34.暗雲
大人しく酒を味わうジュリを見て、心底思う。
いくら強いと言っても、無限に飲めるわけじゃないだろうに、一体どれだけ飲ませたら満杯になるんだろう。体格だってごく普通で、太ってもいないし大柄でもないのに。
「……何?」
あ、気づかれた。何でもないよって笑顔で手を振ったら、何を勘違いしたのか、彼は隣にやってきた。
「お嬢も飲む?」
ラム酒が半分くらい入ったグラスを差し出され、一瞬戸惑う。どうしようかな。今なら飲んでも平気かな。クルーたちは遊んでるし、船長や流唯さんも和気藹々と寛いでるし。
「……じゃあ、これだけ」
おずおずと受け取ると、そのグラスにジュリがさらに酒を注ぐ。
「えっ、そんなにいいよ⁉」
「一杯だけだよ。それとも下戸だったりする?」
「そういうわけじゃないけど……」
船に乗る前は友だちと飲みに行ったりしてたし、付き合い程度には飲めるつもりだけど。この環境がね。
「心配ないよ。酔っても介抱してあげるから」
「……それが心配なんだけど」
ちらっと横目に見ると、いつも通りのジュリの顔。今の時点でどのくらい飲んだか知らないけど、頬はまだ赤くない。表情も淡々としていて、酔っ払っているようには見えなかった。
……まあ、ジュリがいるなら大丈夫かな。
女と見れば見境なく尻尾を振っちゃうセスとは違い、ジュリは意外にも硬派だし。酒を飲んでもこうして冷静でいられる彼なら、万が一何か起きても対応してくれるよね。うん。一杯くらい飲ませてもらおう。
「甘くて飲みやすいね」
「ラム酒は初めて?」
「うん。おいしいね。ジュリももっと飲む?」
「ああ。もらおうかな」
彼が差し出した空のグラスに、とぽとぽと酒を注いでやった。まさか海賊さんとこんな風に酒を飲む日がこようとは、不思議な感じだ。
「はい。どうぞ」
「サンキュー。やっぱり女の子に注いでもらうのはいいね」
……ジュリ。居酒屋にいる酔っ払ったおじさんみたいよ。
二人でコツンとグラスを当てて乾杯し、笑顔で和やかに酒を飲む。緊張は完全には取れてないけど、それなりに楽しく飲めそうだなって思ったら、ジュリの肩がエマに触れた。こっちに寄りかかってくるのはいいけど、その無精髭が気になるわ。近くで見れば見るほどみっともない。
「ジュリって、髭伸ばしてるの?」
「ん?」
以前、ノークリーンノーキャプテン――綺麗じゃなくちゃ船長になれない――というスローガンを打ち立てて以来、彼はセスとともに不器用なりにも清潔を保とうと努力をしている。エマの目から見れば不満な点は多々あるが、彼らが頑張っているのは伝わってくるので、今のところは良しとしていた。
今日の嵐の後も、ちゃんと濡れた服を着替えていたし。普段も夜はたまに忘れるけど、翌朝には食堂に行く途中で顔を洗って身なりを整えているようだし。そのついでに、セスは髭が伸びると剃っている。でもジュリは、セスほどまめに髭剃りはしてないみたい。
「もしかして、規約違反になっちゃう?」
ジョリジョリと顎を撫でながら言った彼に、エマは頭を振った。
「それくらいで失格にはしないけど」
「お嬢は綺麗好きだから気になるかあ」
別に、髭を伸ばしたお洒落な紳士だっているし、髭自体を否定する気はないんだけど。どっちかっていうと、綺麗に剃っていた方が好きかなぁーなんて。
「俺、顔が地味だから舐められやすいんだよね」
ジュリは、ぼそっと言って自嘲をこぼした。
「セスみたいに迫力ないし、顔だけ見ると普通でしょ」
「……私はそっちの方がいいと思うけど」
でも、彼は違うのだ。海賊の世界で舐められないように、少しでも箔を付けようとして髭を伸ばしていたらしい。それが彼のコンプレックスなら、無理させてまで変えたいとは思わなかった。
「ジュリがそう思うなら、伸ばしててもいいんじゃない?」
普段は仲良くしていても、ジュリとセスはライバルだ。シーウルフの中でも、船長候補としてずっと比べられてきたんだろう。そんな環境にいて、相手を意識しないはずがない。口にはしなくても、対抗心や劣等感を持っているのだ。姿勢を悪くしたり蟹股で歩いたりするのも、本当は自分を大きく見せるためにわざとやっているのかもしれない。セスに、負けないように。
「サンキュー」
ジュリは、小さく笑って酒を飲んだ。
「でも、お嬢が嫌がるなら剃るよ。キスして髭が痛いって言われたら嫌だし」
口に含んだ酒をうっかり噴き出しそうになった。この人、いま何て言った?
