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Sinner E  作者: 藤 子
【海賊編】
30/47

24.突然の敵襲

 目が覚めたときも、正気に戻るまで時間がかかった。

 ぼんやりと視界に映ったものをただ眺め、頭は完全に混乱していた。


 何が起きたんだっけ?


 ようやく状況を掴もうと頭が働き始め、顔を動かしたエマに近くで誰かが声をかけた。


「気づいた?」


 流唯さんだった。


「あれ……、私……」

「海に投げ出されたんだよ」


 彼女の言葉に、ようやく気絶する前のことを思い出した。確か、急に船が大きく揺れて、頭上から砲弾の雨が降ってきたのだ。水飛沫で揺れた甲板はつるつる滑り、しかも船が揺れて傾いたから、エマの体は重力に従って下へと落ちた。一度は流唯さんに助けられたけど、結局次々と襲いかかる衝撃に持ちこたえられず、エマは海に落ちたのだ。

 そして、今こうして薄暗い病室に寝てるということは、溺れ死ぬ前に救い出されたらしい。しかし見覚えのない部屋だ。自分の部屋じゃないにしても、流唯さんの部屋でもない。薬の瓶がぎっしりと詰め込まれた棚が見えるけど、パールクイーンの病室でも源じいの部屋でもなかった。


「ここは……? パールクイーン号じゃないよね?」


 その結論に至って、ぼーっとしつつも聞いてみると、流唯さんは真顔で静かに答えた。


「ダークネスルージュ号。ヘブンズノックの海賊船だよ」


 さっと、血の気が引いた。

 海賊というのは、基本的に群れを成さない。ひとたび海に出たら、ほかの船はみんな敵だ。同じ傘下に入っている同士でも、気に入らないことがあれば躊躇なく襲い合うような集団もいる。

 この、ヘブンズノックという海賊は、もしかしたら……


「それって……、私たちを襲った海賊?」

「違うけど、心配ないよ。さっき船長の男と話はつけたから」


 エマの心配を察した流唯さんは、穏やかに微笑んでそう答えた。彼女の話では、あの襲撃で海に投げ出されたあと、潮流に流されて船から離れてしまったらしい。最悪このまま漂流して溺死か餓死かという状況で、たまたま通りがかった別の海賊に発見され、拾われたということだけど。

 拾ってくれたのが海賊では、素直に喜べないのが本音である。


「近くの陸まで送ってくれるってさ。悪い連中じゃなくて良かったよ。それより気分は? 大丈夫?」

「うん……。少し喉が痛いけど」

「海水を飲んだせいだね。ドクター!」


 戸惑うエマとは逆に、流唯さんは落ち着いていた。彼女は立ち上がって近くのカーテンをめくると、隣室にいたらしい船医に声をかけた。


「彼女、喉が痛いらしいんだ。ちょっと診てくれる?」

「気がつきましたか」


 だるそうにカーテンをくぐって現れた男は、丸い銀縁の眼鏡をかけた神経質そうな男だった。長く伸びた髪を後ろでひとつにまとめ、腕を組んで小首を傾げる様子は、ちょっと病的に見える。切れ長な細い目に生気はなく、顔からは感情が削げ落ちているようだった。

 彼は、ギィっと音を立ててスツールに座ると、怯えるエマをじいっと見つめた。


「口を開けて。あーと声を出してみてください」


 そう言われても、素直に聞く気になれなくて、思わず流唯さんを振り向くと、彼女は無言で小さく頷く。大丈夫だから、という声のない言葉が聞こえてきて、エマは恐る恐る従った。


「……あー」

「はい。いいですよ。少し海水を飲んだようですね。気分はどうですか?」

「あ、喉の痛み以外は特には……」

「薬湯を出しましょう。顔色もいいし、外傷もないから、すぐに良くなりますよ」


 思いがけず、的確な言葉を返されて驚いた。相手は海賊だし、隙を見せたら襲われるんじゃないかとか、何か脅されるんじゃないかと思っていた予想があっさり外れた。不気味そうな見た目に反して、案外まともなお医者さんだ。


