36.デビュー
突っ切ると聞いて、耳を疑ったのはエマだけだった。ほかのみんなは至って真面目だ。歯切れのいい返事をして、それぞれの持ち場に散っていく。ジンと彼女のクルーたちも、自分の船に戻って作業を始めた。その場から動けなくなっていたエマには、流唯さんが来て声をかけてくれた。
「エマちゃんは一緒に中に行こう」
素直に従って船室に入ったけど、緊張と不安で落ち着かなかった。
「船は揺れると思うから、どこかに掴まってた方がいいよ」
「あ、うん……」
避難したところで、同じ船の中だ。安心なんかできない。この前みたいに敵も一隻ならまだ落ち着いていられたけど、あれだけの船を見てしまっては無理な話だ。もし一斉射撃されたら、蜂の巣なんてもんじゃない。跡形もなく打ち砕かれて、海の藻屑決定だ。
だけど、こんなときでも流唯さんは冷静だった。外から見えないように壁にくっついて船窓を覗き、腕組みをして様子を見守っている。
「……すごいなあ」
思わず口に出したら、気づいた流唯さんが不思議そうに眉を上げた。
「どうしたらそんなに落ち着いていられるのかなって……。私なんか、今にも心臓が潰れそうなくらい怖いのに」
投げやりに笑って弱音をこぼすと、流唯さんの目が優しく細められた。
「それが当たり前」
「でもここじゃあ当たり前にならないよ」
みんな度胸があって、おどおどしているのは自分だけ。そんな環境にいると、みんなの方が当たり前で、自分は落ちこぼれみたいに思えてしまう。
「そう思うのも仕方ないけど、誰もエマちゃんを落ちこぼれなんて思ってないよ」
「うん。分かってるの。みんなは本当の海賊で、私は剣も持ったことがない。だから違うのは当たり前。自分も同じになれたらって思うけど、それよりも同じにはなれないっていう気持ちの方が強くて。頭では分かるけど、だからってしょうがないで済むほど現実は甘くないでしょ?」
だから、つい自分を卑下してしまう。自分の居場所が見つからなくて、無力だって感じてしまう。
「このまま一年が過ぎて、ウルフに戻ったって……」
状況は大して変わらないと思う。
話しているうちに益々気持ちが落ち込んで、視線もだんだん下がっていく。
「……エマちゃんは強くなりたいの?」
流唯さんの問いかけに、エマは少し考えてから答えた。
「私は……、足手まといになりたくない」
みんなと同じくらい強かったら、こんな思いはしないだろうなって思う。でも、それは無理だと思うし、なれないのも分かってるから、剣技を身につけたいわけじゃない。どんな方法でもいいから、現状から抜け出したい。誰の前でも堂々としていたい。そうできるようになりたいのだ。
「分かった。ちょっと待ってて」
「え?」
顔を上げた時には、流唯さんは踵を返していた。
部屋に一人残されて、ぼんやりしているうちに彼女はすぐに戻ってきた。キャルを連れて。
「流唯さん?」
首を傾げるエマに彼女は微笑み、キャルが爛々と目を輝かせた。
「俺に任せて」
訳が分からないけど、ものすごく悪寒を感じた。本能的に危険を察知して後ずさったエマに、キャルが詰め寄る。その手には、何やらパンパンに詰め込まれた大きな手提げ袋が三つも。
「さあ、始めるよ!」
「え? キャル? 流唯さん⁉」
混乱して戸惑っているうちに自分のスペースに連れ込まれ、出入り口のカーテンがシャッ! っと勢い良く閉められた。
「エマっち! いま着てる服全部脱いで!」
「脱ぐ⁉ なんで⁉」
「説明はあと! さっさと脱げ!」
「ぎゃー!」
