3.現実問題
自分を迎えた船乗りたちの姿を見て、エマはがっくりと肩を落とした。
浅黒い肌。みっともない無精髭。何日も洗わないために油ぎった髪を汚いバンダナを巻いて隠し、着込んで襟ぐりがだらしなく伸びたティーシャツや、汚れて色が変わったブラウス姿……。
汗をかいていなくても汗臭そうだ。肌の色が黒いのは、絶対に日焼けだけじゃないと思う。
「やっぱり、これが普通よね」
考えてみれば、シーウルフのエマニエル号には、およそ五十人のクルーがいる。船に風呂を作るならそれなりの大きさが必要だし、全員が毎日入浴するとなると膨大な量の水が必要だ。補給には手間やコストがかかってくるし、それを蓄えておくスペースもない。
だから、海賊船の多くに風呂がないのだ。
あっても一人用で、船長専用とか、幹部クラスまでとか、限定されているのがほとんどだ。クルー全員が入れるような大きなものは、今まで見たことも聞いたこともなかった。そんな非効率的なものをわざわざ付けるくらいなら、こまめに陸に上がって温泉にでも入った方がよっぽど現実的なんだろう。
しかし、あえてここで言いたいのは、
こうして陸に上がっていても風呂に入らないのはなぜかってことだ!
結局、彼らは不潔な生活に慣れてしまい、清潔でいたいという意識がないのだ。
「だから嫌なのよ」
船に戻ったら、自分もその生活をしなければならない。
今までは毎日風呂に入っていたのに、これからは次の風呂がいつになるかも分からないなんて、果たしてエマに耐えられるだろうか。
海で生まれたとはいえ、過ごしたのは六歳までだ。それから十五歳まで祇利那の港でばば様と過ごし、そのあとも華朝で五年間一人暮らしをした。合わせて十四年も陸で暮らし、平凡な町娘として過ごしていたのだ。今さら戻れと言われても困るって。
「生活レベルを下げる気にはなれないよね」
用意された自分の船室で、エマは荷物を放り投げてベッドに座った。とは言っても、華朝のアパートで使っていた柔らかいものとは違い、細長い木箱が壁に固定されているだけという代物だ。布団もクッションも何もなく、ベッドというよりベンチに近い。部屋は狭く、他に家具は置けそうになかった。
クローゼットがないことを考えると、衣類は木箱か何かに入れて置いておくしかなさそうだ。この狭さと環境を考えたら、鏡台を置くのも無理だろう。
何より、ここにはエマの心を癒すものが何もない。
板を張っただけの壁、床、天井。目に映るのは茶色に汚れた板だけだ。
まあ、海賊が可愛い壁紙を貼ってくれるとは思わなかったが、せめて花を飾るくらいの配慮はなかったんだろうか。
こんな陰気な空間でこれから過ごしていかなきゃならないなんて。
「はぁ……」
こぼれたため息は、もう何度目か分からない。
「私って、世界一不幸な美少女だよね」
美人のママと男前なパパの間に生まれたことは、とても幸運だと思っている。
だけどむさ苦しい海賊の一人娘として生まれたことは、この上ない不幸だ。
人並みのお洒落も楽しめない。自由な恋愛も許されず、危険な海の世界で生きていくなんて。
贅沢は言わないから、普通の女の子として生まれたかった。普通に学校に行って、普通に働いて、友達と一緒に買い物をしたり、恋の話に盛り上がったり。綺麗に化粧もして、可愛い洋服だっていっぱい欲しい。
なのに現実は……
「お嬢。宴の用意ができたって」
プライベートな空間に、我が物顔で一人のクルーが入ってきた。
茶色い短髪に色黒の若い男だ。若いといっても、もう三十歳は過ぎている。が、年配の男も多いシーウルフでは、まだまだ若造の域だった。
「ちょっとグレイ! ノックくらいしてよ!」
「なんだ? ずいぶんとご機嫌斜めだな」
くすりと笑って、彼はポケットに手を入れたまま隣に座った。懐かしいタバコの匂いがほのかに漂う。エマは、昔からこの匂いが好きだった。
ぽんと彼の膝枕に寝転がり、目を閉じて顔を伏せる。
「えーん。お兄ちゃーん」
見え見えの芝居で甘えると、グレイは仕方なさそうに笑って頭を撫でてくれた。しょうがない奴だなって甘やかしてくれるこの笑顔も大好きだ。気さくだけど落ち着いた雰囲気があって、男らしい彼は身なりも人並みに気を配る。ちゃんと髭もこまめに剃るし、海賊の中では『貴重な一割』に属する人だ。
