12.落とし物
やっとの思いで自分の部屋に辿り着き、カーテンをくぐったあとは力尽きてベッドに沈んだ。もう動けない。
「ううううぅー……」
やり切れない思いに、唸り声が上がる。まさか、ミリが既婚者だったなんて。子持ちだったなんて。ちゃんと確かめなかった自分も悪いけど、ほかの人の結婚話を聞いたときもあったんだから、そのときにでも話してくれれば良かったのに。
恋人とはわけが違う。相手が妻子じゃ太刀打ちできないじゃん!
どう考えたって、諦めるしかなかった。
「ミリがいるからここに来たのにぃ……」
もう何のためにパールクイーンにいるのか分からない。船旅はこれからだっていうのに。共同生活は一年もあるのに。これじゃあまるでグレイのときと同じだ。この年になって、あの悪夢が再来するとは。
結婚生活にのろける彼を、ただ見つめるしかできない孤独な自分。
「うわわわわー。ないわー。絶対ないわー」
何とかしなければ。
恐怖に近い衝動に追い立てられ、起き上がったエマの耳に部屋をノックする音が届いた。
もしかして、ミリ?
怯えて腰が引けたけど、次に聞こえたのは流唯さんの声だった。
「エマちゃん。ちょっといいかな」
ドアを開けると、彼女が一人で立っていた。さっきは銀のところに戻るなりほかのクルーたちが群がっていくのが見えたけど、ここに来る彼女についてくる男がいないのは意外だった。
「そろそろ帰るから、一声かけて行こうと思って」
「もう帰っちゃうんですか?」
年に一回しか会えないのに、帰り際は随分とあっさりだ。
「女の子一人は大変だろうけど、頑張ってね。危ないときは気兼ねなく野郎どもを盾にしな?」
「流唯さん……」
あなたの優しさが身に沁みます。こういう人が傍にいてくれたら、男だらけの環境も過ごしやすいんだろうなぁ。なのに、いてほしい人はいなくなり、いなくなってほしい人が傍に残るこの現実。
「それじゃ、元気でね」
残酷すぎる。目の前で閉められたドアが、エマに無情という言葉を突きつける。甲板まで見送ろうかと思ったけど、また外に出てミリに会うのは気が引けて、とぼとぼと自分のスペースに引き返した。このあとはいよいよ出航だし、海に出たらさらに生活範囲が狭まって、彼に会うことも今より増える。
パールクイーンに行けば、楽しい毎日が送れると思っていた。
ミリさえいれば、ほかが海坊主ばっかりでもかまわないと思っていた。
それが間違いだったと、いま心の底から感じている。彼さえいればいいということは、彼がいなくなったらほかにはいないということなのだ。
「逃げなきゃ」
ふたたび焦りと衝動が蘇り、意を決してエマは動いた。財布をワンピースのポケットに押し込んで、部屋を飛び出して通路を走る。海に出たら最後、逃げ道はないのだ。これが最後のチャンスだった。
流唯さんに頼もう。あの人ならきっと協力してくれる。
そして甲板に飛び出したエマは、目に映った光景に気力の全てを削ぎ落とされた。急いで向かった甲板に、彼女の姿はすでになかった。
「流唯さんは?」
近くにいた准に声をかけると、
「とっくに帰ったよ」
投げやりに言葉を返し、彼は出航の準備に取りかかる。
早すぎるよ、流唯さん……。
年に一回だっていうのに、名残惜しむ気持ちはなかったらしい。それとも長居をすると帰りづらくなるから、あえて別れの時間をとらなかったんだろうか。どっちにしろ、救世主の彼女は助けを求めるエマには気づかず、この牢獄から立ち去った。
もう、救いの手を差し伸べてくれる人はいない。気が抜けてへたり込んだけど、声をかけてくれる人さえいなかった。いつもならここで、ミリが「大丈夫?」って心配してくれるはずだけど。その声がないのを幸いに思う反面、不思議に思って辺りを見ると、彼は舷側に寄りかかってぼんやりしていた。彼だけじゃない。気づけばほかのクルーたちもみんな腑抜けて、パールクイーン号には静けさが広がっていた。船全体に物寂しさが漂って、可哀想なくらいだ。
なんとなく気になって銀を探したら、彼は船首楼の上甲板で黙々と腕立て伏せをやっていた。いつも鍛えることに熱心な人だけど、今は特に集中している。何ていうか、憑りつかれたように。