成り行きを見守る流唯さんが近くにいるから、命の危機は感じない。彼女がいるから、貞操の危機も感じない。だけどとてつもない羞恥心と不安が拭えず、いつもとは違う意味で怯えていた。
いたいけな子猫ちゃんを捕まえて、これからどうするつもりでしょうか。
震えるエマをお構いなしに押さえ込み、キャルは歓喜に満ちていた。真剣に人の体を凝視していたかと思うと、あーでもないこーでもないってブツブツ独り言を呟いて、袋から引っ張り出したものをとっかえひっかえエマに宛がい、とろけるような目でにやけてみたり、少女のようにはしゃいでみたり……。
数分後。キャルはひと仕事を終えた職人のようにエマを見つめて頷いた。
「最高の出来だね」
透け感のあるシフォンとオーガンジーが重なった胸元切り替えのエンパイアドレス。引きずるほど丈が長いけど、ちょっと動いただけでふわっと揺れて、とても軽やかだった。肩紐や切り替え部分には、光沢を帯びた乳白色の真珠が美しい輝きを放っている。仕上げとばかりに下ろした髪の毛に真珠の花冠を添えられて、たまらず唸った。
「……話が読めないんですけど」
これからパーティーでも始まるんでしょうか。
思わず敬語で呟くと、流唯さんが満足そうな笑みを浮かべる。
「バッチリだね。行こう」
「行こうって……、え?」
優しく腕を掴まれて、彼女に促されるまま部屋を出た。これはもしや……
「か、甲板に出るの⁉」
「そう」
そうって、そんな淡白に答えないで欲しい。
「この船、大蛇に突っ込むんでしょう⁉」
「そうだよ。だから早く行こう。ボルボアたちを待たせてるんだ」
「早くって……、なんで⁉」
動転して叫んでいたら、歩くのが遅くなっていたらしい。流唯さんに突然膝の裏を掬われて、一瞬でお姫様抱っこをされていた。
「エマちゃんは、パールクイーンの女神になるんだよ」
間近で見下ろし、艶っぽい微笑を浮かべた流唯さん。あなたが男だったら今ので私の心は瞬殺だよ。って、呑気に惚けてる場合じゃない。一体何を言ってるの⁉
甲板に出た途端、無数の視線が自分たちに向けられた。
「エマちゃん可愛いー」
すぐに反応してくれたミリ様。いつもなら喜べる彼の言葉が、今に限っては喜べない。みんなも私を見ないで! そんな驚いた顔しなくても分かってるよ! 私だってこれから戦いが始まるかもってときに一人だけドレスなんか着てる人がいたらビックリするよ! だってどう考えても場違いじゃん!
「このまま舳先まで連れて行くから、そしたら船首像の上に立って」
「なんで私が……」
女神の役なら、流唯さんの方が適任なのに。
「変わりたいんでしょ?」
その言葉に、息が詰まった。
「立派にやり遂げられたら、君が引け目を感じることは二度となくなる。大丈夫。絶対私が守るから、言われた通りにやってみて」
「でも……」
「堂々と胸を張って。いま見える敵は全部子どもだと思うんだ。いかつい顔した男もただのやんちゃ坊主だ。怖がることは何もない。目が合ったら優しく笑いかけてやればいい。できるなら歌っても踊ってもいいよ」
「そんなの無理だよ!」
怯える子羊を晒し台に立たせてどうするの⁉ 飢えた狼に囲まれてたら、羊だって鳴けないよ! 狼狽えるなっていう方が無理だし、優しく笑いかけたら喜んで飛びかかられて終わりだよ!
「船首像なんかに立ったら、恰好の的になっちゃうじゃん!」
「それが狙いなんだよ」
返された言葉に驚いた。今この人、何て言った? それが狙いって、的にされてもいいってこと? 飛びかかってきてもいいってこと?
