくねらせ、肢体……もとい死体の頬を器用に桃色に染めてみせる。

 そんな『彼』から一定の距離を置きつつ、ソフィアは四方八方から触手に絡め捕られ、見ようによっては物凄く淫靡な光景を、表面上は冷静に見据えた。

 勿論、内心は非常に複雑だ。

 視覚的に攻めると言う意味において、ソフィアの契約している魔獣、魔人、精霊、悪魔、その他諸々の中でずば抜けているモノは『彼』を含め、およそ八名。

 うち、速やかに呼び出せそうなモノを検討して、真っ先に思いついたのがこの魔人だっただけのこと。


「レファロ。今更だけれど貴方に拘束させているモノの正体、分かっているかしら?」

『ええ。先代の妖精王の番でしょう? それも正妃。ですが陰惨を好むあまりに王の寵愛する妃を手に掛け、永遠(ティルナ)花園(ノーグ)を永久追放になったとも聞き及んでおります』

「……流石ね」

『お褒めに預かり、恐悦至極でございます』


 仮名、レファロ。数ある魔人の中でも齢を経ている個体の一人として挙げられ、情報の分析や収集にも長けた稀有な存在。

 時と場合に応じ、被る死体の選択は様々。けれども好んで人を狩る。

 だからこそ、こうして端整な皮を被って現れることも時たまあるのだ。

 けれども、彼の眷属は往々にしてグロテスクかつ人が主食と思われる種類の虫たちばかり。偶に蛇やトカゲなどの爬虫類っぽいものも視界の端に混じり合う混沌そのもの。

 そして何より、人の肢体を被って現れるとはいっても足元は『彼』の本性そのもので、うねうねと四方八方へ変幻自在に動き回る触手は「……どこからの分泌?」と思わず問うてしまいたくなるほどに、大抵ぬるぬるテカテカしている。


『レファロ! 久しいな! そして相変わらずキモイ有様だな!』

『ふふふ、相変わらずの黴臭さですね。ボロ帽子殿』

『私に黴など生えるものか!! 何だかんだ言いつつ寝坊すけが毎日手入れを怠らぬわ! ふふん、羨ましかろう?!』

『……そろそろ世代交代と行きましょうか、この老害めが……』

『やれるものなら……』


「そこまで。二人とも黙りなさい。いくら対象を拘束している最中と言っても、気を緩め過ぎよ」


 冷ややかな魔女の眼差しを受けて、しゅんと縮まる帽子は可愛らしい部類に入るだろう。

 まるでご褒美と言わんばかりに、しっとりと濡れた『彼』の眼差しにソフィアは今更ながら呼び出す相手を間違えたのでは、と一瞬後悔した。

 とはいえ、呼び出してしまったモノは仕方がない。

 やれやれと首を振りつつ、淫靡な光景に再び視線を戻した。そこでふと、眼差しが翳る。


「……レファロ、何だか彼女の様子がおかしいようだけど。何か入れた?」

『これは異なことを。私が主の命令を待たずして対象を殺すような真似をするとでも……』

「繰り返すわね。何か、入れた?」

『……主殿はまだ体感されたことはなかったと思いますが、私の肢体に触れたものは常時『媚薬』を全身に塗り込められているも同然の状態になりますから。動物に例えれば、発情……』

「それ以上言わなくていいわ。説明ありがとう」

『ふふ、主殿にも一度でいいから体感して頂きたいものです。そして願わくばこの私の太い一物で……』

『それ以上の戯言は許さぬぞ!! 寝坊すけの耳が穢れるわぁ!!』

「ありがとう、大師匠」


 よしよし、と頭上の帽子を撫でてみればご満悦。

 その一方で、レファロは射殺さんばかりの視線を帽子に向けている。

 ソフィアは思う。中々どうして、平穏平等親和な関係性の構築というものは難しいものだと。


「……なるほど。媚薬、ね」


 床に転がる小さな王様を、今更ながら長椅子へ運び直したソフィア。

 この時点で、憑依は半ば抜けきっていると言ってよい。ただし、呪いの影響からか身体の変化はそのまま。

 厄介この上ない。

 うーん、と唇に手を当て、悩まし気な表情をつくる魔女の横顔にぞくぞくと背筋を震わせるレファロ。触手の一本がそろそろと近づくも、べしりと音を立てて帽子の結界に弾かれている。

 心底残念そうに、触手は撤退した。


『……お望みであれば、間接的に毒薬を摂取させることも可能です。如何いたしましょうか?』

「元より毒物程度で静まるような御霊の持ち主ではないでしょう。無駄な禍根を残しては、後々差し障りもあるわ。できれば、憑依していた間の記憶を封じた上で厄介払いしたいところね」

『……ふふ。我が主殿は相変わらず我儘でいらっしゃる。ですが、そこがまた愛らしい』

「……そう?」

『主殿、悩まれる貴女に提案を。私が保有する自白剤の中で、使用後に話した内容に関わる記憶全てを抹消する代物が一つだけ残っております。ご用命を余さず果たすと言う意味では、これ以上の品はないでしょう?』

「……それはさぞ希少な品でしょう。ちなみに何と言う自白剤かしら?」

『獏の涙、と』

「……獏の涙ね?」

『貴女が望まれるなら、今ここで使用することも吝かではありません』


 ただし、代価は頂きますが。

 囁くなり、左手に現れたのは紫の小瓶。透かし見える液体の色は、血のような真紅だろうか。

 悪魔のように妖艶な笑みを浮かべつつ差し出された掌は、指の先まで歓喜に震えている。

 断られるとは、微塵も思っていないのだろう。

 ぬらぬらと照りかえる触手の淫靡さと相まって、その危うさはより際立っていた。


 ソフィアはじっと『彼』の情欲に煙る眼差しを見上げた。

 そして、ふっと唇に笑みを浮かべる。

 見る者を凍り付かせ、畏怖を抱かせる、魔女の微笑みを。


「ありがとう、でも心遣いだけで十分よ」


 するり、と音を立てて左腕に巻かれた紗を解いていくソフィア。

 次第に露わになる、魔女の印章。

 それは宣誓を立てた際に身体に刻まれる、魔女の証であり。

 同時に人としての死を迎え、新たに魔女としての生を受けたソフィアの身の内に宿る、膨大と言っていい量の魔力を引き出すための鍵でもある。


『……主殿、なんて美しい』

『ええぃ!! 何とも不快だ! その鬱陶しい穢れた目をこちらへ向けるでない!!』


 騒々しい両名をさておき、ソフィアは印章に魔力を込めていく。

 繋げる先は、師匠より譲り受けた異空間(ポケット)だ。

 そこは言ってしまえば、混沌。

 譲り受けた当初こそ、ソフィアも懸命に納められたモノや数を把握すべく、乱筆で記された師匠のメモを頼りに歩き回ったものだった。

 けれどもそれも、過去の話。当然、挫折した。元より無理な話だったのだ。

 数千を優に超える品と日がな一日顔を付き合わせていたら、把握するまでに何年かかるか分かったものではない。

 まして、整理整頓など……気が遠くなる。

 今回の妖精祓いに先立ち、あらかじめ足場だけは辛うじて見える程度に片付けてはおいたものの。

 ありとあらゆるモノが無造作に押し込められ、譲り受けた当人ですら『名』と『効能』を知らぬ秘薬や魔法具、薬草類、奇声を上げる魔導書の類などが散らばる保管庫は今となっては混沌の二文字しか寄せ付けぬ、秘境となり果てていた。


