29.憧れの裏側
流唯さんは、誰かに抱かれたわけじゃない。
媚を売ったって言っても、自分から擦り寄るようなことはしてないし、誘惑する言葉も言ってない。ただ詰め寄る男を受け入れただけ。それも、ギリギリのところでストップをかけてた。なんだ、これって媚を売ったとは言えないじゃん。
あとになって、次から次へと見えてくる真実。考えれば考える程、彼女が仕方なくやったんだって分かってしまう。それが全部エマのためだったっていうのに、恩を仇で返してしまった。
「……本人でも許さない? まるで誰かさんを思い出させる台詞だね」
流唯さんは口元の血を親指で拭うと、皮肉に笑ってキャップを見上げた。
「私は私だけのものだよ。何をしようと文句を言われる筋合いはないね」
「本気で言ってんのか」
「本気も何も、私がいつ君らのものになった?」
嫌な雰囲気に嫌な予感。駄目だ。これ以上険悪になったら、キャップの平手打ちがもう一発出されかねない。
「あ、あの、誤解です! 流唯さんは誰とも寝てないし、服だって、濡れたときに着替えただけでそれ以外では脱いでません!」
「じゃあ体を売って命乞いしたってのは?」
「それは例えで、流唯さん一人だったらツァルマもジェイも受け入れる必要はなかっただろうなってことで」
どうしよう。これじゃあフォローどころか逆効果だ。流唯さんの傷口に塩を塗っちゃう!
「あの、受け入れたっていうのも、言い寄ってきたツァルマたちを刺激しないようにしてくれて、親しい感じを装ってくれたっていうことで、私がいたせいで余計な気を遣わせちゃっただけなんです」
だからいつものキャップに戻ってほしいのに、鋭い目つきが変わらない。これ以上、どう言えばいいんだろう。
「私が面倒事を全部流唯さんに押しつけちゃったっていう意味で」
「もういいよ。エマちゃん」
淡々と言葉を遮られて、流唯さんを振り向いた。真っ赤に腫れた頬が痛々しい。彼女の綺麗な顔を、こんな風にしちゃいけない。
「全然良くない!」
「いいんだよ。こうなることも分かっててやったんだから」
それを聞いて、もっと顔が歪んでしまう。この人ってば、どれだけ頭がいいんだろう。パールクイーンが怒ることまで想定内?
「そこまで分かってて……、なんで私を助けたの」
エマがシーウルフの娘だから? パールクイーンがシーウルフから預かった大事な娘だから? 違う。この人はきっと、エマがただの娘でも助けてた。
「……ごめんなさい」
エマが弱いから、無力だから、優しい流唯さんは庇ってくれる。
「君らが知りたいのは、私がどこまで連中を許したかでしょ? ヘブンズノックではツァルマにキスされただけだよ。それ以上のことはしてないし、ほかの奴とは何もない」
彼女の言葉を聞いて、キャップがふたたび歩み寄った。エマが止めに入る間もなく、二発目の平手が流唯さんを襲った。倒れ込んだ流唯さんに、キャップは胸倉を掴んで顔を寄せ、凄みを利かせて畳みかけた。
「バレたら殴られれば済むと思ったか。お前のそういうところがむかつくんだよ」
「……気が済むまで、殴ればいい」
「それで済む問題じゃねえだろが!」
そうやってキャップの怒りを自分だけに向けて、今もエマを庇ってくれる。
「ごめんなさい! 流唯さんのせいじゃないの!」
キャップの腕にしがみついて訴えたけど、聞き入れてもらえなかった。乱暴に振り払われて、身体が崩れるように倒れ込む。その拍子に右腕を擦ったけど、痛みなんて感じなかった。
「ごめんなさい。私が悪いんです……」
絨毯に額をこすりつけて頭を下げた。自分の駄目さ加減に嫌気が差す。助けてもらったのに逆恨みして、それどころか恩を仇で返すなんて。
私、最低だ。
だから、ここで逃げちゃいけない。「お前は下がってろ」って言われて、「分かりました」って下がっちゃったら自分はクズだ。そこで下がったとしても、流唯さんはきっと怒らない。彼女なら「自分が勝手にやったことだから」って言いそうだし、ほかの人に責任転嫁なんてしない。だからって、それに甘えちゃ駄目だ。