エマがジュリを好きかも説の誤解はとっくに解いたはずだけど。
「あのね、そういう冗談は……」
「――で? 今回の用件は一体何かな?」
冗談はやめてって言おうとして、エマは言葉を詰まらせた。
近くにいたキャップの言葉が聞こえたあと、辺りの空気が変わったのだ。顔を上げて見渡してみると、今まで和気藹々としていた海賊たちに緊張が滲んでいる。離れたところで騒いでいる人たちは相変わらずだけど、酒樽を囲んでいる一部だけ、どことなく表情が硬かった。
流唯さんをゲットして上機嫌だったはずのジンが、酒瓶を片手に苦笑する。
「やれやれ。お見通しか」
観念して肩を竦めた彼女に、キャップは冷静な言葉を返した。
「船首部分に修復跡が見られるし、フェアマストだけ新しくなってる。あれは嵐にやられたもんじゃねえだろ」
どうやら、この出会いは偶然ではなかったらしい。鋭く見抜いた彼に、ジンは静かに話し出した。
「情けない話だけどさ。大蛇に噛まれたのさ」
それって巨大な蛇のことかと思ったけど、意味が違った。ジンが言ったのは、四大海賊のひとつに挙げられる『大蛇』のことだった。
「奴らの縄張りは南だろう。お前んとことは離れてるはずだ」
「それがどういうわけか、いたのさ。最初は偽物だと思ったよ。縄張りの外だし、大海賊の振りをして漁船や商船を襲うチンピラもいるからね」
大蛇の海賊旗を掲げていても、どうせもどきの集まりだろう。二、三発大砲を打ち込んで、軽く脅してやればすぐに観念するに違いない。そう思って威嚇射撃をしたところ、いきなり船首部分を木っ端微塵に打ち砕かれた。すぐに態勢を整えて応戦したが、次にはフェアマストが倒されて、接近戦になりかけたので浅瀬に逃げて助かったらしい。
西の海の一角を仕切っているジンとしては、ボルボアに報告した方がいいと判断してパールクイーンを探していたとのことだった。
「……本当に奴らだったのか?」
「私の目を疑うのかい?」
「そういうわけじゃねえが……」
キャップが濁らせた言葉の続きを、銀が冷静に代弁した。
「うちならともかく、大蛇は何の理由もなしに自分の縄張りを出たりしない」
「でもあれは確かに大蛇だったよ」
「この前ジョージ船長にも会ったが、大蛇のことは何も言ってなかった」
「私らを疑うのかい?」
「最初からお前は信用できねえ」
「何だって?」
また睨み合いを始めた二人をよそに、キャップは珍しく真面目な様子で考えていた。そして一口ぐびっと酒を煽ると、乱暴に腕で口を拭って、彼は言った。
「んじゃあ久々に行ってみるか。トラビスちゃんのところへ」
「うちも行くよ。やられっ放しじゃ終われないからね」
意気込むジンに、銀があからさまな睨みを向ける。「ついてくるのかよ。邪魔なんだけど」的なやつだ。でも事情を一番把握しているのは当事者であるジンたちだから、情報収集のためにも同行が有益だって理解しているようだった。その辺をきちんと割り切れるあたりはやっぱり大人だ。ちょっと意外だけど。
大蛇について、真面目な話をしたのは一瞬で、みんなはまたすぐに宴会を再開した。今後の予定は決まったけれど、動くのは明日からにするらしい。ジンは流唯さんのグラスに溢れるほど酒を注ぎ足し、それを速攻で銀が止め、周囲が調子に乗って囃し立てた。今夜は長くなりそうだ。
「ちょっと! 大丈夫?」
叫びにも近い声で叱咤しながら、重い体をどうにか支える。
「ダイジョーブダイジョーブ」
締まりのない笑顔で答えるジュリを、その場で床に沈めたくなった。このときほど彼の言葉を信用できないと思ったことはない。
「まったく……、どこがザルなのよ」
そりゃあ、確かめなかった私も悪いけどさ。今までのジュリを見て勝手に酒が強いって思った私は馬鹿だったけどさ。でも顔に出ないんじゃ分からないじゃん。今まで酔って絡んできたことはなかったし、叫んだり泣いたりすることもなかったし。吐いたところだって一度も見たことなかったんだもん。こんな冷静に、普通に飲んだ挙句倒れるなんて、予想できるわけないじゃない。気持ち悪いって呟いた彼に、あろうことかほかの海賊たちはさらに酒を勧めるし。「これを乗り越えりゃあもっと酒に強くなるぜ」って、頭おかしいんじゃないの⁉ 見かねて船室に連れ出したはいいけど、辿り着く前に挫折しそうだった。
「ほら。もうちょっとだから、頑張って!」
せめて誰かが手伝ってくれれば、こんな苦労はしないのに。助けを求めて流唯さんを見たら、ジンと銀の板挟みになってるし、セスは酔っぱらって知らない海賊と踊ってるし、准は潰れて寝ちゃってるし、ミリ様は例のごとく笑顔で酒瓶に話しかけてるし……、揃いも揃って役立たずめ!
