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Sinner E  作者: 藤 子
【海賊編】
29/47

23.調教

 今の時点で、ジュリ以外に怪我をしている人はいない。もし、あのブランケットの持ち主がジュリだったら――。


「俺も悪かったから、機嫌直して」


 謝罪を続ける彼は、真剣にエマを見つめていた。一見、腑抜けているような脱力感があるのに、その目は心の奥まで見透かされそうな力がある。不思議な感じだった。


「まさか、お嬢が俺に惚れてるとは思わなくて」

「……は?」


 ジュリの目に惹きつけられていたエマの耳に、おかしな言葉が入ってきた。


「俺がセスを怒らなかったから、むかついたんだろ?」


 まあ、そうなんだけど。


「好きでもない男にキスされたってだけでショックなのに、それを好きな男に見られたんだもんな。そりゃあショックだよな」


 ふわふわしていた気持ちが一瞬で消えた。

 一体この人は何を言ってるんだろう。エマがジュリに惚れてる? そんなこと、冗談でだって言ったことないですけど。


「おまけにお嬢がセスをビンタしたら、俺はセスに同情しちまったし」


 そうだけど、違う。


「お嬢の気持ちを考えたら、ショックだと思うよ」

「違う……」

「惚れられた男として、俺はお嬢を庇ってやるべきだったね」

「違ーう!」


 全身全霊、腹の底から否定した。


「……お嬢?」


 びっくりしてきょとんとしているジュリさん。あなたの脳みそはどんだけ自分に都合良くできてるんですか。


「私がジュリに惚れてるとか、違うから! 怒ったのだって、庇って欲しかったのは本当だけど、単に無神経なセスを叱って欲しかっただけだし! そこに恋愛感情はまったく、これっぽっちも入ってないから!」

「……そうなの?」

「そうなの!」


 鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてるけど、普通に考えれば分かることだ。まだ知り合ったばかりだし、お互いのことなんて全然知らない。それどころか最初にあんなにも怯えさせておいて、こんな短期間でもう惚れられた男気分ですか。


 もしブランケットの持ち主がジュリだったら、少しは見直すかもって思ったことを撤回したい。


 エマにだって好みがあるのだ。誰でも彼でも優しくされたら好きになるわけじゃない。ミリのときは、外見も中身も、話し方も全部どんぴしゃだったから一瞬で恋に落ちたけど、あれはあくまでも特例なのだ。


「じゃあ……、俺のことは何とも思ってなかった?」

「当然。ジュリさんの大きな勘違いです」

「……そっか」


 つい興奮して一気にまくし立てちゃったけど、ジュリは意外にも素直に受け止めてくれた。言い終わったあと、もしかして怒るかもって密かに怯えたりもしたけど、そんな心配はいらなかったらしい。「女の子って難しいなぁ」なんて、素で言うから笑ってしまった。そしたら、ジュリが苦笑を浮かべて指を差す。


「そんな風に笑ってくれる女の子って、あんまりいないんだぜ?」


 海賊のような、誰が見ても罪人だと分かる男に、普通の女は近づかない。近づくとしたら、同じ犯罪者か、下心があるか、金目当てか、誰かの手先で、騙すためだったりする。そうじゃなければ、最初は好意的だけど、仲良くなろうとしたら怯えられたとか。だけどエマにはどれも当てはまらないし、ジュリの怖い部分も見た上で笑ってくれた。で、彼は、それって好きなんじゃね? と結論を出したのだ。


「単純すぎる……」


 そもそも、エマは海賊の娘なのだ。見た目が罪人だからという理由だけで逃げることは……あるな。でも、危険じゃないと分かれば印象を改めて受け入れる器量くらいはあるつもりだ。そこに恋愛は関係ない。

 拍子抜けしたエマに、今度はジュリが笑う。こうして見ていると、どこにでもいそうな普通の男の人だった。


 セスのように、容姿に目立った特徴はない。

 流唯さんのように、顔立ちが整っているわけでもない。

 身長もごく普通で、背筋を伸ばしてじっとしていれば罪人には見えない。


 なのに動き出すと人が変わる。両手をズボンのポケットに突っ込み、蟹股でだるそうに歩き、据わった目つきでにやりと笑えば、これ以上の悪人はいないんじゃないかとも思ってしまう。かと思ったら、大人びた笑みを浮かべてエマを受け止め、懐の深さを感じさせる時もある。


 どこにでもいそうなのに、どこにもいない。


「私も、ジュリみたいな人は初めてだよ」

「それって、褒め言葉?」


 もちろんそのつもりで言ったのだが、答えは笑って濁した。するとジュリは、穏やかな目をしてぽんぽんって優しく頭を撫でてくる。しょうがねえなぁって言われてるみたいで、ちょっと気恥ずかしかった。こういうところがずるいと思う。単純で子どもっぽいっと思ったら、急に年上のお兄さんになったりして。不意打ちされると、こっちはびっくりして困ってしまう。