<来なさい『獏の涙』>


 目にしたばかりの自白剤。その名を呼び、手のひらへ召喚すること自体は大した問題にはならない。

 魔力で引き合う先に、目的のモノがふわりと浮き上がるのを感知したすぐ後。

 ポン、と音を立てて異空間から吐き出された『獏の涙』をほの白い炎に翳し、魔女は微笑んだ。


「さて、準備も整ったわ。……始めましょう?」

『……全く、貴女には敵いませんね』

『うむ、良いぞ寝坊すけ!! 厄介事は早々に幕引きとしようではないか!!』


 すでに触手に全身を良いように嬲られ、息も絶え絶えと言った風情の美女に向き合う三者。

 魔女は小瓶のふたを開け、歩み寄った先で儚く抵抗する妖精の涙に濡れた頬に、そっと囁く。


「ねぇ、きっと貴女にあの器は上等過ぎたのよ。その報いを受けるだけのことだわ。その身をもって体感して頂戴?」


 畏怖すら滲ませる、金色の双眸。

 必至に身を捩る可憐な妖精の両腕を、容赦も慈悲もない赤黒い触手がより深くへと沈めていく。

 漆黒の帽子を被り直し、屈みこんだソフィア。

 平坦な眼差しで、掲げた掌から血の色の雫を垂らした。


 ポトり、と金の双眸へと吸い込まれるようにして消えた一滴。


 声なき悲鳴の後、釣り上げられた魚がその身を跳ねさせるような動作を暫く繰り返し――やがて抵抗はピタリと止む。

 脱力したことを確認し、頷いた。

 その合図を受け、スルスルと触手は獲物を開放してゆく。血に染まる魔法陣の上に横たわった金色の妖精を見下ろし、ソフィアは小さくない溜息を零した。


『君は、相変わらず優しいね。いや、優しすぎると言った方が良いのかなぁ?』


 とん、と微かな音と共に不愉快な声が背後から響いたのは、丁度その時だ。

 ばさり、と闇色の羽音が耳朶を打つ。

 相手は誰かなど、振り向くまでもない。

 それでも振り返り、その姿を確認せざるを得ないのは至極単純な話。

 元より背中を無防備に晒せるほど、信頼し合う仲ではないからだ。


「……遅刻してきた悪魔に、用などないけれど?」

『うふふ、手厳しいなぁ。でも、残念。君の言葉が的外れだと背後の汚物が示しているよ?』

「……っ」


 悪魔の容貌は、本当に様々。

 あからさまな異形を取るものが半数。敢えて人の姿形を取るものが二割ほど。残りは、不可視。

 時と場合に応じ、容貌を偽ることなど彼らにとっては朝飯前というもの。

 大抵は『声』のみで現れるこの悪魔。けれど今回はどんな心境の変化か、柔らかな微笑を湛える少年の姿で現れた。

 その常闇の眼差しに映るのは、金色の双眸。


 ぞくり、と背筋を走り抜けた怖気と共に反射的に身を捻り、辛うじて初手を躱したソフィア。

 いつの間にか立ち上がり、不気味な微笑みを浮かべる『妖精だったもの』はフラフラと不規則に左右に触れながらも、憎悪に塗れた金の輝きをこちらへ向けて哄笑した。


「あははははは!! 本当に可愛らしいこと。ねぇ、人間ほど壊して愉しめる種族はいないわ。そう思わない?! この王様はとくに傑作なのよぉ! 本当に血が繋がっているかもわからない妹の為に、己の身を省みずに立ち向かう姿はまるで物語の勇者さま! うふふ、それに若かりし頃の夫にも似ているの。この美貌、真っ直ぐな心根! あぁ、絶対に離れないわ。これを呪い殺して、ずぅっと私だけのモノにするの。素敵でしょう?」


 まさしく、狂っている。

 魔女の眼差しに晒されながらも、夢見るように言い紡ぐ妖精はフラフラと、クルクルとその場で舞い踊り、長椅子へ横たわったままの小さな王の下へ、昏い眼を向けて笑う。


「私のモノ。永遠に。その命が巻き戻る瞬間まで、ずっとずっと私だけが愛でて愛してあげる」


 伸ばされた掌が、小さな王様の頬に触れる寸前。

 ソフィアが言祝ぎを紡ぎ出す、その前に。


『汚らわしいね、お前』


 心の臓を鷲掴みにされるような、ぞっとするほど冷え切った声。


『僕は妖精が殊のほか嫌いなんだけど、それに加えて常日頃から思っていたことが一つあるんだ。……狂った妖精って、視界に入れることすら耐えがたいよね? 要するに汚物以下?』


