18.再入門
詳しい事情は知らないけれど、パールクイーンはずっと流唯さんを待っていた。キャップでさえ、半ば強引に引き戻すほど、流唯さんの帰船を望んでいる。みんなに愛されて、必要とされて、それでも乗り気になれないのは、謙遜なのか、トラウマなのか。
流唯さんの左手は、今も黒いグローブがはめられたままだ。いつもこうやって隠しているのは、本当に周りに見せないためなのか、それとも自分が見たくないからなのか。
もしかしたら、その両方なのかもしれない。
「……流唯さん」
「うん?」
「私……、昨日の夜まで逃げることを考えてたんです」
いつだって、理由がひとつとは限らない。
「元々、海賊嫌いで……、争いが嫌いで、親が決めた通りになるのも嫌で、野蛮な世界に首を突っ込みたくなかったんです。だけどミリを見て素敵だなって思って、彼がいるところなら違うかもって期待して、それでパールクイーンに来たんです」
実際に、パールクイーンはほかの海賊とは違った。誰にでも気安いし、普通に清潔だし――ジュリとセスは別だけど――話も通じる。やたらに人を襲うこともなく、物資の調達にはお金も払う。
「でもミリが既婚者だって分かったら、ここにいる意味が見えなくなってしまって、なんとか海に出る前に逃げなきゃって焦ってました」
逃げられなければ、自分の人生は終わったも同然な気さえした。
「だから、流唯さんに協力を断られたときはすごくショックでした。なんで断られたかも分からなくて、ちょっと恨みました」
同じ女として、私の気持ちが分かるはずなのに、なんで手伝ってくれないんだろうって。
「でも、いまは違うんです」
確かに、このままミリと一緒にいるのは辛い。毎日あの笑顔を見て、切なくなって、何もできない自分を憐れむなんて悲惨だ。だけど、パールクイーンの価値は彼だけじゃない。
「キャルが流唯さんを庇ったとき、泣きそうになりました」
彼は、同じ罪人としてではなく、流唯さんだから庇っていた。
それこそ、エマが求めていたものだった。
海賊を毛嫌いする一方で、本当は認めてほしかった。海賊の誰もが、冷酷無比なわけじゃない。うちのパパだって、ばば様だって、血の通った人間だよ。
もっとちゃんと中身を見てよ。
「パールクイーンは、自分の尺度があるんですよね」
周りが何と言おうと、それに左右されずに見定める力。
誰にも流されずに、意志を貫ける強さ。
いつだって彼らは、肩書きではなく人を見ている。
「私、そんな人たちを求めてたくせに、いざ会ったらろくに中身も見なくて、逃げることばっかり考えてたんです。だから流唯さんに断られたんですよね」
ちゃんとパールクイーンの中身を見てから決めるべきだって、気づかせるために。恋に現を抜かれ、外見や肩書きに流されていたのは自分だった。
優しいジュリを怖がっていたのも……。
外見の印象から、勝手な思い込みを抱いていた。そういう人たちに負の感情を抱えていたのに、いつの間にか自分もそうなっていたなんて。
「昨日……、太蔵さんは最後まで流唯さんを心配していました。私も、出会った人全てに偏見を持たれたわけじゃないんです。海賊の娘って分かった途端に何度も裏切られて傷ついたけど、そんな人たちの言うことなんか気にすることなかったんですよね。私の中身を見て、優しくしてくれた人たちにこそ、耳を傾けて大切にするべきだったんです」
流唯さんが、人との関わりを避けて田舎の暮らしを選びながらも、太蔵さんと親しくした理由が分かる気がした。エマにも、太蔵さんのような人との出会いはあった。祇利那の家を飛び出して、一人で苦労していたエマに手を差し伸べてくれた人たち。海賊の娘だと知っても、避けずに受け入れてくれた彼らに、また会いたかった。直接会って、改めてありがとうと伝えたかった。
裏切られて、拒まれて、嫌われることもある。
けど、分かってくれる人も必ずいる。
「だから、逃げるのはやめました」
私も、海賊ではなくパールクイーンを見て決めよう。
「自分をこんな境遇に追いやった海賊は憎いけど、誰でも彼でも海賊って一括りにしちゃいけないですよね」
人柄は顔に出るって聞いたことがあるけど、必ずしもそうとは限らない。人間って、そんなに単純な生き物じゃないから。
「……エマちゃんは偉いね」
そうつぶやいた流唯さんの目がとても眩しそうに細められて、ハッと我に返った。
私ってば、熱くなりすぎ……⁉
流唯さんから見れば年下の小娘なのに、一人前に語ってしまった。
「あのっ……、何が言いたいかっていうと、流唯さんは頭では離れた方がいいと思いつつも、本心はここにいたい気持ちがあるのかなって。でもどうせ船に乗るなら、腹を括っちゃった方が楽なんじゃないかなぁって」
焦りながら照れ笑いを誤魔化して言ったら、流唯さんの表情が一変した。
◇◇◇
パールクイーン号の下甲板で、一番明るいところはどこか。
