1話
ジリリリリリリッ…
鳴りつづける目覚まし時計。
そのけたたましい音で、枕元で眠る人間に朝を知らせてくる。
平穏で心地良い睡眠の最中でもお構い無しだ。
…瞼が重い。
昨日の夜更かしを後悔しつつ、深く被っていた布団から手を伸ばす。
カチッ。
7時10分を示す時計の針。
カーテンの隙間から差し込む光が少し眩しい。
1度大きな欠伸をした後、もう一度布団の中に潜り込む。
2度寝だな、これは。
全身の細胞が睡眠を欲していることに答えて、素直に瞼を閉じる。
もちろん少し寝たらちゃんと起きるから…。
…すぐに微睡みが訪れる。
俺の意識は、温かくて心地良い眠りの世界に再び…
何やら部屋のドアをノックする音が聞こえたような気がしなくもないが、俺の気のせいだろう。
「…くん、…悠人くんっ」
俺の名前を呼ぶ。
目覚まし時計の無機質なアラーム音なんかじゃない。よく聞き馴染んだ声。
「…悠人くんってばっ」
返事をせずに寝たフリを続ける俺の身体を、布団の上からユサユサと動かす。
「…………あと、5分」
「もう、そんなこと言ってちゃんと起きてくれたことないじゃない」
「…う…」
…バレてる。
すぐに見透かされてしまった俺は、渋々ベッドから起き上がる。
「おはよう、悠人くん」
ニコッと笑顔を見せて、挨拶をする制服姿の女の子。
「おう、久しぶり」
「うん……えへへ」
寝ぼけ眼で挨拶を返すと、何故だか少し嬉しそうな顔をして眉にかかった前髪を撫でる。
高梨 彩乃。
俺の幼馴染みだ。
シワひとつない制服と胸元に見える赤いリボン。
それらはクリーニングから下ろし立てなんだろう。
今日から新学期だからな。
「…って、まーたこんなに散らかしてっ」
俺の部屋を見渡してため息をつく。
「まったくもう、お休みに入る前に片付けてあげたのに。なんですぐに散らかしちゃうのかなぁ悠人くんは」
そうか?これくらいは普通だろ。
春休みが始まったのは一週間とちょっと前。
テーブルに置かれた開きっぱなしの雑誌と漫画は読みかけなだけだし、昨日着たシャツとジーパンはイスの背もたれにかけておく主義だ。
ゴミ箱からあふれて床に落ちたスナック菓子の袋のことは多少気になっていたとこだけど。
まだベッドに腰を掛けている俺に、だらしないんだからとつけ加えながら持っていた通学鞄を置く。そして綺麗に切り揃えられた横髪をサラリと耳にかけると、手際よく整理を始めた。
こいつは昔から世話好きな奴だ。
朝が弱い俺を起こしにやってくるし、たまに炊事に洗濯を手伝ったりと、なにかと世話を焼いてくる。
近所に住んでいて家が近いこともあるんだろうが。歩いて3分もかからない距離だしな。
「あれ?パソコンの電源つけっぱなしだよ?」
彩乃が指差したのは机の上に置いてあるノートパソコン。
ディスプレイは消えているが、電源ランプは確かにゆっくりと点滅している。
…休止モード。
自分のやらかしたミスを悔いる。
眠気も一気にすっ飛んでいった。
「…お、おう!昨日は遅くまで調べものをな!ほら、あれだよ…!英語の宿題!」
慌てて立ち上がり、彩乃の注意を逸らすために咄嗟にでた台詞。
前半は本当だが、後半は勿論ウソ。
「英語?インターネットで調べてたの?」
「…そ、そうそう!そーなんだよ!」
首を傾げる彩乃の前で、必死に首を縦に振る。
「ふーん、分からないなら言ってくれれば良かったのに。私が一緒に教えてあげたのになぁ」
「さっすが!学年1位!男前!」
「お、男の子じゃないんだけど…あ、そろそろ行かなきゃ。私、下で待ってるからね」
…よ、良かった。
ホッと肩を撫でおろす。
なんとかリカバリーでき…
「よいしょっと」
おい、彩乃。
抱えていた雑誌を机の上に置く。
それは、いいんだ。
片付けてくれてありがとう。
…でも、その前にした行動がマズい。
俺の狭い机に雑誌を置こうとすれば、ある程度のスペースを作る必要がある。
そばにあるワイヤレスマウスに手が伸びるのも分かる。
…だけど、なにも無意識にクリックまでしなくてもいいだろう…。
デバイスの命令にきっちりと従い、スムーズな復旧動作に入るパソコン。
キュィィィンと静かに回りだしたハードディスク。
…冷や汗が、頬をゆっくりと垂れる。
………
…
いやんッ……あンッ…
…いやぁぁん。
スピーカーから大音量で響きわたる声。
全画面表示されたディスプレイの中で、いやらしく揺れ動く2つの大きな胸。
…朝の爽やかな一コマには全く似つかわしくないピンク色の雰囲気が、部屋中を包み込む。
彩乃はビクリと身体を震わせたっきり、まったく動かない。
後ろを向いているのでその表情は分からないが、画面もしっかり目に入っているんだろう…。
「…お、おーいっ…彩乃!いつまでも固まってちゃ遅刻するぞ!あー、俺まだ着替えもしてないやー…急がなきゃなー」
後ろを向いたままの彩乃の身体が動いた。
…み、右手だけ、だが。
ゆっくりした動きでディスプレイに添えられ、静かに畳む。
シーンと静まり返る部屋。
「…わー …なんだか静かになったなー…さ、爽やかな朝がまたやってきたなー… な?…あ、彩乃」
彩乃はうつ向いたまま答えない。
えーっと…き、気のせいだよな!
背を向けたその周囲に、どす黒いオーラみたいのが見えるのは俺の気のせいだよな!
なにか言わなければ…。気のきいたことを。
言い訳の台詞がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
凍りついたこの状況を打破するため、俺は数ある選択肢の中でから1つを選ぶ。
勇気を出して彩乃に近づいていく。
そして、さらに勇気を出して肩にポンと手を乗せる。
「…ほ、ほらっ!…お前もさ、あれくらい胸があればよかったのにな!……はっはっはっ!」
「…………………」
部屋の気温が5度くらい下がるのを感じて、俺は盛大に墓穴を掘ったことを悟った。
そして、彩乃の肩からワナワナと震えが伝わってくるのを感じて、思わず少し後ずさる…。
「…じょじょ、冗談だぞ!?もちろん!…さて!落ちがついたところでそろそろ…… あ、あれれー…?…彩乃さん、な…何でそんなに大きくて分厚い辞書なんかをお手に取られたんでしょうか…?」
机の本棚、一番上の段。
厚さ10センチはあるだろう大判の辞書。
…か、片手で持ってやがる。
かなり重いはずだぞ、それ…。
禍々しさを増した黒いオーラを纏いつつ、その恐ろしい凶器を持ち上げて近いてくる彩乃。
「…ぎゃ、ぎゃー!ちょっ…ちょっと待てっての!落ち着けバカ!…さ、さっき言ったのは撤回するしペッタンコにも良さは……へぶッッ!!!?」
凶器は振りおろされた。俺の頭に。思いっきり。
…衝撃に揺れる視界の中。
くるくると回るお星様が見える…。
その後にやってくるはずの痛みを待たず、俺の意識は闇の中へとブラックアウトした。
はじまりました。
春ですね。