1日目 不思議な夢
目を覚ますとそこは、ただただ真っ白なだけの、何もない世界だった。
この世界について話せることは他にない。だって白だけで全てを語れてしまうくらいに、ここにはなにもないから。
あまりにもおかしな状況にわたしはキョロキョロと辺りを見渡す。その時感じた目線の低さで、わたしは初めて今自分は椅子に座っているんだと気がついた。
周りを見渡した次は自分に意識が向く。黒いストレートの髪も桃色のパジャマも、最後の記憶とあっている。
「ここは……どこ? 誰もいないし」
思わず溢れたそんな一言は、誰に受け止められることなく辺りの純白に溶け込んでいった。
(……夢かな)
まず現実ではありえないだろう状況に放り出されただけあって、そんな考えが自然に浮かんだ。
やけに頭がフワフワしている。寝起きのときみたいにうまく動かない。だからそんな現実逃避気味の考えも、簡単に受け入れることができた。
(でもこれは夢にしたって面白みがなさすぎじゃーー)
「ーーおや、御目覚めですか?」
「ーーッ!」
突然目の前から声をかけられ、わたしは思わず頭を勢いよくあげた。こんなところに誰かがいたこと自体にも驚いているけど、何よりも一番は突然この人が現れたことに驚いている。辺りを見渡した時には確かに誰もいなかったのに。
いや、一番と言うのは訂正しないといけないかもしれない。彼の顔を見て、突然彼が現れたなんて気にならなくなるほどに、わたしの目は彼に釘付けになっていた。
「ふむ、大丈夫ですかね。どれ、意識はきちんとありますか?あなたの名前はなんですか?」
「う、うさぎ?」
「おや、意識ははっきりしているようですね。よかったよかった。とりあえずは、成功だ」
私に話しかけた彼はウンウンと満足げに、そのウサギの頭を縦に振った。
私が一番驚いたのはこれだ。
そう、ウサギだ。顔だけならどこからどう見てもウサギだ。といっても先頭に『出来損ないの』が付きそうだけど。
私を移す双眸は異様に大きく、ギラギラと怪しく光っていて、思わず目をそらしたくなるようだった。
彼の目から逃げるように視線を下げると、彼の体が目に入った。これもまたおかしなもので、彼はピシッとしたタキシードを着ていた。しかも蛍光色のピンクなんて目を疑ってしまいそうな色。
「おや? 黙ってしまいましたね。どうかしたのですか?」
「ひッ!」
私の顔を覗き込んだ彼に驚いて思わず体重を後ろにかけてしまう。
私は今椅子に座っているからそんなことしたら倒れてしまうわけで。やはり私も前の二本の椅子の脚が浮いてしまった。
「た、倒れーー」
「ーーおっと」
だけどそこで助けてくれたのは、驚くことに不審極まりない目の前のうさぎだった。背中に手を回し、倒れそうなわたしの体を支えている。まあこの場には私と彼しかいないんだから、当たり前といえば当たり前なんだけど。
「気をつけてください。この場であなたが存在できるのはその椅子がある場所のみなんですから。他の場所に落ちたらそのまま真っ逆さまですよ? どこへ、とはいいませんが」
真面目な口調でありながらどこかバカにしたような雰囲気でそう言いながら、彼の手がわたしの顔にかかった黒髪をかきあげた。得体の知れないものに触れられ、ゾワゾワと気味の悪さが足元から頭の先まで駆け上がる。
「そ、そうですか……」
とりあえず頷いてみたけど、正直何を言っているのかさっぱりわからない。
存在? 真っ逆さま? 言葉が足りなさすぎだと思う。でも追求するのもなんか怖くて、夢なんだからなんでもありかと無理やり納得することにした。
うさぎはそっと、それこそ紳士的に私を元の体勢に戻した。
「さて、一応ですが確認しておきましょう。あなたの名前はなんですか?」
うさぎはぐちゃぐちゃにかき乱された私の胸の内を察することなく、物事を進めていく。
「私の、名前?」
「ええ、そうです。あなたの名前です。ああ、そうだ。年齢と職業もよろしくお願いします」
「私の名前……大咲 凛花。16歳の……高校生」
なぜそんな事を聞くのかと疑問に思わなかった訳じゃないけど、私の口は私の意思に関係なく自分の名等々を紡ぐ。
それを聞いたうさぎは再び満足そうに頷いた。鼻がヒクヒク動いているが、うさぎはうさぎでも『出来損ない』だから気味の悪さしか感じない。
「間違ってはいないようですね。では、最後の記憶はなんですか?」