「もう……ちょっと!」
口にした言葉がジュリに向けてなのか自分に向けてなのかも分からない。いつもなら十秒もかからずに行ける距離が、今日に限ってやけに長い。やっとの思いで辿り着いて、どうにかドアをこじ開けたら、体力も気力も同時に尽きた。こっちだって酒を飲んでたんだ。力仕事なんてできるかっての!
「はぁー!」
大きな絨毯にジュリを落っことしたら、自分も一緒に倒れ込んだ。確かこの絨毯、曰くつきだったはずだけど、今は気にする余裕もない。
「もう……、しっかりしてよ」
子どもじゃないんだから、酒を飲む量くらい自分で調節してほしい。
「大丈夫?」
横から顔を覗き込むと、薄っすら目を開けたジュリがへらへら笑った。
「お嬢ー。カワイー」
酔っ払いめ! 今になって避難させてやったことを後悔した。こんな奴は酒にまみれて潰れてしまえ! ……と思ったところで、彼を甲板に戻す気にもなれない。
「……タオル持ってくるから、大人しく寝てて」
「アイサー」
何だか、頭が痛くなった。頼りない足取りで階段を下りて、タオルを絞ろうと倉庫に向かう。頭上からは男たちの盛り上がる笑い声が響いてきて、堪え切れずにため息をついた。
つくづく損な役回りだ。自覚しながら、水樽の栓を緩めてタオルを絞る。普通、逆だよね? 酒に弱い女の子が酔っ払って、それを男が支えてくれるっていうのが理想だった。なのに現状は……、酔っ払った夫の世話を焼く女房みたいだ。悪態をつきながらも介抱してやる肝っ玉母ちゃんの絵が浮かぶ。一体、何がどうしてこうなった。
恋愛とは程遠い今の自分に、先が思いやられる。一年後には誰かと婚約しなきゃならないってのに。誰と? ジュリと? セスと?
「ないな」
彼らとの未来を想像しても、胸のときめきは感じない。一人で呟いて、緩く頭を振ったエマの耳に、キィっと板が軋むような音が届いた。気づいて振り向くと、大柄な男が出入り口を塞ぐように立っている。
一瞬、言葉に詰まって肩が竦んだ。感じた恐怖がそのまま顔に出てしまったのか、エマを見た男はにぃっと獣じみた笑みを浮かべた。
「彼氏の介抱かい? お嬢ちゃん」
甲板で、躓いたエマに声を上げた海賊だ。
「……っ私、部屋に戻りたいんですけど」
そこをどいてくれないかと、勇気を出して言ってみても、男はちっとも動かない。ドアの枠にダルそうにもたれて、こっちを見ていた。
「俺にも水をくれないか?」
勝手にどうぞ。とは言えなくて、エマは近くに置いてあったグラスを取った。クルー用に置かれていたものだ。震えそうな指先に力を入れて、水樽の栓を開く。トポトポと音を立てて水が入っていくグラスを見ていると、背後に男の気配を感じた。
「いい匂いがするなあ」
直後、エマの両耳を塞ぐように、後ろから野太い腕が突き出された。目の前の水樽に大きな両手がついたのが見えて、息を呑む。動きを封じられたのだ。
「この船に乗って何人とヤった? 俺の相手もしてくれよ」
耳元に吹きかけられる生温い息に、背筋が凍る。
「やっ……めてくださ……」
身を捩った拍子に、持っていたグラスを落としてしまった。幸い、割れはしなかったけど、足元にこぼれた水が広がっていく。
「そうやって誘ってんのかい? 可愛いね」
水樽からも、水が音を立ててこぼれている。栓を閉めなきゃ。そう思うのに体が動かなかった。後ろから覆い被さってきた男の身体が、エマの背中に密着する。汚くて、気持ち悪くて、怖くて……、ヤバい。涙が出そうって思ったら、ガツン! っていう音と同時に、男の感触がエマから離れた。
前にもこんなことがあったと思い出し、また助けられたと思って振り向くと、そこには流唯さんではなくセスが空き瓶を片手に立っていた。大男は、自分の足元で頭を抱えてうずくまっていた。