「殴るなら……私も殴って」
すべての原因はエマだから。
エマを守った流唯さんが殴られるなら、同じだけエマも殴られるべきだ。
そう思うのに。
「……もういい。お前ら三人とも下がれ」
キャップは顔を歪めて吐き捨てると、立ち上がって背を向けた。銀は無言で流唯さんに右手を差し出す。気づいた流唯さんはかすかに微笑んで、その手を掴み取った。彼の支えを借りて立ち上がった彼女は、顔の原型がなくなっていた。それでも、彼女はエマを気遣う。
「エマちゃん。大丈夫?」
敵船にいたときも、何度も聞いた言葉だった。
「大丈夫じゃないのは……流唯さんじゃん」
なのに、彼女は微笑む。
「右手、擦り剝いてるよ。源じいに手当てしてもらいなね」
一言でも、罵ってくれればいいのに。役立たずでも、迷惑でも、言ってくれれば、堂々とその罪を自分のものにできるのに。
「ごめんなさい」
謝ることしか、エマにはできなかった。
これじゃあ駄目だ。強くそう思うのに、どうしたらいいのか分からない。
とぼとぼと部屋に戻ったら、ジュリとセスがまだ起きていた。
彼らは、エマの赤く腫れた目を見て、一瞬眉を上げる。
「キャップに怒られたのか?」
意外そうに声をかけてきたセスに、頭を振った。
怒られたんじゃない。逆なのだ。
「掴まったのが怖かったんだろ」
安心して泣いたんだろうというジュリの言葉に、顔が歪む。
怖かった。エマはただ怖くて、怯えていただけ。
「ジュリも……、セスも……、迷惑かけてごめんなさい」
深々と頭を下げてから、自分のスペースに入った。
ベッドにうつ伏せで倒れ込むと、枕に顔を押し付ける。
声を殺して、また泣いた。泣くしかできない自分が嫌だった。でも、心のどこかでは、だから言ったじゃんって、訴える自分がいる。海賊の娘だからって、同じ海賊になれるわけじゃない。これはなるべくしてなった結果なんだって。
だったら強くなればいいなんて、簡単には思えない。パールクイーンの中で最弱と言われるキャルだって、ほかの海賊に比べたら強い方だ。彼のレベルまで剣の腕を上げるとなったら、一体どれだけ時間がかかるんだろう。
きっと、一生無理だ。
そう考えたら、できることなんて何もない気がした。結局、自分は場違いでしかない。今さらだけど、陸の生活に戻りたかった。
所詮、女が生きられる場所じゃないんだよ。
投げやりに思って、脳裏を流唯さんがよぎった。あの人は別だ。女は女でも、別格だから。流唯さんみたいな人なら、きっとどこでもやっていけるよ。
でも……、流唯さんも、楽に生きてるわけじゃない。
彼女の腫れた頬を思い出して、エマは起き上がった。
カーテンをめくって自分のスペースを出ると、そのまま部屋を出る。ジュリとセスは、こっちを見ただけで、何も言ってこなかった。
階段を下りて、食堂に向かう。食事時には賑わうそこも、今はしんと静まっている。大きな長テーブルの脇を通って厨房を覗くと、コックの翔を探した。深夜だから、部屋に戻って寝ているかもと思ったけど、彼はまだ起きていた。エマに気づくなり、体を起こして目を丸くした。
「ひでえ面してんなー。どうしたんだ?」
顔のことを言われて、思わずたじろぐ。言われなくても、お化けみたいな顔だってことくらい分かってる。でもこれは泣き腫らした顔だから、今だけで普段とは違うからって、開き直った。
「……氷」
「ん?」
「氷、分けてもらえないかな」
意を決して言うと、翔はため息をこぼした。
「お前もか」
「……え?」
意外な言葉に、今度はエマが目を丸くする。
自分のほかにも誰かが氷をもらいに来たらしい。それが誰かは、すぐに分かった。
「もしかして、流唯さんも?」
「まあな。もらいに来たのは銀だけど。使うのは多分流唯だろ」
どうせあいつがキャップに殴られたんだろうと、呟いた翔に驚いた。彼は全部お見通しだった。