「最後……九月二九日の夜にベットで寝たのが最後です」
「……はい。わかりました。なんの問題もないようだ」
うさぎは一仕事終えた後のように袖で額の汗を拭う仕草をした。汗がこいつから本当に出るのか定かじゃないけど。
でもとりあえず質問はこれで終わりらしい。
でも話は終わりじゃないようだ。彼はジロジロとギラギラと赤く光るその大きな瞳にわたしを映し、首を傾げていた。
「ふむ……すいませんが、凛花さん」
「は、はい……」
「以前、わたしと話したことは?」
「は?いや、ないと思いますが……」
「そうですか……なら、わたしの勘違いでしょうか」
自分の中で納得がいったのか、それだけ言ってこれでもう話すことはないというように、彼は私の横に並んで話さなくなった。
なんなんだこの夢は。
私の胸中を占めている気持ちはこの一言に限る。全く意味がわからない。意味がわからない夢を見ることは度々あるけど、これはちょっと度が過ぎてるんじゃないだろうか。
私自身が感じている感覚でさえ、いつもの夢とは一味変わっている。
なんというか、やけに現実味がある。こんな変な場所だけど、ちゃんと世界として成立している。もしかしたら本当にここは現実なのかもしれない、なんて勘違いしてしまいそうになるくらいには。
かといって私の意識がはっきりしているわけでもなく、まさに夢を見ているときのようなふわふわとした感じ。
(むしろ、本当に現実なのかもね……)
「現実ではないですね。今のあなたにとっては現実にほぼ等しいものかもしれませんが」
「ーーッッ!」
突然話し出したうさぎにわたしが驚いたことを誰が責めることができるだろうか。
何せわたしは一言を発していない。なのに彼はわたしにこう返した。
(もしかして、心が読める……とか?)
バカバカしいと考えを消し去ろうとしたところで、ここは夢なんだからそんなこともできるかもしれないと頭に浮かんだ。
「半分正解、といったところでしょうか。今のあなたはまだわたしの一部のようなものです。自分の考えがわかるのは当たり前のことでしょう?」
うさぎは前を向いた体制からこちらを向くことなくそう続けた。
わたしがこのうさぎの一部? また訳のわからないことを言われ、ただでさえ混沌としていた頭の中がさらにかき混ぜられる。
(もう、いいや。なんでも)
もうすでにわたしの中で今の状況をなんとかしようなんて気はすっかり無くなっていた。どうにかしようにしても何もできないし、それ以前にこれは夢なんだ。放っておけば覚めるだろう、なんてお気楽なことを考えていた。
チラリと相変わらず隣で静かに佇んでいるうさぎをうかがい見た。彼は表情を変えることなくーーそもそもわたしにわかるように変わるのかすら知らないけどーー正面を眺め続けている。その赤い双眸は遠くを見ているように感じられて、まるでーー
(ーー何かを、待ってる?)
「ーー来たようですね」
この状況にしてはやけに静かなわたしの心の内に波を生んだのは、突然発せられた彼のそんな一言だった。
その言葉に思わずわたしは身構える。
来たとは何が来たのだろうか。まさかまたこいつみたいなやつが増えるのだろうか。
そう警戒したけど、どうやら違うようで誰かが現れる雰囲気もない。首をかしげるわたしをよそに彼はわたしの前に回り込んで話し始める。
「さて、いよいよです。今から私たちはある場所に行きます。そこはあなたの人生の転機になるでしょう。いや、転機じゃない。再出発地点だ」
彼はわたしの前で腕を広げ、まるで舞台上にいるかのように大げさにそう言った。
相変わらず言っている意味がわからずわたしは首をかしげることしかできない。だけどこの不審者は詳しく説明する気はないようだ。彼はどこから出したのか、いつから持っていたのかわからない杖をくるくると弄びながら言葉を紡ぐ。
「ああ、きっとあなたは戸惑っていることでしょう。でも何も心配はいらない。身を委ねなさい。運命に抵抗することなく流されて行きなさい。どちらにしろあなたにできるのはそれだけだ……では行きましょう」
その言葉はわたしの身を案じているようだけど、わたしにはどうしてもそうは思えなかった。言葉の節々から感じられる彼の楽しそうな雰囲気が、どうしてもわたしの心の奥に不信感を生み出す。
もう話すことはないらしい。彼はわたしに背を向けた。そして杖を床に突き立て、カンッと床がなる。
そして、その瞬間ーー
(……え?)