 あからさますぎる嘲笑の気配と、歪められた口元は人が浮かべると厭らしく醜いばかりだが。

 悪魔が浮かべると、それも大分異なる印象へと変わるのだから不思議だ。

 ひどく淫靡で、鮮やかで、おぞましいほど美しい。

 その上悪魔という種族は、殊更『言霊』に魔力を纏わせることに長けている。まして古の悪魔となれば、その右に出る者はいないだろう。

 向けられた対象は憐れだ。悪魔の言の葉に、耳を傾けられずにいられる道理は無いのだから。

 それを重々承知の上で、悪魔は『言霊』という不可視の刃で相手を切り刻み、流れる色彩を愛でる。

 この上もなく悪趣味ではあるものの、その紅さにこそ、美しさを見出すのである。

 古の悪魔はその齢に見合わぬ幼げな微笑を浮かべ、昏き眼差しに愉悦の光を灯し、身震いをしてこちらを睨み据える『妖精だったもの』を僅かの慈悲もなく、甚振る。


『だからもう、視界から消えてよ。いずれにしても罪過を背負ったお前に、行き場なんてないんだから』

「……悪魔、悪魔、悪魔!! 私の邪魔をする者は、すべて消えてなくなればいい!!」

『あはは、本当に煩わしいねぇ』


 狂騒のまま、こちらへ向けて鬼女の様相で駆けてくる、妖精のなれの果て。

 先ほどまでとは明らかに異なる動きに、レファロの舌打ちが混じる。

 あの膨大な量の触手の追撃を全て躱す動きをして、まさに人外の本領発揮といったところだろう。

 破れかぶれとなった妖精ほど、恐ろしいものはない。

 予めソフィアが張り巡らせておいた加護全てを突破し、傷だらけになりながらもその目は狂気の光を湛えたまま。

 狂った妖精の末路は、その地に限りない災禍を齎す。

 その暴走を許せば、待つのは破滅のみ。

 舌打ち混じりに、再びソフィアがその口を開いた直後――


<光よ、>

『君はどこまで優しいの? 全く、慈悲も過ぎれば命取りになるよ? あれはここで滅する方が正しい』


 跡形もなく、ね。

 そう言い足した悪魔の口許はやはり笑っていて。

 浄化の言祝ぎを紡ごうとしたソフィアの口許を、悪魔のしなやかな指が覆い、耳元で囁く。


『今回は貸しにしておいてあげる。こう見えて僕は、魔女の君を気に入っているから』


 どこまでも仄暗く、暗闇を塗り込めたような双眸は、怖気を感じさせる美しさに満ちていた。


「死ね! 消えろ! 悪魔どもぉぉお!!!」


 すれ違いざまに、ふわりと押し出された魔女の双眸に映ったもの。

 それは限りなく純粋な『悪魔』の艶笑。

 シャラリと音を立てて引き抜かれた刃は、真紅。

 その切っ先は『妖精だったもの』の腹部を穿ち、深く深く、少しの躊躇いもなく貫き通した。

 その上響き渡る断末魔の如き叫びを、酷く煩わしそうに一瞥する悪魔。

 彼は腹部から刃を引き抜き、そのまま喉元を一閃する。

 容赦の欠片もない。


『この剣は、数少ない妖精殺しの意匠で鍛えられた逸品でね。妖精の王ですら、これに心臓を穿たれて生きていられた者はいないよ』


 ヒューヒューと不明瞭な音を潰れた喉から絞り出し、必至に這い逃れようとする嘗ての妃。

 その背を追う、レファロの眷属たち。弱ってゆくその肢体を貪ろうとでもいうのだろう。

 悪魔も、魔人もそれを止める気配は微塵もない。

 けれども――


『虫たちに喰らわせるなど、まさしく悪魔の所業だな?! 全くもってその美学には賛同できかねん!!』


 弱肉強食は世の常だ。

 ソフィアはそれを否定しないし、それに対して口を挟むつもりもない。

 だから、悪魔の美学云々も正直言ってどうでもいい。このまま『妖精だったもの』が虫たちの腹に収まろうとも、構わないのも同様に。

 時に冷血と称されるように、魔女は殊更、情が薄い。

 だからこそ、と言えるのか。

 いつだって傍らで疑問を呈し、無気力を底上げしてくれる存在を何だかんだ言いながらも大切に思うのだ。

 生まれながらの魔女も、そうでない魔女も、そこだけは変わらない。

 ただ魔女によってそれは使い魔であったり、愛人であったり、無生物であったりと多種多様なだけ。

 所謂、拠り所。

 魔女の良心と呼ぶべき、ただ唯一。

 ソフィアにとってのそれは、頭の上に乗っかっている。

 ちょこんと鎮座するその軽さを失えば、遠からずソフィアは己が内に巣食う憎しみに飲まれ、自我を失った冷酷な魔女、ただそれだけの生物に成り下がる。

 魔女とは、常識の外に生きるもの。

 身を守る術は、誰も教えてはくれない。

 だから己が指針を違えたその瞬間に、その生を終える。

 結局は、ただそれだけの話。


「……そうね。もう誰かしらの悲痛を余分に見るのにも、正直飽き飽きしたわ」

『生あるものを裁くことに何も代償がないと言うのでは、裁かれるものが救われぬ!!』

「……救い、ね。まったく、貴方こそ変わらないのではないの?」

『ふん、そう易々と主義主張を変える私ではないぞ!』


 露わになったままの印章に手を翳し、二色の瓶を呼び寄せたソフィア。

 一旦懐にしまい込み、ふと何かを思い至った様子で箒を一本追加する。


「さぁ、お掃除の時間よ?」


 冷めきった眼差しで足元に蠢く虫たちを箒で無造作に掃い、道を作る。

 背後の悪魔と魔人が絶句する最中、我ながら惚れ惚れする手際で『掃除』を完了した。

 周囲に転がる異形の虫たちと、血を流す『妖精だったもの』。

 両者に交互に視線を下ろし、魔女は言祝ぎを紡ぐ。


<焔よ、我がもとを照らせ>

<天秤を掲げし神よ、これより裁定を委ねる。二色の小瓶に祝福を>


 本来、それは迷い路に至った際に使われるありきたりの文言だ。

 けれども魔女の言葉で紡がれた瞬間に、言の葉に神意が宿ったらしい。

 煌々と照らし出された懐から、取り出して掲げた小瓶は元の色彩を喪って、いずれも無色透明な液体を揺らすばかり。

 気まぐれなことだ、と魔女は小さく嘆息してみせた。


「起きなさい、かつての妖精妃。裁定の時間よ」

「……」


 身体の至るところを無残に噛み切られ、憎悪よりも恐怖が勝った金色の瞳は焦点すら合わず、ゆらゆらと空を彷徨う。

 月明かりすらない、闇の空を。


 そんな彼女の上半身を起こし、両の手に二本の小瓶を握らせるソフィア。

 夕暮れの色の眼差しに、ほんの微か浮かぶのは善意か悪意か。

 当人ですら、判然としない。


「一つは、かつて師匠が生成した際にあまりの毒性から仕舞いこむしかなかった劇薬中の劇薬。もう一方は高位魔族ですら一滴で怯む『最純度』の聖水(アルテミス)。劇薬を選べば、貴女はその瞬間に毒素に蝕まれる。あるいはその御霊すら残せずに死ぬでしょう。もし聖水を飲み干せば、貴女の内側を蝕んだ悪意は尽く浄化され、あるいは生き残る術も残される。……二つに一つよ。これが魔女として貴女に示せる最後の餞」


 本当はある、三つ目の幕引き。

 それを選びたくなければ、いずれかを選びなさい。

 無言の内に伝える、魔女の静かな眼差しにひたりと噛み合う金色の双眸。

 視点が留まり、束の間無表情で見上げていた『妖精だったもの』は不意にその薄桃色の口角を上げ、さながら三日月のように微笑んだ。

 そして、声なき声が、魔女へと告げる。


 ――死してなお、改悛などしない。それが私の妖精としての生き筋よ。


 左手を掲げ、床に叩きつけるや否や。

 右手に残された小瓶を、一息に煽る。

 そして漏れ出でた吐息は、ひどく柔らかなもの。

 まるでようやく得た安らぎに、安堵したように。

 静かに、金の両眼が閉じられた。



 *



『……おい、寝坊すけ。これは一体どういうことだ……』

「……」

『おーい。聞いているのか、寝坊すけよ!?』

「……聞いているわ」


 頭上から降る帽子の声に、辛うじて今目の前にしているものが現実であることを知る。

 ソフィアは、魔女になってこの方様々な事態に直面してきた。その辺の村の長老たちより、はるかに長い歳月を生き暮らし、生も死も、酸いも甘いも、それこそ数えきれないほどの経験を積んできた。

 それでも尚、この世には想定外という三文字が付いて回るのだ。


「薬を取り違えたのか、神意が加わって薬が変性したのか……それが問題ね」


 ソフィアが見下ろす血塗れの(主に自分の血。残りは多分『彼女』のものだ)魔術式の上に仰向けに横たわり、すーすーと寝息を立てる存在。

 それを正確に表現してみろと言われたら、きっと、多分、赤子というのが正しいのだろう。

 そう、赤子である。

 つまり赤ん坊だ。


『ふぅん、なかなか興味深い結果になったね』

『見た目は、人の赤子の様にも見えますね……』


 歩み寄ってきた悪魔と魔人。

 しげしげと覗き込むその眼差しには、先ほどまでの剣呑さこそ感じられない。

 とは言え、仮にも赤子に向ける眼差しでないことも明らかだった。それはまさに観察と言ったほうがしっくりくる。

 悪魔の眼差しは、魔女とはまた異なる色彩を宿す。

 本質を見透かすと言う意味においては、時として魔女をも凌ぐ常闇の双眸だ。


『見た目も何も、これはもう妖精じゃない。人だよ。組成がまるきり別物だからね』

「……ひと?」

『人だと?!』

『……さて。妖精が、人に生まれ変わったと言うことでしょうか?』


 周囲で悪魔、魔女、帽子、魔人が銘々に声を上げる最中。

 ふいに健やかな寝息が途切れ、ふぇふぇと不穏な鳴声を上げ始める赤子。

 グズグズと鼻を出しながら、パチリと開いた双眸の色は――まるで蒼穹を思わせる、美しい色。


 晴れた日を思わせる、澄み渡るような青だった。



 *



 夜通しかけて行われ、思わぬ結果をもって幕を閉じた『妖精祓い』。

 朝焼けの光が王の私室へ差し込んでくると共に、疲れ切った面持ちで扉を開いた魔女の腕の中には、泣き疲れて眠った赤子が抱えられていた。

 金輪際決して関わるまい。

 少なくない後悔と共に、ソフィアは隣室に待機していた面々から一様に疑問の視線を向けられるという至極真っ当な憂き目にあった。

 頭上から『ベロベロバー』と赤子をあやす帽子の声が、更に頭痛を煽ったのは言うまでもない。

 けれど、意外なことに赤子受けは良い帽子。

 体積を膨らませ、丸々としたフォルムであやすと途端に泣き止むのだから、ソフィアより遥かに優秀だった。


「……魔女殿、その赤子は一体?」

「……先ずは結論から。王様に憑いていたものは祓ったわ。呪いの影響も、数週間を掛けて失われていく筈よ。本来の姿を取り戻すまでには、もう少しかかるでしょうけれど……。ただ、」

「ただ?」

「この赤子の処遇をどうするかを、改めて相談する場を設けてほしいの」

「……あの、失礼ですがこの赤子は一体……」


 宰相と、その傍らに控える少年貴族。

 彼らから銘々に向けられた隠し切れぬ疑惑の眼差しに、いかな魔女と言えど、ソフィアが額に青筋を浮かべたのは無理もない事だった。

 微笑みながらも、その目は少しも笑っていない。

 氷のように凍てついた声で、魔女は男二人を芯まで凍えさせた。


「その説明をさせて欲しいと頼んでいるのよ。その耳、役に立たないようでしたら根元から引っこ抜いて差し上げましょうか?」



 *



 思い返せば、長い歳月。

 けれどもその大半は、お師匠さまに拾い上げられ、養われ、人としての生に終わりを告げて『魔女』になるまでの日々と『魔女』となってからの日々に限った話。

 ソフィアが人として生きた時間は、その十分の一にも満たない。


『寝坊すけに赤子を孕むほどの余裕も時間も自由もなかったことは、他ならぬ私が一番よく分かっている!! そもそもあれを師匠に仰ぎ、同時に養父としても仰ぐ寝坊すけに対し、生半の男が手を出せるものか!!』


