28.女王と呼ばれる理由
流唯さんが、船長のジェイにエマの素性を明かしたのはなぜだったか。
――あなたを守るためですよ。
ヒュームの冷たい声が、エマの耳元に蘇る。
彼女がツァルマに詰め寄られて、抵抗もせずに受け入れたのは。
――シーウルフの愛娘か。いいね。その肩書きだけで興奮する。
ツァルマは最初、エマにも興味を示していた。それで怯えたら、流唯さんが彼に言ったのだ。
――死にたいの?
それは、船長の命令を守らないと罰が与えられるぞっていう忠告だと思ってた。でも本当は、手を出したら許さないっていう流唯さんからの脅しだった?
――ツァルマに従っているように見せかけて、実は彼女が彼を操っていた。
だから、ほかのクルーたちが医務室に乱入することもなかった。船長の命令は絶対とはいえ、所詮海賊は我の強い野獣の集まりだ。欲に負けて暴走する輩がいてもおかしくないのに。手当てのために医務室に来て、そのあとエマに癇癪を起こした連中だって、ツァルマが追い払った。
全部、流唯さんが想定した上でのことだとしたら。
「うあぁっ!」
耳障りな金属音と男の悲鳴に、我に返ってはっとした。
目の前で繰り広げられる光景が受け入れ難くて、うっかり現実逃避に走ってしまった。呆然と考え事をしていた間に、流唯さんは背後から襲いかかろうとした別の男も倒していた。その剣さばきの鋭さと言ったら、一瞬で空気を寸断する早業だ。振り向きざまに切りつけたんだろうけど、太刀筋が見えなかった。周りの男たちと同じ剣を持っているのに、まったく重さが感じられない。
「あー。やっぱこうなったか」
准が呑気な理由が今になって分かった。
流唯さんを捕まえたツァルマをあっさり見逃したのは、甲板にキャップたちがいるからじゃなくて、流唯さんの実力を知っていたから。
ずっと、彼女は守られてきたんだと思った。みんなに可愛がられて、癒しになっていたんだろうって。彼女を守るためにパールクイーンは自らを鼓舞し、試練を乗り越えてきたんじゃないか。その存在が支えでもあったから、彼らはあんなにも取り戻そうとしてたんじゃないかって。
でも違う。流唯さんは『女王』だったんだ。
美しくて、強い、孤高の女王。だから彼らはクイーンと呼んだ。たった九人で艦隊にも歯向かうというパールクイーン。パールクイーン=腕利きという法則が、彼女にも当てはまっていたのだ。
――私は医者ですからね。聞かずとも見て分かることがあるんですよ。
ヒュームは、最初から全部分かっていた。クルーたちが流唯さんとエマを見つけて拾ったときに。服は濡れると肌に張りつく。露わになった流唯さんの体つきを見て、ただの女じゃないことを見抜いたのだ。エマが気づいたときには流唯さんはもう着替えていたけど、グローブをしてなかったからあのおぞましい左手にも気づいただろう。ほかの人たちは流唯さんの綺麗な顔に惑わされていたけど、ヒュームは医者として彼女を診て正体に気づいたから、媚びているのも計算の内だと分かったのだ。
「すげえ! 姉さん強え!」
予想もしなかった展開に、セスも目を輝かせてはしゃいでいる。仮にも婚約者の隣で「惚れ直した!」とか言うのはどうなんだ。でもそうだよね、びっくりするよね。だってあんなに細いじゃん。腕も足も体は華奢で、顔は小さくて卵みたいだし、それで力があるなんて思えないじゃん。剣の達人だなんて想像できるわけないじゃん。
「パールクイーンでもあいつに勝てるのはキャップか銀くらいだ。その辺の力自慢なんか子どもと同じだ」
追い打ちをかける准の言葉に打ちのめされた。ツァルマが子供? 海の獣と呼ばれる海賊の中で恐れられていたツァルマが、流唯さんにとってはやんちゃ坊主にしかならないわけ?