わたしのいる場所はあの真っ白な空間から、全く違う世界へと移り変わっていた。
これが瞬間移動というものなのかな。まさか生きている間に体験するなんて、考えもしなかった。
そんなことを半ば他人事のように考えていた。
一切の前兆なしで正反対の世界へと移り変わったのだから、わたし自身その変化についていけていない部分もあったりする。
今わたしがいる世界は、さっきまでの何もない純白の空間だったことを思えば、なんて色彩豊かな場所なんだろう。いや、こんなところを色彩豊かなんて言いたくないけども。
パッと見て教室みたいだなと感じた。たくさんの学校の机ーーただし壁際に雑多に積み上げられてはいるけどーーに黒板、教卓など学校の教室を連想させるようなものがたくさんある。
現実との違いを述べてみるなら一つも残すことなく荒廃しているところだろうか。机は一つ残らず錆つき、壁には所々飛び散ったように赤い何かがこべりついている。廃校舎なんて生ぬるい。いっそここで殺し合いなり戦争なりが起こったと言われてもすんなり納得してしまいそうになる。
こんなところに連れて来て何があるというのだろう。異常性しかないこの空間に、どうしてもそんな疑問が拭いきれずに頭の中でグルグルと駆け回る。
チラとうさぎを見るも、先と同じようにわたしの横に立ったまま前を見ているだけだ。
(もういいや。夢なら早く覚めてくれないかな)
わたしの心のうちはこれに限る。なんの面白みもない、ただただ意味不明で気味の悪い夢なら早く覚めて欲しいと思うのは当たり前のことだろう。
うさぎは話さない。もちろんのこと、わたしも話さない。かと言って夢から覚める気配もない。
なんの進展も後退もしない膠着状態。そんな無意味なだけの時間が、わたしとうさぎの間を虚しく通り抜けていく。
でもこの状況も、ついに終わりを告げた。
「……やっと、ですか」
さっきまでだんまりだったうさぎがついに声を出したのだ。だけどそれはわたしに向けてのものではないようで、彼の視線を追う。
その先にあったのは扉だった。見ただけ相当重いとわかるような、金属の扉。その扉も錆びついて赤い何かがこべりついている。
そしてわたしがそれに視線を向けたのとほぼ同時に、扉は悲鳴のような声をあげて新たな人物を部屋に招き入れた。
入って来たのは少年だった。年はわたしと変わらないくらいで、身長はやはり高校生程度。髪を長らく切っていないのだろう。そもそも手入れすらまともにしていないかもしれない。少し俯いているのもあって、前髪に隠されて彼の顔も表情もよく見えない。
でもなんだろう、この感覚は。わたしは彼に見覚えなんてない。でも頭の奥で何か訴えている。わたしの中の何かが暴れまわっている。
(……懐か、しい?)
「お待ちしていましたよ、ーー君」
うさぎは少年に嬉々として声をかける。少年の名前を口にしていたけど、どういう仕組みなのかそこだけノイズがかかって聞き取れなかった。
「さて、今日で最後です。いや、長かった。本当に、長かった。あなたにとっても短くはない道のりだったでしょうが、わたしもそれは同じなのです。だってわたしはあなたと共に歩んで来たのですから。そしてわたしがどれほどこの時を楽しみにしてーー」
「ーー御託はいい。早く、終わらせてくれ」
(ーーッッ!)
彼の声を聞いた時、わたしは思わず叫び出しそうになった。
なんなんだ彼は。あんな声は聞いたことがない。高校生が出す声じゃない。真っ黒で、ドロドロしていて、まるで地獄の底から這い上って来たような、そんな声だった。
彼にそう言われるのはいつものことなのか、うさぎは、つれないですねぇなんていいながら例の杖をまた地面に突き立てる。
さっきと同じようにカンと音がなり、床から何かが出てくる。
出て来たのはーー
「……俺か」
呆気にかられているわたしに変わって彼はそう呟いた。でもその声はどこか落ち着いていて、むしろ予想が当たったような反応だ。
(何をする気なの?)