まるで、彼女のことを忘れようとしているみたい。
気持ちを切り替えようと必死になっている姿は、見ていて胸が苦しかった。
辛いよね。寂しいよね。なのに諦められない。人を想う気持ちって、すぐに消せるものじゃないから。
銀の立場が今の自分と重なって、他人事には思えなかった。
何とかならないのかな……。
思ったところで、エマにできることは何もない。流唯さんはもう帰ってしまったし、また来年、彼女が来るまで待つしかないのだ。
「一年かぁ……」
ぼーっと考えながら銀を見ていたら、彼がふと体を起こした。近くのロープにかけてあったタオルを手に取り、汗を拭いて、そして船首像の近くで何かを拾う。小さすぎて、何を持っているのかは分からない。すると彼は、おもむろに船首楼から降りてきた。
自分の方に向かって来るのが分かって、ちょっと緊張してしまう。
「これ、お前のか?」
少ない言葉で尋ねられ、恐る恐る彼の掌を見てみると、キャッチのなくなった小さなピアスがあった。エマの小指の爪よりも小さくて、真ん中にダイヤモンドがついている。
「素敵だけど、私のじゃないよ」
シンプルで大人っぽいデザインだし、どっちかと言うともっと大人な人に合いそうなデザインだ。そして船首楼に落ちていたということは、持ち主はあの人なんじゃないのかな。
すぐにエマは気づいたけど、銀はほかのクルーにも聞いている。本当は彼も気づいてるんじゃないかと思うんだけど。案の定否定を返されて、彼は立ち尽くした。
「あの、それどこに落ちてたの?」
思い切って聞いてみると、振り返った彼がぼそりとつぶやく。
「船首像の下だ」
「それって……」
エマの脳裏に、ある人の顔が浮かんだ。
「流唯のじゃない?」
同じことを思ったらしいキャルが、あっさりと答えを出した。だって落ちていたのって、船首楼だよ? そこは流唯さんが銀の膝枕で寛いでいた場所じゃん。そしてピアスがエマのでもキャルのでもほかのクルーのでもないとなれば、もう決定的じゃない?
キャルの言葉に確信を得た銀は、ぎゅっとピアスを握り締めた。
うわぁ、切ない。
また一年会えないのに、彼女の落とし物を拾うなんて。これから彼はこのピアスを見るたびに流唯さんのことを想うんだろうなぁ――って、思ったら。
「届けてくる」
銀ははっきりとそう言って、すたすたと甲板を歩き出した。だけど、
「流唯の家がどこか分かるのかよ」
ジゼルに鋭く聞かれ、足が止まる。どうやら、知らずに行こうとしていたらしい。
「……いま追いかければ見つかるかもしれない」
「どっちの方角に行ったかも分からねえのに、どう追いかけるってんだよ」
「……」
言葉を詰まらせた彼を見て、可愛いと思ったのは自分だけの秘密だ。
恋って盲目だよね。
変に共感しつつ、その場でエマも打開策を考える。八方塞がりかと思ったところで、またキャルが軽い口を挟んだ。
「流唯なら出流野って言ってたよ」
ふたたび、途絶えかけた道筋に光が差した。
「行ってくる」
力強く発した銀の言葉に、エマも元気に手を上げた。
「私も行きます!」
その途端、みんなの視線が自分に集まる。ちょっと気恥ずかしいけど、撤回する気は全くなかった。
これが最後のチャンスだから。
「出流野なら、行ったことがあるから分かります!」
祇利那から華朝に来るときに何度か通っただけだけど。詳しくなくても、こんなのは言ったもん勝ちなのだ。すがる思いで反応を待つエマの頭に、ぽんと誰かが手を置いた。
「話は決まったな。お前ら、速やかにピクニックの準備を整えろ」
不敵な笑みを浮かべ、張りのある声でそう言ったのはキャップだった。
◇◇◇
調達した幌つきの馬車に乗り込んで、揺られること小一時間。
出流野に着いた一行は、それぞれの持っている情報を出し合って分析した。
キャル曰く、
「出流野の一軒家らしいよ」
ミリ曰く、
「畑付きの広い敷地だって」
准曰く、
「毎朝鶏が卵を産むって言ってたぜ」
さらには銀曰く、
「古い家だから、家賃も安いって」
