39.未熟なスラッグ
紅をつけた女性よりも艶やかな唇が弧を描く。
愛嬌のある少女のようなヴィックは、エマを見て嬉しそうに笑った。
「やっと見つけた。准が君を探してるよ」
「え? もう帰ってたんだ」
しまった。アクセサリーに夢中になって准たちに気づかなかったらしい。
「送っていくから、一緒においで」
「うん。あ、お姉さん! ごめんなさい! 買うのはまた今度にします」
すぐに戻らなきゃならないことを伝えると、店のお姉さんはにっこり笑って手を振った。もっとゆっくり見たかったけど、仕方がない。今は帰る方が優先だ。
「こっちだよ」
ヴィックが、エマの手を掴んで歩き出す。でも、船がある方とは逆だった。
「あ、あの。ヴィック、さん?」
「ヴィックでいいよ。何?」
「えっと、船はあっちですよね?」
周りの建物を見てみても、エマは間違っていないはず。
「准は船にいるんじゃないんですか?」
もしかしたら、エマを探して街に出ている可能性もあるし、とりあえず確認のつもりで聞いてみたら、ヴィックは意味深に小さく微笑んだ。
そして通りの角を曲がり、さっきまでいた露店が見えなくなると、彼の足もそこで止まる。
「あの店、ぼったくりで有名なんだ。気をつけて」
「そうなんですか。じゃあ准が探してるっていうのは……」
「ごめん。君をあそこから離すための嘘だよ」
事情が分かった途端、肩の力が抜けた。一瞬、このまま連れ去られるんじゃないかって不安がよぎったけど、そうじゃなかったみたいだ。ヴィックはエマが騙されそうになっているのを見つけて助けてくれただけだったらしい。
「ありが――」
「それよりもっといい店を教えてあげるよ。こっち来て」
「え? ヴィックさん⁉」
素直に礼を告げて帰ろうと思ったのに、いきなりまた腕を引かれた。
「あの、私、帰らないと……」
「俺が一緒なんだから大丈夫だって」
それが問題なんですよ!
だからって、ヴィックに関わるなって言われたからとは言えないし。このままどこかに拉致されても困る。
「みんなに心配かけたら悪いから……」
「ちゃんと送って事情を話してあげるよ。それよりもデザート食べられる?」
慌てるエマをおかまいなしに、ヴィックが連れてきたのはクレープ屋さんだった。華朝の街角にある建物のクレープ屋さんと違い、こちらは屋台だ。大きなタイヤが付いた荷台にいろんな種類の果物が並べられて、その荷台の脇にはレンガを積んだ小さな竈に丸い鉄板が乗せられている。
「ここのは本当におすすめだから、食べてみて」
甘いカスタードクリームの上に大きな苺をたっぷり並べ、クルクルっと巻いて持ちやすくしたクレープは、甘党には見逃せないスイーツのひとつである。可愛らしい苺をこれでもかと敷き詰めていく工程を見ては、「結構です」なんて言えるはずもなく。
「お味は?」
「おいしいー!」
うっとりと頬を緩めて答えたら、ヴィックにおかしそうに笑われてしまった。
「可愛いなぁ」
しまった。
気をつけなきゃって言ってるそばから餌づけされてる。
「あの、私……そろそろ戻りますね」
「そんなに警戒しないで大丈夫だって。帰りもちゃんと送っていくから」
そう言われて、ここまで来ちゃったわけだけど。
でもここって実は、准が言ってた危険地帯の境なんだよね。
ヤケになって飛び出して、詐欺に遭うところを助けてもらった手前、断るのは申し訳ないと思うけど。あまり長居すると本当に危険だし、早めに船に戻らなきゃ。
「みんなに心配かけちゃうから……」
食べかけのクレープを片手に、今度こそ戻ろうとして別れを切り出すと、ヴィックが肩を揺らして笑った。
「本当に可愛いなぁ、エマちゃん」
その言い方がさっきとは違う気がして、怖くなった。
「じゃあこれで……」
「待ってよ」
軽く腕を掴まれただけなのに、背筋に恐怖が走る。
エマよりも色白で、ひょろっとしているのに。力なんかなさそうなのに。殺されるって思った。
「なに? 怖いの?」
綺麗に笑うその笑顔に、身動きがとれなくなる。
「ウルフの娘なんでしょ? こんなこと、怖くもなんともないよねぇ」
間近で見つめられて、足が竦んだ。だってこの人、目が笑ってない。
「実はその胸元にナイフを隠してるとか、サッシュの中に銃を隠してたりするんじゃないの?」
「私、何も……」
「見てみたいなぁ。可愛いエマちゃんが男を蹂躙するところ」
海賊の娘だから、それなりに強くて当然だと思っているのだ。でも、エマは武器を扱えない。自分の武器さえ持っていない。