今から良くないことが起こる。
特にこれといった根拠もないけど、確かにそう感じた。
わたしの懸念をよそに彼はもう一人の彼の方に向かって足を進めた。そしてその手にはーーひと振りのナイフ。その切っ先を向けながら、彼の生気の感じられない灰色の瞳はもう一人の自分を睨みつける。
なんとなく、何をするのか想像がついてしまうのが嫌で仕方ない。
(だめ……だめよ。そんなことしちゃ……)
自分が彼を止めてあげたいと、無性に感じた。彼にあんなことをさせたくないと、心が騒ぎ立てる。わたしの全てがそう感じているのに、体だけは動かすことができなかった。
(なんで! なんで動かないの!)
わたしが心の中でどれだけ叫ぼうが、体自体は微動だにしなかった。彼はその間にもどんどん穂を進める。気がつけばもう彼はもう一人の自分の目の前まで来ていた。その瞳に映るのはどうしようもないほどの諦念で、それがさらにわたしの心を掻き立てる。
でもここで、なぜわたしは見知らぬ彼にこんなに感情移入しているのか、なんて疑問が頭をよぎった。
そう、わたしは彼のことを見たことも聞いたこともないはず。なのに、なんでここまで彼のことを守りたいと思えるのか。そんな当たり前な疑問が今更ながら湧き上がった。
(……あれ? 知らない、はず……よね)
頭の奥にポッカリと穴が開いてしまったような、そんな感覚。手を伸ばそうにも、その何かを掴もうにも、何度も空振ってしまうような、そんな感じ。
彼はナイフを自分の少し前に出したまま歩き続けた。二人の距離は五メートル、四メートル、三メートル……と近づいていきーー
(ーーあ)
ついに、彼ら二人の体が重なった。
ナイフを突き出しながら歩いていたから、当たり前だけどそのナイフは後から現れた方に刺さっているはずなのに、彼はなんの反応もしない。痛みに顔をしかめることも、抵抗することも、倒れることもなかった。それに対して刺した方も特にこれといった反応もなく、彼にナイフを刺したままの体勢で止まったまま。
体が重なったまま、ハグしているようにも見える体勢のまま彼らは動かない。
でもすぐに変化は訪れた。
(え……なに……あれ)
刺された方の少年が消えていた。
自分でも何を言っているのかよくわからないけど、わたしが今見ていることをそのまま言うとしたら、それになってしまう。
少年は消えていた。現在進行形で。
足の先からサラサラと砂のようになって、風に吹かれたように飛んでいっている。刺した方の少年は相変わらずあの体勢のままだ。
足から膝、腰、胸とどんどん消えていき、最終的に跡形もなくかき消えてしまった。
残ったのはナイフを突き出した体勢のまま固まっているあの少年だけ。
まるで時間が止まったかのような静寂がこの場を流れた。誰一人として話さないし、動かない。かく言うわたしも最初から不思議なことに動けないし話せないけど、もし普通に話せたとしても動揺して一言も発さなかっただろう。
その静寂を打ち破ったのは、隣の不審者のこの場にはあまりにも似つかわしくない、パチパチとした軽い拍手だった。
「いやいや見事。いいものを見せてもらいました」
うさぎは彼の元に歩きながら、その言葉に抑えきれない喜色を滲ませる。わたしからは後ろ姿しか見えないけど、そこからでも彼が喜んでいるのはよくわかる。今にもスキップしそうな勢いだ。
少年はそんなうさぎに一瞥もくれずに足元を睨みつけていた。
「これであなたの願いは叶いました。でもあなたは……ええ、そうです。言わずともわかりますね? 何事にも代償は必要なのです。特に今回のような、世界の理を捻じ曲げるような欲望はね」
うさぎは彼の肩に手を回して、肩を組んだような体勢になった。少年はそんなうさぎの顔が十センチもないくらいに近づいてきても何も反応しない。
うさぎはそんな少年の反応が面白くないのか、まあいいでしょうと呟いて彼から離れた。
「何はともあれ、お疲れ様でした。すぐに実行されるでしょう。それまでの少しの間、最後の別れをお楽しみください」
そこで初めて少年はわたしの方を向いた。そのドロドロとした、どこまでも沈み込んでしまいそうな灰色の瞳にわたしは目を逸らしたくなる。でも不思議なことに動けなかった。
「ああそうそう。最後までそれというのはかわいそうなので、特別に戻してあげましょう。では、これで本当に最後です。御機嫌よう。また機会がありましたら、どうぞよろしくお願いします」
うさぎはそういって深々とお辞儀をし、またあの杖を地面に突きつけてカンと鳴らす。そしてここに来た時のようにうさぎは気がつけばこの場から消えていた。
(はぁぁ……)
あのうさぎがいなくなっただけでこの場の空気が少し軽くなった気がして、思わず溜息が漏れる。といっても口は動かないから心の中でだけだけど。
改めて考えて見ても、終始訳のわからないやつだった。プラスの感情をこちらに抱かせることのない、むしろ気味の悪さとか、そういった類の感情しか感じさせない彼のことがどうしても苦手だった。
(でもまあ、いなくなったんだから少しはマシになるかな。この子は怖いって言えば、まあ怖いけどそこまでだしーーっ!)
