22.唐辛子
なんとなく気分が落ち着いて、「あれ? もう大丈夫かも?」なんて思った自分は甘かった。船酔いという恐るべき魔物は、隙あらばエマの三半規管に容赦ない追撃を続けている。
外は見渡す限り海が広がり、逃げ場がない船の上。エマは舷側にもたれて船と同化していた。
気持ち悪ぅ……。
思っても、もう声にすらならない。どうにかして気が紛れるようにと、ぼんやり空を見上げては雲の動きを追っていた。
海に出て、今日でちょうど一週間。幸か不幸か、今のところパールクイーンの航海は穏やかだ。ほかの海賊に会うこともなく、海軍に追われることもなく、元気いっぱいに大海原を進んでいる。おかげでエマは、船酔いを紛らわせることもできず、永遠とも思える長い時間をひたすらに耐えているというわけだ。
甲板では、一部のクルーが集まって腕相撲大会をやっている。「負けるな!」だの「粘れ!」だの興奮したヤジが飛び、白熱した試合が行われていた。その中にジュリとセスの姿も見えるが、彼らの目にエマはもう映っていない。子どものようにはしゃぐ男たちを遠目に眺め、絶望に駆られた。
いつになったら克服できるのかな。
船医の源じいの話では、個人差があるのでいつ治るかは分からないらしい。一週間で平気になる人がいれば、一年経っても克服できない人はいると。
それを聞いて、目の前が真っ暗になった気がした。源じいの話をエマに当てはめると、これから一年間、船を降りるまでずっと苦しみ続けなければならないのだ。毎日がパラダイスどころか、一年経つ前に本当の天国へ旅立つかも。
そしたらママに会えるかもー。
いいじゃん。そう考えたら船酔いも悪くない。え? 悪くない? こんなに気持ち悪いのになんで悪くないの? うーん……、考え事すらまともにできない。そしてお腹の中身を海へリバース。
「も……、やだ」
苦しいよ。辛いよ。なんでこんな思いをしなきゃならないの? 早く家に帰りたい。早く陸に戻りたい。
タオルで口を拭い、半分にたたんで涙も拭った。もう何も考えたくなくて、目を閉じかけたエマの耳に、ふと、涼しい音が聞こえてきた。
「あらら。だいぶ弱ってんなぁ」
自分に向けられた言葉だと分かって、薄っすらと目を開ける。するとそこには、心配そうに顔を覗き込む流唯さんと、コックの男の姿があった。名前は知らないけど、何度も厨房で会っているから間違いない。彫りの深い顔立ちで、太い眉が凛々しい黒髪の男だった。顎鬚がおじさん臭く見えるけど、声や口調は若そうな感じがする。
「具合はどう?」
気遣ってくれる流唯さん、今日も優しいなあ。でも、見ての通りなのです。お恥ずかしい。ろくに返事もできずに申し訳ない。すると、具合を察した彼女は、小さく頷いてコックを振り返った。
「翔」
「あいよ」
つうかあの仲である。流唯さんの一声で、翔と呼ばれたコックが何かをエマに差し出した。何? と思ったエマの耳に、先ほども聞こえた涼しい音が届く。
「……氷?」
掌ほどのガラスの器に、砕いた氷が入っていた。
「気休めに舐めてろ。酔い止めじゃあねえけどな」
え? ただの氷でしょ? と、思ったのが顔にも出ていたらしい。エマを見た流唯さんが、優しく微笑んで頷いた。
「口がさっぱりして楽になると思うよ。騙されたと思って舐めてごらん」
……流唯さんがそこまで言うなら。と、エマはコックから小さめの氷をひとつもらった。歪な形のそれを飴玉のように舐めていると、口の中がひんやりしてくる。これだけで本当に船酔いが止まるのか、正直半信半疑だったけど。
「……治まってきたかも」
一個舐め終わったころには、込み上げてくる吐き気が止まっていた。
「良かった。効いたみたいだね」
自分のことのように喜んでくれる流唯さん。ありがとう! これで海の生活も乗り切れそう! ってお礼を言おうと思ったら、
「氷はいつでもあるわけじゃねえから、当てにするなよ」
コックに釘を刺された。この人、どうも言葉に棘がある。
「でも助かったよ、翔。ありがとね」
にこやかにお礼を言った流唯さんにまで、翔と呼ばれた彼は「ふん」と鼻を鳴らした。もしかして、この人も銀みたいなタイプかしら。うっかり苦手意識を持ちかけたエマの首に、いきなり翔の腕がかかった。