 ――そうね。説明ありがとう。そして後半の文言は余計だったと言わざるを得ないわ。


 表面上は微笑みを形作りながら、ソフィアは軽く黒帽子をつねって黙らせた。

 周囲から向けられる生暖かい眼差しが、不快極まりなかった。

 溜息をついて見下ろす膝の上には、金色の巻き毛と青い目の赤子。

 じーっと穴が開くほどに『彼女』は青い目でユラユラと揺れる三角帽子の先っぽを凝視している。

 その眼差しに、昨夜までの狂気は微塵もない。


 傷の治癒と真っ当な睡眠に時間を費やすこと、丸二日と少し。

 関係者各位と日時の調整を行った末に、再び踏み入れた王の私室。

 居並ぶ面々は、ここ数日で既に見知った顔となった小さな王女殿下、目の下の隈が酷い宰相、それを支えるようにして立つ少年貴族、他数名の侍女と騎士たちだ。

 まだ、肝心の王様の姿は見えなかった。

 血塗れだった床は磨き抜かれ、既に元の清廉とした雰囲気を取り戻している。流石は城仕えの侍女たち。

 その働きぶりに対し、出不精の自分としては賞賛の思いすら抱いてしまうのは無理からぬ話だ。

 そして、その献身さと有望振りは何も掃除だけに限らない。


 遡ること、一日と少し前。

 満身創痍と言って強ち間違いではなかった、儀式直後。

 無事に迎えた陽光に照らされ、血みどろの魔術陣の上に立ち尽くすばかりの魔女の許しを得て、ようやく駆けこんできた隣室の面々。

 彼らは一様に、息を呑んだ。

 王の私室は元の清廉さが分からなくなるほどに、至るところに血飛沫が飛び、深紅に染まっていた。その上、何かが這ったような無数の粘液の筋が四方八方へと伸び広がり、窓硝子は全て散乱し、極めつけに出自の分かぬ赤子まで増えている。

 まさに、混沌。

 そしてその只中に立つ魔女は、疲弊の極致にあった。

 血塗れ、傷塗れ、寝不足と三拍子そろったソフィアに、赤子の面倒を見ることなど誰しも察したであろう通り、無理な話である。

 見目が幼くとも、その観察眼にかけては一等優れた小さな王女殿下がそれに気付かない訳もない。

 けれど隣室に控えていた王女殿下がそれを口に出すより早く、まるで突き動かされるようにして赤子の世話に推挙の手を上げてみせたのは――王城を訪ねて一日目、唯一ソフィアに対して猜疑の欠片もない視線を向けていた小柄な侍女だった。

 確か、名をフィリカと言った。


「……あのっ! 私に、お任せいただけないでしょうか? 実家で幼い兄弟たちの面倒を幼少の頃から見て参りました。お役に立てると存じます!」


 その眼差しと見合うこと、暫し。

 ソフィアはあるか無しかの気力を振り絞り、微かに微笑んで一言。


「貴女に任せるわ」


 そして赤子を彼女の腕に託すなり、その場に倒れ伏した後の記憶は一切ない。



 *



「さてと、肝心のお兄様が戻られるまでの合間にここに集まった私たちだけでも、お話を聞かせて頂いても宜しい?」

「……面倒事は一度に済ませる性分ですけれど、この際仕方ありませんね」


 ふぅ、と吐息を一つ零してソフィアは淡々とあらましを語り始めた。

 悪魔だと思われていた正体が、先代の妖精王の妃であったこと。彼女が王に目を付け、その身に巣食うまでの経緯と原因。

 祓いの儀式に際し、自らの能だけでこれを為すことが困難と判断して使い魔の召喚を行ったこと(無論、悪魔へ繋ぎを送って助力を仰いだことは伏せる。何故って、面倒だからだ)。

 そして裁定のもとに先の妃が小瓶を飲み干した結果、輪廻を逸脱する現象が起きて『彼女』が赤子へと生まれ変わったことまでを話し終える。

 そこでソフィアは再度念を押す意味も込め、こう言い紡いだ。


「重ねて申し上げますが、この赤子と自分の間に血縁の類は一切ありません。そこはご承知おき下さい」

「ふふ、それくらいのことは幾ら私でも分かりますわ。妊婦かそうでないかなど、一目で判断がつくことです」


 小さな王女殿下の苦笑混じりの微笑みは、さり気無く件の二人へ向けられていた。

 表面上は蒼褪めるくらいにとどまっているが、その内心は想像して余りある。

 とは言え、そこに同情の余地などない。


「この度の依頼、見事果たして頂き感謝の念に堪えませんわ。改めて、王家を代表して礼を言わせて頂きます。緑雲郷の魔女さまへ、限りない感謝を」

「……いいえ、当然のことをしたまで。魔女として、依頼の遂行は存在意義も同然ですもの」

「ふふ、本当に謙虚な方。それで、一応確認の意味でお伺いしておきますが……その子供、今後どうされますの?」


 表面上はにっこりと微笑みつつも、少しの躊躇いすら見せずに核心へ踏み込んでくるその姿勢には恐れ入るばかりだ。

 ソフィアは一瞬、膝の上に視線を落とす。

 猫のように瞬きを繰り返す、小さな命。紛れもない人の子ども。これに対して、自分が差し出せる選択肢は精々が三択と言ったところだ。


「売るか、煮るか、焼く……?」

「「「魔女!!!」」」

『さすがの私も、その三択はどうかと思うぞ?!』


 初めて声を揃えてきた、王女殿下と宰相と少年貴族の顔を順繰りに見渡して、ソフィアは魔女の顔で微笑む。


「冗談よ。まぁ、ひとつだけは本心だけれど」

『どれだ?! 一体どれが?!』


 叫ぶ帽子を横目に、ソフィアは内心で思う。

 真面目な話、どうしたものだろうか……と。

 周囲から『魔女だけにやりかねん』と言わんばかりの視線を一点集中で浴びながら、それでも悩んでいた。

 今更な話、ソフィアは魔女である。すでに人としての生を捨てて久しい。

 生まれ持っての稀少な魔女とは異なり、一切合財の情がないとは言い切れないものの、そこはそれ。

 やはり同族以外へ対して、基本的に無関心を貫く姿勢は揺るがない。

 揺るがない、筈なのだ。

 けれども、肝心の自分は迷っている。

 迷うというそれ自体、人と魔女、その境界線におけるまさに矛盾そのものということになるだろう。

 天上を仰ぎ、少しだけ目を閉じる。


「……正直、迷っているわ。これを生み出した責任の所在が、やはり自分にあることは事実だもの」

『そ、そうだぞ!! 最低限の責任は取るべきであろう?!』

「問題は、その責任の取り方よ。いつ、何時『妖精だった輪廻』を思い出しても不思議ではないでしょう? その時、これを生かしておいたことを後悔しないとも言い切れない」

『だ、だが……。いや、それでもすぐに殺すと言うのは時期尚早ではないのか?!』

「今殺すか、後に殺すか。始めから最悪を考えて道筋を引くのは、魔女としての私の性よ」

『……確かに、それは魔女として正しいだろう……』


 しゅん、と項垂れる黒帽子。

 それを見上げ、生き物の本能的な部分で不安を感じ取ったのだろうか。グズグズと鼻音を立てて泣き出しかける赤子。

 ソフィアは夕暮れの目を開き、それらを交互に見遣った。

 そして何かを言いかけるように、口を開いて――


「ねぇ、魔女様? 私からひとつ提案差し上げたいのですが宜しくて?」


 カタリ、と微かな音と共に椅子を優雅に立ち上がり、こちらへ歩み寄って微笑んだ小さな王女殿下。

 小さな手のひらを両手で包み込み、小首を傾げるような所作を交え、こう告げた。


「この赤子を王家の責任で引き取り、成人までこの城で育てましょう。もちろん王家の系譜に連ねる訳には参りませんけども、この子の養育と責任の所在は王家に帰属させます。それで如何でしょう?」

「……ですが、それはあまりに」

「魔女様にとって都合がいい?」


 魔女よりも、余程に魔女らしい微笑で王女殿下が駄目押しのように「それで宜しいのでは?」と重ねる声。

 それはまるで、甘露の如く耳朶を震わせた。

 告げられる内容よりも、その響き自体にぞくりと背筋を震わせたソフィア。

 理屈でも何でもない。一瞬脳裏を過ったのは――


「先ほども申し上げた通りです。私方は皆、貴女が国主を守るために血を流したことをけして忘れません。……それに赤子一人を育て上げることすらまともに出来ずに、どうして国を富ませ、臣民の生活を守れましょう? どうぞ、私たちにお任せください。ね?」


