32.本質
汚れて、ささくれだらけで、ごつごつしていて、それだけなら普通の船乗りと同じ手だけど、ジュリの手は、擦り傷や切り傷だけじゃなくて、火傷の痕みたいなのもあって、親指は骨が変形していた。こんな風に普通に話せても、この人は海賊なんだ。何度も戦いを経験して、死の恐怖を知っている。
「お嬢? できた?」
こんなに呑気な人なのに。
「……お嬢?」
今度こそ動けなくなって、ジュリの前に座り込んだ。
「手……、近くで見ると傷だらけだね」
「ん? 手?」
違う。手だけじゃない。きっと体じゅう傷だらけだ。
「ジュリは、どうして戦うの?」
こんなに傷だらけになってまで。
痛い思いをして、死ぬかもしれない恐怖を味わって、なんでやめないんだろう。
「誰かを守るためとかじゃないでしょ? 脅されたとか、売られたわけでもないじゃん。その気になればやめることだってできるでしょ?」
なのに、なんで海賊をやめないんだろう。
「……俺のこと、今も怖い?」
そう尋ねる彼は、穏やかな顔をしていた。優しくて、真摯にさえ見えるその目が、怖いとは思わない。最初は確かに怖かったけど、今は違う。
海賊という括りで見ていたときは、彼の全てが怖かった。その目も、笑った顔も、ちょっとした動作さえ怖くて、狼に見つかった兎のように怯えていた。
でも助けられて、話をして、一緒にいる時間が増えるにつれて、彼に対する恐怖がなくなった。短気で会話なんてできないと思っていたのに、話したら普通で。暴力的なことばっかり考えていると思った頭は、実は空っぽで拍子抜けするほど単純だった。
「ジュリのことは怖くないよ。でも、ジュリがやってることは怖いと思うよ」
同じ人間だから、不思議に思う。なんで海賊をやってるんだろうって。痛い思いをして、危険なことをする必要がどこにある? 誰かを傷つけて、自分も傷つけられて、こんなことをしなくても、ほかにも生きていく方法はあると思う。見るからに罪人なセスはともかく、ジュリならそれを見つけられると思うのに。
「そっか。良かった」
ぼそって呟いて、ジュリは笑った。
何が良いの? なんで笑うの? って思うのに、それ以上は聞けなかった。
「お嬢ー。ちょっと頼みがあるんだけどー」
セスがノックもなしに入ってきたから。
「あれ? もしかして逢引き中?」
いつものことながら、この人は本当にタイミングが悪い。せっかく真面目な話をしていたのに、完全にシリアスな空気を消されてしまった。
「そんなんじゃないよ。何の用?」
八つ当たり気味に答えると、セスが握り拳をエマへと向ける。
「これ直せねえ?」
……なんでしょう、この既視感。
目の前に出されたビーズの山に、思わず首を傾げてしまった。
「セスも?」
「も? って、まさか」
エマの言葉に、セスの視線がジュリへと移る。
ジュリは勝ち誇ったような笑みを浮かべて鼻で笑った。
「偶然だな。お前も切れたのか」
本当にすごい偶然だねぇと思うエマの死角で、セスがジュリの首を絞める。
「この野郎、抜け駆けしやがって」
「何のことだ?」
「せっかく俺がお嬢に救いの手を……」
ひそひそと話しながらじゃれ合う二人を、エマは微笑ましく見つめた。
仲良きことは美しきかなだ。
「セスのも直すよ。貸して」
「あ、ああ。頼むよ」
なぜかばつが悪そうに出されたビーズを受け取り、エマはせっせと修理にかかった。その最中も傍らでじゃれ合う二人をちらりと見て、密かに唇を引き結ぶ。
セスの手も、ジュリと同じようにごつごつしていた。今までは気にしたことがなかったけど、改めて見ると、ささくれ立って、傷痕があった。きっと、パールクイーンのみんなも同じ。シーウルフのパパや、グレイや、ばば様も。
パールクイーンに来る前、ばば様に言われた言葉が蘇る。
――綺麗な手だねぇ。
エマの手を愛おしそうに握り、しみじみと呟いたばば様は、あのときどんな顔をしてただろうか。この手に傷をつけたくないだろ? と、ばば様は言った。だから早く裏方に回れと。そのときは、箱入り娘と皮肉られてムっとした。でも今は、違う意味もあったのかもって思う。もちろん、可愛い孫に苦労をかけさせたくないっていう気持ちはあったと思う。でもそれだけじゃなくて、今のエマには無理だと見抜いていて、だから、裏方に回して早く立場を確立させようと――