「きゃあ!」
「わ!」
思わず発したエマの悲鳴と、もう一人の声が重なった。気づけば、流唯さんの首にも翔の腕がかかっている。
「ありがたいと思うなら、行動に示してもらおうか」
「へ?」
今の今までぼんやりしていたせいか、彼の言葉をすぐには理解できなかった。行動って、どういうこと? とエマがマイペースに考える一方で、流唯さんはどことなく焦っている。
「翔。エマちゃんは体調が悪いんだから、休ませてあげようよ」
「うるせい。俺は今モーレツに不機嫌なんだ。今夜の飯が食いたきゃ大人しく手伝え。船酔いだって何かしてた方が気が紛れるってもんだ」
どうやら、彼は怒っているらしいと、引きずられながらエマも気づいた。何があったのかと考えているうちに、到着した部屋を見て原因を知った。
「こいつをなんとかしてくれ」
連れてこられたのは、キッチンに隣接した食料用の倉庫だ。ハッチから差し込む太陽の日差しが、室内の隅まで明るく照らしている。ところが、よく見えるおかげで状況の悲惨さまでよく分かる。様々な食材が入っているだろう木箱や、袋の数々が、全てごちゃごちゃに入り乱れ、足の踏み場もないほど散乱していた。
「……どうしたんですか、これ」
驚いたエマに、翔は自信満々で言った。
「唐辛子を探してたんだ」
彼の言葉に、流唯さんが額に手を当ててため息をこぼした。つまり、探し物を求めて手当たり次第にひっくり返したということか。そう結論づけようとしたエマに、翔は言葉を続けた。
「唐辛子は船酔いに効くんだよ」
エマはぱちぱちと瞠目した。なぜここで船酔いという言葉が出てくるのか、なぜ散らかった部屋と船酔いが結びつけられるのか、エマにはさっぱり分からない。頭上にハテナマークを浮かべていると、見かねた流唯さんが改めて説明してくれた。
「だからね、どういうことかと言うと」
船酔いに苦しむエマを見て、流唯さんも源じいに相談してくれたらしい。しかし、パールクイーンの優秀な船医さんは、「薬じゃあ根本的には解決せん」と突っぱねた。ほかに方法はないかと尋ねると、「コックに相談してみろ」との答えが返ってきた。薬で一時的に抑えるのではなく、食事療法を取り入れながらできるだけ自然に体を慣らしていく方がいいだろうという見解だ。
そこで流唯さんは、翔に経緯を話して相談した。すると、「波に酔ったら唐辛子だ!」と力強い答えをもらい、早速料理を頼んでみたら唐辛子がない。「隣の倉庫にあるはず」と探しに行き、すぐに見つけた彼は香辛料が入った箱を引き抜いた。その結果、積み上げられていた荷物が雪崩のごとく崩れ落ち、四方に転がり、彼が持っていたはずの香辛料の箱も行方知れずになったのである。二、三拍の沈黙のあと、仕方なく片づけようと言った流唯さんに、翔は震えながら言った。
「もとはと言えばエマが船酔いなんかするからこうなったんだ。あいつにも片づけをやらせるぞ」
しかし、良識ある流唯さんは、エマを気遣って止めようとした。「彼女はまだ具合が悪いんだから」と。それを聞いた翔はというと、同意を示すどころか、にやりと悪魔の笑みを浮かべたのだ。
「なら氷を砕いてやる。船酔いには氷も効くんだ」
そう言って彼は、貴重な氷を砕き、エマのところに持参した。エマに片づけをやらせるために。
「……なるほど。そういうわけですか」
やっと事情を呑み込んだエマに、流唯さんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんね、エマちゃん」
「流唯さんが謝ることじゃないですよ」
むしろエマを心配してくれた結果だし、彼女を責めるなんてできない。翔も、最初は張り切ってエマのために料理を作ってくれようとしたわけだし、惨状を前に八つ当たりしたくなる気持ちもまあ、分からないでもない。
「一緒に片づけましょう」
腕まくりをしてやる気を見せると、流唯さんと翔も嬉しそうに笑った。
「よし! やるか!」
気合いを入れて、三人で荷物を片づける。小麦粉や芋の袋など、重いものは率先して翔が運んでくれた。さすが、日頃から鉄鍋を振っているだけあって、力持ちだ。動きも機敏で頼もしい。エマに手伝えと言いながら、だいたいのものは彼が片づけてくれた。