 ぎゅっと自然な動作で握りしめられた手の先に、眩しいほどの微笑みが垣間見える。

 ソフィアは掴まれた手、膝の上の赤子、周囲の視線と順繰りに見遣ったあとに、言い知れぬ不安がムクムクと湧き上がるのをまざまざと感じていた。

 この違和感に目をつぶれば、取り返しがつかない。

 考えて。考えるの……。

 そう、これは要するにあれだわ。美味い話には裏があって然りという法則を違えている。

 善意だけに聴こえる言葉ほど、この世で最も恐ろしく、警戒するべきもの。

 それに思い至った瞬間、朧気だった印象はとうとう一つの映像を結び終える。


 ――それはハタハタと羽を震わせ、必至に蜘蛛の巣から逃れようとする蝶の絵柄。

 ふつり、とソフィアの理性が人のそれから魔女のそれへと切り替わる。


「いいえ、お心遣いだけで十分よ。親愛なる王女殿下」

「まぁ、遠慮はなさらないで? 赤子の育児となれば、相応の費用も時間も人手も必要となりますわ。失礼とは思いますけれど、魔女殿がお一人で赤子を育てあげるのは大変な労力だとお察しいたします」


 真っ当な言い分だ。

 それは認めよう。

 どれもこれも確信を正確に突いてきている。けれど、甘い。甘くて、同時に愚かですらある。

 彼女の敗因は、ひとつ。

 根底を誤ったことだ。

 人が人を説得し懐柔する術が、必ずしも多種族に通用するとは限らないというのに。


「……そうね。確かに私自身がこの子を育て上げる未来は、現時点で皆無と言い切っていい」

「それなら」

「確かに、この城に預けることで人並みの教育、人間らしい環境そのいずれをも得ることが出来るのは、現時点で最も現実的で、理想的な未来ではあるでしょう」

「ご理解いただけたのなら、何よりですわ」

「理解ね……。ふふ、お願いだからこれ以上笑わせないで下さる?」

「……まぁ、一体どうなさいましたの、魔女様?」

「ねぇ、小さな王女様。貴女は人と魔女の最大の違いをご存知?」

「最大の、違い?」


 王家の娘と魔女、向かい合う二人が微笑み合う。

 けれど、いずれも口許だけで目が笑っていない光景は、周囲にどれほどの畏怖を与えた事だろう。

 頭上の帽子が『寝坊すけ、なるべく怒りを鎮めよ。な? な?!』と先ほどから小声で呟き続けることに、煩わしさすら感じないほど、ソフィアは久方ぶりに昂っていた。

 何故? それはとてもとても単純な話――


「お答えが返らないようでしたら、もう結構。この赤子は私自身の手で始末をつけることに決めました。ですから今後一切私はこの国、王家、いずれにも関わりません。改めてこの場でお約束いたします」


 それで、宜しい?

 魔女の夕暮れの双眸が、部屋に居並ぶ全員へ向けられていた。

 ソフィアがこの世で一番厭うもの。それは善意の皮を被った悪意、あるいはそれに準じる欲望だ。

 殊更、それを自覚している人間を最も嫌い、忌む。

 それも当然。

 普段は人に対して興味どころか、害意の類すら滅多に向けることのないソフィアにとっての逆鱗そのものだから。

 過去、魔女に対して逆鱗に触れるほどの愚行を犯して来たモノたちは、いずれも碌な運命を辿ってはいない。

 ここに立ち会う面々であれば、誰もが知るであろう。

 滲み出るような嫌悪と凍えるほどの色彩が混じり合う眼差しを、最後まで直視していられたのは王女殿下ただ一人。

 けれども、表面上は耐えてみせる彼女の両手が、ほんの微かに震えたのをソフィアが見逃すはずもない。

 尚も言葉を紡ごうとしたところで――


「その辺りで許してはもらえないだろうか、親愛なる魔女殿」


 追撃は、どうやら必要ないらしい。

 ほんの少し、眼差しの色を淡くして振り返るソフィア。その視線の先に『彼』はいた。

 まるでタイミングを図っていたかのように、開かれた扉の向こう側。

 初めてであった時よりも数歳分か齢を取り戻したのだろう、少年と青年のその狭間を思わせる輪郭と背の高さ。けれども、色彩だけは変わらずに。

 柔らかな笑みを湛え、凛と佇む国の王がいた。


「御機嫌よう、王様。魔女の私に何の許しをお望みかしら?」

「それにしても怒れる魔女とは美しいものだね? 私人としては見惚れるばかりで……」

「……問いの答えを」

「うん、そうだね。今は公人として魔女の怒りを解く方に尽力するべきだろうから、まずは不用意に魔女を縛り付けようとした妹の非を心から詫びさせてもらいたい」


 申し訳無かった、と言葉を添えて膝をついた国の王。

 周囲の騒めきを視線だけで鎮め、正式な謝罪の礼をとる王の姿に魔女の目が微かに見開かれる。

 そして訪れる沈黙と緊張の狭間。

 微かに開いた口から、小さく溜息が零れ出た。


「……顔をお上げください、頂の方。私も少し大人げない態度を取りました。棲みかを離れ、気付かない間に精神に負荷が掛かっていたみたい。その辺りも踏まえて、寛容な御心でお許しくださる?」

「こちらこそ、配慮が足りなかった。此度の件、魔女殿には多大に貢献頂いたのにも関わらず、この非礼。改めて当人として、詫びと感謝を捧げさせてほしい」

「いずれも受け取りましょう」

「ありがとう」


 ようやく立ち上がった王は、何の気負いも感じさせない足取りで魔女のすぐ横まで歩み寄り、自然な動作で腰を下ろした。

 それは、すぐ真横の位置。

 あまりに自然すぎたためか、頭上の帽子すら反応が間に合わなかったらしい。口をパクパクさせているのが目の端に映る。

 そしてソフィアは、あからさまに半眼となった。

 もはや隠す気すら起きない。


「あちらに座られては?」

「ここぞとばかりに膝詰めで話そうと思ったら、距離は寧ろ空けたくないよね。魔女殿はどう思う?」

「そもそもの話。貴方と膝詰めで話す利点はこちらにあるのかしら?」

「ふふ、序盤から本音ペースで嬉しいな。ごめんごめん、あまり睨まないで。これから真面目に話すから」

「……その言葉のどこに信をおけば?」

「うん、だから証明するよ。ここから先は、公人と魔女としての話になる。いいかい?」


 無言で頷いたソフィアに、微かな微笑みで応えた王。

 けれども次の瞬間、その微笑みはがらりとその本質を変えてきた。

 時に、王の仮面。

 あるいは、王の覇気と呼ばれるものだ。

 ひやりと身を震わせるようなそれを、ソフィアは以前にも知っている。


「貴女の尽力のお蔭で、数年に渡って苦しめられ続けた枷からようやく抜け出すことが叶う。改めて、それについては感謝を述べておきたい」

「……あくまでも依頼の末の成果。ただそれだけのことだわ」

「誇るべき成果だよ。経緯に関しては、後ほど宰相から書面にして提出させよう。その方が貴女にとっても面倒が少なくて済むと思うが、どうだろう?」

「ええ、それで構わない」


 王の微笑みと共に、一旦途切れる会話。

 ふいに背筋を這いのぼる、怖気。

 ところでと前置きをした王から目を逸らすことすら叶わずに、ソフィアの耳へ届く問い掛け。


「王として、魔女の貴女に依頼した『指輪』の捜索はどうなったか聞いても?」


 指輪。

 そう、指輪。

 …………あっ。


『おぉ、そう言えば指輪の捜索も依頼されていたな!! しかし当の本人が赤子となった以上は……ムグムグ』

「…………口を閉じていて、大師匠」


 咄嗟に帽子の口を抑えようとして、微妙に位置がズレてしまったのは紛れもないミスだった。

 初動を仕損じた代償は、大きい。


「魔女殿、最終的な報告をお願いしても?」

「……それについては残念な報告をせざるを得ないわ」

「それはどういう意味で?」

「解呪と周辺への被害を最小に留めるだけでも、私自身の手に余る状況だった。その上で指輪の所在を『当人』から聞き出せなかった私は……魔女としては未熟者としか言いようがないわね」

