3話
「せんぱーーーーい!!」
登校する学生達の喧騒を掻き分けるように、後方からやたらと大きくて元気のいい声が聞こえてきた。
嫌な予感がしつつも、その特徴的な声色には聞き覚えがあった俺は声がした方を振り返る。
…げ。
予感は的中した。
遠目で見ても小柄なその背丈。
ショートカットの髪を片側で結わえた少女の姿…
いや、訂正。正確には、こちらに向かって走ってくる少女の姿。
気がついた時にはもう、その足で地面を蹴り、両手を大きく広げた格好のまま…
思いっきり飛びかかって来やがった。
「ぐはっ」
いくら小柄とはいえ不意をつかれて背中にしがみつかれると、当然ながらバランスを崩す訳で、俺はうつ伏せに地面に倒れ込んでしまう。
「ん~、先輩~」
一切の遠慮なんて無く、背中に乗っかったままスリスリと頬擦りを続ける少女。
「……えっ?えっ…?」
彩乃は戸惑った表情で口元に手を当てたまま、そんな少女と俺の姿を交互に見返している。
…オッケー、分かった。
今すぐこの意味の分からん状況をきちんと分かりやすく丁寧に説明………する前に、とりあえず背中の上の奴が重いぞコノヤロウ。
「…コラ、下りろ」
なんとか首だけを上げて乗っかってる奴を睨みつけてやると、「とうっ!」と妙な掛け声と共に軽快な身のこなしで飛び退いた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!遠くに先輩のお姿を発見しまして、思わず可憐に美しく、木ノ下 葵ちゃんの登場でございます!!振り返って私に気づいてくれたときの先輩の嬉しそうなお顔っ…もう、永久保存で脳内再生できちゃいますっ!あ、それとおはようございますっ!」
ひとしきり勝手に喋り続けた後、元気に手を挙げて挨拶。
とりあえず、いろいろと突っ込みたい部分はある。
①まず、呼んでない。
②後ろから飛びかかってくる行為に、可憐さや美しさなどは欠片もない。
③誰がどう見ても、げんなり顔で振り返ったはずだけど。
制服ついた汚れを充分に払い落としてから、俺はゆっくりと立ち上がった。
「彩乃、行くぞー」
「わー!…ちょちょ、ちょっと待ってくださいよー」
何事も無かったかのように完全なる無視を決め込んで踵を返したつもりが、すぐさま正面に回り込まれた。ちょこまかとよく動くやつだ。
「悪い、小さいからよく見えなかった」
「セクハラですよその発言っ!それよりも!ほら、この制服!ほらほら!リボンの色とか!よーく見てください!穴が開いちゃう程に見てくれて構いませんからっ!」
大きな瞳をウインクさせ、その場でクルリと1回転。
腰に手を当てて自慢げにふんぞり返るこいつの胸元には若葉色のリボン。真新しい制服と履きシワのない革靴は学園指定のものだ。
「きゃっ!大正解です!私、木ノ下 葵はついに先輩と同じ学園の1年生になっちゃいました!ていうかリアクションが薄すぎやしませんか?もっと驚いてくださいよお………あ、でもでもでも、そんなクールな一面もやっぱり素敵です……ポッ…」
「…………………………」
まだ何も言ってない。
赤らめた頬に両手を当てたまま股をすり合わせてくねくねと動き始めたあたりで、横にいる彩乃が制服の裾を引っ張ってきた。
「…えっと……悠人くん?」
訝しげな表情で、俺を見る彩乃。
危ない危ない。すっかりこいつのテンポに巻き込まれていたところだ。
「ああ、紹介する。こいつはな…少し前に知り合った奴でさ」
「はいはーい!木ノ下 葵ですっ!」
「こう見えても、小学生じゃないんだ。以上」
「…先輩、ほんっとにセクハラです。モラハラです、非常識です、意地悪です~!」
怒った。
詰め寄ってきて、グーにした両手を勢いよく振りかざす。
身長差のせいでちょうど胸元の辺りを叩かれているわけだが、ポカポカという擬音が似合いそうなそれは痛くも痒くもない。
「それともあれですか!気になる女の子には意地悪をしたくなる心理というやつですかっ!?そうならそうと分かりやすく………」