そうして持ち寄った情報を元に、流唯さんの家探しは始まった。それっぽい家を見つけては、偵察員を派遣する。女ならば怪しまれないだろうという理由で、任命されたエマは張り切って遂行した。
「こんにちはー。お花はいかがですか?」
てな具合で、道中に摘んだ花を手に片っ端から当たっていくこと六軒目。
「……エマちゃん?」
玄関先で、驚く流唯さんと遭遇した。わーん! 流唯さーん! と叫んで抱き着きたい気持ちをぐっと堪え、彼女の腕をがしっと掴む。
「助けてください」
声を潜め、それでも切実な熱視線を注いで告げると、流唯さんはきょとんとした後、ふと視線を外に向けた。
「……どういうことかな?」
怒るでも困るでもなく、まずは冷静に事情を聞こうとする彼女に、エマは顔を歪めて俯いた。
「パールクイーンに……いたくないんです」
頼めるのは今だけだった。この機会を逃したら、きっともうチャンスはこない。
「匿ってくれとは言いませんから、逃げるのを手伝ってもらえませんか?」
馬車で待っているみんなにはバレないよう、ドアの陰に隠れて伝える。流唯さんなら、女としての苦労を察してすぐに受け入れてくれるはず! って、思っていたけど、期待した返事は聞こえなかった。待ちきれなくて顔を上げると、彼女はじっとこちらを見ていた。どう言葉を返すべきか、判断しかねている感じだ。
「……エマちゃんは、自分からパールクイーンを選んだって聞いたけど」
ひとまず返事を避けて、流唯さんは言葉を紡ぐ。エマは素直に打ち明けた。
「ミリがいたから……選んだんです。でも彼が結婚してたなんて知らなくて……」
「……なるほどね」
そういうことかと、彼女はすぐに理解して頷いた。そしてどことなく警戒心を解いた流唯さんは、小さく笑って言った。
「悪いけど、私は協力できないな。分かったら話は終わり」
「え? でも……」
「ほかの連中も一緒なんでしょ? あまり待たせると怪しまれるから、早く声をかけた方がいいんじゃない?」
流唯さんは全てお見通しだった。本当はもっと話したかったけど、彼女の言う通り怪しまれるのはまずいので、仕方なく一旦馬車へ戻る。
「どうだった?」
御者台から声をかけてきたジゼルに、作り笑顔で頷いた。
「ビンゴでした」
その途端、幌から男たちが威勢良く飛び出した。
「流唯ちゃーん!」
雪崩れ込むようにして現れた彼らを、流唯さんは右手一本で制した。
「そこまで。ただでさえ君らは目立つんだから、静かに中に入って。それからジゼル。馬車は道端に停めないでこっちの庭まで移動してくれる?」
彼女が突き出した手の前で、キキーっとブレーキをかけて止まったみんなは、言われた通りにぞろぞろと屋敷の中に入っていく。すごい。先生の指示に従う生徒のようだ。
全員が家の中に入ったところで、流唯さんは改めて口を開いた。
「それで、どうしてここに?」
リビングでテーブルを囲んでたむろするパールクイーンを、彼女は少し離れた入り口で腕を組んで眺めている。その表情は、呆れているように見えた。すると、銀が彼女の前まで行って、ズボンのポケットから例のピアスを取り出した。
「……これ」
彼の大きな掌にある小さな輝きに、流唯さんも気づいたらしい。
「あ……。落としたのか」
なんとなく耳を触って、自分のだと確信したようだった。
「これを届けるためだけにわざわざ来たの?」
驚く彼女に、銀の後ろからソファーでくつろいでいたキャップが口を挟んだ。
「もし大事なものだったら困るだろ?」
でも、考えてみたら、ピアス一個を届けるために、こんな大所帯で来ることないよね。きっと、流唯さんもそう思ったから呆れていたのだ。にっこりとわざとらしい笑顔を見せるキャップを見て、彼女は小さくため息をこぼした。
「コーヒーでも淹れるよ。言っておくけど、酒はないからね」
方々から上がるブーイングを完全に無視して、彼女はキッチンへ下がっていく。すかさずエマも立ち上がり、そのあとを追った。
「私も手伝います!」
さっきの短いやり取りだけじゃ諦めきれない。何とかして帰るまでに彼女の協力を得なければならないのだ。