愕然としたエマを前に、流唯さんはいつもと変わらず冷静だった。
「シーウルフは怖い?」
「え?」
周りには聞こえない小さな声で、彼女はささやくように問いかけた。
「君は家族や仲間も怖いと思う?」
「それは……、ないけど」
「今ここにいる連中もシーウルフと同じだよ。彼らを怖くないと思えるなら、連中だって怖くない。彼らも連中も君も、みんな同じ人間なんだ」
シーウルフを怖くないと思えるなら。
「女は度胸だ! 頑張れ!」
流唯さんはキャップを振り返った。気づいた彼は頷いてクルーたちに声を張る。
「真っ直ぐ進め!」
もう後戻りはできない。止めてくれる人もいない。やるしかないのだ。
恐る恐る、船首像の上によじ登った。でもいざ乗ってみると、思った以上にそこは不安定だった。跨いでみれば足の置き場はなく、下の海がよく見える。舳先に打ちつける波が飛沫を上げ、投げ出した足に届きそうだった。しかも、ドレスの丈が長いから、うっかり踏んで滑ったら海にドボンだ。
これで踊るなんて、絶対無理。
思った気持ちがそのまま顔にも出たらしく、流唯さんは立てないなら座っていてもいいと言ってくれた。
「その代わり、女の子らしく可愛くね」
正直、可愛くってどうやるの? って思ったけど、跨ぐのをやめて足を揃えて座ったら、すんなり流唯さんのオッケーが出た。
「女は度胸、女は度胸……」
呪文のように呟いて、背筋を伸ばす。
パールクイーン号は、悠々と大蛇の群れに向かって突き進んだ。近づくにつれて、大きくなる船とその色や飾りが鮮明に見えてくる。船に乗っている海賊たちの顔も、目を凝らさなくてもよく見えた。
自己防衛の本能からか、両腕で自分の身体を抱きしめたくなる。胃がキュウッと縮まって、苦しく感じた。
ああ……、今すぐ逃げ出したい。
それをどうにかこうにか押し留め、ロープを掴んでいた手に力を込める。その一方で顔の筋肉は極力緩め、少しでも笑えるように努めた。それでもやっぱり強張った顔をしていたらしい。後ろに控えていた流唯さんが、穏やかな声でささやいた。
「目を閉じてごらん。風が気持ちいいよ」
こんな状況で? とは思ったけど、言われた通りに目を閉じた。
「大きく息を吸ってみて。潮のいい香りがするでしょう?」
本当だ。潮の香りって、こんな香りだったっけ。
「風が力強く背中を押してくれてる。でも髪の毛が頬をかすってちょっとくすぐったいよね」
確かに。無言のまま頷いて、ちょっと笑った。
「エマちゃんの髪の毛って本当にふわふわだよね。それって生まれつき?」
「そうなの。黒髪はパパ譲りだけど、髪質はママなの」
「日に当たるとツヤツヤだね。すごく綺麗」
「流唯さんの金髪には敵わないよ。透明感があって羨ましい」
答えながら振り返り、目を開けて現実に戻った。
流唯さんがにやりと笑う。
「上出来だよ。エマちゃん」
ふたたび前を向くと、一面の海が飛び込んできた。
あんなにたくさんあった船は、どこに行ったんだろう。
不思議に思ってまた流唯さんを振り向き、やっと気づいた。敵船の群れが、パールクイーンの後ろにいる。目を閉じて流唯さんと話している間に、パールクイーン号は大蛇の壁を越えたのだ。
「エマっち。大手柄だな」
声をかけてきたキャップが、にぃっと不敵な笑みを深める。
「見ろ! 妖精の誘いに大蛇が出てきた」
彼が指差した方を見てみると、奥の小島から一隻の船が現れた。
◇◇◇
蛇とは、よく言ったものだと思う。
南の海を仕切る大蛇の船長は、その名に相応しい容貌と特徴を備えていた。
地肌が見えるスキンヘッドに、小さくて丸い目をした中年の男。眉毛も髭もないので、ツルツル感が際立っている。背が高いだけじゃなく、体格もいいその大男は、まさにジャングルの奥地に潜む巨大なアナコンダを彷彿させた。口からチロチロと蛇の舌が出てきても、きっと違和感を感じない。
甲板に出ていたクルーたちを掻き分けて、のっそりと姿を現した彼は、船首像に座っていたエマを見てにやりと笑った。
食われる。
目が合っただけで、体が竦んで動けなくなった。蛇に睨まれた蛙だ。無力な蛙ちゃんの気持ちがよく分かる。恐ろしすぎて、瞬きもできない。その辺の若いチンピラ君なら、ひと睨みだけで倒せそうだ。
なのにうちのボルボアさんときたら、そんな怪物相手に手を振った。大手を振って「おーい!」って。
そんなに親しい関係なの?
