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Sinner E  作者: 藤 子
【海賊編】
41/47

35.混沌の始まり

 握った瓶を弄びながら、セスは男を見据えて笑っていた。


「パールクイーンの女に手を出すとは、いい度胸してんな。おっさん」


 空っぽで軽いとはいえ、硬質な瓶で叩かれた男は、頭を押さえてセスを睨む。


「減るもんじゃあるまいし、俺らにも楽しみを分けてくれたっていいじゃねえか」

「分かってねえなあ」


 やれやれとでも言いたげに、セスは水樽の栓を止めた。エマは彼の陰に隠れるように逃げて、男から距離をとった。セスの傍にいればもう大丈夫。密かにほっと息をついたエマとは逆に、楽しみを奪われた男の顔が歪んでいく。


「ボルボアの女ならともかく、たかが娼婦一人をもったいぶってんじゃねえよ。それとも何か? お前らはそんだけ特別だとでも言いてえのか? 見せるだけ見せてお預けなんて、パールクイーンも意地が悪いぜ」


 飢えた男に見せるということは、手を出していいと言っているも同じこと。そうだろう? と言いながら、男はセスを挑発するように左手を腰元の剣に添えた。が、セスの様子は変わらない。彼は気怠そうに脱力していて、戦意の欠片も感じられなかった。


「俺の目にはどう見ても普通の町娘にしか見えねえけど、こいつを娼婦と思った時点であんたの目は節穴だな」

「あ?」

「この娘は娼婦じゃねえって言ってんだよ。この意味が分かんねえか? 娼婦でもねえ女を海賊船に乗せてるとなりゃ、何か訳ありだと推測すんのは簡単だろ。分かったら早いとこ上へ戻んな」


 今なら見逃してやるからと促したが、男が一歩踏み出した。


「この野郎。俺を馬鹿にしてんのか。そんなんで誤魔化そうったって……」

「こいつはシーウルフの一人娘だ。訳あってパールクイーンが預かってる。その娘に手を出したらどうなるか、あんたの頭じゃ分かんねえか?」


 息巻いていた男の鼻息が止まった。


「シーウルフの……」

「そう。男みてえな恰好したって片時もはずさねえサファイアの指輪が何よりの証だ。これはキャプテンジョージが唯一の女と認めたリンダに贈った結婚指輪。その高価なお宝を一人娘に譲ったってのは結構有名な話だが」


 知らなかったのかと、からかいの目を向けたセスに、男は呆然とエマを見た。


「こいつが……」


 途中で切れた言葉には、嘘だろ? っていう受け入れ難い感情が滲んでいる。パパ譲りの美しい黒髪が見えないとは、この男の目は本当に節穴らしい。ママ譲りの白くて透明感のある玉肌も、二人から受け継いだ知性と慈愛に満ちた眼差しも。普通に見れば、一目で分かるのに。


「現キャプテンジョージの一人娘であり、初代キャプテンアンジーが溺愛している孫娘。迂闊に手を出せば、あんたの首が飛ぶだけじゃ済まねえ。ジンもボルボアも責任を追及されるだろうな。下手すりゃ西と東の戦争だって起きかねねえぜ」


 まるで子どもを相手に話すようなセスの分かりやすい説明を受け、男の顔が引き攣った。節穴の目をした彼にも、さすがにことの重大さが分かったらしい。


「悪かったな。お嬢ちゃん。おじさんすっかり酔っちまったみてえだ。今のは忘れてくれ」


 一変して不自然な笑顔を顔に貼り付け、男はそそくさと立ち去った。


「はぁー」


 一気に気が抜けて警戒を解いたエマに、セスが笑う。


「そんな服を着てても女は女だな」


 あからさまに挑発しない分、回避できる危険は確かにあるが、全てを防ぐことはできないのだ。どんな格好をしていても、女と分かれば寄ってくる男はいる。

 そう告げたセスに、エマも素直に頷いた。


「パールクイーンにいるからって、安全なわけじゃないんだよね……」


 分かっていたはずなのに、気を抜いていた自分が悪い。


「これからはもっと気をつけるよ。ありがとう。セス」

「いっそのこと、俺の女だって公言しちゃってもいいけど。そうすりゃ守りやすくなるし」


 それは、頭を下げて断りたい。本当に好きなわけでもないのに、恋人だなんて言ったらセスだって面倒じゃん。何かにつけてエマのことはセスに任されるようになるし、今は良くてもあとで本当に好きな女性(ひと)ができたらどうするの?


