6.試練は続くよどこまでも
「ねえ。やっぱり准から行ってくれない?」
エマは尻込みして言った。
無事に水問題は解決したが、もうひとつの問題が残っていたのだ。
「お前な、俺が行ってどうすんだよ」
「分かってるけど、怖いんだもん」
なんて、あるドアの前で押し問答を繰り返す。するとそこに、ガラスの小瓶を持ったキャルが通りがかった。小瓶からは、ほんのりバニラの香りが漂ってくる。ブラウスの胸元がはだけて、朝からお色気たっぷりだ。
「二人とも、銀の部屋の前で何してんの?」
「それが……」
おしゃれな香水の瓶に目がいきつつも、わあ、素敵! と はしゃげずにエマは事情を説明した。今朝の水問題で、銀に誤解をさせたままだったのだ。このままでは彼に悪いし、今後の生活をより快適に過ごすためにも、早めに謝った方がいいってことで来たんだけど。
「なんだ。そんなこと。銀ー。入るよー」
「え、ちょ、ちょっと待っ……」
慌てるエマなんておかまいなしに、キャルは間延びした口調で言いながらドアを開けた。室内は、両脇にくくりつけのベッドがそれぞれあって、奥の壁には小さな丸窓がついている。その部屋の真ん中で、銀は腕立て伏せの最中だった。じろりとその目がこちらを向くと、エマを捉えるなりすぐに逸らす。うわー。今すぐこの場から逃げ出したーい。
目を合わせるだけでも怖いっていうのに、キャルは至って呑気だ。
「エマちゃんが銀に謝りたいんだってー。話を聞いてやって」
ほらと促され、エマは無意識に唾を呑んだ。こうなったら、女は度胸だ! 当たって砕けろ!
「ごめんなさい!」
声を張り上げて、勢いよく頭を下げた。
「さっきは……化粧が崩れてて、顔を見られたくなかったから逃げちゃって、その、誤解させちゃったとしたら、本当にごめんなさい」
銀の顔を見るのが怖くて、頭を下げたまま話したら、視界の端で彼が起き上がった。先の行動が読めなくて、そんなささいな動作にまでびくついてしまう。
お、怒ってる?
自分を取り囲む空気がとてつもなく重くて、返事を待つ数秒の間に全身から大量の汗が流れていく。
船から出ていけとか言われたらどうしよう。
これ以上の一人暮らしはパパやばば様が許さないし、パールクイーンを追い出されたら、行き先はシーウルフしかない。となると、婿探しもそこでしなきゃならないわけで、いい男に出会える機会なんて皆無だ。出会いがなければパパたちは間違いなくセスかジュリを推してきて、そしてエマの旦那様は彼らのどちらかに決定される…… なんて絶対嫌っ!
「……俺が怖いか?」
不意に聞かれ、思わずうんと答えそうになって慌てた。怖くないとも言えなくて、口ごもったエマの前で彼は盛大なため息をこぼす。すると、キャルがその場に似合わない甲高い声で口をはさんだ。
「銀は無表情すぎるんだよー。エマちゃんは普通の女の子なんだから、もっと笑顔で接してあげないと」
「……放っとけ」
投げやりに言いかえし、銀はベッドに腰かけた。明らかにむくれているけど、キャルは全然気にしていない。
「ただでさえでかくて威圧的なんだからさー」
確かに、あの大きな体格で見下ろされると、身動きがとれなくなるのよね。
「せめて感情を表情に出すくらいはしないと」
キャルの言う通り、無表情だから何を考えているのか分からないのだ。
「元々目つきも悪いんだし、顔のつくりが怖いんだから」
そうそう。切れ長な目をしてるから、目が合うと睨まれてるような気がするもん。……て、キャルさん。さっきから言い過ぎじゃない?
「おまけに声も低いからよけいだよねー」
うわわ。銀の周りにどす黒い空気が見える。思った以上にキャルのジャブが効いてるぞ。
「そんなんだから流唯に振り向いてもらえないんだよ」
あ、とどめ刺した。っていうか、ルイって誰?
首を傾げるエマの隣で、准がやたらと咳払いをする。わざとらしくタバコを吸って、自分で吐いた煙をパタパタ扇いでみたりして。マイペースなキャルに何かを気づかせようとしているらしいけど、本人はちっとも気づいていない。
「なんか空気が悪いな。外に行くか」
被害から逃れようと、さりげなく話題を振った准にエマも乗った。
「私もお腹すいちゃった。食堂行こうかな」
正確に何がとは言えないけど、なんとなく逃げた方がいい気がしたのだ。だってほら、銀が無言で武器を手にしてる。
「流唯がいたときはだいぶ改善されたと思ったのに、いなくなった途端に逆戻りしちゃったよね。元々口下手なんだから、面倒臭がらずにもっと話せばいいんだよ。今回だって、銀が原因で誤解作ったようなもんじゃん?」
キャル! 魔の手がすぐそこまで迫ってるよ!
カシャンって、小さな音がしたと思ったら、直後ブンって鈍い風が吹いた。一瞬の出来事で、エマは瞬きさえできなかった。銀が瞬時に組み立てた槍を振り回したのだ。鋭い刃先がエマの目の前でぴたりと止まって、腰が抜けた。驚異的な反射神経で槍をよけたキャルと准は、二人揃って向かいのベッドに倒れている。
「ほかに用事は?」
いつも以上に低い声で聞かれ、彼らは何度も頭を振った。さすがのキャルも、これ以上はマズいと思ったらしい。引きつった笑いを浮かべ、ぎこちない身振りで銀を宥めた。
「とりあえず、誤解が解けて良かったじゃん?」
すると、銀の視線が鋭い目つきのままエマを捉える。
「……悪かったな」
いえいえ! とんでもないです! 悪いのは私ですから!