「あの見た目に騙されて、近づいた奴はみんな同じ運命を辿る。痛い目に遭って、ようやく自分の軽はずみな行動を恥じるのさ」
いつもの自分ならざまあみろ! ってツァルマに舌を出すところだけど、声が出なかった。だってそれじゃあ……
「エマっち! 無事だったか⁉」
気づいたキャップが、にかっと笑って手を振っている。エマは准に抱えられたまま彼らのところへ行き、ようやく下ろされた。甲板につけた足が、そのままガクっと崩れそうで少し焦った。立っているだけなのに気を抜くと力も抜けて、さりげなく准の服の裾を掴んだ。准はぽんぽんってまた頭を撫でてくれて、優しさが身に染みた。さすがは良きお兄ちゃんだ。
「怖かったんだね。もう大丈夫だよ」
眩しい笑顔のミリに、曖昧な笑みしか返せない。「どこか痛いところがあったらすぐに言いなさい」って源じいが言ってくれたけど、半分うわの空だった。流唯さんを直視できなくて、違う方を向いたらそっちには銀がいるし。
「さぁて、これで全員揃ったな? 我が家に戻るぞ」
ボルボアのかけ声で、エマはまた准に抱っこされた。服を掴みつつ引っ張っていたから、エマが准を立つための支えにしていたことも気づいていたんだろう。
「しっかり掴まってろよ」
がしっと腰に腕を回されたけど、何だろうこの安心感。ときめきも戸惑いも何もない。これは本格的にお兄ちゃん決定だな。年齢の差を考えるとおじさまか迷うところだけど、ミリと同じくらいの年って考えるとやっぱりお兄ちゃんだ。
ようやくパールクイーンの甲板に足をつけると、すぐにジュリとセスが寄ってきた。
「怪我してない?」
「うん」
「手ぇ出されたりしなかったか?」
「うん。大丈夫……」
答えながら、泣きそうになる。
海に落ちてから今まで、ずっと命と貞淑の危機に直面していた。こんな恐怖は初めてで、本当に心底怖かった。これ以上の地獄なんてないってくらいの悪夢だったけど、エマは無傷だ。かすり傷ひとつ負ってないし、船医のヒューム以外の人に触れられてもいない。海賊に捕まったっていうのに、奇跡の生還だった。
流唯さんが、連中の気を引いてたから。
ヘブンズノックの甲板に出てから今まで、流唯さんとは一度も目を合わせていない。合わせるのが怖くて、彼女の方を向けなかった。知らされた現実と直面する勇気がなくて、胸の中がもやもやする。ちらっと銀を見たら、流唯さんにぴったり寄り添っていた。
心配だっただろうな。
いくら流唯さんが強くても、あんな理性の欠片もない害獣集団に捕まったって分かったら。
「各自持ち場につけ! 錨を上げろ!」
キャップの指示にクルーたちがテキパキと出航準備に取りかかり、船はゆっくりと動き出した。エマは自室に戻され、「キャップに呼ばれるまで休んでな」という准の言葉に従った。
エマ専用のスペースに入ると、ランタンの灯りをつけて力なくベッドに倒れ込む。ジゼルとミリが作ってくれた家具、お気に入りの雑貨、アクセサリー、部屋を華やかにしたくて飾ったタペストリー。ほんの二日しか空けてなかったのに、すごく久しぶりに見た気がする。お手製のクッションを抱き枕にして両手で抱え、ぎゅーっと押しつけるように顔を埋めた。
確定した事実を認めたくなくて、どこかに穴がないかと足掻いている自分がいた。本当は違うはずって。
「エマ。キャップが呼んでるぞ」
いつもであれば「ノックくらいしてよ!」と威嚇する場面で、ブランケットを頭から被りたくなった。今かくれんぼをするなら絶対に見つからない自信がある。
「どうした? 眠いのか?」
カーテンをめくって声をかけてきた准に、狸寝入りが通せたらどんなにいいか。いっそこのまま無言で無反応を貫くかと逡巡したけど、むくっと起きた。『心のもやもやはお早めに』だ。それでも船長室に向かう足は鉄のように重くて、准によけいな気遣いをさせてしまった。
「連中のところでは何もなかったんだろ?」
「……うん」
「多分話は確認だけだから、終わればゆっくり休めるさ」
積極的に話そうとしないエマを見て、疲れだと判断したらしい。准はぽんぽんと頭を撫でて慰めてくれた。あんまり優しいと本当に泣くよ? お兄ちゃん。だってエマは、みんなに優しくしてもらう資格がない。
「だいたいの事情は流唯から聞いた。大変だったな。エマっち」
キャップは、すでに流唯さんと話をしていた。エマとジュリとセスの部屋よりも広い船長室で、こんなに広いなら女性専用室を作ってくれてもいいじゃんと思ったのはもっともっと後のことだ。今は直面した問題に精一杯で、それどころじゃなかった。船長室にいるキャップと、流唯さんと、銀の顔が見れない。俯いて足元の赤黒い絨毯ばかりを見つめてしまった。
「大変て……私は何も」
「怖い思いをしたんだろ?」
そりゃあ怖かったよ。でも痛い思いはしてない。乱暴なこともされてない。体を穢されたわけでもない。ああ……、もう駄目だ。
「ごめんなさい」
目を丸くするみんなに、頭を下げた。
「私が海に落っこちたせいで、迷惑をかけて」
あのとき、もっと気をつけていれば、流唯さんだってエマを助けるために海に飛び込んだりしなかった。そうすれば、ヘブンズノックに拾われることもなかった。