「……まぁ、聞く限りは無理もない話かな。いずれにしても貴女自身を責めようとは思わない」

「そのお心遣い、感謝いたします」


 紛れもない依頼の不達成。

 それは正直に言えば、誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せる範疇のミスに過ぎない。

 ただ、それも他の魔女であればの仮定であり。

 ソフィアは己に宿る魔力に、そして魔女としての生き筋に立てた誓約と制約にいつでもその身を縛られている。

 縛りの代償によって得る、新参者としては多大なる魔力総量。扱い熟せる術式の数も古参の魔女と比べて見劣りしないのは、捧げた宣誓が厳しくあればこそ。

 だから、それに背く行為は、己の寿命に直結するのだ。

 その理は、いつでも簡潔で揺るがない。


「魔女殿、それを除いても今回の依頼達成に王家としては出来る限りの褒賞を取らせたいと思っている。何か、希望があれば是非聞かせてもらいたいところだが……」


 どうかな? と表面上はとても晴れやかに、まるで差し込む陽光が如く微笑んで来るのにも関わらず。

 何故だろうか、この胸騒ぎ。

 まるで肉食獣に見据えられ、獲物との距離を測られているような心境にソフィアは内心とても落ち着かない。

 気忙しいにも程がある。

 だから嫌いだ、貴族。王族となればさらに悪い。

 特段、この王と王妹とは相性が悪いらしい。多分帽子の比ではない。

 改めてそこを認識してしまったのが、ソフィアにとって不運であったのか否か。

 その答えは続く王の言葉に、彼女が浮かべた表情が全て物語っていた。


「元より、魔女殿は世間の評判にあまり左右されない性格だとお見受けした。名誉も、金銭も、輝く様な宝石もお気に召さないと言われるのであれば、王として一つ貴女へ提案しよう。依頼の完遂と引き換えに、面倒事を一つ何でも言ってもらえれば、王家の名誉にかけて、その総力を挙げて貴女の憂いを払う助力は惜しまない。……それでお気に召してもらえるかな?」


 ――依頼の完遂。

 その言葉が、王の微笑みと共に魔女としての少なくない自尊心を粉々に打ち砕く。

 己が仕出かした不始末に、ソフィアは気が遠くなるほどの眩暈を覚えた。


 あのまま虫たちに喰わせて、レファロに全ての不始末を押し付けてしまえば良かった……。

 今更引き返すことが出来ない自らの決断と、自ら背負い込んだ膝の上の赤子(結論)に目を逸らすことすらできずに、ソフィアは魔女として選べる限られた選択肢を脳裏に浮かべる。

 ここまで言葉を重ねられたら、選ぶ道は二つに一つ。

 王からの依頼不完遂を理由に、すみやかに王城を立ち去る。以後、二度とこの国に足を踏み入れない。

 あるいは、未完遂の依頼を完遂するまでの猶予を願い出て、それの完遂までこの国に片足を突っ込む覚悟を決める。

 いずれを選ぼうと、地獄だ。

 それでもいくらか、前者の方がマシである。というか、後者は正直御免被りたい。


「折角のお言葉ですが、私にはどれも過分かと。今回の依頼は不完遂。従って、褒賞は何一つご用意頂く必要もありませんわ」


 善は急げだ。

 では、御機嫌ようと笑顔で押し切り、上質な長椅子からすっくと立ち上がるソフィア。

 頭上の帽子の『褒賞無しだと?!』という悲痛な叫びすら耳を貸さず、兎にも角にも速やかな脱出を――と。

 脳裏に描いた逃走経路に、気を取られ過ぎたが故の油断であったのだろう。

 立ち上がりかけた腕を予期していたように、包み込まれる。

 やんわりと、それでいて一度では振り払えない程度の強さで握りしめられ、瞬きをする合間にもう一方も同様に捕らわれた結果は手遅れの一言。

 ……あぁ、小さな王様だった頃のささやかな握力が懐かしいわ。

 いつの間にやら同様に立ち上がった王と正面で向き合い、両腕を捕られ、見つめ合うと言う言葉以外に的確な表現はないほどに間近で覗きこまれるようにして。

 束の間、王の仮面を外した『彼』はチェックメイト、と言わんばかりの笑顔で微笑み、端的に告げた。


「やっぱり貴女は、面白い」

「…………手を、お離し下さい」

「それに加え、どこまでも誠実で真面目でもある。奔放さが代名詞の魔女の中では珍しいのかな? 優しいかどうかは別として、俺はそんな貴女とまだまだ沢山のことを話したいんだ」

「私が誠実なのは、あくまで依頼という括りがあるからで……」

「魔女殿をこの国に縛り付けようとは思わないよ。俺が望むのは、個人として貴女との縁を結んでおくこと。それすら面倒だって顔に書いてあるから……うーん、そうだね」


 いいえ、王様。『それすら』ではなく、『その方が』と言った方が正しいわ。

 しかし馬鹿正直に告げられるだけの鉄の心臓もなく、ソフィアは無言で手の拘束を外すべく奮闘する。

 ルーンも言祝ぎも加護無しの『彼』には威力が強すぎて、最悪その手首ごと吹っ飛ばしてしまうだろう。それゆえの自力。

 後になって思い返し、その無駄な気遣いに後悔したのは余談である。


「魔女殿、謎々に答えてみない?」

「は?」


 不意打ちも同然の問い掛けに、思わず素も出る。

 いつしか周囲から向けられる空気も同然の視線の数々に混じって、復活したらしい妹姫の捕食者的な眼差しと宰相からの憐憫の眼差しが地味に刺さるのだ。

 認めたくはなかったが、それなりに焦燥感も覚え始めていた。

 平静を失って選ぶ答えほど後に地雷になり得る事を、半ば失念していたのはそうした背景があってこそ。


「突然何を……それに答えて自分にどんな利点があるの?」

「謎々に正解できたら、依頼の未完遂も貴女との縁も全て放免にしてもいい。って、……うわぁ、凄い目がキラキラし始めたね。すごく複雑な心境なんだけど。……まぁ、分かってたことだし。うん、頑張ろう自分」

「魔女に対して一度口にされた文言、取り消しは叶わないけれど……本当に宜しいの?」

「構わない。もし貴女が謎々の答えに正解出来たその時は、この縁をさっぱり諦めると約束する。必要なら誓ってもいいよ。それでどう?」


 甘い言葉ほど、その裏に隠された意図を疑え。

 過らなかったわけではないが、提示された言葉の誘惑に、ぐらりと心が揺れたのは事実だ。

 ソフィアは無言で、王を見仰いだ。

 見下ろしていた筈の身長は今はもう懐かしいばかりの産物で、真実の姿を取り戻しつつある王は魔女の無言の眼差しに、小首を傾げて返答をじっと待つ。


 それはさながら、釣り人も同然に。

 例え釣り上げたところで、その先にぶら下がるのはまだまだ未熟さの否めぬ魔女一人だと言うのに。


 ソフィアは苦悩した。苦悩の末にそう言えば帽子がやけに静かだと思い、ちらりと見上げるも『……褒賞ゼロ……褒賞ゼロ……』とさながら亡者が如く繰り返す黒い物体しか確認できなかった。

 身の回りの安全を担うと言っていたあの口は、やはり幻だったらしい。

 一か八か。

 そんな考えが脳裏に過ったくらいには、ソフィアは疲弊していた。

 二日も休息に費やしたというのに、現実とはかくも無情である。


「承知しました。その賭け、乗りましょう」

「うん、じゃあ始めようか。制限時間は太陽が沈むまで。一度答えたら待ったは無し。それでもいい?」

「構わないわ」

「では、遠慮なく。王家に生まれた以上、生涯絶対に叶わないと思っていた夢が俺には一つあります。その夢とは何でしょう?」

「…………」


 ソフィアは丸々一拍分の沈黙の後に、この賭けに参加した己の選択が盛大な過ちであったことを悟る。

 その内心は、ひどく真っ当な叫び一つに埋め尽くされていた。


 それを謎々とは呼ばないわ!!


 こうなっては馬鹿正直に『謎々』と言われて、パクリと餌に喰いついた我が身を呪うばかりだ。馬鹿なの? 阿呆なの? なぜ乗ったの?

