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Sinner E  作者: 藤 子
【海賊編】
27/47

21.落とし穴

――目の前で自殺しようとしている友がいたら。


 詳しい事情は分からない。けど、分からないなりにも感じたことはある。

 それは、もうパールクイーンに疑念を抱くのはやめようということ。


 瑠昇さんの言葉を聞いて、今の流唯さんが何かを抱えているのはよく分かった。パールクイーンは、彼女からその何かを取り払おうとしてるんだろう。自分たちが流唯さんと一緒にいたいからだけじゃなく、彼女のためでもあるから、誰も止めようとしなかったのだ。たとえ本人が嫌がっても、必要なことだと判断して。


 彼女のために真剣に考えている彼らに対して、よく知らない自分がその場の状況だけで判断するのは良くない。今回みたいに、深刻な事情が隠されていることもあるのだ。それを無理に聞き出そうとしても、新入りの自分にはきっと教えてもらえない。彼らとの信頼関係を築いて初めて聞けることだから。


 となれば、今の自分にできることはひとつ。下手な詮索をせずに仲間として過ごすこと。


「まずは着替えですか?」


 気持ちを切り替えて声をかけると、すかさず流唯さんに指摘された。


「敬語。使わなくていいから」


 そう言って、彼女は店に入るなり軽く辺りを見回したあと、きびきびと歩いて服を選んだ。手に取ったのは、シンプルなデザインのシャツとパンツを三枚ずつ。どれも黒とか紺とか、暗い色ばかりだ。せっかく一緒に来たんだから、可愛い洋服を選んだり、一緒に迷ったりして選ぶんだと思ったのに。これじゃあ何のためにエマが一緒に来たのか分からない。さすがに下着くらいは女性らしいのを選ぶだろうと思ったけど、彼女はなぜか男物のコーナーに向かい、ぴったりと肌につくグレーのパンツ五枚セットを手に取った。じゃあブラジャーはどうするんだろうと思ったとき、初めて気づいた。


 胸がない。


 貧乳というレベルじゃなくて、本当にぺったんこなのだ。あの胸、どうなってるんだろう。気になったものの確かめられず、悶々としてしまった。そんなエマをよそに、流唯さんはさっさと会計を済ませてきた。


「さ、次に行こうか」


 そうしてほかの店でも特に物色することなく、買い物はあっという間に終わってしまった。てっきり二、三時間くらいかかると思ってたのに。


「疲れた?」

「え?」

「人の買い物に付き合うなんて、退屈だし疲れるでしょ」

「ううん。流唯さん買うの早いから、ちっとも疲れてないよ」


 むしろ銀と二人きりって方が何倍も疲れます。キャップは瑠昇さんとの話が済むなりさっさとどこかに行っちゃうし。流唯さんが来てくれてほっとしちゃった。――なんて、口には出せないけど。


「エマちゃんは本当にいい子だね」


 そう言って、彼女は笑顔で歩き出す。すると、銀が彼女に手を差し出した。


「貸せ」


 ぶっきらぼうに言って、流唯さんが抱えていた荷物を奪い取る。


 う、わーーーー!


 どうしよう! 今すごいものを見ちゃった気がする! 銀てこんなこともできるの⁉ いっつもムスっとして、女性への配慮なんてしなそうなのに!


「全然重くないけど」


 なんて言いながら、流唯さんもどことなく嬉しそう。なんだか恋人同士みたい!


「もしかして私、お邪魔虫かな」

「なんで?」


 邪魔どころか、買い物に付き合わせちゃって申し訳ないと、流唯さんはあっさりと言う。じゃあ銀はいいの? と思ったけど、愚問だった。荷物持ちにさせるくらいだ。彼に対しての遠慮はないのだろう。


 何だかこういうの、いいなぁ。


 不器用ながらも気遣う彼と、その優しさにはにかむ彼女。出かける前のギスギスした感じなんてあっという間になくなって、もう和解してる。こんな風に自然と仲直りができちゃう関係って、素敵だよね。私ならすぐ言葉や顔に出ちゃうけど。話さなくても分かり合えるって憧れちゃう。