そこまで続けて、少女———葵の動きが止まった。
何かに気づいたように俺の右手を手に取って、静かに固ったまま動かない。
「せ、せんぱい……血が……」
「血?」
見ると、人差し指に小さい擦り傷ができていた。キズ自体はほんとに小さいもんだが、うっすらと血が滲んでいる。
さっき倒れ込んだときか。意外と気づかないもんだな。
「これは、一大事だ。俺は血を見ると卒倒する体質で…」
「……まったくもう、そんなわけ無いでしょ。待ってて、私、絆創膏持ってるから」
俺の冗談を途中で流すと、すぐに鞄の中を探し始める彩乃。そんな物まで持っているのか。さすがは女の子。
「…わ、私、なんて事を……先輩にっ……お、お、お怪我を~っ…!えぐえぐえぐっ……」
泣いてんのかい。
急に顔を上げたと思ったら、漫画みたいに両目から滝のような涙を流していた。
よくもまあこんなにすぐコロコロと表情が変わるもんだと関心する反面、さすがに顔をくしゃくしゃにして鼻水まで垂らされると、かわいそうになってくるな。
「こんなの舐めときゃ治る」
「……舐め、る?」
そうそう。
それにこんなの怪我に入らないっての。
大袈裟な事を言ってないで、さっさと涙を拭いなさい新入生。
ポケットを探ると、今日もきちんと入っているハンカチ。だらしないと言われる俺も、こういうところの几帳面さは母親譲りなのかも知れない。
「し、失礼しますね……」
せっかく紳士が渡してやろうと思ったのに、もう泣き止んでるし、今度はなんだよ、何でそんな自分の口元に俺の指先を近づけ……って…
へっ?
「あったよ悠人くん。ほら、傷口を見せ……」
…チュク…………。
「んっ、…ぺろ……そ、それでは悠人先輩、また今度ですっ…!」
走り去っていった。
あー。もうあんなに小さくなっている。
いや元から小さいのか。
……ちょ、ちょっと待ってくれ。すっかり思考停止しているじゃないか、しっかりしろ俺。
…今、俺…
何された…?
指先に感じたのは
温かくて柔らかい感触。
実際、指の先は少し濡れていて、滲んでいた血も綺麗になっている。
!!?
ゾクリと、背筋に走る悪寒………。
はっきり定かではないが、斜め後ろの、しかもすぐ近くから発されているあろう方向を、ギギギと油の切れたロボットのような動きで振り向く。
「…悠人、くん?」
ニッコリ笑顔の彩乃。
「…悠人くんは、今、何をされたのかな?」
とてもニッコリと笑っている。
…だけど、それは表情筋のみが笑顔を作り出しているらしく、目はまったく笑っていないし、こめかみも引きつっているその表情は、とても怖い…。
「な…んだったん……だろうな?ははは…」
「何を、されたのかな?」
精一杯の自然体を装って返事をしてみたが、返ってくるのは同じ質問だ。声のトーンも段階を経るごとに冷たくなっているような気がするのは、頼むから俺の気のせいであってくれよ…。
「……ははは、はは」
何故か完全に怒りモードに突入してしまった彩乃から、思わず後ずさってはみたものの、すぐに距離を詰められる。ゆっくりと、しかも笑顔のまま。……怖い。
今、彩乃が持っているのは学生鞄。
たかだか鞄と思うかもしれないが、休み明けとはいえ予習復習を欠かさないこいつの鞄の中には、教科書と参考書がギッチリと入れられているだろう。
指をくわえられ、舐められました。
…なんて正直に言おうものなら、すかさずまた……今日、2回目だからな。さすがに分かるぞこのパターン…。
「とりあえずさ!詳しい事情は、かくかくしかじかでさ!また後で……」
言葉の途中で彩乃が動いた。
いつ鞄攻撃が飛んできてもいいように注意深く観察していたが、両手で鞄を持つ手が片方離れた。
……グーかよ!?
いや、せめてパーであってくれそこはっ!
心の中で祈りながら、目を閉じる俺。
しかし、朝のような衝撃はこなかった。
感想を書いてくれた方どうもありがとうございます。
ダメな作者ですが、めちゃくちゃ嬉しかったです。
やったるでーい!