15.因果応報
流唯さんは落ち着いていた。
だけど空のカップをトレイに戻したとき、小さく咳き込んだ。彼女は前かがみになって、口に当てた手の隙間から、赤い血が伝って落ちていく。
「流唯!」
キャルが叫び、
「流唯さん!」
エマも叫んで駆け寄った。
先程の太蔵さんと同じように、流唯さんは苦しそうに顔を歪めて喉元を押さえていた。息がしづらいのか、不規則でとても浅い呼吸をしていると思ったら、直後に大量の血を吐き出した。
エマの服に、彼女の血が染みていく。
真っ赤に染まった自分の服に、釘づけになった。ママの形見の大事な指輪が、流唯さんの血で汚れている。心の中で、激しく打ち鳴らす警鐘が聞こえた。
「流唯って言ったな。今、確かに流唯って聞いたぞ!」
やっぱり思った通りだと、正生が勝ち誇る。
「みんなも聞いただろう⁉ こいつは理子なんかじゃねえ! 犯罪者の流唯だ!」
倒れた流唯さんを指差して、高らかに笑う。誰も、手を差し伸べてくれる人はいなかった。
目の前で流唯さんが倒れているのに。
罪人だと分かった途端に離れていく。一様に恐怖を浮かべ、怯えた様子で。まるで、化け物にでも会ったみたい。悔しくて、居たたまれなくて、エマは唇を噛んだ。涙が込み上げて俯いたら、キャルの低い声が耳に届いた。
「……流唯が、あんたらに何かしたの?」
彼は流唯さんを抱きかかえ、静かに怒っていた。睨まれた人たちが、キャルの迫力に気圧されて後ずさる。
「一度でも剣を向けた? 危害を加えた? ……ないよねぇ。流唯はそんな奴じゃない」
彼女は、ただ静かに過ごしていただけ。戦いを嫌い、戦地を退き、誰も傷つけないよう自分の殻に籠っていたのだ。それを強引に引きずり出して、晒し者にするなんて。
「エマ。帰るよ」
きっぱりと言って、歩き出したキャルに慌ててエマも立ち上がった。流唯さんを抱えて、力強い足取りで歩く彼の姿に、胸がじんと熱くなる。
こんな風に、ずっと誰かに言ってほしかった。
海賊の娘というだけで、役人に目をつけられた。海賊の娘だって分かった途端に、白い目で見られたこともある。罪人扱いされて、無実の罪を着せられたことも。でも、私は何もしていない。誰も傷つけていないし、何かを盗ったこともない。ずっと、それを分かってほしかった。
だからキャルが流唯さんを庇ってくれたことが、自分のことのように嬉しかった。
「私、源じい呼んでくるよ」
沈みかけていた気持ちを吹っ切って、エマは涙を拭った。一刻も早く流唯さんを助けようと、キャルを追い越して外に出た。――けど。
「ふぅん。なるほどね」
気づいたキャルが、冷めた声でつぶやいた。玄関先には、多くの役人が待ち構えていた。分厚い書類をペラペラとめくった男が、キャルの顔を見て確認している。
「間違いない。こいつだ」
どうやら、役人にも正体がばれたらしい。
「大人しく来てもらおうか。その女も一緒にな」
一斉に抜かれた剣先が、全てこちらに向けられた。今までなら、こんなときは速攻で逃げていたけれど……、エマはちらりと隣を見た。今は倒れた流唯さんが一緒にいる。自慢の足で追手をまくのは無理だ。
「最初に見つけたのは俺だからな! 賞金の受取人は俺だぞ!」
必死に喚く正生の声が、外にまで聞こえてきた。結局は、そういうことだったのだ。
