4日目 小さな変化
「案外……逃げるっていうのも悪くないかもね」
風呂上がりのゆったりとした時間に、そんな言葉が口から溢れた。まだまだ水気の残り顔にくっついた髪をかき上げながらため息を一つ。タオルを首にかけたまま、リビングにあるソファに腰掛けながら、テレビのバラエティの中で芸能人たちが笑っているのを、特に思うところなくぼーっと眺めていた。
あのお風呂から出た後の異常な眠気とだるさの中、あの変な夢を見た日から2週間以上たった今までのことを振り返る。
これといって語ることも、変化もないただの日常だった。わたしの事情を無視して流れていくこの世界の時間に身を任せ、所々感じる違和感を『そういうもの』として受け入れる。わたしに不都合となることをことごとく考えないようにする。まさにただ単に逃げているだけ。
でもだからこそわたしはこの世界でなんの不自由もなく生活できるわけで、逃げるというのは正しくはないんだろうけどバカにはできないな、なんて最近は思い始めていた。
「もう……忘れたいのに」
頭にこべりついたものを落とすように、頭を横に振った。水気を含んで束になった髪がペチペチと頬を叩く。まだ十分じゃなかったかと、首にかかったタオルで髪を拭いた。
逃げてきたけど、逃げ切れたわけでもない。ふとうさぎを見たときや、部屋にある欲望日記が目に入ったとき、未だにどうしても思い出してしまう。その度に忘れろ自分に言い聞かせるのも、いい加減に嫌になってきていた。
「……」
そんなとき決まって最後までわたしの頭に留まり続けているのは、あの灰色の少年だった。
夢の中で出会った、死人のような、かと思えば年相応な表情を見せ、今まで見たこともないくらいに綺麗な涙を流す少年。彼にもう一度会いたい、一目見たいと思ってしまっている自分が確かにいた。
(もしかして、これが恋?)
「……ふふ。いえ、違うわね。わたしが恋なんて、似合わなすぎよ」
バカバカしいと、思わず唇がほころんだ。
鉄のような、とは言いすぎかもしれないけど、氷くらいの冷たさはあると思っているわたしだ。女子高校生にしては冷めているというのは、友達も、親も、わたし自身も思うところ。
恋なんてわたしが一番よくわからない感情だ。恋愛ドラマや映画もたまに見るけど、いつもいまいちピンとこない。
そんなわたしが恋だなんて、何かの間違いだ。
気がつけばもう見ていたバラエティは終わりを迎えていた。思った以上に時間が経っていたらしい。
(もう寝ようかな)
そんなことを考えながらクァとあくびを漏らす。だんだんとまぶたが重くなる感覚を覚えながら、ソファから立ち上がろうと足に力を入れたときだった。
「あら?」
背後から、お母さんの声がした。
「どうしたの?」
体をねじり、ソファの背もたれにもたれかかる。
お母さんはガサゴソと何かの整理をしているようだった。葉書とか写真何かの書類とか、とにかく紙類が多くしまってあるところの整頓をしていたらしい。
お母さんは小さなこと四角形の紙を持って、こちらをニヤニヤしながら見ていた。
「いや、ちょっと面白いのを見つけてね?」
「面白いもの? それ……写真? ていうかなんでそんなニヤニヤしてるの」
「やぁねぇ。凛花だたら水臭いわねえ。言ってくれればよかったのに」
楽しくてしょうがないと言った調子の母親と、全く噛み合わない会話。なんとなく嫌な予感がして、お母さんのもとに向かい、半ば奪い取るような勢いで写真を受け取った。
受け取ったそれはプリクラだった。そこに写っていたのは制服を着た二人の男女。
少女の方は、客観的に見て、プリクラ自体の補正もあるのだろうけど、なかなか整った顔立ちだった。流れるような艶やかな長い黒髪に、それに相反して雪のように白い肌。そこに浮かぶ黒い瞳はジト目で、こちらを向いていない。体の向きも外を向いていて何処か嫌がっているようにも見えなくはないけど、頬はほんのり赤く染まり、恥ずかしそうではあるけどきちんとピースもしていた。
というか、わたしだった。
男子の方は、少女と違い幸せがにじみ出ているような表情だった。いまの時間が幸せすぎて、楽しすぎて仕方がないというような、そんな表情。その灰色の瞳は細められ、まさに満点の笑顔だ。でもどこか気恥ずかしいのか、そのは頬もそこは少女と同じく赤く染まっている。
「……」
わたしは一言を発さなかった。驚きすぎて声が出ないなんて初めてかもしれない。
それをどう感じたのか、お母さんはさらにそのニヤニヤ顔をひどいものにさせる。
「彼氏? 彼氏なの?」
「いや、これは……その、違うって。こんなの撮った覚えもないし」
たどたどしくわたしの口から漏れたそれは興奮気味のお母さんを押し切るにはあまりにも弱すぎた。
「覚えがないって……実際にこうやってあるんだから撮ったんでしょ。それとも記憶喪失とでもいうつもり?」
「いや……違うけど」
似たようなものは体験したと、心の中で付け加えた。そんなこと言えるわけもない。
「えっと……ほんと、ほんとに、違うから」
「あ、ちょっと凛花!」
わたしはお母さんから逃げるようにリビングを出て、階段を駆け上がる。
リビングの方から、「あの凛花が彼氏を……ついに我が娘に春が来たぁぁああ!」なんて聞こえてきたけど、そんなのは無視してそのままベットにダイブした。
「ほんとに……違うって」
寝転がりながらもう一度そのプリクラを眺める。
撮った覚えがないのは嘘じゃない。もともとプリクラはそんなに撮らないから、ただでさえ少ない撮った時のことを忘れるわけがない。
(だとすると……記憶がない期間の時のこと?)
そう思うのは当たり前だった。なら覚えてないのは納得がいく。納得はいくけど、わたしにはどうしようもなくなる。
でもこのプリクラに関する全てを覚えていないわけじゃなかった。
もう一度よくよく男子を見てみる。
「……やっぱり」
見間違えるわけがない。長さは少し違ってるけど、その灰色の髪は同じだし、その灰色の瞳も見たことがある。
間違いない。この男子はーー
ーーあの男の子。
ーー夢の中で出会った、忘れることのない男の子だった。
「ねえ……あなたは、誰なの?」
写真の男の子に問いかけずにはいられない。でも当たり前だけど、彼は何も答えてくれなくて、残ったのはモヤモヤとした謎だけ。
知りたい。彼が誰なのか。彼の名前は何なのか。わたしと、どういう関係なのか。
知りたい。知りたい。知り尽くしたい。
そんなことばかり頭を占める。ここまで何かしたいと思ったのは覚えてる限り初めてかもしれない。
でもどれだけ考えても思い出せないのは当たり前で。
もともと眠かったのもあって、すぐそこまで迫ってきていた睡魔に襲われるのに、たいした時間はかからなかった。




