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Sinner E  作者: 藤 子
【海賊編】
31/47

25.本当のところ

「……ドクター。そこのドア、閉めてくれない?」


 そっけなく言った流唯さんに、船医のヒュームは黙ってドアを閉めた。

 すると、待ち切れなかった様子でツァルマが流唯さんに口づける。エマがセスにされたような、触れるだけのやつとは種類が違う。荒々しくしゃぶりつく様子は、本当に獣のようだった。


 悲鳴すら出なくて、息を呑む。


 なんでこんなことになっているのか、混乱した頭で必死に考えた。目を見開いて硬直するエマを完全に無視して、それどころか存在すら忘れて、ツァルマは溜まっていた欲を爆発させた。

 目を閉じて、耳を塞いで、なかったことにできたらいいのに。恋人同士で睦み合っているなら良かった。うっかり現場を見てしまったというだけで、そわそわと浮き立つ心を抑えればいい。だけど、いま目の前で繰り広げられている行為は――


 銀の顔が、頭に浮かんだ。


 流唯さんのことが本当に好きで、流唯さんを思うあまり、剥きになったり怒ったりしていた彼。いつも冷たい目つきで威圧感をまき散らしているくせに、彼女の前では別人かと思うほど穏やかに微笑んでもいた。あんなにも幸せそうに、慈愛に満ちた笑顔を向けていたのに。


 止めなきゃ。


 やめさせなきゃって思うのに、体が動かない。怖くて……、怖くて。全身が無機質な石になって、エマの意思に従わなかった。濃厚な口づけを続けながら、ツァルマの右手が流唯さんのシャツをめくり上げる。


 ……え?


 上半身に巻かれていたものが見えて、目を瞠った。白いそれは、包帯かと思ったけど、よく見ると違うっぽい。多分あれは、さらしだ。

 以前、一緒に街に出て買い物をしたときに気づいた流唯さんの謎。胸がぺったんこで、どうなってるんだろうと不思議に思ったそのわけは、さらしで潰していたからだったのだ。


「なんだよ、これ」


 胸に触れようとしたツァルマが、思わず行為を中断して顔をしかめる。きつく巻かれたさらしを強引に剥ぎ取ろうとしたけど、それを流唯さんが止めた。


「ここまでってことだよ」


 くすりと笑って、まくられたシャツを元に戻す。


「ふざっけんなよ。ここまでやっといて寸止めなんかできるわけねえだろ⁉」

「代償は十分払ったよ」

「なあ、いいだろ? 一回くらい」


 諦めきれずに抱き着くツァルマに、流唯さんはほんのりと上気した頬を緩めた。


「これ以上やったら本当にヤバいことくらい、分かるでしょ?」


 子どもを叱る母親のように、優しい口調。ツァルマが不満げに唇を尖らせる。そしてじれったそうに下半身を流唯さんにこすりつけると、またねっとりと口づけた。これっきりだと分かって、止められなくなったらしい。粘っこい水音と乱れた息遣いが辺りに響いたけど、しばらくしてツァルマが切なそうな喘ぎ声を上げた。


「くそっ」


 自ら中断して離れると、背中を丸めて小走りで部屋から出ていく。

 流唯さんは口を拭うと、開け放たれたドアを閉めた。


 カツン――と、近づく靴音に、エマの肩が飛び跳ねる。


「……幻滅した?」


 かけられた声は、いつも通りの優しい声で。

 顔が歪んだ。


「……なんで?」


 なんで、こんなことを。

 ツァルマに詰め寄られた流唯さんは、全く抵抗しなかった。拒絶も、助けを乞うこともない。それどころか嫌そうな素振りも見せず、当然のように受け入れた。


「船長はクルーたちに手を出すなって言ってた。それなら拒めたはずなのに!」


 平然とできる神経が分からない。このことを銀が知ったら、どんなに傷つくか。


「本気で言ってるんですか?」


 責め立てるエマに、声をかけたのはヒュームだった。


「なぜ彼女が奴を拒まなかったのか、分からないんですか?」


 分からないから聞いてるんじゃん。って、苛々しながら彼を睨む。この人も、流唯さんとツァルマが目の前でじゃれ合ってるってのに、顔色ひとつ変えなかった変人だ。話したところで、分かり合えるとは思えない。そんなエマの心を読んだのか、流唯さんが彼に釘を刺した。