 第一、それを認めちゃったら一年後の婚約者もセスに決定しちゃうじゃん。あ、もしかして彼はそれが狙いなのか。


「私にはその気ないから」


 危ない危ない。うっかりセスのペースに乗せられちゃうところだった。こんなんで一生の伴侶を決めるなんてとんでもない。


「じゃあ好きになればいいじゃん」

「あのね……」


 不思議そうに目を丸くされても困る。なればいいじゃんて言われて、簡単になれたら苦労しないっての。


「俺のこと嫌いじゃねえだろ?」

「そりゃあ……」


 嫌いではない。一緒にいるうちにセスの人柄も分かってきたし、もう怖いとも思わない。


「ならいいじゃん」


 腕を掴んで引き寄せられて、恐る恐る見上げてみたら、あからさまにキスをしようとしているセスがいて引いた。


「信じられない!」


 真剣な顔で言っているかと思いきや、下心見え見えだなんて。


「迂闊に手を出せば首が飛ぶ? 自分のことは棚に上げといてよく言うわ!」

「いやー。今ならいいかなーって」

「今なら⁉ 何が今ならよ⁉」

「どうせお嬢は俺のもんになるんだから、少しくらいスキンシップした方が……」

「どうせって何⁉ スキンシップって何⁉ 私はセスのものじゃない!」


 ほんの一秒でも、一瞬でも戸惑った自分に懇々と問い詰めたい。なぜこんな奴に惑わされたのか。女好きなのは分かっていたのに、前科だってあったってのに。


「何? 痴話喧嘩してんの?」

「ジュリ」


 倉庫で剥きになって言い合ってると、脱力した様子でジュリが来た。


「お嬢の戻りが遅いと思ったら、そういうこと」


 特に怒るでも責めるでもなく、彼は状況を目にして納得すると、二人に構わず水樽から水を出した。無言で一杯を飲み干すと、息をついて振り返る。


「お嬢。手を貸して」


 抑揚のない声で言ったジュリに、エマは迷わず頷いた。


「よくここまで来られたね」

「壁を伝ってなんとかね」


 手を差し伸べて声をかけるエマを見て、セスもジュリに声をかける。


「俺が手を貸そうか?」


 支えて欲しいなら俺の方が適任だと口を挟んだ彼に、ジュリはぼそりと呟いた。


「野郎の介抱はいらねえよ」


 ピキ。っと小さな音が聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだろう。構わずジュリを支えて行こうとしたら、後ろから腕を掴まれた。


「お嬢。ここにいろよ」


 何、このシチュエーション。二人の男が一人の女を取り合っている。けど、面倒臭いとしか思えない自分は心が乾いているのかもしれない。だって――


「放して。ジュリがふらふらなのが分からないの?」


 こんな尻軽を相手にするくらいなら、ジュリの介抱を優先しよう。エマの判断基準はそれだけだった。


「行こ。ジュリ」

「ああ」

 

 断ったところで、セスだって気にしないでしょ。どうせエマはその程度なんだから。彼にとっては、エマも娼婦も流唯さんもジンも、同じ女っていう括りでしかないんだから。


「大丈夫?」

「ん。もう平気」


 部屋に入り、壁にもたれて座ったジュリは、相変わらずへらへら笑った。


「もう……、無理して飲むから」


 持ってきたタオルを額に当ててやると、彼は気持ち良さそうに目を細めた。


「お嬢は優しいねぇ」

「……酔っ払い」

「酔っ払いだからさ、ちょっとだけ見逃してくんねえ?」

「何を?」


 首を傾げたエマに、ジュリは答えずに小さく笑った。そしてエマの膝を枕に横たわった。直後、エマは機敏に動いて彼の頭を落とした。


「痛えー……」


 ジュリは体を起こして頭をさする。自業自得だ。だってこいつも同じじゃん。


「セスもジュリも、なんでそうなの? 相手が女なら誰でもいいわけ?」


 彼らの考えてることが分からない。そうやって擦り寄って、欲求を満たしてくれるなら誰でもいいの? 愛していない相手にも平気で甘えるなんて、堕落してる。しかもほかの女に手を出すのと同じ感覚で自分も扱われるのがムカつく。