幼いころのエマは、彼のちょっとした仕草によく胸をときめかせていた。それを知っていた父たちは、エマが陸暮らしを始めると、彼を連絡係に任命した。エマとシーウルフ間のやり取りにグレイを挿むことで、海賊嫌いを少しでも緩和させようとしたんだろう。
実際のところ、海賊嫌いの緩和にはならなかったが、愚痴を聞いたり相談に乗ってくれたりと、彼は誰よりも頼りになった。一時は、船長になった彼と船長夫人になった自分の姿を思い描いたこともある。しかし、彼は長身のスレンダーな美人と結婚し、今では二児のパパである。
グレイにとって、エマはあくまでも妹だったのだ。
「お前もいよいよ年貢の納め時か。俺もちっと複雑だな」
頭上から聞こえた彼の言葉に、エマはぴくりと反応した。
今回の帰宅が何を意味するのか、すでに彼を含むクルー全員が知っている。
エマはシーウルフ内の誰かと結婚し、新しい船長夫人になるのだ。
婿は今夜の宴でばば様から発表され、その場で正式に婚約が成立、一週間後には結婚も成立、さらに一年後には船長の世代交代も行われ、パパの引退とともにエマの夫がシーウルフの新しい船長となる。
「昔は俺の嫁さんになるって言ってくれたのになぁ」
「先に裏切ったのは誰よ」
残念そうにぼやいた彼に、エマは低い声で毒づいた。
「私、結構本気だったんだからね」
実を言うと、十五歳のときに父の迎えを断ったのは、グレイの結婚が重なったせいもあった。華朝に来たのも、船へ行けとばば様に追い出されたからだけでなく、失恋の傷を癒すためでもあったのだ。
自分は汚い海坊主と、好きな男は別の女と結婚し、だけど同じ船に乗っているなんて、当時のエマには耐えられなかった。彼と顔を合わせる自信がなかったし、この悪夢を考えると、家出を思い立ってから実行に移すのはあっという間だった。
「そりゃあ惜しいことしたな。シーウルフの船長になり損ねた」
「グレイ!」
「冗談だよ。お前さんの気持ちに応えられなくて悪かったな」
「……まあ、もういいけど。昔のことだし」
一人暮らしをしてからは何度か新しい恋も経験し、いつの間にか失恋の痛みは消えていた。今となっては、良い思い出のひとつである。
「そういえば、お前の旦那が誰か、もう聞いたか?」
「ううん。グレイは聞いたの?」
「さあ? 俺は知らねえから、知ってるなら聞こうと思ったんだが」
エマの夫になるということは、シーウルフの次期船長になるということでもある。クルーの一人であるグレイも、他人事ではないんだろう。
「噂では、セスかジュリあたりが有力だな」
「興味ない」
「おいおい。お前の旦那になる男だぞ?」
苦笑気味に言われたけど、それこそ他人事だった。
だって、シーウルフのクルーなんて、ろくな奴がいないじゃないか。
みんな体も服も真っ黒で、臭いし汚いし下品だし。
そんな奴がほとんだから、幼いころのエマはグレイが王子様に見えたのだ。彼を除けば、ほかの連中なんてどんぐりの背比べでしかない。父やクルーたちの目にはいい男でも、エマにとってはみんな同じどんぐりだ。
「パパやばば様が選ぶ男なんて、見る気にもならないよ。どうせ実力重視で見た目はゼロでしょ。だいたいとして、今日初めて会うんだよ? 初対面で婚約ってどうなのよ。よっぽど素敵な男性なら別だけど、そんなうまい話あるわけないし。なのに一週間後には結婚? 冗談でも笑えないよ」
夫婦になって意思疎通ができるとは思えない。
「あー。なんか考えてたら無性に腹が立ってきた。やっぱこんなの無理だよ!」
今時、好きでもない男と結婚なんて! 貴族のお嬢様でもしないっての!
「グレイ! ばば様はどこ?」
「食堂にいなかったから、まだ部屋じゃねえかな」
「ありがと!」
言い捨てて部屋を飛び出した。だってこんなの、絶対おかしい。
やっぱり夫婦っていうのは愛し合って結ばれるべきだ。
そうだ! 私は間違ってない!
荒々しい足取りで薄暗い通路を歩き、船長室に着いたエマは、ドアを開けるなり大声を張り上げた。
「ばば様! お願いがあります!」
すると、真っ白な白髪を団子に束ねた老婆が、ゆっくりとこちらを振り向いた。