「ドクター。余計なお世話。それよりタバコ持ってない?」


 彼女の飄々とした様子に、ヒュームは呆れてため息をついた。


「ここは禁煙ですよ」

「海賊船に禁煙エリアなんてあるの? ニコチン切れで死にそうなんだけど」

「仕方ないですね……。メーカーの文句は言わせませんよ?」

「もちろん、吸えれば何でもいいよ」


 引き出しから出されたタバコを受け取った流唯さんは、上機嫌で口に咥えた。何事もなかったかのように、しみじみと味わって煙を吐き出す彼女に、正気なのかと疑いたくなる。


 結局、この人も自分が大事なんだ。


 そう思うと、心の何かが壊死して、ボロっと崩れ落ちていく感覚がした。

 男だらけの海賊に女が一人なんて、すごいと思った。格好いいと思った。ばば様みたいな強い女性に出会えて、嬉しいとも思った。けど、なんてことはない。彼女はその容姿で男を(たぶら)かしていただけだった。パールクイーンに愛されながら、パールクイーンの知らないところでこうやって裏切っていたんだ。


 もしかしたら、この人はパールクイーンのみんなとも……。


 まさかと思いながら、否定できない自分がいた。ボルボアや銀と、実はそういう関係だったとしたら。だって、こんなに綺麗な人と一緒にいて、何もない方がおかしいと思う。長い禁欲生活をしている男にとって、目の前に女がいるってだけでも試練になるのに。いくらパールクイーンでも、健全な男が女と過ごして、手を出さないなんてできるだろうか。普段は我慢できたとしても、酒に酔って箍が外れることだってあったかもしれない。

 考えだしたら止まらくなって、まともに彼女を見れなかった。もう話もしたくなくなって寝台の隅に縮こまったけど、生きている以上は生理現象というのがあるわけで。


「…………あの」

「なんですか?」


 言いづらい。ここから出たくない。でも我慢はできない。


「トイレ、行きたいんだけど……」


 何も悪いことはしてないのに、なぜか自分を責めたくなる。なんでこんなときに限ってこの身体はトイレを欲するのか。出るもんは出るんだからしょうがないじゃんと思いながらも、自己嫌悪に陥った。


「……では、ツァルマが戻るまで待ってください」


 ヒュームの冷静な言葉に、仕方なく頷いた。付き添いに名乗りを上げた流唯さんは、彼に冷たく却下された。流唯さん本人が良くても、周りが良くない。女二人でうろついていたら、人質の意味がないし、確実に襲われる未来が見える。だから却下されたのだと分かったけど、内心ではほっとした。正直、流唯さんとも一緒にいたくなかった。


 そして、ここにきて、改めて思い知らされた事実がある。それは、常に整然としているパールクイーンは、あくまでも例外だっていうこと。

 ヘブンズノックのダークネスルージュ号は、一見どこにでもある海賊船のようで、船内は幽霊船と見間違えてもおかしくない状況だった。何が入っているのか分からない樽や木箱がそこかしこで散乱し、壊れて板が折れている箱がそのまま放置され。目につくロープには着替えなのか洗濯物なのか分からない衣類が雑然と干され、ジメジメ感もごちゃごちゃ感も半端ない。雨期の男子学生の寮を覗いたような気分だ。それだけならまだ可愛げがあるけれど、物騒な銃とか剣までその辺に転がっていたりするもんだから、呆れだけで流せない。

 やっとの思いでトイレに着くと、白く泡立つ波が丸見えの穴を見て「うわ、エマニエル号と同じだぁ……」とドン引きした半面、この穴から船の外へ逃げられたらどんなにいいだろうと本気で思った。