「銀の野郎、せっかく人が気持ち良く寝てたってのにお構いなしだ。流唯のこととなると本っ当見境がねえんだから」
翔は、愚痴をこぼしながら砕いた氷の残骸をまとめていた。それを布巾で包んで巾着のように縛ると、エマにくれた。
「ほらよ」
「……やっぱいいや。流唯さんに持って行こうと思っただけだから」
「ついでにやるよ。お前のその目も冷やした方がいいだろ」
「……ありがとう」
彼に言われた通り、おずおずと受け取った氷を瞼に当てた。ひんやりとした氷が気持ち良くて、腫れに効いている気がする。冷たい感触にしみじみ浸って、思わず自嘲した。
流唯さんのために氷をもらいに来たのに、結局は自分が使ってるなんて。
「私……、足手まといだよね」
何の役にも立てないどころか、お荷物だ。
同じ女でも、流唯さんとは全然違う。
「こんなことなら、少しでも剣を習えば良かった。流唯さんみたいになれなくても、せめて自分の身くらい守れるようにしとくんだった。逃げてばっかりじゃなくて、流唯さんみたいにちゃんと解決策を考えるべきだった」
今まで、ずっと逃げていた。海賊から逃げて、海から逃げて、しがらみから逃げて、ずっと現実から逃げていた。問題に直面した時、ちゃんと向き合っていれば良かったのに。その都度きちんと考えて、解決していたら今は変わっていたかもしれない。逃げることしかしなかったから、ほかのことが何もできなくなったのだ。
「馬っ鹿じゃねえの」
感極まって込み上げていた涙が、無遠慮な翔の声で引っ込んだ。
「お前が足手まといなことくらい、みんな知ってるっつーの」
ぶっきれぼうに吐かれた言葉が、ぐさりとエマの心に突き刺さる。
「丸腰で船に乗り込んだ小娘が、いきなり戦えるなんて誰も思っちゃいねえよ。そんなの鼻から期待してねえし、自分らと同じように戦ってほしいなんて思う奴もいねえって」
ぐさりと、エマの心に突き刺さる。
「今回は、お前を海に落としちまった俺らの落ち度だ」
どうせ私なんて、と思いかけたエマは目を瞬いた。
見上げた先で、翔が憤然と言葉を続けた。
「億の賞金首が揃いも揃って情けねえ。小娘一人守れねえで、何がパールクイーンだ。名前に胡坐を掻いてた証拠だな。ちっとも成長してなかったってことだ」
彼は、今回のことをエマのせいではなく、自分たちのせいだと認識していた。だからキャップもエマを叱らなかったんだろうか。
「ま、そういうわけで、お前を責める奴は誰もいねえよ。無理して鍛える必要もねえし、お前はお前でできることをすりゃあいいんじゃねえの? 剣を持って戦うだけが全てじゃねえだろ?」
自分なりに締め括って、翔は大きく伸びをした。
「んじゃ、俺はもう寝るぜ。コックの朝は早えんだ。そろそろ寝ないと寝る時間がなくなっちまう」
そう言って、だるそうに厨房を出ていく。彼の背に向けて「おやすみなさい」と言おうとしたとき、ふと彼は立ち止まった。
「それとよ」
「うん?」
顔だけ振り向いて、翔は言った。
「流唯さん流唯さんって言うけど、あいつはお前が憧れるような女じゃねえぜ。憧れってのは、羨ましいとか自分もそうなりたいって思うことだろ? 少なくとも流唯は、人が羨むような人間じゃねえから」
静かな声で呟くように言って、彼は今度こそ自分の部屋に戻っていった。
一人残ったエマは、しばらくその場から動けなかった。
いつもは温かく感じるランタンの灯りが、今はなぜか冷たく感じる。静まり返った厨房に一人でいるせいかもしれない。今になって深夜だったことを思い出し、カウンター越しに見える真っ暗な食堂が不気味に思えた。
手に持っていた布巾の包みから、氷が溶けてぽたぽたと垂れている。それを流しで一旦絞り、また瞼にそっと当てた。
「冷た……」
これ以上持っていると、指の感覚もなくなりそうだ。