 そう思って視線を動かすと、並んで歩く二人の姿が目に映る。流唯さんも銀も長身で、絵に描いたようにお似合いだった。貴族の令嬢に付き添う強面の用心棒って感じもするけど。


 そして船に戻ると、舷側からひょっこり顔を出したジゼルが笑った。


「銀。両手に花だな」


 冷やかしの声に、銀は何も反応を示さず船に上がる。いえいえ、むしろ私はお邪魔虫だよ。彼の代わりにそう心で答えたエマに、流唯さんが何かを差し出した。


「エマちゃん。これあげる」

「わあ!」


 可愛い包み紙に包まれたクッキーだった。いつの間に買ったのか、ちっとも気づかなかった。


「流唯さんに喜んでもらいたくて買い物に出たのに、逆に気を遣わせちゃったね」

「そんなことないよ。今日はありがとね」


 笑顔で言って、彼女は銀と船室に入っていく。二人の後ろ姿をうっとり見送ったあと、ふとマストの近くにいるジュリとセスに気づいた。彼らも気づいて目が合ったけど、わざとそっぽを向いてやった。すぐに許してもらえると思ったら大間違いだ。二人には、銀のような控えめ且つ必要なときに動ける判断力を学んでほしい。




 ◇◇◇




 太陽の日差しを浴びて、きらきらと輝く美しい水面。空を自由に飛び回る海鳥の歌声が楽しくて、はしゃいでいたのはほんの三十分だった。


「気持ち悪ぅ……」


 まさか、まさか、自分が船酔いするなんて。完全に想定外だ。


「エマちゃん、大丈夫?」


 心配そうに覗き込んでくるミリに、かろうじて笑顔を見せる。


「水もらってきたけど、飲める?」

「……うん」


 冷たい水を一気に飲んで、瞬間的に回復する。でもすぐにまた吐き気がこみ上げて、口を押えて舷側に駆け寄った。そのあとは海に向かって胃の中のものを……。


「ずっと陸にいたんだもんね。仕方ないよ」


 体が慣れてないんだからと、慰めてくれるミリに泣きそうになった。有り難いやら、情けないやらで。


 海賊の娘なのに、こんな初歩的なことで躓くなんて。


 ハンモックに続き、ボタンの掛け違いを指摘され、今度は船酔いだなんて、彼の前ではいいところなしだ。


「少し……寝るね」


 失恋の傷もさることながら、これ以上の醜態を晒すのは気が引けて、寝たふりをすることで一人になった。

 船首楼の影で横になり、少しでも風を感じようと目を閉じる。今、エマの頭の中は「気持ち悪い」という言葉だらけだ。瞼の裏で、この言葉がぐるぐると弧を描いて回っている。

 やっぱり私に海賊は向いてないんだよ。これはきっと、陸に戻れっていうサインに違いない。


 ママ……。助けてぇ……。


 求めたところで、ママは来ない。分かってるけど、藁にもすがる思いだった。この吐き気が止まるなら、どんなに苦い薬だって我慢する。だから誰か、吐き気止めをください。だってこの船の船医さん、くれないんだもの。薬は一時的だから、飲まない方がいいんだって。この先も海で暮らすなら、今は耐えて船酔いを克服するべきだって。言ってることは分かったけど、すぐに克服なんてできそうにないし、とにもかくにも気持ちが悪い。薬で吐き気が止められるなら一時的でも飲みたいよ。なのに薬はもらえない。


「はぁ……」


 波の音が、催眠術のように頭に響く。それと一緒に体も揺れて、吐くだけ吐いたら眠くなった。うとうとしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。気がついたときには、外は薄暗くなっていた。視界に広がる夕焼けを眺めながら、ぼんやり思う。


 ここは、なんて平和な船なんだ。


 年頃の娘が甲板で爆睡って、海賊船ではあり得ないでしょ。ああ、ほかに美人がいるからか。みんなして女神の流唯さんに夢中だから、私みたいな平凡な娘なんて気にもならないってやつですか。私が安全なのはみんながちゃんと理性のある人たちだからって分かっているのに、ついそんな風に自虐的に考えてしまう。それもこれも、船酔いで心身ともに弱っているせいだ。

 ため息をつきながら身体を起こすと、何かが落ちた。


「ブランケット?」


 誰かがかけてくれていたらしい。……誰が?