「ありがとうございます」


 印象を改めて素直に感謝を告げると、彼の片眉がわずかにぴくりと反応した。


「お礼なら、彼女に言うんですね」


 そう言って、冷めた目を流唯さんへと向ける。


「うちの野郎どもからあなたを守って、体を拭いて着替えもやってくれたんですから」

「流唯さんが?」

「実に的確な判断でした。濡れたままでは体温も奪われるし、時間が経つと海水が乾いて肌が痛みますからね」


 淡々とした口調で褒める医者に、流唯さんは肩を竦めただけだった。


「当然のことでしょ」


 けろっとした様子で、彼女は大したことはやっていないと言い切る、けど、エマにとっては一大事だ。


 流唯さんに裸を見られた? 体を拭かれた⁉


 激しく動揺したものの、流唯さんは気にせず医者の男と話を進めた。


「よもや数か月も漂流していたとは思えませんが、あなた方はご自分がどれほど海を漂っていたかご存知ですか?」

「一日だよ」

「その前は陸に?」

「海。ジリ港に寄る予定だったんだけど、その前に海賊とドンパチやってね。で、海に落ちたわけ」

「噂によると、パールクイーンのクルーだと聞きましたが」

「この子は預かりもので、私は居候」


 会話を遮ってまで騒ぎ立てる勇気はなく、エマはじっと動揺をこらえた。しかし、女同士なのにこうも恥ずかしく思うのはなぜなんだろう。


「なるほど。彼女を庇ってあなたも共だったわけですね。それで、パールクイーンでの食事はいかがでした? しっかり摂れていましたか?」

「充分すぎるほど。肉でも果物でも山ほどあったよ」

「では、栄養の方も大丈夫そうですね」


 これまでの経緯と状態を把握した船医は、浅く何度か頷いて、だるそうにスツールから立ち上がった。見るからにやる気がなさそうだけど、やるべきことはきちんとやってくれるタイプらしい。


「特に問題はないと思いますが、念のため今日一日は休んでくださいね」

「あ、はい」


 念を押してくる彼に、エマは素直に頷いた。すると、船医の目が心なしか鋭くなって流唯さんへ移る。


「あなたもですよ」


 気分が悪くなったらすぐに教えるようにと、声をかける彼に、流唯さんは聞く耳を持たなかった。


「おい。流唯ってのはどっちだ? 船長がお呼びだ」


 見知らぬ男がノックもしないで入ってくると、彼女は船医を無視してエマに言った。



「ちょっと出てくる。エマちゃんは休んでて。ここにいる限りは安全だから。医務室からは絶対出ないこと。野獣の餌食になりたくなかったらね」


 いつになく真剣に詰め寄られ、うっかりでも嫌とは言えない雰囲気だった。もちろん彼女の言葉が脅しではなく事実だと分かるので、エマも逆らうことはしない。大人しく言われた通りに「休んでるよ」と答えると、流唯さんはかすかに微笑んで部屋から出て行ってしまった。

 音を立てて閉まったドアを、見つめるしかできないのが情けない。でも、だからって流唯さんみたいに動く度胸はないし、言いつけを破ることもできなかった。


「問題は彼女ですね」


 小声でぼそっとつぶやいた船医の言葉が、エマの耳に真っすぐ届く。


「流唯さんがどうかしたんですか?」


 気になって尋ねたけど、彼は無表情でエマを見つめた。


「……私の口から言えることは何も」


 その言い方がやけに引っかかって、もっとよく聞こうと身を乗り出したけど。


「ヒューム。なんか気分が悪いんだ。ここで休ませてくれよ」


 男が一人、言いながら入ってきた。そしてエマを見るなり、にやりと笑う。


「お嬢ちゃんも気分が悪いのかい?」


 言葉とは裏腹に、目が獰猛な光を宿していた。獲物を前にして、舌なめずりをするように、口が開く。目を逸らした瞬間に襲われそうな気がして、身動きが取れなかった。一歩、こっちに向かって男の足が動いたとき、無意識に息を呑んだ。その男の襟首を掴み、ヒュームが通路へ追い払う。


「何しやがる!」

「ナンパをする元気があるなら持ち場に戻りなさい。それとも本当に気分が悪いんですか?」

「悪いからここに来てんだろうが⁉」

「ならよく効く飲み薬を出しましょう。はい。お大事に」

「それより俺は休ませろって言ってんだよ」


 ヒュームと男が薬の小瓶を押しつけ合う間にも、ドアが開いた入口には何人もの男の姿が見えた。人間の姿をしていても、同じ人間とは思えない。飢えた猛獣そのものだ。彼らの視線は全てエマに向けられていて、餌食になるのは時間の問題だった。