 もう、大師匠を大馬鹿とは呼べない……。


 ボーンボーンと城の大広間から響く時計の音が、王の私室に正午を報せている。


「……宰相殿。あの、空耳じゃないですよね?」

「……あぁ、空耳じゃないな」

「そもそも謎々って……、その、違いますよね? あれ、違わない?」

「いや、お前が正しいよ。その感性を大切にしなさい、フィリカ」


 さり気なく静まり返った部屋の隅から、宰相と侍女による筒抜け同然の会話が聞こえてくるにあたっては、色々と気も抜けてしまった。

 そうよ、フィリカ。貴女が正しいの。

 思わず振り返って言葉を重ねようかとも思いめぐらせたものの、寸でのところで自重する。

 ほぼ選択肢が焼失したこの状況でそんな他愛もないやり取りをしてしまえば、もう末期である。まして情が湧いたら、手遅れだ。

 ……あ、間違えたわ。消失ね。余程に思考が混乱しているみたい。


「……」

「?」


 もはや涙目も同然の魔女。その物言いたげな眼差しに、コテンと音が付きそうなほど首を傾げて答えを待つ王が一人。

 いや、可愛くないわ。もうそこまで成長したら、全然その仕草は似合わない。

 否定に次ぐ否定がグルグルと脳裏を駆けまわり、終いには目を回して吐きそうになる。その末に、最後の足掻きと言わんばかりにソフィアは徐に手を空に向けて挙げ、一言。

 何故ここで挙手を? それはとても簡単な話。師匠の教育の名残というだけのことよ。


「王様」

「何だい?」


 妹姫より実ははるかに狡猾で、微妙に傲慢でもあり、冷めた眼差しを標準装備しているにも拘らず、仮面の裏側ではきちんと人間らしい感情も手放せずにいる、そんなどこまでも人間臭い王様。

 以前、個人的に苦手な方ではない的な心の声を呟いた記憶は、たぶん誤り。

 正直、私は貴方が苦手だわ。


「棄権は認められるのかしら?」

「……事前の取り決めはなかったから、とりあえず却下ということで」

「そこを何とか」

「却下で」


 今に至るまでそれを気付かせなかった数段上の腹黒さに、足掻こうとする意志を抱くことすら面倒臭くなったソフィア。

 最終的にどちらの決断を下したかは、もはや言うまでもないだろう。

 夕暮れまで不毛な時間を過ごすくらいなら、その分の時間をふて寝に費やしたい。

 そしていい加減に、この両手の拘束から解放されたい。

 それくらいにはふてぶてしく、逞しくもある内心。伊達にあの師匠を養父として、同時に師匠として仰いではいないのだから。

 すっと背筋を伸ばし、再びの挙手と共に深呼吸。覚悟は決まった。


「王様」

「何だい?」

「……恋愛結婚」

「……え」

「王家に生まれたが故に諦める夢。それを聞いて真っ先に浮かんだのはその四文字よ」


 さぁ、答えは如何に。

 魔女の眼差しで見据えた先、束の間呆然とした面持ちを隠し切れなかった王は、やがて何かを諦めた様な顔で微笑し、溜息と共にその口を開いた――


「……残念。不正解」

「紛らわしいわ!!」


 今度こそ抑えきれずに零れ出た本心からの叫びに、その言葉と裏腹に全く残念そうには聞こえないあっぴろげな笑声と、真昼のような微笑み。

 今はもう小さくはない王様がその大きな手のひらを広げ、初めは遠慮がちに、やがてわしゃわしゃと遠慮なく魔女の栗色の髪を撫でた。

 煩わし気に、それこそ虫を払うようにそれを拒否する魔女に、それでも微笑みは絶えない。

 やがて静かな声で、彼は独白した。


「俺が諦めかけた夢はね、今はもう半分叶ったんだよ?」


 君のお蔭でね、と今度こそ言葉と表情が一致した笑顔を見せる。

 周囲から何故か驚いたような声や息を呑むような音が聞こえてくるが、それはそれ。

 そんな些細なことなど、不機嫌と憂鬱に頭の殆どを費やしている魔女の視界には入ってこないのだ。


「正解、聞きたい?」

「正直今となってはどうでも……」

「聞きたい?」

「……図体が大きくなった分、ウザさが増したわ」


 溜息と内心をそのまま晒せば、王様がクスクスと笑う。

 その笑い方だけは、大きくなっても変わらないのね。そんな感慨と共に、何かを諦めた様な微笑みで魔女は笑い返し――


『なっ?! い、いつの間にこんな状況に!!』


 ようやく正気を取り戻し、頭上から飛び跳ねながら威嚇を始めた黒帽子をむんずと掴んで放り投げた。

 その軌道に、一切の躊躇いはない。

 その上我ながら、不意を突いた絶妙のタイミングであったと思う。

 ようやく解放された両手をパンパンと音を立てて払いつつ、眺める先には絶景かな。


 見事に顔面で帽子を受け止める羽目になった王様と、金の亡者にも程がある大師匠。

 これも神の采配だろうか、放った角度が見事に合致した模様だ。

 互いの口許を抑え(まぁ、帽子に手はないが)、床に額を付けて『……初めての口付けが……』云々と泣き伏している。

 こうしてようやく、幾らか気持ちもスッキリした。



 *



 緑雲郷(べリアレム)

 周辺からはそのようにも呼ばれているらしい、風と緑と鳥の羽音ばかりが耳に心地よい住処へ帰省することが叶ったのは、あの衝撃に満ちた王城での一日から数えること5日と少し後のこと。

 帰りは何故か、地面がぬかるむほどの雨に降られた。

 じとっとした眼差しを空へ向けて「今更……?」とソフィアが呟いたのも無理はない話だ。



『おい、寝坊すけ? ううむ、変わらず進歩のないことよ! 起きるのだ!!』

「……うー、あー、もう。……朝?」


 そうして、いつもと変わらぬ日々が舞い戻ってくる。

 いや、正確には少しだけ変化してしまった日常が。


『朝も過ぎて、もう昼時だぞ?!』

「…………それは流石に、寝過ぎね」


 もぞもぞと寝台から這い出す様は、やはりどこか芋虫めいている。

 真昼の陽光を長椅子に腰掛けて浴びること、暫し。定位置でフンフンとご機嫌斜めながらも鼻歌を歌う黒帽子と、いつもの問答を交わした。


「……どうして貴方は帽子の癖に、動けるの?」

『ふふん、この私に掛かればそこらの魔術師が出来るであろう一通りのことは容易く行えるのだぞ!』

「……帽子の癖に、喋れるのは?」

『同じことを何度も言わせるでない! それは私が私であるが故だ!』

「……帽子の癖に、やたらと偉そうなのも?」

『それも当然だ。この私はお前にとっての大師匠なのだからな!!』

「……大師匠、ね」

『違いあるまいっ!』


 帽子なりに、今日も変わらず胸を張っているらしい。ほんの少しだけフォルムが変化する。

 やっぱり丸いわ。


「ちなみに今日の分の伝達はある?」


 以前はこの質問をしない時の方が機嫌も悪くなったものだが、今は大分状況も変わったらしい。

 不機嫌さもここに極まれり。

 帽子の癖に、切れ目の両端をさながら頬でも膨らませるようにする様は無駄に器用である。幼子が不貞腐れているようにしか見えない。


「大師匠?」

『……な、無いとは言い切れないが、それよりも昨日の依頼の達成に向けてだなっ、寧ろそちらの方が余程に重要であってだな!』

「……大師匠?」

『…………うむぅ。あるぞ。一通、国の王より親書が届いている!!』


 親書とは大層な呼び名だが、実際はただの手紙だ。

 毎日とまではいかなくとも、住処へ戻ってから二日と開けずに届く王様からのお手紙である。

 初めこそ面倒で開く気すら起らなかったそれも、一月を超えた頃には自然と手が伸びて、流石は国の王というべきか、癖のない小奇麗な文字を目で追っている内に……。

 次第に日課と化し、ささやかな楽しみになった。

 単純に面白いのだ。それと少し、いやかなり阿呆で天然なところのある(ように見せかけている可能性もなくはないが)その文章に、何となく和みもする。

 我ながら現金だとは思うものの、意外や意外、あの王様は文才があるらしい。


「大師匠、手紙を食べようとしないで。いつから草食性になったの?」

『……ううっ、寝坊すけ! 大師匠は哀しいぞ!? この浮気者めー!』

「浮気者も何も、貴方は帽子。私は魔女よ。少し落ち着いて頂戴」


 内心の面倒臭さはさておき、これ以上ご機嫌を損ねれば再びの浸水危機である。

 ソフィアはよしよしと片手で帽子を宥めつつ、するりと帽子の隙間から手紙を抜き取り、サラッと目を通した。


 ふむ。今日も今日で、なかなか興味深い文面である。

 要約すれば、王様が現在進行形で頭を悩ませているのはかの妹姫、その婚約者選びに関してだということが伝わってきた。

 大変だわ。絶対に関わり合いになりたくない。

 ソフィアの心象はそれに尽きた。

 あの妹姫にお相手を探すとなれば、例の宰相は過労で倒れてしまうのではないかと他人事ながら、ほんのり心配にもなる。あの隈の濃さはちょっと尋常ではないと個人的にそう思うのだ。