それでも手放す気にはなれなくて、ずっと持っていた。瞼を冷やすと同時に、頭も冷やしたかった。だけど氷が完全に溶けると、布巾が温くなってきた。そのころには瞼もすっかり冷たくなっていて、エマはランタンを消して厨房を出た。
通路を歩いていくと、流唯さんと銀の部屋の前で一度止まった。ドアは閉められていて、話し声も聞こえない。時間も遅いし、もう寝たのかもしれない。エマもそろそろ寝ようと思って階段を上がったけど、なんとなく気分が晴れなくて自室を通り過ぎた。
甲板に出ると、夜の潮風が吹き抜けた。波は穏やかで、静かな夜だ。空もすっきりと晴れていて、小さな星粒がよく見える。もっと風に当たろうと舷側の方へ行くと、上甲板に人影が見えた。手摺りに寄りかかって両腕を組み、船の前方をじっと見つめている人がいる。背格好からもしやと思ったけど、月明かりで顔が見えて確信した。銀だ。
彼は、難しい顔で海を見つめていた。一人で、何か考え事をしているみたいだ。それは多分、流唯さんのこと。
たっぷり時間をかけて迷ってから、エマは動いた。そろそろと梯子を上って上甲板に行くと、銀が無言でこっちを向いた。じろりと彼の目が動いて、そのまま梯子を下りたくなった。それを寸でのところで押し留め、エマは上甲板に足をつけた。銀は何も言わず、すぐにまた前を向いた。視線の先には、灰色にくすんだ船首像がある。
エマは、彼から少し距離を開けて隣に座った。
「……流唯さんは?」
そっと窺ってみると、銀は前を向いたまま答えた。
「寝てる」
「ほっぺた……大丈夫だった?」
「ああ」
「……そっか」
相変わらず、会話が続かない。でも今は、いつもの気まずさを感じなかった。夜のせいか、波の音が聞こえるせいか、沈黙の時間が穏やかに流れていく。
「銀は寝ないの?」
「俺は見張りの当番だ」
「あ、だから見晴らしがいいここにいたんだね」
てっきり、船首像の近くだからかと思ったけど。
だって船首像は、流唯さんの特等席だから。
「……ごめんなさい」
謝っても、銀の反応はなかった。
「私のせいだって、思ってるんでしょ?」
「……違う」
「気を遣わなくてもいいよ。本当のことだもん。私のせいで愛する流唯さんが危険な目に遭って、怒ってるんでしょ?」
半ば開き直って口調を強めたら、銀が珍しくたじろいだ。
「別に……、愛っつーか、そういうんじゃ……」
……今さら否定ですかい。というか、何? その慌てっぷり。銀って、こんなキャラだったっけ?
「もしかして……自覚ない?」
まさかね。あそこまで大っぴらに特別視しておいて、自覚がないわけないよね。
「……」
答えないのは否定ととらせてもらおう。
うん。そうだよね。さすがに自覚はあるよね。
「流唯さん、美人だもんねぇ」
「……」
「私、これ以上迷惑かけないように気をつけるから。銀のことも応援するね」
銀の大事な人を傷つけないように。優しい流唯さんを傷つけないように。そして自分も強くなりたいから。
「……無理だ」
「そりゃあ、何もできない私を信用できないのは分かるけど、でも恋愛のことなら協力できることもあるかもしれないじゃん」
「そうじゃねえ。応援が無駄なんだよ」
投げやりに吐かれた言葉に、エマは眉根を寄せた。
銀の口振りは、すでに結ばれるのを諦めているみたいだった。
「流唯さんのこと、好きなんでしょ?」
彼女に甘えられて、あんなに幸せそうだったのに。
ベッドが焦げたときは、鬼の首を取ったような剣幕で怒って。
ほかのみんなを出し抜いて、ちゃっかり隣の席を確保したり、落とし物のピアスをわざわざ届けに行くほど惚れてるくせに。
何? この煮え切らない感じは。
こんなに流唯さんへの愛を示しておいて、両想いを望まないなんてある? 誰だって好きな人とは結ばれたいはず。それとも、告白の勇気が出せないってこと?
納得できずに不満な顔を向けると、銀は真顔でぼそっと呟いた。
「……俺は祇利那人だ」
だから何? って言おうとしたエマより先に、彼は続けた。
「流唯は、祇利那人だけは受け入れない」