「なぁーに俺のいねえところでいちゃついてんの?」


 突然聞こえたセスの声に、反射的に飛び跳ねた。


「夕飯だってのにいつまで経っても来ねえからこうして来てみれば、二人きりで何やってんだよ」


 冷ややかな視線と彼の声に、なぜか動悸が早まってしまう。思わずジュリの後ろへと隠れたエマは、人さらいに怯える子供のようだった。


「……ジュリは許して俺は駄目かよ」


 不貞腐れたセスに、ジュリが冷静に逆撫でする。


「俺よりお前の方が罪が重いんだよ。目撃者と実行犯は同罪にならないっしょ」

「はあ? なんだそれ。それがさっきまで一緒に慰め合ってた奴の台詞かよ」

「悔しかったらお前も謝れ。許してもらえるまで頭下げりゃいいだろ」


 苛立って怒りの声を上げたセスだったけど、ジュリの言葉にはた、と止まった。彼の中で、すとんと呑み込めるものがあったらしい。


「お嬢。ごめん! 悪かった!」


 この通ーり! と、目の前で勢いよく土下座をされ、エマはジュリからそっと離れた。ちらっと見上げると、ジュリの優しい眼差しが『こいつも許してやってくれ』と言っているように見えた。

 あれから一週間、彼らなりに反省してくれたのだ。誠意を受け止めてあげてもいいかもしれない。


「……分かった。二人とも許すよ。その代わり――」


 ここぞとばかりに、エマはにっこり微笑んだ。




 ◇◇◇




 激旨スープを作ると宣言した翔は、約束通り極上の魚介スープを作ってくれた。激旨が激辛になるんじゃないかと心配していたエマは、スープを一口飲んで感激した。魚介の濃厚な出汁が深みのある味を作り、ピリ辛ながらも甘みがある。丁寧に灰汁をとって煮込んだのか、後味はさっぱりしていて飲みやすかった。きっと、一晩置いた明日はもっとおいしくなっているだろう。


 おいしくて船酔いにも効くなんて最高だ!


 明日は空き瓶をもらってスープを入れ、酔い止め代わりに持ち歩こう。気持ち悪くなりそうなときは、水の代わりにこれを飲むのだ。吐き気止めにするなら、もう少し辛くてもいいかもしれない。あとで翔に頼んでおこう。


 今まで食べられなかった分を取り戻すべく、しっかり食べた――スープはおかわりもした――エマは、満腹になって部屋に戻った。いつもなら、ここで食休みをするところだが、今日は違う。エマはバッグから清潔なタオルを取り出し、ジュリとセスの二人を倉庫へと連れ出したのだ。

 下甲板の倉庫は、昼間に片づけをしたからすっきりしている。ハッチから差し込む月明かりのおかげで真っ暗ではないもの、もっと明かりがほしくてランタンを灯した。ここでエマたちが必要とするものは、ずばり水だ。大樽からバケツに一杯、水をもらうと、タオルを絞ってジュリとセスに手渡した。


「約束通り、綺麗になって着替えてね」


 夕食の前、床に頭をこすりつけて謝るセスと、俺も悪かったと申告するジュリに、エマはひとつの提案を持ちかけた。それが、入浴である。

 厳密に言えば、実際にお風呂に入るわけじゃない。水の心配はいらないと聞いたエマだけど、海賊船でクルーたち(しかも下っ端)が毎日風呂に入れるとは思っていない。


 要するに、身体を拭いて汚れを落とし、毎日清潔でいてほしいのだ。


 実を言うと、パールクイーンで生活するようになった最初のころから気になっていた。パールクイーンは、どのクルーも綺麗好きだ。それが船長の意向なのか、流唯さんがいるからなのかは分からないけど、本人たちはもちろん、船室も、自分の部屋以外の場所も、みんな小綺麗にされている。ぴかぴかとまではいかなくても、定期的に掃除をし、汚れやごみに気がついたらそのときに気づいた人が片づける。

 コックの翔だって、整理が苦手でも片づけようという意識を持っていた。


 そんな彼らと生活しているにも関わらず、ジュリとセスは汚い。


 朝起きて顔を洗っているところは見たことないし、服だって毎日同じだ。髪の毛も何だかテカってきてるし、無精髭もみっともない。綺麗にするのは強制ではないらしく、汚れた彼らに注意をする人もいないので、本人たちは平然としてる。

 これは、シーウルフでは気にならなくても、綺麗なパールクイーンでは由々しき事態だ。仕切りで区切っているにしても、同じ部屋を使っているエマとしては、早めになんとかしたいと思っていた。そんなときに転がり込んだチャンスである。今こそ、彼らを説得する絶好の機会だった。