キャルで三億、流唯さんで五億だもんね。
通報しない手はないよね。
あまりに桁外れな金額だから、エマが聞いたときはいまいちピンとこなかったけど、手に入ったら一瞬にして大金持ちだ。金に目がくらむのもよく分かる。せかせか働く必要はなくなるし、使用人を雇って優雅な暮らしができるだろう。誰だって、一度は夢に見ると思う。
だけど……、
正生みたいになるくらいなら、今のままでいい。
エマは辺りをきょろきょろ見回して、近くに落ちていた枯れ枝を拾った。
「キャル……、私が気を引くから逃げて」
剣術なんてないけど、振り回すくらいはできる。その間に二人を逃がせれば、ほかのみんなが助けてくれるはず。捕まるのがエマだけなら、あとは楽だ。巻き込まれただけだって言えば、きっとすぐに釈放される。
「おバカ。そんなことできるわけないでしょ」
「でも二人が捕まったら縛り首じゃん!」
一緒に足掻いたところで、捕まるのは時間の問題だ。早く逃げて手当てをしないと、流唯さんだって危ない。
「私……、流唯さんとキャルを助けたい」
剣を持った役人と闘うなんて、正直怖い。犯罪に関わるなんてごめんだし、今でもできる限り関わりたくないと思う。でも、それで二人が捕まるのはもっと嫌だ。
「だから早く……」
逃げてと、言いかけて言葉が消えた。役人たちの様子がおかしい。エマたちと向き合い、一触即発だった彼らが、たじろぎながら向きを変えていく。その先に目を凝らすと、ずかずかと役人を掻き分けてくる人がいた。
「はい。そこどいてねー」
緊張した空気には、あまりにも似合わない呑気な口調。争うこともなくあっさりとエマの所までやってきたのは、無精髭を生やした強面の男だった。
「……ジュリ?」
呆然とつぶやくと、半開きの目がエマを捉える。
「はぁーい」
低い声で返事をして、彼はにやりと笑った。
「な、なんだ。お前は」
見知らぬ男の登場に、役人たちがざわついている。書類を持っていた男が、慌てて手配書をめくりだした。彼らの不意を突いて現れたジュリは、エマの手から枯れ枝を抜き取ると、ポイっと無造作に投げ捨てた。
「ここは俺に任せて。ね?」
「……でもジュリ、武器ないじゃん」
「大丈ー夫」
間延びした言い方で答えると、彼はエマに背を向けた。そして役人たちに向かい、抑揚のない声で告げる。
「俺、ジュリオっての。よろしくね」
ご丁寧に自己紹介を済ませると、ポキポキと指を鳴らした。
「手柄を立てたきゃ、俺を倒してからにしな」
◇◇◇
いつの間にか日は沈み、空では星が輝いていた。
土地勘のない場所で逃げるには、夜は不向きだ。景色が昼間とは違って見えるし、見通しが悪いので目的地を探しづらい。おまけに途中で巡回している役人に見つかって進路を変えたりするうちに、どっちが北でどっちか南かも分からなくなってしまった。
目印を探すにも、家より畑や木々が多いこの田舎では困難だ。
「流唯さんちって……、どこだっけ」
行きは十分で来られた距離が、何倍にも長く感じる。実際のところ、もの凄く遠回りしているのは確かだった。せめて流唯さんの意識があれば、もっと早く帰れたけど。
「……流唯さん、大丈夫?」
依然として、彼女の意識は戻らない。キャルの腕の中でぐったりしたまま、死んだように気を失っていた。
まさか、本当に死んでないよね?