「できた!」
完成したネックレスを掲げ、出来栄えを確かめてセスに渡した。
「つけてみて」
同じ失敗を防ぐために、今度は自分でつけてもらう。
「おお、バッチリ!」
喜ぶセスにエマも喜び、彼らに声をかけて先に部屋を出た。短い通路を歩いて甲板に出ると、船首像を振り返る。そこには、相変わらずタバコをふかしている流唯さんがいた。ぼんやりと虚ろな目をする彼女の近くで、銀もまた黙々と筋トレを続けていた。
エマは梯子を上り、気づいた銀を素通りした。
「流唯さん」
声をかけると、振り向いた流唯さんが咥えタバコのまま目を丸くする。その顔は無防備で、やっぱり美人だなって改めて思う。格好いいだけじゃなくて、可愛いところもあって、でもその裏には深い深い闇がある。考えただけで怖いし、近寄り難い気持ちもあるけど、多分この人もジュリやセスと同じだ。
「流唯さんは、祇利那人が嫌い?」
尋ねると、近くにいた銀の表情が変わった。それに気づきながらも、気にせず聞いた。別に、銀のために聞いてるわけじゃないし。これはあくまでも自分のためだから、彼にとやかく言われる筋合いはないのだ。まあ、感謝なら甘んじて受けるけどね。
「准から流唯さんのことを聞いたの。祇利那に苦しめられてたことも」
きょとんとして聞いていた流唯さんは、それを聞いて丸い目を元に戻した。
「そう」
「今も流唯さんは祇利那人が嫌い?」
重ねて聞くと、流唯さんは体の向きをエマの方に向けて座り直した。
「私が祇利那人を嫌いだって、准が言ったの?」
「そうは言ってないけど、祇利那を憎んでたって言ってたから、祇利那人も嫌いなのかなって」
もしそうなら、エマとも本当は関わりたくないのかもって思って。でも、流唯さんが国籍だけで人を判断するとは思えなかった。疎まれてるかもっていう不安と、そんな人じゃないって思う否定の気持ちに、本当は怖い人っていう情報が混濁して、どう接するべきか戸惑った。けど、自分が見た今までの流唯さんを思い出したら、ここで敬遠するのは違う気がした。この人も、ジュリやセスと同じじゃないかって思ったから。
流唯さんがやってきたことは怖いけど、流唯さん自身は――
「……昔、好きになった男は祇利那人だったよ」
彼女は穏やかに言った。誰よりも何よりも祇利那という国を憎みながら、祇利那の血を持つ彼に惹かれたのだと。
「人を好きになるのは理屈じゃないよ。そこにいる銀も祇利那人だけど、私は好きだよ。パールクイーンのほかの連中もそれぞれ出身地が違うけど、みんな好きだし。エマちゃんのことも、祇利那人だからって嫌うことはないよ」
やっぱりね。流唯さんならそう言ってくれると思った。って、安心しながら、素直に喜べなかった。聞きたかった答えと一緒に、聞きたくないことまで聞いてしまったから。
銀、ごめん。
人を好きになるのに国境はない。それが分かれば、これからも流唯さんと気兼ねなく話せると思った。ついでに銀も喜ぶだろうって。
でも、流唯さんの中には今も別の男がいる。こんな風に慈愛に満ちた目で話すくらい、彼女の中にはその人への気持ちが残っている。祇利那の血は関係ないって分かっても、銀の想いが叶う見込みはなさそうだった。
「そっか……。良かった」
とりあえず、自分の目的が果たせたことは素直に喜ぶ。でもやっぱりこのままじゃ後味が悪いので、
「じ、じゃあ新しい恋も国籍とか関係ないんだね?」
一応、フォローのつもりで聞いてみた。けど、玉砕した。
「私、一生独身って決めてるから」
こんなところにもパパのような男前が。ごめん、銀。
気まずく思いながらも、恐る恐る振り返る。きっと落ち込んでるよね。ほかの男のために独身を貫くなんて聞いちゃったら、そりゃあへこむよねぇ。
「……銀?」
思わず声をかけてしまったのは、目にしたのが予想したものと違ったから。
銀が、あからさまに喜んでいる。こっちに背を向けてストレッチをしてるんだけど、口元がにやけているのがちらちら見える。動きもなんだか機敏だし、はしゃぎたいのを我慢してますって感じがモロに出ていた。
……なんで?