 だって、移動のときに向けられたクルーたちの目。医務室にいるときは何とか耐えられたその目が、一歩部屋の外に出た途端、耐え難いものに豹変した。


 パールクイーンでは『小娘』や『子ども』としてしか見られなかったエマが、『女』として見られているということ。


 普段なら嬉しいことだけど、ここではちっとも喜べない。露骨に向けられてくる彼らの視線が、嫌でもそれを物語っている。今のところ、船長命令に逆らってまで欲求を叶えようという人はいないけど、それも時間の問題に思えた。これじゃあ逃げるなんて不可能だ。一人で医務室を出たら最後、待ってましたとばかりに飢えた野獣たちの餌食にされる。切迫した性欲を抱える彼らは、何かにつけて医務室の周りをうろうろしている。そんな連中の目を盗んで逃げ切れるとは思えないし、逃げたところで周りは海だ。最後は掴まり、よってたかって嬲り者にされるのがオチだろう。となると、隔離されたこの医務室で大人しく助けを待つより手立てはなかった。


 みんな、心配してるだろうな……。


 船窓から外を眺め、気を紛らわそうとパールクイーンのことを考える。エマのことを探すミリの顔が頭に浮かんだ。きっと、必死になって探してくれてる。ジュリも、セスも。船長になるための婚約者っていう(よこしま)な心があったとしても、それでもあの二人なら心配してるだろうなって思う。


 私はここだよ。


 海しか見えない窓を見つめて、強く願った。早く見つけて。早く助けて。一分でも一秒でも早く、この地獄から抜け出したかった。パールクイーンのみんなに会って、安心したい。安心させたい。

 なのに流唯さんはというと、見張りのツァルマとすっかり打ち解けて、仲良く談笑したりして。こんなときに、楽しそうに笑える神経が分からなかった。


「今夜、ジリ港でパールクイーンと落ち合う」


 知らせに来た船長のジェイは、言いながら流唯さんの腕を掴み寄せた。彼女はやっぱり平然としていて、動揺する気配もない。それどころか素直に抱きしめられて、艶のある微笑を浮かべていた。


「それじゃあ今夜でお別れだね」

「みすみすやられはしねえさ。俺たちだって、それなりに名の知れた海賊なんだぜ?」


 目の前でイチャつく二人を見て、ツァルマが動じることもない。相手が船長だからなのか、ジェイの言葉に同意を示して不敵に笑っただけだった。嫉妬なんてものはない。

 この時点で、エマは気づいた。そもそも、最初から彼らの間に恋愛はなかったのだ。ツァルマは、ただ性欲を満たしたかっただけ。流唯さんも保身のために受け入れただけ。だから流唯さんがジェイとイチャついたところで、ツァルマが怒ることもない。むしろ、手出しは厳禁と言われた中でいい思いをしたツァルマは、見張りになれてラッキーとすら思っているかもしれない。昨日知り合ったばかりで恋愛が芽生えないのは分かるけど、欲のためにそこまで割り切れる彼らは、エマにとって違う種類の生き物だった。


 でも別に、それならそれでいいと思った。相変わらず寝台の隅で丸くなり、ブランケットを握ってじっとしているエマを、気にかける人はいない。ツァルマやジェイは流唯さんに夢中で、流唯さんも彼らとばかり仲良くして、エマに声をかけることもない。エマとしても、彼らに混じって和めるとは思わないし、忘れられてるならそれでいい。部屋のドアさえ開かなければ、飢えた連中の顔を見ることもないし、大人しくじっとしていれば安全は確保できた。時々、船医のヒュームが食事を運んでくれたり、診察で声をかけてきたけど、最低限の言葉しか交わしていない。ヒュームは人に興味がないのか、エマがダンゴムシのように丸まっていても、流唯さんたちが濃厚な空気を漂わせても、淡々と薬品作りに没頭していた。自分の仕事を邪魔されなければ、周りはどうでもいいのかもしれない。


「それ、マクリ?」


 ふと、流唯さんに声をかけられた彼は、別人のように目を輝かせていた。茶色い枯れ枝のような海藻を正確に言い当てた流唯さんに、ヒュームは趣味を共有できる相手だと認定したんだろう。虫下しとしてよく利用されるマクリについて、効果的な摂取方法からその他の効能まで専門的な話題を持ち出し、尽きることなく語っていた。海洋薬学に対する情熱が凄まじい。一言で言うなら海洋オタクだ。


 みんな、変人ばっかり。


 まともな人なんて一人もいない。今ごろパールクイーンのみんなは心配しているはずなのに、敵に捕まって和気藹々と和んでいる流唯さんも、エマにとっては敵と同類だった。信用できない対象だ。