 首を傾げていたら、後ろから誰かに声をかけられた。


「調子はどう?」


 流唯さんだった。


「だいぶ落ち着いたよ」

「そう。良かった」


 安心して笑顔を見せてくれる彼女に、エマは聞いた。


「あの、このブランケットかけてくれたのって、流唯さん?」


 だけど流唯さんは頭を振った。


「ミリじゃない? 君のこと心配してたから」


 確かに、エマが寝る前も彼は心配して介抱してくれていた。このブランケットも、彼が気を遣ってかけてくれたのかもしれない。未だに気まずいながらもきちんとお礼を言いたくて、エマは下甲板に下りた。彼の部屋に行ってみると、誰もいない。それなら食堂かと思い、行ってみたらみんなが集まっていた。


「エマちゃん。体調はどう?」


 すぐに気づいたミリが声をかけてくれた。


「眠ったらかなり楽になったよ。ありがとう。ところで、このブランケットかけてくれたのって、ミリ?」


 笑顔で礼を言いつつ聞いてみたら、ミリも頭を振った。


「俺じゃないよ」


 はて。じゃあ誰だろう。なんとなく気になって、ほかの人にも聞いてみたけど、結局誰がかけてくれたのか分からなかった。ジュリにも聞いてみたけど、


「俺じゃないよ。それよりお嬢……」


 違うなら用はない。セスにも聞いてみよう。


「俺じゃねえな。ところでお嬢……」


 違うなら用はない。さっさと踵を返して持ち主探しを続行した。そしてジゼルも、准も、キャップも、船医の源じいも、キャルにも聞いてみたけどみんな違う。となると、ほかに残っているのは……。

 クルーたちの面々を見渡して、絞り込もうと思ったとき、ガタンと音を立てて銀が立った。彼は空になった皿をカウンターへ出すと、無言で部屋から出て行った。


 まさかね。


 あの銀が私を気遣ってくれるなんて。うん。彼はないな。ぼーっと立ったままのエマに、ミリが心配して声をかける。


「エマちゃん大丈夫? まだ気分悪いの?」

「大丈夫だよ。いつも心配かけてごめんね」


 お礼ついでに謝ると、爽やかな笑顔を返された。


「気にしないでいいって。エマちゃんは普通の女の子なんだから」


 相変わらずの優しさに、胸が苦しくなってしまう。もう、なんで妻子持ちなのよ⁉ 内心八つ当たりしながらも、こんな素敵な人だ、結婚してて当然だよねと納得もする。


「それにしてもこれ、誰のかな」


 部屋に戻ったエマは、ベッドでくつろぎながらブランケットを両手で広げた。持ち主が分からなかったので、結局持ってきてしまったのだ。改めて見てみても、特にこれといった特徴はない。通気性のいい麻素材で、柔らかい肌触りだった。生成りの無地だから、キャルじゃないことは確かだ。フェミニンでこだわりの強い彼なら、絶対に無地なんて選ばない。やっぱり、まだ聞いてないクルーの誰かかな。


「イニシャルの刺繍とか、分かりやすい模様でもあればなぁ」


 一人でつぶやいて、ブランケットをたたんでいたら、ふと、小さな赤いシミを見つけた。


「これって……」


 多分血だ。それも、色褪せてないからまだ新しい。ということは、血をつけた本人もまだ傷が治っていないかもしれない。これは有力な手がかりだ。パールクイーンの中で怪我をしている人を探していけば、持ち主が見つかるかも! と考えていたら、ふとドアの開閉音が耳に入った。ノックも声もなく入ってきたということは、ジュリかセスのどっちかだろう。


「お嬢ー……」


 案の定、セスが気まずそうにカーテンを開けて顔を出した。へらへらと愛想笑いなんか浮かべちゃって、初対面のときとは別人だ。あんな奴はシカトしてやる!