「どうせジュリたちにとって私は船長になるための道具であってさ、優しくしてくれるのも守ってくれるのもそのためだってことくらい分かってるけどさ」

「お嬢」

「だからって軽い気持ちで手を出されるのはやだよ。それならいっそ無関心で放っておかれる方がよっぽどいい」

「お嬢」


 こうやって二人きりになっても何も感じないのは。目の前で二人の男が自分を取り合っても面倒としか思えないのは、そこにあるはずの感情がないから。


「ごめん。お嬢」


 言ってるそばから抱きしめるとか、あり得ない。


「……全然分かってないじゃん」


 ジュリだって、セスと同じ穴の(むじな)のくせに。


「お嬢は可愛いよ」

「そんなの……、信じられないし」

「でも、本当。初めて会ったときから可愛いって思ってた。モロ俺のタイプ」

「そんなの……」

「って言っても信じらんないだろ?」


 耳元でこぼれた小さな自嘲に、時が一瞬止まった気がした。


「同じだよ。俺らもお嬢も」


 囁くように、ジュリは言った。

 どんなに優しくしても、愛を告げても、俺らの気持ちは届かない。それは自分たちがシーウルフの船長候補だから。

 どんなに親しくなっても、毎日こうして一緒にいても、エマ自身を見てはもらえない。それはエマがシーウルフの一人娘だから。


「お互い様ならそれでもいいよ。俺を受け入れて」


 これって、もしかして、告白されてる? そう理解するのに時間がかかった。

 船は力強く吹く温かい風を受け、速度を上げて南下していた。ぼんやりと、遠くからか細い音が聞こえると思ったらそれが近づいて、嫌な予感を感じると同時、船は激しい横揺れに襲われた。


 パールクイーンは、大蛇の洗礼を受けたのだ。


「大丈夫?」

「うん……」


 ジュリの腕に守られながら、なんとか答えた。

 あまりの衝撃に思わず自分もしがみついてしまったけど、これは不可抗力というやつだ。決して下心や恋愛要素は含まれない。

 自分の中で言い訳をするエマに対し、ジュリはとても冷静だった。


「ちょっとごめんね」


 エマに声をかけた彼は、立ち上がって船窓を覗き、すぐに状況を理解した。


「襲撃だ。多分、大蛇(おろち)の傘下」

「こんな時間に……?」


 空は暗く、日没間近だ。真昼間から宴会をしていたパールクイーンはともかく、普通ならクルーたちが集まって夕飯を食べる時間帯である。そんな時にわざわざドンパチしなくてもと思ったけど。


「関係ないっしょ」


 ジュリはあっさり否定を返した。


「どこの海だって縄張りを侵す奴らを野放しにはしないだろうし」

「そっか……」


 襲撃と聞くと、どうしても恐怖に呑まれてしまう。今までの嫌な経験が蘇って、身が縮まる思いがした。強張った顔で怯えるエマを見て、ジュリは笑う。


「大丈夫だって。守るから」


 そんなこと言って、酔っ払いのくせに。


「足元ふらついてるじゃん」

「まーね」

「そんなんで……」

「ダイジョーブ」


 親指突き立てて言われても、安心できない。


「説得力ないよ……」


 今にも泣きそうな気分でツッコみを入れたら、ジュリはやっぱりへらへら笑った。この部屋だって、いつ大砲が飛び込んでくるか分からないってのに。


「絶対守るよ。お嬢に傷をつけたら、ウルフに帰れなくなるからね」


 その言葉にドキッとした。目を見開いたエマを見て、ジュリは困ったように苦笑する。何か言い返そうと思った時、荒々しい足音がこの部屋に向かって近づいてきた。ジュリは、エマを庇うようにして前に立った。現れるのが敵か味方かは分からない。とにかく最悪の事態も考えて、彼は備えていた。


