3日目 欲望日記
「趣味の悪い本ね」
タイトルを半ば無意識に口ずさみ、一番最初に思ったのはそんな当たり障りのないこと。
『欲望』の日記とは、いったい誰がこんな本を作ったのか。そもそもどうして作ろうと思ったのか、製作者に問い詰めてみたい。
「まあ、こんなロクでもない本を作るくらいなんだから、ロクでもない人なんでしょうけど」
言ってしまえば、わたしがこの本に対して感じたことはこれくらいだった。普段のわたしならすぐに興味を失って見ることをやめたと思う。欲望日記なんて、名前からしてろくなものじゃないし、読んだだけで手が汚れそうだし。
でも、この時のわたしはなぜかこの本から目が離せなかった。この本が発する不思議な雰囲気に当てられたのか、それが当たり前とでもいうかのように、表紙をめくりった。
わたしの目の前に現れた一ページ目。そのページだけは、まるで新品のように綺麗だった。他のようにしわくちゃでもないし、酸化して黄ばんでもいない。
このページには多くは書かれていない。そこにあったのは、たった一言だけ。でもタイトルに見合った、とてもらしい書き出しだと思った。
『あなたの願いはなんですか?』
「わたしの……願い」
無意識に、そんなつぶやきが口から漏れた。特にこの書き出しに答えようとも思わなかったけど、なんとなく自分の願いとは何か、頭を巡らせた。
「……」
でも、とくに思いつかなかった。
「……まあいいでしょ」
わたしはそれをただ今思いつかないだけということにして、ペラペラとしわくちゃになっているページを進めていった。
もともと本は普通の高校生より読む方だ。それもあってかはわからないけど、面白いくらいにわたしはこの本にのめり込んでいった。
「なるほど。確かにこれは『欲望』日記ね」
もしかしたら、なんだかんだ欲望日記とはどういう本なのか少し気になってしまっていたのかもしれない。これがこの本が欲望日記たる所以だとわかり、謎が解けたかのようなすっきりとした感覚がした。
この本に書かれていたのはいろんな『欲望』たち。
『大金を手に入れる』『仕事で成功する』とか大きな欲望から、『今日一日信号に引っかからない』『テストでいい点数を取る』みたいな小さな欲望まで勢ぞろいだった。
わたしがこの本を日記と思った理由は、その書き方だ。
この本自体は普通に売っている日記と違って、最初から日付が書かれているわけじゃない。ただの真っ白な本だった。まず先頭に日付、それに続いて欲望、名前と書かれている。まるで日記のようだった。
「この日にこんなことを願った、っていう記録なのかもね」
普通に考えればそれだろう。なんで『〜したい』じゃなくて、『〜する』っていう確定の書き方なのかは分からないけど。
「ふーん……思ったより面白いじゃない」
内容もそうだけど、この本自体もなかなか面白い。
まだ三、四ページくらいしか読んでないけど、そこに書かれて日付は数十年前のものだし、この本を使った人もかなり多そうだ。
それがわかってここまでボロボロなのも納得いった。それほどの歴史的な本だと思えば、内容はともかくとして、これ自体は中々価値のあるものに思えてくる。
一度そう思ってしまえば、ページをめくる手もよく動くようになる。
わたしはベットに寝転がり、楽な体勢になった。時間をかけてこの本を読む気満々な体勢だ。
ベット近くの棚を開け、しまってあるポッキーを取り出した。ベットに寝転がり、ポッキーを食べながら本を読むのが、いつものわたしだ。今はその読んでいる本が異質すぎるけど、これが好きだから今回もその体勢になる。
「よし」
自分でもなんの意気込みかは分からないけど、とりあえず意気込み、本を開いてポッキーを口にした。
「うぇ……不味い」
口にしたポッキーは、思わず吐き出してしまうくらいに不味かった。
◆
「ふぅ……」
体の中にたまり積もったものを吐き出すように吐息を漏らし、本を閉じた。
「んー……」
思ったよりも長い間集中していたのかもしれない。固まってしまった体をほぐすため、体をぐーっと伸ばす。これをやったときの、あのなんとも言えない気持ち良さが頭をピリピリと刺激した。
「……疲れた」
一度集中が切れてしまえば、今まで気にしていなかった疲労が雪崩のように押し寄せた。
そこでふと、周りが暗くなっていることに気がついた。読み始めた時もまだ朝だったし、カーテンも閉めていたからそこそこ暗かったけど、今はそれ以上に薄暗い。
気になってカーテンを開ければそこにあったのは朱色の世界。一日の役目を終えそうな太陽は、これで最後とでもいうように、爛々と赤く燃え上がっていた。
時計を見れば、もう午後の五時だった。わたしは八時間以上読みふけっていたらしい。
集中しすぎて時間が過ぎるのを忘れるのはよくあることだけど、八時間は未経験だった。
そこまで熱中していたわたしに対する呆れと、今までで最長記録とよく分からない達成感がおり混じる。
「……」
慈しむように、今にも崩れそうな本の表面を指でなぞる。
なかなか面白い本だったと思う。結局半分くらいからあとは何もなく白紙だったけど、その分量や内容に見合わないほど長い時間読んでいたのは、やっぱりこの本の持つ魔力のようなものなのかもしれない。この本に書かれているのは、人の意識の底にあるような感情で、だからこそ不思議な引力を持っていた。
いや、魔法とか魔力とか、全く信じていないけど。
それにしてもーー
「不思議な本だったわね」
ゴロンと横になって、ペラペラとページをめくる。
面白いものがあるかもと思えば、ただただ欲望がツラツラと並べられているだけ。作った人も使った人も、何を思っていたのか見当もつかない。
決していいわけじゃない手触りのままページは進み、あるページで止まった。
「本当に……不思議な本」
それは一番新しいページ。そこは異様に厚くなっていた。いや、よく見ればそれも違うとわかる。赤い何かで張り付き、開かなくなっていた。まるでそこに書かれた何かを隠すかのように。
「何が書かれてるんでしょうね」
自分の欲望なんて人に知られたくはないもので、それをわざわざ記録してあるのがこの欲望日記だ。その欲望日記の中で、唯一隠された欲望。それは一体どんなものなのか、興味を持ってしまうのは仕方のないことだった。
でも無理にはがそうとしても、破けてしまったりするかもしれないし、とにかく読めなくなるのはほぼ確実だと思う。
「ま、なんでもいいでしょ」
そう口にして、本を閉じた。
朝感じていた気持ち悪さは、いつの間にか気にならなくなっていた。