「女がいる」

「若い女だぜ」


 聞こえてくる下卑た声に、心臓が握り潰されそうな気分になる。目の前であからさまに腰を振る男がいて気持ちが悪い。連中は落ち着きなく身体を揺らし、今にも涎を垂らして襲いかかりそうだった。それを寸前のところで食い止めているのは、たった一人の船医である。


「怪我人以外は立ち入り禁止。船長にも言われたはずですよ」


 丸縁の眼鏡を鋭く光らせ、連中の前に立ちはだかっている。最初は怖いと思ったけど、今はこの人にすがるしかなかった。

 流唯さんがいなくなってしまった以上、頼れそうな人はほかにいない。


「俺は怪我人だぜ! 診てくれよ!」

「俺も怪我した! 入れてくれ!」


 一人が腕を突き出して主張すると、我も我もと声を上げる。どうにかして医務室に入ろうと口実を作る連中に、船医は目を据わらせてメスを取った。


「私のために検体になってくれるというなら歓迎しますよ」


 薄っすらと笑みを浮かべて詰め寄る彼に、クルーたちの温度が一気に下がる。


「な、なんでもねえよ。気のせいだったみてえだ」


 怖気づいた何人かが顔を引きつらせて後ずさったけど、その隙間を通って進み出る男もいた。


「女を乗せといて見世物にする気かよ! 船長は一体何を考えてんだ!」

「そうだ! 自分だけいい思いするなんてずりいぞ!」


 喚き散らす連中を前に、船医の彼が笑みをしまう。真顔で何かを言いかけたとき、通路の方がざわついた。


「それ以上ヒュームを挑発するな。船内が血の海になるぞ」


 張りのある声がして、男たちが振り返る。その先に現れた人物を見て、連中は一気に浮足立った。流唯さんがいたからだ。


「遅いですよ」


 ため息をこぼした船医に、一人の中年男が歩み寄る。ドレッドヘアーに無精髭を生やした垂れ目が渋いおじさまだ。余裕のある笑みを浮かべて数人の男を引き連れている様子を見ると、多分この人が船長だろう。


「むやみに女を歩かせないでください。クルーたちを刺激します」

「ブラッドにも言われたよ。だがお嬢さんたちに立場を弁えてもらうためにも、船内を見せておいた方がいいだろう?」


 低く笑い、その目が流唯さんへと向けられる。逃げないようにと周囲を男たちに囲まれていた流唯さんは、胸元で腕を組んで淡々としていた。心中はどうか分からないけど、これほど危機的な状況でも冷静でいられる彼女はやっぱりさすがだ。


「逆の立場も考えてください。この五分間にどれだけのクルーが彼女を見たか。餌を見せつけてお預けでは、船長の士気が下がりますよ」


 怒りが冷めずに詰め寄る船医に、船長はおざなりに手を上げてなだめた。


「分かった。気をつけるよ。――で、そちらのお嬢さんはどうなんだ?」


 不意に話題を振られて、目立たないように黙っていたエマはビクリと震えた。


「今日一日は休ませた方がいいですね」


 答える船医の話を聞きながら、船長がこちらに近づいてくる。エマは寝台の上を後ずさり、ブランケットを手繰り寄せた。


「怖がらせてしまったか。申し訳ない。私はジェイ・ドレイク。この船の船長をしております」


 柔らかい口調で、すごく紳士的な振る舞いなのに、安心できない。なんだろう、この感じ。キャップに会ったときはこんなことなかった。海賊の船長っていう先入観はあったけど、あの人のことは受け入れられた。でもこの人は――


「その柔らかい黒髪は父親譲りかな?」


 ぬぅっと手が伸びて、エマの髪を掬い取る。その瞬間、背筋が凍るような寒気がした。


「……なんで」


 なんで私がパパ(シーウルフ)の娘だって知ってるの?

 目を見開くエマに気を良くしたジェイは、エマの指に光るものを見つけてにぃっと笑った。


「いい指輪だ。そういえば、祇利那は良質なサファイヤが採れることで有名だったな」


 その言葉に、とっさに指輪をはめた手を隠した。


「どうやら本当らしい」


 エマの反応を見て確信を得た彼は、振り向いて再び流唯さんを見た。


「シーウルフの一人娘と、パールクイーンのお姫様か。現実味を帯びてきたな」

「だから最初から言ってるでしょ。本当だって」


 冷めた声で話す流唯さんに驚いた。


 流唯さんが、ジェイに言ったの? なんでそんなことを言うの?