それは窓がついた船室ではなく、全ての部屋に通じる通路でもなく、天井にハッチがある倉庫が正解である。
ハッチとは、甲板に設けられた格子戸のことで、大きな積み荷を運び入れる際に使われる。嵐や波が高い時は流水を避けるために板で塞ぐが、普段は格子戸になっているので光が差し込み、天気の良い日はランタン要らずだ。
そのハッチがある倉庫以外の船内は、基本的にどこも薄暗い。クルーたちの部屋や食堂には丸窓が設けられているが、外光を取り込む役目は申し分程度だった。船の向きや天候によっては、昼間でも夕暮れのように暗くなる。そうなると、下甲板はあちこちでドアが開けっ放しになった。常時ランタンが灯されている通路の明かりを取り込むためだ。部屋が暗いなら部屋のランタンを灯せばいいのだが、海では資源が限られているので、使用は最小限に控えるのだ。
その習慣が、停泊中も行われていた。薄暗い部屋でランタンを灯さず、通路の明かりを取り込んでいた流唯と銀の船室は、ドアが閉められると一瞬にして時が変わった。船の向きを変えればもっと明るくなるのだが、外光を取り込むためだけに船が動くことはない。そこだけ夜のように視界が悪くなった室内で、流唯はベッドで胡坐を掻いて腑抜けていた。
ズボンのポケットを探って取り出したタバコは、しわくちゃになって潰れている。これでは使い物にならないと思いつつ、諦め切れずに中身を覗いた。思った通り、中も潰れてぐちゃぐちゃだ。逆さにしてみると、タバコの葉屑がこぼれ出てきた。
ふと、向かいのベッドを見てみたが、そちらの持ち主はタバコを吸わない。予備をベッド脇に置いていることはないだろう。仕方なく、壁にもたれて宙を仰いだ。
「どいつもこいつも……」
つぶやいた続きを、ドアの開閉音が遮った。
「余計なお世話だってか?」
ボルボアだった。
「可愛いエマっちに図星を突かれてドキっとしたか?」
「……盗み聞きとは趣味が悪いね」
低い声で睨みつけても、彼は全く動じない。
「一応水を持ってきたが?」
コップと水差しを乗せたトレイをひょいと持ち上げると、それを横目に流唯は言った。
「タバコ」
ボルボアはやれやれと苦笑をこぼしてタバコを出した。
「まだ喉が痛むんだろ?」
「もう平気」
受け取った流唯は、深く煙を吸い込んだ。
「そんなに死に急いでどうすんだ。人生はまだまだこれからだぜ?」
優しく諌めようとする彼の言葉に、感じるものは何もない。もっとも、自分の未来に興味がないのだから、頷けないのは当然だった。
この先、どうすればいいのか分からない。
今なら、我慢していたことが全てできる。女らしく着飾ることも、友人と会話を楽しむことも。正体がばれるリスクはあるが、普通に働くことだってできるだろう。その気になれば、恋愛もできる。だけど何にも興味がない。今ならできると思っても、やりたいという気持ちが湧いてこない。
「……今のお前を見てると、昔の蕪木を思い出すぜ」
無意識に、耳が短い言葉を拾う。
『蕪木』
その名前を聞いただけで、今でも鮮明に蘇る記憶がある。
「お前に捨てられたときのあいつが、まさに今のお前と同じだったな」
心の支えも、未来も、生きる意味も、全てを失って途方に暮れていた。
「だったら何?」
指摘されたところで、考えが変わるわけじゃない。支えや、希望や、生きる意味が見つかるわけじゃない。
「亜馬流がいたら、その尻を引っぱたいてくれるんだろうがな」
いちいち彼らの名前を引き合いに出されて、煩わしくなる。
「ねえ。なんでエマを船に乗せたの?」
ボルボアの話を遮るように、流唯は聞いた。
「ボディガード二人で守れると思ってんの?」
ボルボアはじっと流唯を見つめるだけで、答えない。
「ああ、そうか。そういうことね」
返事を聞かずに頷いた流唯は、辛辣に笑って言った。
「義理で乗せたと見せかけて、実は自分らのためだったんだ」
兄貴分からの頼みだから仕方なく引き受けたというのは口実だ。本当は、その裏にいくつもの別の狙いが含まれていた。
「無力なエマが乗るとなれば、流唯は同じ女として見逃せないはず。彼女を心配して船に戻ってくるだろう。彼女のお守り役にも流唯は適任だ。――とか?」
エマを預かることで、ジョージへの面目が立ち、流唯は船に留まる。流唯が帰ってくればパールクイーンも喜び、エマも同じ女がいれば心強いだろう。
「これで万事解決とでも思ったんだろうけど、私の都合も考えてほしいね」
タバコの煙とともに吐かれた言葉が、部屋の空気を重くする。
「放っておいたところで、お前は何も変わらねえだろ」
「……別に、変わりたいと思ってないし」
そっけない反応に、ボルボアは肩をすくめて息をついた。ひとまず持っていたトレイを机に下ろし、流唯のベッドに腰掛ける。
「亜馬流に託された俺としては、それじゃあ困るわけですよ。姉さん」
おどけた口調でお分かり? と尋ねれば、流唯は白々しくそっぽを向いた。
「……くだらないね」