そこまで考えながら少年に目を向け、わたしは頭を思い切り殴られたかのような衝撃を受けた。
「あ……あぁ……」
彼はボロボロと涙を流していた。
さっきまでのような何処か恐怖すら感じる異常な雰囲気なんて消えていて、むしろ彼からは幼さを感じるくらいだった。感情の消えていた彼の灰色の瞳には感情と光が戻り、終始真顔だった彼の表情は何か葛藤しているのか何度も移り変わりなんて表情豊かなんだろうか。
簡単に言ってしまえば、さっきまでと少年とはまるで別人だった。
彼は一歩、また一歩と今にも倒れてしまいそうな力無い足取りで確実にわたしの元に歩いて来た。そしてわたしの目の前に来て、恐る恐る割れ物に触れるかのように優しく、わたしの頬に触れる。
久しく感じていない気がする人の温もりが、じんわりと染み込んでくる気がした。
「あぁ……やっと、やっと……」
彼は涙を見せまいと我慢しているのか、体が小刻みに震えていた。
何か彼の中で葛藤があるのか、何かを言おうと口を開けては思いとどまったように閉じてしまう。それの繰り返しだった。
そんな彼を見ていると、なぜだか胸が暖かくなった。
彼を抱きしめてあげたい。守ってあげたい。大丈夫だよって言って安心させてあげたい。
そんな感情が噴水のようにわたしの胸の奥から溢れ出てくる。
でも悲しいことに、相変わらずわたしの体は動くことがなかった。
それからしばらくもしないうちに、彼は意を決したような表情になった。自分の中で整理がついたらしい。わたしも彼の発する言葉を一言一句聞き逃すかと、彼に意識を集中させた。
その表情は、こちらが泣きそうになってしまうほどに悲しそうで。今まで見たことがないくらいに優しくて、慈悲にあふれていて。
そしてついに、彼は言葉を発した。
「元気でな、りっちゃん」
その言葉を聞いた瞬間、私の視界は光に包まれた。
◆
ピピピピと、聞き慣れた電子音が頭に響く。
(……朝?)
寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、手探りで目覚まし時計を止め、のそりと鉛のように重い体を上半身だけ起き上がらせる。
窓を見ればカーテンが閉められているものの、カーテン越しに差し込んでくるそれは、まさに柔らかな朝の光だった。
「…………夢?」
目覚めたわたしの第一声に、わたし自身が思わず笑いそうになった。
あれが夢だなんて、わかりきったことだったのに。
あんな意味不明なことが、現実で起こるはずがないのに。
夢だと思う理由が山のようにあるのに、最後の灰色の瞳の彼の表情で、あれがただの夢じゃないなんて思うくらいに動揺してしまっている。いや、あんな綺麗な表情が夢であってほしくないなんて思っている自分がひどく滑稽に感じた。
「ハハ……ハハハ」
口から乾いた笑いが漏れる。普通に声が出る、体が動くことに少し驚いてしまっている自分がそこにいた。
あれはただの変な夢と思ってしまえば話のネタにしてしまえるのに、どうしてかあの世界がひどく貴いものに感じてしまう。
「ハハ……変なの……」
あの男の子がいた。ただそれだけで。
そう言えば今は何時なんだろと、デジタル時計に目を向けた。
この時計は貰い物だけどなかなか便利なもので、時間だけじゃなく日付とか気温とかも一目で見れるようになっている。
今の時間は8時半だった。
遅刻ギリギリの時間。いつもなら一目見た瞬間飛び起きてダッシュで準備するところだけど、わたしはそれどころじゃなかった。
「え……なに、どういうこと?」
それの画面のある一部分に目が釘付けになる。
『十二月六日』
デジタル時計は確かにそう示していた。