「エマちゃん。もう降りても大丈夫だよ」
流唯さんの言葉に我に返って、やっと甲板に足をつける。これで自分の役目が終わったと思ったら、ほっと気持ちが楽になった。でも大蛇の方が気になって、つい後ろを振り向くと、向こうの船がパールクイーン号と並ぶようにして近づいた。
「なんて大きいの……」
間近で見ると、その大きさがよく分かる。船首から船尾までどれくらいあるんだろう。シーウルフのエマニエル号も相当だけど、こちらも匹敵する大きさだった。近頃は小型のパールクイーン号に馴染んでいたせいか、今さらながらそのサイズ感に圧倒される。太くて高い四本のマスト。聳え立つ船首楼と四角くて大きな船尾楼。ちょっとやそっとの嵐じゃびくともしないスケールだ。幼心にシーウルフを見上げたころの感覚が蘇る。クアラマリーナ号と呼ばれる大蛇の船は、海を漂う要塞だった。
大蛇のクルーが、互いの船に渡り板を渡した。これって、歓迎されてるってことなのかな。昨日は大蛇の傘下と戦ったけど。
板を渡って船を移ったのはキャップだけだ。
「久しぶりだな。トラビスちゃん」
「ああ」
会話の内容が気になって、つい聞き耳を立ててしまう。でも、気になっているのはエマだけじゃなかった。パールクイーンのみんなも、ジンたちも、見つめる先は同じだ。
「愛らしい妖精を連れてるな。俺への土産か?」
大蛇のトラビスは、見た目の印象通りの低くて野太い声をしていた。よく通るキャップの声とは全然違う。底冷えするような、ドスの効いた声に背筋が震える。それを誰よりも間近で聞いたキャップは、いつも通り平然としていた。それどころか、「くっ」と声を漏らして笑った。
「勘弁してくれ。あいつはキャルじゃねえぜ」
キャル? なんでキャルが出てくるんだろう。
そういえば、名前を聞いたところで、初めて甲板に彼がいないことに気づいた。
見落としてはいない。どこを見ても、この船の甲板にいなかった。
「お前のところは綺麗どころがよく揃う。一人くらい分けて欲しいもんだ」
「大事なクルーをあんたらの餌にはできねえよ」
一見、親しく話しているように見えるけど、彼らの目は危険な猛獣と同じだった。トラビスのような人を前にして、全く引けを取らないキャップもさすがだ。普段は気さくで親しみやすいおじさんだけど、やっぱりすごい人なのだと実感する。
「ところで、昨日はうちの仲間を可愛がってくれたそうだな」
あ、早速言われてる。
「先に攻撃してきたのはそっちだぜ」
「だが縄張りを侵したのはそっちだ」
「さて、どうだかな」
不意に、二人の間に沈黙が下りた。意味深な目だけのやり取りにドキドキする。息が詰まりそうな思いで見ていたら、トラビスがふっと小さく笑った。
「何か誤解してねえかい? 俺たちは縄張りを侵しちゃいない」
「嘘だ!」
すぐに反論の声を上げたのはジンだった。自分の船からパールクイーン号に移って見守っていた彼女は、舷側から身を乗り出し、怒りを剥き出しにして叫んだ。
「この嘘つき野郎! うちの領域を侵したのはそっちじゃないか! 大事な船まで壊しやがって!」
「その船だが、どこか壊れてるか? 俺の目にはどこも破損箇所は見られねえが」
「このっ……! いけしゃあしゃあと」
「ジン。そこまでにしろ」
激高する彼女を、キャップがぴしゃりと言い伏せる。
「今トラビスちゃんと話してんのは俺だぜ?」
おどけた口調だったけど、彼の顔を見てジンはぐっと言葉を飲み込んだ。キャップは真剣な顔をしていたのだ。その様子に、エマにも彼の真意が分かった。
トラビスは、ジンを怒らせようとしてわざと嘘をついたのだ。癇性な彼女を挑発して抗争でも起こす気だったのか、その意図までは分からない。けど、喧嘩が始まれば冷静な話はできなくなる。当然大事なことも聞き出せなくなるから、キャップはジンに釘を刺したのだ。ここで騒げば、トラビスの思うつぼになると。
「モテる男ってのは罪だねえ」
まるでジンとキャップが自分を取り合っているような言い回しに、周囲のクルーたちから笑いが起こる。完全にあしらわれてるってエマでも分かったけど、キャップは動じなかった。
彼はふたたびトラビスと向き合うと、両腕を組んで淡々と言った。
「二年前。あんたは俺にこう言った。女王の加護が欲しいわけじゃねえが、女王の怒りは買いたくねえと。俺もその言葉には同感だ。できるならあんたとはやり合いたくねえ」
すると、トラビスの緩んだ唇が引き締まった。
「……脅しのつもりか?」
「俺も一応は縄張りを持つ船長なんでね。気が進まなくてもやらなきゃなんねえ時があるのさ」
ジンは、西の一角を拠点とする海賊のひとつだ。彼女がやられて助けを求めに来た以上、西の代表と呼ばれるパールクイーンが黙って見過ごすわけにはいかない。しかし、事情があるなら話は別だ。内容によってはこちらの出方も変わることを示唆すると、トラビスの対応が変わった。
「……島に来い。話はそれからだ」