というか、いつもと違う意味で怖いんですけど。
「なんだ?」
振り向いた途端に見せた真顔がドヤ顔っぽくて、さらに引いた。
「何でも……」
ぎこちなく手を振って誤魔化したものの、未知なる生物を見ちゃった気分だ。救いを求めて流唯さんを見ると、彼女は背中を丸めて腹を抱えて……笑ってる?
「あの、流唯さん?」
こちらも恐る恐る声をかけると、振り向いた彼女は涙目だった。そんな顔も可愛いけど、何が何だか分からない。
「銀って、分かりやすいでしょ?」
笑いながら同意を求められたけど、エマには頷けなかった。流唯さん曰く、「パールクイーンが好き」って言ったことに喜んでるらしいけど。なんか、それもちょっと違う気がします。
銀さん。何か大事なことを見落としてないでしょうか。
やっぱりこの人は分からないわ。
悟ったエマは匙を投げ、深入りを避けて梯子を下りた。途中、マストをよじ登っていくキャルを見つけて声をかける。
「私も行っていいー?」
すると、来い来いと手招きをされたので彼のあとを追った。
「帆を補強するんだよ」
言いながら腰元の巾着から縫い針を取り出したキャルに、エマは手伝いを買って出た。今度こそ自分が活躍できると意気込んで、彼からレクチャーを受けながら帆布を縫うこと小一時間。
「まあ、こんだけやっておけば大丈夫かな」
甲板からマストを見上げ、頷いたキャルにエマははしゃいだ。傷んだ部分だけとはいえ、帆布はかなりの大きさがある。シーウルフのエマニエル号よりは小さいだろうけど、それでもマスト三本分は相当な量だ。全部を繋げて広げたら、田舎の一軒家を包めるくらいはあるだろう。それを補強したとなれば、達成感も一入だ。
「助かったよ、エマっち。ありがとね」
「キャルもお疲れ様」
互いに労って休んでいると、メインマストの上からチャラ男が下りてきた。パールクイーンの中で、唯一エマに嫌気を向けてくる男だ。彼は、エマとキャルがせっせと帆を縫っている傍らで、ロープの点検を行っていた。体格は細身だし、ヘブンズノックの船では俊敏に戦うところも見たし、彼が身軽なのは前々から分かっていたけど、さすがにロープの上を平然と行き来しているのを見たときは驚いた。ずば抜けた平衡感覚としっかりした体幹に加え、落ちる恐怖をものともしない度胸がすごい。でも、
「ミッチも終わり? お疲れー」
気づいたキャルが労いの言葉をかけても、彼はちらりとエマを見て鼻を鳴らしただけだった。そのくせ、船首像から流唯さんが降りてくると、鼻の下を伸ばしてデレデレしちゃって。
「なに、あの態度」
「まあまあ、いつものことだよ。気にしないで」
キャルは笑って流したけど、エマには流せなかった。ああいうのって、人としてどうかと思う。みんなはミッチミッチって、親しく声をかけているけど、あんな奴はチャラ男で十分だ。名前で呼ぶまでもない。パールクイーンはみんないい人ばかりなのに、なんでその中にあの人がいるのか分からない。もう三十を超えた大人のくせに、人を外見で区別して見下すなんて、子どもよりも子どもみたいだ。
「そんなことより、エマっちもそろそろ備えた方がいいよ」
「え?」
「嵐。来るから」
「…………え?」
キャルに言われて、初めて知った。彼が帆を補強していたのも、チャラ男がロープの点検をしていたのも、嵐に備えてのことだったって。