「そんなことできないです」
「じゃあもしここで俺が襲っても、何もしないの?」
「…………え?」
それはつまり、これから襲うってことでしょうか。
「あんまりうちのお嬢を脅さねえでくれるかな」
突然聞こえたジュリの声に、体が勢いよく反応した。
「やっと見つけたよ。お嬢様」
「……ごめんなさい」
准のことはヴィックの嘘だったけど、ジュリは本当にエマを探していたのだ。
カっとなって船を飛び出してきたけど、心配をかけてしまったのは申し訳ない。
「騎士君の登場か。ちょうどいいね」
何がちょうどいいのか。その言葉が引っかかって振り向くと、片手を上げたヴィックの周りに数人の男たちが集まってきた。
「それでお姫様を守ったつもり? 君たち、ここがどこか分かってる?」
ここは、大蛇の島だ。住民は全員、大蛇の仲間。それはつまり、周りにいる人たちも全員大蛇ということだった。
「……ジュリ」
助かったわけじゃなかった。今まで和やかだった雰囲気が一瞬で消えた。完全に周りを囲まれて、逃げ道を失う。
「さて、エマちゃんの実力はどんなものかな?」
言いながら一歩、ヴィックが近づく。
彼につられて一歩、ほかの人たちも前に進む。
「お嬢に手を出したら、俺があんたを切るよ」
淡々と告げるジュリの言葉にも、ヴィックは怯まない。
「いいの? そんなこと言っちゃって。君はまだ下っ端でしょ。お叱りを受けるんじゃないの?」
「俺はお嬢の護衛だからね」
剣に手を当てたジュリを見て、ヴィックはにやりと口元を上げた。
「なら、守ってもらおうかな」
彼がくいっと顎で合図を出した直後、自分はもう終わったと思った。
周りから一斉に飛びかかられて、あっという間にジュリと引き離されて、壁に力づくで押さえつけられ、目の前でジュリがボコボコにされる。
「おや? さっきの威勢はどこへいったのかなあ」
ヴィックの弾んだ声が耳に届いた。
「エマちゃん、戦わないの? このままだと、騎士君死んじゃうかもよ? もしかして本当に何もできないの?」
「やめて! やめさせて!」
「なんだ。がっかりだな。てっきり可憐に見せかけて実は男もやっつけちゃう凛々しいお嬢さんかと思ったのに。それじゃあどこにでもいるただの小娘じゃん。騎士君も一人で助けにくる時点で頭弱いし。トラビスやボルボアならともかく、ただのチンピラが大勢に一人で勝てるわけないじゃん」
「ジュリ!」
彼を助けたいのか、助けてほしいのか、自分でもよく分からずに叫んでいた。現状をどうにかしたくて、もがきながらジュリを呼ぶしかできない。
まただ。
また私は何もできない。
それどころか心配させて、迷惑かけて、傷つけて。
「これが現実。分かった?」
私のせいだ。そう思ったら、力が抜けた。このまま私が殺されて、いなくなっちゃえば、誰にも迷惑かけないんじゃないかって――
「お嬢を……放せ」
「まだ言ってんの?」
「放せ……」
ジュリはどこまでも諦めない。頑なな彼を前に、ヴィックの笑みが消えた。
「ジャレッド。女を殺せ」
私がここで殺されちゃえば、ジュリは諦められる。
本当は死にたくないくせに、そんなことが頭をよぎった。
「君らがいかに無力かってことを教えてやるよ」
目の前で、男が剣を抜く。
体を押さえつけられた状況で、逃げることはできなくて。
誰か、助けて。
結局、私はまた助けを求めるしかできないんだ。
「その子、ウルフの娘だって聞かなかったあ?」
そして、みんなは助けてくれる。
離れた場所からも聞こえるように、声を張り上げたのはキャルだった。
その場にいた人たちの視線が、一斉に向けられる。ジュリを蹴飛ばしていた人たちも、みんな動きを止めて振り向いた。
「キャル!」
一番に答えたヴィックが、嬉々として駆け寄っていく。
「久しぶり! やっと会えたね!」
「二人を放せよ。ヴィック」
再会を喜ぶヴィックをよそに、キャルの様子は冷めていた。
「何だよ。キャルまでこいつらに肩入れしてんの?」
「エマちゃんは俺の大事な友だちだし、ジュリは仲間だし。ほらほら、君らはおうちに帰りなさい」
群がっていた人たちを、軽い口調で追い払う。けれど、明らかに不機嫌だった。
「相変わらず硬派だね。そういうぶれないところ好きだよ。でもこんな奴ら、キャルが庇う価値ないじゃん。どうせおまけみたいなもんだし、死んじゃっても海に流しちゃえば誰も分かんないって。聞かれたら駆け落ちしたとでも言っとけばいいんだし」