 すでにパールクイーンの人質になってるなら、シーウルフのことまで言わなくてもいいのに。


 これで奴らは、シーウルフにも狙いをつけた。


「聞いた話によると、昨日この近くで抗争を起こしたパールクイーンは、決着が着いたあともずっと海をうろついていたそうだ。今朝にはジリ港に立ち寄ったが、特に商売もせず、酒も飲まず、とある人物たちを探していたらしい」

「それはうちらのことでしょ。だから港に送ってくれって言ったんだけど?」


 冷めた様子の流唯さんとは対照的に、ジェイの顔には笑みが広がる。


「もちろん送ってやるとも。一度はな」


 パールクイーンを手玉に取るために。

 港に行って彼らの前に彼女を突き出し、有利な立場を見せつける。そうやってパールクイーンの動きを封じた上で攻撃すれば、赤子の手をひねるも同然だ。


「せっかく手に入ったお宝をわざわざ返す馬鹿がどこにいる。その美貌と若さで死にたくないなら、大人しく言うことを聞くことだ」


 勝利を確信して笑うジェイに、流唯さんは肩を竦めた。


「人質ってわけか。まあ、そうじゃないかとは思ったけど」


 だからって反発はしない。怖がることも、泣くことも、怒ることも、まるで他人事のように感情が見えない。人質にされたっていうのに、彼女には動揺の欠片もなかった。


「お前らよく聞け! ここにいる黒髪のお嬢ちゃんはシーウルフの愛娘。金髪の別嬪さんはパールクイーンのお姫様だ! それを聞いても手を出す馬鹿野郎は始末しろ! これは我らがへブンズノックに訪れた一世一代の大チャンスだ。うまくいけば東と西の両方が手に入る。狼と女王を従えて、ヘブンズノックが上に立つのだ!」


 ジェイが入り口に群がる男たちへと声を張る。狂気の混じった演説に、連中が湧き上がった。興奮した彼らの叫びに船は揺れ、室内が地響きに包まれる。異常とも思える状況に、エマは震えた。


 ここは敵地の真っ只中。外は東西南北どこに出ても深い海。逃げる方法は何もない。


「ツァルマ。お前はここに残って見張れ。この状況でお嬢さん方が逃げるとは思えんが、念のためだ」

「分かりました」


 取り巻きの一人に命令した船長は、もう用はないとばかりに出て行った。前祝いがどうとか言っていたから、祝杯でも挙げるのかもしれない。それを皮切りに、ほかの男たちもぞろぞろと散っていく。部屋にはエマ、流唯さん、船医のヒューム、ツァルマと呼ばれた見張りの四人だけになって、視界にほかの野獣たちが映らなくなったところで、エマはようやく脱力した。無意識に握っていた手を広げると、汗でびっしょり濡れている。

 静かにほっと息をつくと、エマが乗っている寝台の端にツァルマがギシっと音を立てて座った。反射的にビクっと怯えてしまったら、気づいたツァルマが愉快そうに目を眇めた。


「俺が怖いか? お嬢ちゃん」


 気さくに話しかけているのに、その目は凶暴な肉食獣と同じ。ターゲットとしてロックオンされた草食獣は、どんなに足掻いても逃げきれない。


 ギシっと、ベッドが軋む。手をついて顔をこっちに近づけたツァルマは、視線をエマに向けたまま笑みを深める。肩につくかつかないかの茶髪はぼさぼさで、全体的に薄汚れていて、例えるなら野良犬だ。野性味溢れると言えば聞こえはいいけど、所詮は野獣である。ギラギラした目は、殺戮に快楽を見出すような狂気を宿っていた。


「シーウルフの愛娘か。いいね。その肩書きだけで興奮する」


 襲われる。

 本能的に悟って全身を強張らせると、呆れた流唯さんがツァルマをこついた。


「脅すのもその辺にしなよ。死にたいの?」


 船長の命令を無視したらヤバいんじゃないの? 罰が嫌なら仕事に徹しろという、流唯さんなりの忠告だった。――けど、ツァルマは鼻で笑った。


「そんなにこのお嬢ちゃんが大事か?」


 ゆらりと立ち上がり、今度は流唯さんと向かい合う。無表情で動じない流唯さんに近づくと、ツァルマは彼女の腰に腕を回して引き寄せた。


「それならどうすりゃいいのか、分かるよな?」


 意味深な言葉を言って、にやりと笑った。

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