「ほら、あの辺の空を見て。薄くて小さい雲がいっぱい広がってるの、分かる? あれはいわし雲って言って、嵐の前兆なの。もうじき荒れるから、エマっちは外にいない方がいいよ」
チャラ男のことなんて、考えている場合じゃなかった。
キャルが言った通り、それから一時間もしないうちに嵐はきた。ふと辺りが暗くなり、雲行きが怪しいと感じたあとはあっという間だ。すぐに風が強くなり、滝のような雨が降り出した。パールクイーンは機敏に反応して対応したけど、激しい豪雨と高波に襲われ、いつ転覆するかという大きな揺れに、ただ耐え忍ぶしか方法はなかった。補強したばかりの帆は破れ、硬くて丈夫なロープが切れる。このまま海の藻屑となって吞み込まれるかも知れない危機に、エマは新たな地獄を見た。
ただ、同じ轍は踏むまいと外には決して出なかった。この時こそはと自分の部屋に閉じ籠り、括りつけのベッドに必死になってしがみつく。それでも容赦なく船を襲う嵐には勝てず、何度もベッドから落っこちた。気分はさながら、子供に振り回される人形だ。いつ船が木っ端微塵に砕けるかという恐怖を抱え、永遠とも思える揺れの中で身体も揺れて、揺れて、揺れてが続く。
もう無理だと思った矢先、心配した流唯さんが駆けつけて支えてくれた。けど、そのころには完全に船酔いしていて、彼女の服に吐いてしまった。本当に本当に申し訳ない。謝りながらもまた吐いて、お腹に入っていたものを全てリバースした。吐いたものが辺りに飛び散り、異臭が漂い、ああ、もう……、今日は厄日だ。
「エマっちー。生きてるかー?」
キャップが様子を見に来たときには、魂が半分抜けていた。
「あららー。すっかりやつれちゃって」
凶暴な嵐がやっと過ぎて、空が明るくなってきても、この気持ちは一緒に晴れない。ちょっと……、いろんな意味で復活できなかった。
汚物まみれになった部屋は、綺麗に拭かれて整っている。流唯さんが掃除をしてくれたから。いつもよりもすっきりして見えるのは、汚れたクッションや絨毯やらを撤去されたためだ。異臭を放っていたエマの服も取り換えられ、シーツも予備のものに替えられた。これも、流唯さんの手によって。汚れてしまった流唯さんの服も、今は着替えて何事もなかったみたいに見える。
どこからか金槌で釘を打つ音が聞こえてきて、傷んだ船を修理しているんだと分かった。いつもなら、ここぞとばかりに名乗りを上げて手伝うのに、それができない。せっかく活躍できるチャンスなのに。
「今はゆっくり休んだ方がいいよ」
どこまでも優しい流唯さんに、泣きたくなる。
同じ女なのに、なんでこうも違うんだろう。流唯さんだって、海賊だったのはたった一年なのに。けろっとしているキャップにも、なんでこんなに違うんだろうって思う。同じ人間のはずなのに。むしろ、同じ人間なの? って疑いたくなる。
やさぐれて、狸寝入りでもしようかと思ったけど。
何かにぶつかったような衝撃に、船がふたたび大きく揺れた。
まるで、さっきの嵐が瞬間的に戻ってきた感じ。いきなり波が荒れて、水飛沫が雨のように降ってきた。顔色を変えたキャップが、踵を返して部屋から出ていく。その間も、花火のような爆音が二度、三度と響いて船を揺らした。
「これって……」
エマの脳裏に、嫌でも蘇る先日の悪夢。嵐の再来かと錯覚したのは一瞬で、すぐに分かった。襲撃されてるって。