「ちっとも良くない。大事だって言っただろ。二人を返せよ」
静かに怒りを示したキャルを見て、ヴィックは渋々受け入れた。
解放された途端、体の力が抜けてへたり込む。乱暴に押さえられた腕は、赤く跡がついていた。
「エマちゃん。ジュリを船に連れてって」
「キャルは……」
二人のやり取りから、ヴィックがキャルを攻撃するようには見えないけど。だからって、このまま残していくのは気が引ける。万が一ってこともあるし、キャルも一緒に戻れないかと思ったけど。
「俺は大丈夫だから。早く手当てをしてやって」
「……うん」
彼の強い口調に逆らえなくて、言われた通りにするしかなかった。
「ジュリ……立てる?」
声をかけると、倒れていたジュリが起き上がる。
「手ぇ貸して……」
彼が酔っ払った時と同じように、肩で支えながらゆっくり歩く。でも、酔っ払った時とは全然違った。情けなくて、申し訳なくて、自分が憎い。
「源じい! 源じい!」
どうにか船に乗り込んで、声を張り上げたけど源じいはいない。代わりに気づいて来たのは、ジゼルだった。
「こりゃまた派手にやられたな。相手は……聞くまでもねえか」
ここは大蛇の根城だ。ここにいる海賊は、全て大蛇。
「待ってろ。いま手当ての道具を持ってくる」
すぐに事情を察したジゼルを見送り、ふたたびジュリへと視線を戻す。
「ジュリ……。ごめんね」
ジュリはかすかに笑った。
「お嬢が……無事で良かった」
なんで、そんなことを言えるんだろう。
こんなに血まみれなのに。
「一応聞くが、どうしてこうなったんだ?」
救急箱を片手に戻ってきたジゼルに、エマは素直に説明した。ヴィックに目をつけられたことを知ると、ジゼルはタバコの煙と一緒にため息をこぼす。
「ややこしいことになりそうだな。とにかく、俺はキャップに報告して源じいを探してくるから、お前らはここにいろ。船からは絶対出るなよ」
「うん」
言われなくても、もう絶対船から出ない。
近ごろ、自分が行動を起こす度に問題が起きてる気がする。その度にみんなを巻き込んで、誰かを傷つけて。これじゃあお荷物扱いされるのも当然だ。ジュリにも、また怪我をさせてしまった。
「ジュリ。何かして欲しいことはない? 喉乾いたりしてない?」
「膝枕して」
「あのね……、なんでそうすぐ――」
「ふざけてないよ」
むくりと、上半身を起こしてジュリは言った。
「俺らの立場を考えたら、打算があるのはしょうがないよ。出会いだって周りがお膳立てしたもんだったし。俺自身、船長になりたいからお嬢に近づいたってのは確かにあるよ。ビッグキャットのことだってそうだし。でも今は……」
そこまで言って、言葉が止まる。
「ごめん。今の忘れて」
「……なんで?」
「なんかこんなの、ずるいよな。弱みを見せてつけ込んでるみたいで、恰好悪ぃ」
そんな風に、ばつが悪そうに笑われたら、突き放せなくなってしまう。
「……お嬢?」
「今だけだからね」
自分のために命懸けで戦ってくれた人が弱気になってる姿とか、放っておけるわけないじゃん。
「……やっぱいいな。お嬢の感触。柔らかくて、あったかくて、いい匂いがする」
「それ以上言ったらまた頭落とすよ」
本当は不本意なんだから。
恋人ができたらこんなことしたいって、思い描いた理想とは全然違う。
爽やかで、楽しくて、仲のいい友達みたいな関係が良かったのに。
「ドレス姿。すげー綺麗だった」
そんな風にぼそって呟かれたら、むず痒くてたまらなくなってしまう。
少し手を伸ばすだけで、触れられるジュリの髪。そっと撫でたら、彼の口元がわずかに上がった。身体も顔も痣だらけなのに、穏やかな表情を見たら切なくて涙が滲んだ。
こんな風に間近で見ると、優しい目をしてるんだって知ってる。
実は睫毛が長いことも、凛々しい眉毛や、透き通った焦げ茶の瞳も――
吸い寄せられるように、彼の目を見つめていた。
だんだん近づいてきて、無意識に目を閉じかけたときだった。
通路の方から足音が聞こえてきて、我に返った。
「あ、みんな戻ってきたかな」
慌ててジュリから離れると、気づいた彼に苦笑された。
「残念ながら、そうみたいだな」
残念というのは、膝枕が終わりになったことじゃないのはエマにも分かった。
もう少しで、お互いの唇は触れるところだった。
どうしよう。すごく恥ずかしい。
彼の目を見れなくなって、わざとドアの方を振り返る。すると、こっちに向かっていた足音が部屋の前で止まって、ドアが開いた。