謝られているのに、首を絞められているような苦しさを感じるのはなぜだろう。いや、むしろ本当に息苦しい?
「准。タバコ煙い、よ……」
やめてって言おうと思ったら、准の横からモクモクと煙が立ち上っている。そして焦げ臭さと甘ったるいバニラの香りが辺りに広がり、
「うわ! 火! 火事! 燃えてるよ!」
さっきの出来事で、准の手から落ちたタバコがシーツを燃やし、キャルは持っていた香水をばらまいたのだ。
「あつっ! 灰皿! 水!」
「俺の香水ー!」
すぐにみんなで踏み消したけど、シーツは焦げて穴が開き、壁には黒っぽいシミができた。一歩間違えば大惨事だったのに、キャルは残り少なくなった小瓶を切なそうに見つめている。
「あーあ。こんなに減っちゃって……」
着眼点、そこじゃないと思うんだけど。案の定、銀がまた淀んだ空気をまといだした。わー、嫌な予感。エマと同じように察した准が、笑顔を繕って彼に言った。
「でも良かったな! 燃えたのが銀のベッドじゃなくて」
そっか。銀はもうひとつの方に座っていたから、こっちは違う人のベッドだったんだ。
じゃあこのベッドは誰の?
って聞こうとして、エマは言葉を詰まらせた。銀が、今度こそ睨んでいたのだ。
「出ていけ」
今すぐ出ないとたたっ切ると脅されて、転がるように部屋を出た。直後、荒々しくドアが閉められる。銀の姿が見えなくなり、エマはほっと息をついた。
本当に殺されるかと思った……。
あまりの恐怖に心臓がバクバクだ。さすがは億の賞金首。あの眼力だけで人を殺せそう。キレたときの迫力が半端ない。
「ったく、准てば今のは禁句でしょ」
ふぅーと額の汗を拭き、キャルが准に釘を刺す。
「禁句を連発していたキャルには言われたくないな」
准も負けじと言ったけど、エマには意味が分からなかった。
「なんで今のが禁句だったの? 実は燃えた方が銀のベッドだった?」
「いや。銀のベッドは確かに無事だったんだけどな」
答えた准は、苦笑を浮かべて言いづらそうにしている。その代わりにキャルが、あっさりした口調で言った。
「あそこは銀の舎弟専用のベッドなんだよ」
「舎弟?」
「そう。流唯っていうね」
そういえば、さっきもキャルが言っていた。そんなんだから流唯に振り向いてもらえないとかなんとかって。でも、舎弟ということは、
「男?」
素朴な疑問を口にしたら、准が困った様子で答えてくれた。
「一応女だ」
なんと。パールクイーンは女子禁制じゃなかったのか。じゃあ銀がエマのことを良く思っていないと感じたのは、まったくの誤解だったのだ。目つきの悪いあの顔をエマが勝手に睨んでいると勘違いし、女の私が気に入らないのかと早とちりしたらしい。だって、本当に愛想悪いんだもん。
内心では自己弁護しつつ、ふと首を傾げた。
「一応ってどういうこと?」
一言女だって言えばいいのに、わざわざ付け足すということは、女だけど何か違う部分があるわけで。
意味深な言い回しが引っかかり、一人で妄想の世界に入っていたら、准の声がこちらの世界へとひっぱり戻した。
「最初は男装してたんだよ。で、まあいろいろあって、今は女に戻ってるんだ」
「そうなんだ。じゃあ私のほかにも女がいるんだね」
「いや。今は船を降りてるよ」
准の話では、銀はその流唯という人をとても可愛がっていたらしい。女だと分かってからも、何かと目をかけ、親身になっているのだとか。正直、あの銀が誰かに親身になるなんて、想像できないんだけど。
とにかく、彼にとって流唯は特別な存在であり、ほかのクルーたちの間では、銀は彼女に惚れているという認識が浸透しているらしい。
「そりゃあ怒って当然だよね」
惚れている女の寝床を燃やされた上に汚されたとなれば。追い出されただけで済んだのは奇跡だろう。
「もう一回謝った方がいいかな」
さっきは怖くて行きたくないとごねていたけど、彼の事情を知ったらなんだか可哀相になってしまった。
「気にすることないって。寝床にちょっとくらいシミができても、流唯は気にしないから」
……そういうキャルは、もっと気にした方がいいと思う。昨日もマイペースそうな人だと思ったけれど、まさかここまでとは思わなかった。海賊船でこの容姿を維持するには、これくらい図太くないとできないのかもしれない。
「そういえばエマ」
一人で考えていたら、ふと准が思い出したように言った。
「さっきの水のことだけど、キャルに聞いたらどうだ? 水の使い方ならキャルに聞くのが一番だと思うぜ」
それってやっぱり、人一倍美に気を遣っているからってことか。とりあえず事情を話してみたら、キャルはしみじみ頷いた。
「だよねぇ。風呂と洗顔は必須だもんねぇ。いいよ。キャルさんが教えてあげる」
そう言った彼の瞳が、水を得た魚のように輝いた。