女性陣はというと、香辛料の箱を探しながら、食料をしまう位置を翔に指示する。使い勝手と賞味期限のみを考えていた彼は、最初こそ文句を言ったが、それが雪崩の原因にもなっていると指摘を受けると、渋々指示に従った。
「だいたいとして、なんで袋の上に木箱を乗せるわけ?」
「ジャガイモより卵の方が足が早いじゃねえか」
「腐る以前に箱がぐらついて落ちたら全滅でしょ」
冷静な流唯さんと、剥きになった翔の会話は、聞いているだけで面白い。いっそ卵よりも鶏を飼え! という流唯さんの言葉には、思わず噴き出して笑ってしまった。早朝から「コケコッコー!」が聞こえる海賊船なんて、長閑すぎる。
片づけの最中も、砕いた氷の残りをもらって舐めていたエマは、気分もそれなりに良好だ。冷たいものが船酔いに効くとは知らなかった。そういえば、酒に酔った時も氷水を飲むことがある。もしかしたら、冷たいものは酔い全般に効果があるのかもしれない。
考えながら片づけをしていると、重なった麻袋の隙間に『香辛料』の文字を見つけた。
「あったよ! 唐辛子!」
袋をどかして抱えてみると、思った以上に軽い。両手で抱えるほどの大きさの木箱だが、片手でも持てるほど軽かった。
「そうだ。これだ」
ふたを開けた翔が、嬉しそうに中身を取り出す。細長く、ふっくらした唐辛子が鈴なりになっている小ぶりな枝だった。赤と緑の二種類があり、どちらも適度に乾燥してある。
「今夜はこれで激旨スープを作ってやるからな」
張り切る彼に、エマは笑顔を引き攣らせた。
「よ、よろしくお願いします……」
激旨が激辛じゃないことを祈ろう。辛いのは食べられるけど、あまり強くはないのだ。
「待ってろよ、エマっち!」
唐辛子の枝を握り締めた翔は、意気揚々と厨房へ入っていく。まだ片づけは残っているけど、もう彼の頭は料理のことでいっぱいらしい。上機嫌で行ってしまった翔を呆然と見送ったあと、隣を見ると苦笑する流唯さんと目が合った。
「もう少しだし、やっちゃおうか」
彼女の言う通り、残りはもう少しだ。終わったあとはおいしいご馳走が待っていると思えば、これくらいは何でもない。細々としたものを流唯さんと二人で仕分けしながら片づけて、夕方にはどうにか終わった。
「頑張ったね、エマちゃん」
褒めてくれる流唯さんに、心からの笑顔を見せる。
「流唯さんもお疲れ様!」
最近は仕事もしてないし、船酔いで弱ったりしていたから、こんな達成感は久しぶりだ。身体の疲れさえ心地良い。
「夕飯が楽しみだね」
「うん」
流唯さんの言葉に深く頷く。氷飴のお陰で気分もだいぶ回復してるし、今日の夕飯が待ち遠しい。
「私、埃だらけなんで着替えてから行くね」
「じゃあ、先に食堂に行ってるよ」
「はーい!」
元気良く返事をして、エマは階段を駆け上がった。酔ってないって素晴らしい。吐き気が完全に消えたわけではないけど、平常でいられるだけで楽だった。気のせいかどうか分からないけど、波も昼間より落ち着いた気がする。
いつもこれくらいならいいのに。
揺れが少なければ、船酔いも軽くなるのは当然なので、真面目にそんなことを考えてみる。海に浮かんでいる限り無理な話だけど。
「よし、オッケー!」
着替えを済ませ、鏡で全身を確認する。あとは手を洗ってから行こうと思い、水樽が置かれている倉庫へ向かうべく自分のスペースを出た、のだが。カーテンをくぐった先に、ジュリが立っていた。
「……どいてくれる?」
声をかけると、彼は無言で横にずれる。そこを通ってさっさと部屋を出ようとしたけど、今度は腕を掴まれた。「放して」と言おうとして、彼の右手を睨みつけ、エマは言葉を呑み込んだ。
ジュリの右手には、汚れた包帯が巻かれていた。
そういえば、彼は右手を怪我していたのだ。
同時に、エマの脳裏に先日の出来事が蘇る。船酔いに耐え切れず、寝込んだエマに誰かがブランケットをかけてくれた。それが誰だったのか、結局分からなかったのだけど、後になってブランケットに小さな血痕を見つけたのだ。
その血が、もしジュリのものだったら。
「お嬢。ごめん」
低い声で謝罪を告げた彼に、エマは釘づけになって固まった。