「本当にこれで許してくれるのか?」

「もちろん!」


 彼らは素直に服を脱ぐ。おっと! 乙女のエマとしては、盗み見なんてはしたないことはしませんよ。ちゃんと後ろを向いて彼らが終わるのを待ちますとも。

 木箱に座り、ハッチの格子から夜空を眺めながら、エマは言った。


「今後、身体が汚れたらちゃんとタオルで拭いてね。髪の毛はひとつに縛るなりバンダナを巻くなりしてまとめること。服は三日以上同じ服を着ないこと。陸に上がったときは必ずお風呂に入ってね」


 すると、後ろから「うぇ」とか「げぇ」とか言葉にならない声が聞こえてくる。これ一回で済むと思っていた二人には、予想外の展開らしい。だからって、こんなチャンス逃しませんよ。


「約束したからには、ちゃんと毎日やってね」


 念を押して言うと、セスの本音がぼそっと聞こえた。


「面倒臭」

「何か言った?」

「別に」


 ここで反対するなら一生許してやらないぞ。嫌ならシーウルフに帰ってもらう。そうしたら次の船長の座は絶望的で、パパやばば様からは冷たくあしらわれることになる。どっちを選ぶかは個人の自由だ。


「パールクイーンの人たちがやってるんだから、二人にもできるはずでしょ。毎日のお風呂は無理だから仕方ないけど、脂ぎった頭で近づいたら即絶交するから。シーウルフの船長の座はあきらめてね」


 切り札をちらつかせて言うと、彼らは顔を見合わせてため息を落とした。先のことを考えて気が重くなったのだろうけど、これは生活の上で当たり前のことだ。陸で暮らしている人は誰でもしている。面倒だなんて感じる以前のことなのだ。


 理想は『その日の汚れはその日に落とす』だ。


 実現は難しいけど、近づけることはできるはず。少なくとも、何も考えなくても汚れたら拭く、着替える、頭なら隠す! ができるように、彼らの意識を変えてもらいたい。


 今夜にでも、部屋の壁に箇条書きしておこう。


一.朝起きたら顔を拭き、一日二回歯を磨く。

二.身体の汚れはタオルで拭き、髪の毛が汚れたらバンダナを巻く。

三.三日以上同じ服を着ない。隙あらば洗濯。

 (陸にいるとき、川を見つけたとき、雨が降ったとき)

四.陸に上がったら風呂に入る。

五.部屋にごみを溜めない。散らかさない。


 翌朝、何も知らずに目を覚ましたジュリとセスは、壁を見て悲鳴を上げた。

 いくら何でも横暴だとか、条件が厳しすぎるとか、聞こえるのはきっと空耳だろう。今日もいい天気だ。波は穏やかで、エマの船酔いがひどくなることもなく、翔お手製のスープのおかげも相まって、船の中を動き回る元気は十分にあった。ジュリとセスにノークリーン、ノーキャプテン(綺麗じゃなくちゃ船長になれない)というスローガンを突きつけて、悩みの種をひとつ減らしたこともあり、気分は上々でご機嫌だった。


 パールクイーンの航行はすこぶる順調で、この調子なら明日には陸に上がれるとのことだった。航海士のキャルと海図を広げていたキャップに、このことを教えてもらったエマは喜々として飛び跳ねた。気持ちが軽くなると身体も軽くなるのか、部屋でじっとしている気にはなれず、足取りも軽く甲板に飛び出した。最近は運動不足だ。クルーたちには『エマは鈍臭い』という印象も持たれている。そのどちらも払拭するべく、マストをするすると上って『私ってば運動もできるのよ』的なアピールもした。いま名誉挽回をせずにいつやるの? てな感じで。


 ところが、調子に乗ったのが悪かったのか、格好良く女ターザンを決めて着地しようとしたまさにその時、ヒュルルーっと、どこからか花火が打ち上がるような音が聞こえ、直後に近くの海が大噴火を起こした。大きく上がった水飛沫は強烈なスコールとなって船に叩きつけ、パールクイーン号は突如嵐の海に放り込まれたように激しい揺れに見舞われたのだ。


 何が起きたのか分からず、傾いた甲板を滑り落ちていくエマに、手を差し出してくれたのは流唯さんだった。彼女に腕を掴まれて、助かったと思ったのは一瞬で、再び大きな爆発が近くで起こり、エマの体は宙に浮いた。


「エマちゃん!」


 叫ぶ流唯さんの真剣な顔を見ながら、呆然とするしかなかった。逃げることも、もがくことも、泣くことすらできずに、エマは海の中に呑まれていった。


 泳ぎ? 普通にできるよ。


 だから海に出ても大丈夫だと、思っていた自分は馬鹿だった。今までエマが泳いでいたのは、あくまでも波の小さな海でのこと。広い温泉でするバタ足と同じだ。こんな乱れた波の中で、容赦なく鉄の塊が降ってくる波の中で、泳いだことなんて一度もなかった。だけど、自分は甘かったと認識する余裕さえなく、無我夢中でもがいた末に、エマは溺れて気絶した。

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