脱力して動かない様子を見ると、不安が押し寄せる。胸元と袖口の辺りには、赤黒い血のシミが生々しく残っていた。
「死んではいないよ。今のところは」
答えるキャルの顔にも、いつもの余裕は全くない。彼は時折空を見上げ、周囲を見回し、何かを探しているようだった。
「多分、流唯の家に行ってもみんなはいないよ」
「え? じゃあキャルはどこに向かってるの?」
そもそも、彼も道に迷ってるんじゃないかと思ったけど。
「俺はパールクイーンの航海士だよ?」
一瞬、不敵な笑みを浮かべた彼は、薄暗い路地をずんずんと進んでいく。どうやら、闇雲に歩いていたわけじゃないらしい。このまま闇に紛れてみんなのところまで行くのかと思ったけど、不意に立ち止まった。また頭上を見上げるかと思ったエマも、気づいた。
どこからか、けたたましく走る馬車の音と、叫び声が。
夜の静かな田舎町に響き渡っている。
「これって……」
つぶやいたエマの前で、キャルは流唯さんを下ろした。道端にそっと彼女を寝かせると、おもむろに民家の塀によじ登る。高い位置からきょろきょろと辺りを見渡すと、近くの木の枝を折って先端に自分のシャツを巻きつけた。
「あの正生って奴、キャップの顔も見たって言ってたでしょ?」
独り言のように言いながら、彼はポケットから小さな小瓶を取り出し、シャツにかけた。甘っとろいアルコールの香りが立ち上る。
「強欲な奴のことだ。俺らだけじゃなくて、ほかのみんなも捕まえる気で家の方にも役人を送ってるよ。だからジュリちゃんがこっちに来たのさ」
そしてシュっと小さな音が聞こえ、彼の手元が明るくなった。
「……つまり、家にも役人が来てるから、それを知らせるためにジュリがこっちに来たってこと?」
目立たない彼を行かせることで、一刻も早く役人のことを知らせようとしたと。
「となると?」
「え?」
となると、どうなるの?
「家を出たパールクイーンは、俺らと合流するために走り回るってことだよ」
そう言って、彼は火をつけたマッチを濡れたシャツの塊に押し当てた。
「わ……」
あっという間に松明の出来上がりだ。飲むためだけだと思った酒に、こんな使い道があったとは。
「まずは分かりやすく騒ぎが起きてるさっきの集会所に向かうだろ? そこでジュリを拾ったら、あとはうちらだけだ。でも行きに通った通りはさっき見たら役人だらけだったから、合流するならその二、三本裏の道だ」
勢い良く燃えだした松明を手に、彼は再び塀の上で立ち上がる。大きく火を回して合図をすると、馬車の音が次第に大きくなってきた。
「ほら来た」
ガラガラと派手に音を立て、壊れそうな勢いで近づいてきた馬車には、幌の上でキャップが胡坐を掻いて座っていた。
砂埃を巻き上げながら、興奮した馬が猛スピードで走ってくる。荷車が壊れるんじゃないかという勢いでやってきたパールクイーンは、エマたちを少し通り過ぎたところでようやく止まった。
御者台では、手綱を握るミリの隣に銀とジゼルの姿もある。
「流唯を中へ!」
幌の奥から源じいの声が聞こえると同時に、銀とジゼルが馬車から飛び降りて流唯さんを運び入れた。
「お前らも早く乗れ!」
頭上から降ってきたキャップの叫び声に、エマもキャルと一緒に転がるようにして幌に入った。馬車はすぐに動きだし、激しい振動に揺られながらキャルが叫ぶ。
「源じい! 流唯は毒を飲んだんだ!」
暗い幌の中で流唯さんの顔色を見ていた源じいは、神妙な顔でキャルを見上げて頷いた。
「分かった。あとは任せろ」
その言葉を受けて、キャルは再び御者台の方に戻り、源じいは頭に巻いていたバンダナに指を差し込んで、小さな紙包みを取り出した。
「銀。流唯を起こして支えててくれ」
隣に付き添っていた銀の手を借りて、意識のない流唯さんに薬を飲ませていく。だけど馬車の振動で粉薬は舞い上がり、ほとんどが辺りにこぼれ散った。
「ミリ! もっと静かに走れんのか!」
「これ以上スピード落としたら捕まるって!」
苛立つ源じいにミリも必死だ。地理に長けたキャルのアドバイスを受けながら、なんとか追手をまこうと苦戦している。エマは上下左右に激しく揺られ、幌の木枠にしがみついているだけで精一杯だった。
ところが、獅子から逃げる仔馬のように走っていた馬車が、突如スピードを落とした。