「みんなに……余計な手間をかけさせて、心配かけて、足を引っ張って……」
握り締めた左手を、右手でぎゅぅっと握り締める。力を入れすぎて小さく震えたけど、放せなかった。
本当は、心のどこかで気づいていたのかもしれない。でもそれを認めたくなくて、無理に否定していた。美人で、頭も良くて、優しくて、剣まで使えるなんて、そんな完璧な人がいるはずないって。
それを認めてしまったら、独りぼっちになっちゃう気がして。弱いのはエマだけじゃない。足手まといなのは一人じゃないって思うことで、自分の立場を守ろうとしてた。
「エマちゃんは偉かったよ。連中を刺激しないよう静かにじっと堪えてた」
「流唯さんがそうさせてくれたからです」
こんなときでも、流唯さんは庇ってくれる。なのにエマは、そんな彼女を拒絶した。「二度と触るな」って突き放したのだ。どうしよう。ここで泣くのは卑怯だって分かるのに、止められない。
「私……、流唯さんが守ってくれたから……、大丈夫でした」
エマはただ怖かっただけ。怯えてただけ。
「ごめんなさい……。流唯さんはパールクイーンなのに……」
それは、パールクイーンのクルーという意味じゃない。彼女こそがパールクイーンなのだ。みんながエマを心配するのは、シーウルフの娘だから。ボルボアの実家でもあるシーウルフの頼みだったから、彼らはエマを受け入れた。
だけど流唯さんは違う。
パールクイーンは、彼女だから受け入れたのだ。その違いはとても大きい。
「みんなの大事なクイーンなのに……」
「エマちゃん。君は何も悪くないよ」
流唯さんは苦笑して擁護しようとしてくれるけど、ここで甘えちゃ駄目だと思った。だって、ちゃんと真実をキャップに伝えて、自分も叱られるべきだ。行動の責任をとって、ちゃんと誠意を見せるべきだ。
「私がいなかったら、流唯さんはツァルマを受け入れなかったでしょ? ツァルマもあそこの船長も拒まなかったのは、全部私のためだったんでしょ?」
「そうじゃないよ」
「そのはずだよ。だって剣を使える人は、身体を許してまで命乞いなんてしないでしょ?」
しかも、ツァルマたちを簡単に倒せるほどの実力だ。保身のために媚びる必要なんてどこにもない。あるとすれば、自分ではなくエマのため。ことを荒立てないよう、わざと連中を甘やかしたのだ。
「流唯さんが全部引き受けてくれたから、私は無傷で済んだんだよ」
自分で言ってて、情なくなる。できることが何もないなんて。それどころか、余計な心配かけて、迷惑かけて、こんなのお荷物以外の何物でもない。
「……そうか」
キャップの低い声が、エマの肩にのしかかる。きっと呆れられた。失望して幻滅したに違いない。もしかしたら、緊急時は外に出ないよう、自室での待機命令が出されるかも知れない。普段でも外に出ないよう、謹慎処分という可能性も――
「分かった。エマは部屋に戻っていい」
「……え?」
予想と正反対の言葉が聞こえて、思わずキャップを凝視した。すると彼は、コツコツと靴音を鳴らして流唯さんの前に立ち、真顔で彼女の頬を叩いた。
「ちょっ……!」
バチンって重い音がして、流唯さんの細い身体が横に吹き飛ぶ。直後、絨毯に叩きつけられるように倒れた彼女は、痛そうに顔を歪めて振り返った。手加減なんて一切ない、殴るのと同じ威力だ。
突然のキャップの行動に、ぎょっとして自分の目を疑った。流唯さんの頬はみるみる赤くなって、蜂に刺されたみたいに腫れていく。倒れるときに唇を噛んだのか、口元からも出血していた。
「何するの⁉」
慌てて彼女の前に飛び出して、エマは驚いた。対峙したキャップが、本気で怒っていた。一瞬で室内の季節が真冬に変わり、吹雪の前触れのような底冷えする怒りを宿し、今まさに噴火寸前といった感じで佇んでいるのだ。
「これは俺たちと流唯の問題だ。お前には関係ない」
そうですか。それでは失礼しました。って頭を下げて退室したいのをわずかな理性が引き留めた。
「なんで流唯さんが叩かれなきゃならないの?」
責められるべきなのはエマのはず。流唯さんはちゃんとエマを守ってくれた。
「殴るなら私のはずでしょ⁉」
流唯さんの前で仁王立ちしている体勢なのに、恐怖から足が内股になる。これじゃあ威厳も効果も半減だ。それでもここで退いちゃいけないっていうのは本能で感じていた。
「銀も何とか言ってよ!」
好きな人が叩かれたっていうのに、彼に助ける気配はない。それどころか彼を見た瞬間、この人もキャップと同じ感情を持ってるって気づいて身体が震えた。不機嫌を露わにして流唯さんを見下ろす彼の目は、間違っても愛する人に向けるものじゃなかった。
「……大事なんでしょ? なんで、傷つけるの?」
全身の力が抜けてへたり込みそうな身体を必死に支え、呆然と銀に問いかける。だけど彼は答えず、代わりにキャップがエマに言った。
「大事だからだ。俺たちの宝を傷つける奴は、たとえ本人でも許さない」
このとき、やっと自分の失態に気づいた。銀を見たとき胸が痛んだのに、なんで配慮できなかったんだろう。ヘブンズノックでエマのためにやった流唯さんの行為は、彼やパールクイーンを傷つけることだったのに。