 まぁ、それはさておき。

 そもそも、当人が正式な妃はもちろん妾妃すらも迎えていないことを踏まえて読むと、余計に面白い。この国はこれから先、一体どのような軌跡を辿ってゆくのだろう。

 頭痛と共に、隠し切れない好奇心が疼くあたり、ソフィア自身も自覚はしているが大分毒されつつあるのは確かだ。

 繰り返しにはなる。けれどもやはり、恐るるべきは彼の王の文才である。


『……そういえば、シェリルは無事に育っているのか?』

「あの子? ……そうね。先日の手紙では、フィリカからの報告でもうじき寝返りが出来そうだと書いてあったわ。ルーエンも執務の合間に顔を見に行ってくれているみたい」

『仮にも相手は一国の主! 親し気に名を呼ぶものではないぞっ!!』

「……いつもながら、もう少し声量を抑えて頂戴。帽子の嫉妬は見苦しいわよ? ん、待って。見苦しいと言うよりは不自然かしら?」

『違っ、断じて私は嫉妬などという浅ましい気持ちからではなく!!』

「そもそも、友人同士が互いを名で呼び合うのは当然よ。そうでしょう?」

『!!!』


 ちなみにシェリルとは、かの赤子の名である。名付け親は妹姫だ。

 彼女は結局、王家を後見人として王城の一角にて密かに育てられることで話がまとまった。

 我ながら酷薄だとは思うものの、正直助かっている。

 魔女の下で真っ当に赤子が育つのかと問われれば、それは否だ。どう贔屓目に見ても真っ当な環境とは言えまい。それに加え、役不足でもある。

 長い歳月を生き、それなりに知識を蓄えているからと言っても子育てはやはり未知の領域。

 母性などという至極真っ当でこの世界で最も尊いものすら持ちえないこの身体では、赤子一人すら手に余る。


「……ふふ、思い出すと笑えてくるわ。つくづくあの王様も変わり者ね?」

『か、変わり者だということは認めよう!! しかし、私はあれを寝坊すけの友人とは認めんぞ! 断じて認めぬっ!! 百歩譲っても知人扱いだ!!』

「あはは、本当に愉快。そして貴方はやっぱり優しいわね、大師匠?」


 うーん、と猫の如く伸びをしてソフィアは遅めの昼食がてら、お湯を沸かし始めた。

 ふつふつと浮かび上がる泡を眺めていたら、自然と記憶も浮かんでくる。

 あの日、王様がとうとう明かした『解答』は魔女の自分ですら想定外で、だからこそ許してしまえたのかもしれない。


 それに、あの深緑の目は、まるでこの森を思わせるから。


 存分に髪をわしゃわしゃ掻き混ぜられ、不機嫌のままに帽子を投げつけるという暴挙へ走ったあの後。

 初めての口付けが魔法具という大層マニアックな経歴を持つこととなった王様は、傷心を超えて立ち上がって見せたのだった。

 その逞しさは尊敬に値しよう。

 こちらからすれば脱帽すら覚える王様が、何を思ってかトボトボと歩み寄り、まるで茹蛸のように顔を紅に染めながらも、思いつめたような表情で紡いだ問い掛け。


「あのね、必要以上の束縛はしないし、不快になるような行動も指摘して貰えさえすれば直すように努力は惜しまないよ。だから、その、良かったら…………俺の、友人になってくれないかな?」


 正直、最後の方は囁き声に限りなく近く、必至に耳を澄ませないと聴こえないくらいの小声だった。

 まさかの、友人希望。

 え、いないの友人? 一人も? ……あっ(察したわ)。

 それでも一応聞き間違いかもしれないと思い、その後も二回言い直させたら周囲から「そろそろ赦して差し上げてください……」と頭を下げられたのは、紛れもなく痛い思い出である。

 しかし、聞き間違いでないということは判明した。

 ソフィアが感じた脱力感は、当然のことながら多大である。けして少なくなかった。


 ――それならそうと、さっさと言いなさい!


 友人としての第一声がそれだったことは、きっと死ぬまで忘れるまい。

 膝詰めで説教したことも、思い返せば懐かしくすらある。

 けれどあまりにも、人騒がせならぬ魔女騒がせ。説教もしたくなる。

 生まれ育った環境が環境であることに加え、表面上は朗らかに振る舞えるという謎の小器用さもあり、今の今まで周囲から『友人求む!』という悲痛な内心に少しも気付いてもらえなかったらしい王様は、それ相応に色々なものを拗らせていた。

 正直、それだけでも面倒な部類に仕分けされるのは明白だ。その素は若干、仄暗く後ろ向きであることも判明した。

 その上で聞き取った成果は、以下のような文言である。


「いずれ王になる俺に、対等にものを言い合える友人は出来ないといつしか諦めていたんだ。だけど、君は魔女だ。気まぐれでも『友人』として付き合ってくれるんじゃないかって、実はひそかに初日からドキドキしていたよ」


 今だから言うけどね、と気恥ずかし気にそう明かしてみせたルーエン。

 一時でも王としての仮面を外し、人間らしい表情を浮かべるその横顔はさながら陽だまりだ。

 けれども、人としての生に苦しみはつきもの。

 呪いが解けた以上、これから先に彼を待つものは生涯をかけて延々と続く、孤独な為政者としての道だ。

 その孤独は、王座に座る者にしか本当の意味では分からないものだろう。

 とは言え、同情はしない。


 魔女とは嘲笑うものだ。

 啼き落しされていたら、足蹴にしていたかもしれない。

 悲壮感たっぷりに縋り付かれても、それは多分同様であり。

 怠惰と平穏が創り出すような、半端な欲求ではなく。

 己が身を削って向けられる眼差しの清廉さを認めない限り、その手足の先すらも動かしたいとは思えない。

 そして魔女は見定めるものだ。

 怯えながらも、紡ぎ出された言の葉が動かすのは、何も人には限らないというだけの話。

 決して自分が宿すことのない、美しい命の色にこそ、魅かれてやまないのは魔女の業である。


 深緑の双眸の中に、それを見出した瞬間。

 ソフィアは彼に歩み寄り、耳元で『名』を告げていた。

 魔女にとって、自ら名を明かすことは信頼の証だ。

 周囲に聞き取れぬよう、あらかじめ『静寂』のルーンを二重掛けしておくことも忘れない。

 黒帽子が一拍遅れて発狂していたものの、それ以外には特に何事もなく『彼』と私は友人となった。


 往々にして気まぐれではあるが、交わした約束は果たすもの。

 魔女とはそういうものなのだから。



 *



 風には緑の香、鳴き交わす鳥の声はいつしか春告のそれから、初夏を報せるものへと移り変わる。

 変わらずにいられるモノはない。

 生きている限り、魔女であってもそれは同じ。


『……うぅっ、この師匠不幸者めがー!!』

「……面倒臭いわ」


 当面の問題は、振り返った先にある。

 再び浸水の憂き目に晒されている我が家の床板へ平坦な眼差しを落とし、ソフィアは小さくない溜息を零した。

 変わらずにいられないものがある一方で、進歩がないということもまた救いようのない不幸ではある。

 いつしか『魔女』のその口許には、諦観の笑み。


「さてと……陰干ししましょうか」


 未だにグスグスと鼻を啜りあげる黒帽子を摘み上げ、外の枝に吊り下げるという作業を済ませて戻れば、淹れ立てのハーブティーは程よく冷めている。

 溜息と共に、水面を見下ろす。

 窓の外には、風に吹かれてふわりふわりと揺れる帽子が一つ。

 それも含めた、いつもの日常。

 譲られた当時こそ、『絶対防御』以外に取り柄などないと思っていたその帽子が、いつの間にやらパックリと横一文字に裂けたあの時から。

 平穏だった日常は、騒々しさを傍らにするようになり。

 平凡だった運命は、逃れ得ぬ憂いを未だに奥底に抱えながらも、忙しなさと浴びる陽光に紛れて、殆ど思い出す暇もない。


 こくり、とハーブティーを一口。ほぅ、と柔らかな溜息。

 案外これで悪くない、と。

 その手に、いつしか馴染むようになった羽ペンがくるりくるりと揺れる先。

 紡がれる言葉は誰に宛てたものかなど、敢えて言う必要もないだろう。

 ソフィアは今日も今日とて『魔女』として笑う。

 その柔らかな栗色の髪と夕暮れの色の眼差しだけは、今も昔も変わらずに。

 緑の葉を透かし、陽光に照らし出された先。


 魔女としての、明日を待つ。


ここまでお読み頂いた読者の皆様へ、並々ならぬ感謝と共に本作を捧げます。


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[良い点] 何度も何度も読み返してます! [一言] 続きは、ないんですか……(瀬死)
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