 ぷいっと壁の方を向いてしらばっくれると、彼はぼりぼりと頭を掻きながら侵入してきた。


「ここ、私のスペースなんですけど」


 まだ一言も入っていいなんて言ってないのに。


「そう怒るなよ。悪かったって」


 だったらその締まりのない笑顔をなんとかしろ! 反省の気持ちがちっとも伝わってこないじゃないの!


「私、いま気持ち悪いんです。声をかけないでください」


 このまま永久に放っておいてくれても全然オッケー。その顔を見るだけで悪夢が蘇るもの。ほんと、あれが夢だったらどんなに良かったか。


「どうすりゃ許してくれるんだ?」


 知るか!


「早く出ていかないと吐きますよ。あー、また込み上げてきた。いいんですか? そこにいると汚れますよ?」


 私の汚物をかけられたくなかったら、とっとと部屋から出てけっての。


「……いいよ。それで許してくれるんなら」

「は?」

「お嬢が許してくれるんなら、船酔いがなくなるまで看病してやる」


 何をどう思ったのか、彼は吹っ切れた様子でそう言うと、ベッドの隣に胡坐をかいて座り込んだ。そして川の水をすくうように両手をつけて器のような形を作ると、それをエマの前に差し出した。


「ここに吐け!」

「おバカ!」


 速攻でツッコんだ。


「なんでだよ⁉ 吐きそうなんだろ⁉」

「私が言いたいのはそういうことじゃないの!」

「だってお前吐くって……」

「今すぐ部屋から出てってってことよ!」


 だいたいとして、看病してやるって何⁉ してやる(・・・・)って! 悪いのはセスの方なのに、なんでそんな言い方されなきゃならないの⁉


「分かったら……、さっさと出てけーっ!」


 今まで声にできなかった鬱憤が、全部セスに向かって出ていった。お陰でちょっとすっきりしたかも。人間、我慢は体に良くないもんね。

 セスを追い出して心の平穏を取り戻すと、エマは流唯さんにもらった包みを広げた。黄色い小花柄の紙の中に、可憐なお花のアイシングクッキーが入っている。花びらは白く、花芯は黄色で、マーガレットの花にそっくりだ。どこを見ても可愛い。食べるのがもったいないくらいだ。

 さっきまでは気持ちが悪くて食べられなかったけど、今ならおいしく食べられるかも。というか、またいつ気持ち悪くなるか分からないし、いつ船酔いが克服できるかも分からない以上、食べられるときに食べておかなきゃ。

 ぱくりと一口頬張ると、エマはにんまり微笑んだ。


「おいしいー」


 思った以上に生地がしっとりしていて、アイシングも全然固くない。甘さも控えめで上品なお味だ。生地にマーマレードが入っていて、ほんのりとフルーティーな香りもする。朝から船酔いで全て吐き、昼食は何も食べられず、空腹続きだったエマのお腹に、優しい甘さが染みわたる。脂っこくないし、くどくもないから、いくつでも食べられそうだ。


「さすが流唯さん。分かってるわぁ」


 彼女の優しさがそのまま伝わってくる気がして、ちょっぴりじーんとしてしまった。大きな幸せもいいけど、こういうささやかな幸せって大事よね。――って、浸っていたところに、セスが意気揚々と戻ってきた。


「エマ! クッキー食ってんなら喉乾いただろ? 酒持ってきたぞ!」


 ……なに、この人。

 エマがクッキー食べてるのを見て、喉が渇くだろうと気を利かせたところだけは良かった。けど……、ほかの行動全てが駄目駄目じゃん!


 怒られたのに全然懲りてないのも!

 こっそりエマのつまみ食いを盗み見するのも!

 断りもなくエマのスペースに入ってくるのも!

 船酔いだったエマに酒を持ってくるのも!

 ハッピーな気分をぶち壊しにしたのも!


「セスのおバカーーーーっ!」


 彼に向けて、硬い革のブーツを力の限り投げつけた私は悪くない。

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