「薬を作ってるときはタバコをやめてください」

「手伝ってあげてるんだから見逃してよ」

「繊細な作業にタバコの匂いは厳禁なんです」

「自分だって吸ってるのに」

「作業中は吸ってません」


 じゃれ合っているように見える二人のやり取りに、ツァルマが声を出して笑っている。知らない人が見たら、みんな仲間だと思うだろう。人質なのはエマだけで、流唯さんは彼らの一味に見えると思う。それくらい彼らの空気は和やかで、返ってそれが異様だった。


「ジリ港に着いたぞ。人質は甲板に出ろ」


 待ち侘びていた言葉が聞こえると、エマは勢い良く顔を上げた。現れた幹部の男が、ずかずかと医務室に入ってくる。船長のジェイが初めて医務室に来たとき、取り巻きとしてツァルマと一緒にいた男の一人だ。岩みたいに横も縦も大きい禿げ頭の男だった。


「来い」


 乱暴に腕を掴まれて痛かったけど、声が出ないように我慢した。ここで叫んでも、優しくしてもらえるとは思えなかった。


「いよいよだな」


 通路ですれ違った男が、下卑た笑いを浮かべてぼそっとつぶやく。いよいよ戦いが始まるって意味だったのか、それともパールクイーンを倒したら人質を好きにできるっていう意味だったのか、真意はエマには分からない。

 こみ上げる嗚咽を必死に堪え、エマは無言で歩いた。

 薄暗い通路から甲板に出て、目に入ったのは炎の明かり。思った以上に明るくて、一瞬眩しさに目を細めた。だんだんと慣れてきて、次に見えた光景に背筋が震えた。ヘブンズノックのクルーたちが、甲板に勢揃いしていたのだ。海賊って、なんでこんなに人相が悪いんだろう。傷とか汚い以前に、顔の作りが怖すぎる。みんな目つき悪いし、姿勢悪いし、笑い方怖いし。

 足が竦んで立ち止まったエマを、幹部の男が急き立てる。


「止まるな。歩け」


 強引に腕を引っ張られて、足がもつれてしまった。崩れるように転んだエマに、周りの男たちから冷やかしの声が上がる。歯を食いしばってそれを耐え、エマは立ち上がった。前を歩いていた流唯さんが気づいて、「大丈夫?」って声をかけてくれたけど、答える気にはなれなかった。わざと目を合わせないようにそっぽを向いたら、その先に大きなマストが見えた。


 パールクイーンだ!


 港に行くって言ってたから、てっきり陸でやり取りをするのかと思ったけれど違うらしい。ダークネスルージュ号も、パールクイーン号も、お互い浅瀬で平行するように停まっていた。

 甲板に出て、船のちょうど真ん中辺りまで来ると、パールクイーン号がよく見えた。その甲板には、人の数が十一人。ジュリとセスも入れて、パールクイーン全員だ。松明の明かりに照らし出された彼らの姿に、堪えていた堰が決壊した。


「みんな! ごめんなさい!」


 張り詰めていた糸がぷつりと切れて、視界が歪む。次から次へと溢れ出す思いが涙となって、止められなかった。


「ごめんなさい!!」


 エマのせいで、迷惑をかけた。攻撃を受けたとき、すぐに部屋に入れば良かった。戦えない自分は邪魔でしかないんだから、終わるまで船内に避難するべきだったのだ。突然の攻撃に混乱したとはいえ、外でぼーっとしている場合じゃなかった。


「私のせいで……」


 うっかり海に落ちなければ、こんなことにはならなかった。


「大人しくしろ」


 苛立つ男にナイフを突きつけられて、息を呑む。こんな姿を見せたらますますみんなに迷惑をかけるって気づいて、自己嫌悪した。


「ごめんなさい……」


 ナイフを持った男じゃなくて、パールクイーンに対して謝罪した。自分が弱いから、しっかりしてなかったから、今の事態を招いたのだ。本当に申し訳ないと猛省すると同時に、どうか助けてと懇願する。助けを乞うしかできない自分が情けなくて、みっともないけど、ほかに方法はなかった。

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