「エマちゃん! 大丈夫⁉」


 ドアが開く前に聞こえた声に、二人揃って警戒を解く。部屋に入ってきたのは流唯さんだった。彼女はエマたちを見るなり、すぐに状況を把握した。そしてエマではなく、ジュリに向かって彼女は言った。


「私がいなくても大丈夫?」

「問題ないっす」


 話している間も、二発三発と砲弾が降ってきてるっていうのに、なんでそんなに落ち着いていられるんだろう。即答したジュリを見て、流唯さんも頷いて口元を緩めた。


「じゃあ任せたよ」


 え! 行っちゃうの⁉ って焦ったのはエマだけで、彼らは全く動じてなかった。流唯さんが女神の微笑を見せて立ち去ると、ふたたび部屋のドアが閉められる。外から怒号や叫び声が聞こえてきて、応戦しているのだと分かった。


「……ジュリ」


 不安に駆られて彼を呼べば、振り向いたジュリも静かに微笑む。


「ダイジョーブ」


 ぽんぽんって頭を撫でられて、歯向かう気にもならなかった。

 そのうち、だんだんと辺りが静かになって、船の揺れも落ち着いてくると、ジュリはそっと船窓を覗いた。


「終わったみたいよ」

「……本当?」

「うん。甲板出てみる?」


 それはちょっと、気持ちの余裕がないかも。

 渋ったエマを見て、ジュリは嫌な顔ひとつせずに言ってくれた。


「じゃあ食堂行こうか。腹へったでしょ」

「うん」


 それならと快諾したエマに、彼の手が差し出される。反射的に自分の手も差し出すと、力強く引き上げられた。


「きゃあ!」

「おっと」


 体勢を崩して倒れ込むと、すかさずジュリが支えてくれる。


「ごめん。思った以上に軽かった」


 力加減を間違えたという彼に、曖昧な苦笑を返した。私ってば、そんなに重そうに見えるかしら。もしかして、ダボっとした男っぽい服がそう見える? 実は着太りしているかもしれないと思ったら、とたんに着心地が悪くなった。あとでキャルに相談しよう。


 そうやって体形を気にしているうちは、まだ自分は無知だった。突然の襲撃も案外すぐに収まったから、驚いたり怯えたりはしてもさすがパールクイーン! なんて胡坐を掻く余裕があった。

 だけど、本当は知らないだけだった。まだ見ていなかっただけだった。


「……何、これ……」


 翌日。日向ぼっこをしようと甲板に出たエマは、初めて大蛇をその目で見た。目の前に広がる光景が受け止められなくて、体が震える。まるで今から戦争でも始まるかのような警戒態勢が、全て自分たちに向けられている事実を信じたくなかった。


 多勢に無勢なんてもんじゃない。武装した海賊船が一、二、三、四……、数えるのが馬鹿らしいくらいの数だった。所狭しと浮かんでいる船が、舳先をこちらに向けている。その全てが海賊船だ。まるでどこかの国の海軍が軍艦を集結させたみたいだった。


「これ……、全部大蛇?」


 誰にともなく聞くと、近くにいたミリが教えてくれた。


「それぞれは別の海賊だよ。でもみんな大蛇の傘下。大蛇の声がかかれば、普段は敵同士でもこうして集まるんだ」


 そういう彼は、これだけの数を見ても微塵も狼狽えてなんかいない。いくらパールクイーンでも、これは無理だ。勝てっこないって思うのに。


「トラビスはいるか?」


 ふと聞こえた声の方を向くと、キャップが舷側に寄りかかって敵船を見据えていた。脱力した様子はいつもと変わらないように見えるけど、目つきはギラギラしていて凄みがあった。


「いないですね。どれも大蛇の旗を掲げているが、トラビスの船じゃない」


 隣にいた銀の答えに、彼は小さく頷いて体を起こした。


「帆を張れ! 風は追い風だ! 満帆で突っ切るぞ!」

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