5.パールクイーンは最高
海賊船に居住を移し、エマがまず直面した問題がトイレである。
記憶の片隅にあったエマニエル号のトイレは、船首楼甲板下のヘッド部分に設けられていた。どんな仕組みになっていたかというと、床にぽっかり開けられた穴をまたぎ、海面に向かってダイレクトに……、まあ、いわゆる原始的なものだ。人数が多いためか個室はなく、小さかったエマは、何度かその穴に落ちかけた。結果、それがトラウマになって海賊嫌いが加速した。
過去の恐怖体験を思い出すと、エマは自分の体を抱いて身震いした。
ここも同じだったら嫌だなぁ。
でもあれから何年も経ってるし、船のタイプも違うし、もしかしたら違うかも。
そう強引に思い込み、覚悟を決めて通路に出ると、一人のおじいちゃんに出くわした。がっしりした体格や頭に巻いたバンダナは海賊らしいが、白い顎鬚と垂れた目元が温和な人だ。パールクイーンで唯一人の船医だと教えてくれた。
「源じいと呼んでくれ。よろしくな」
優しそうな笑顔に、警戒心が払拭される。内容が内容だけに、ミリには聞きづらいと思っていたのだ。ほかのクルーたちもちょっと抵抗があったから、この人に会えてラッキーだった。この機を逃すまいと尋ねてみると、下甲板に続く階段を指差された。
「トイレならほれ、階段を下りてすぐ右手のドアだ」
位置的に考えると、エマニエル号とほぼ同じ場所である。一応礼を言いつつも、内心では激しく落ち込む自分がいた。
「やっぱりここも同じかぁ……」
だからって我慢するにも限度があるし、仕方なく重い足を動かした。
源じいの言う通り、下甲板に下りるとすぐ右手に質素な木造のドアを発見した。重い鉄扉を開けるような気分で、恐る恐る押し開けた。
「……あれ?」
中に入ると、さらに二枚のドアが出現した。個室のトイレが二個、そこにあったのだ。一応個室ということが分かり、幾分気持ちが軽くなったところで、その先のドアも開けてみる。
「……嘘」
そこには、陸地と同じ水洗式のトイレがあった。陶器でできた腰掛け型の便座、その横に垂れ下がる一本の縄、天井に設置された大きなタンク、全て陸地と同じである。タンクのサイズは格段にこちらの方が大きいが、それは船という水が貴重な環境だからだろう。
ちなみに、後々源じいから聞いた話では、流された排泄物は一時的に船底の便槽に集められ、陸に上がった際に汲み取り業者に安値で売っているらしい。まあ、必ず便槽が溢れる前に陸地に着けるわけではないので、間に合わない場合は大自然の力を借りるわけだが、今のエマにとってその辺の詳細はどうでも良かった。重要なのは、『便座がある個室のトイレ』ということだ。
「パールクイーン最高!」
これなら人の視線も気にならない! 穴にも落ちない! 最中に下から吹き上げる風や海水にお尻を撫でられることもない!
「やったー!」
と、喜んだ翌日。
いつもと違う部屋で目覚めたエマは、違和感を感じた直後、すぐに海賊船に引っ越したことを思い出した。今日はパールクイーンに来て初めての朝でもある。寝ぼけ眼をこすりながら、顔でも洗いに行こうと布団をまくって体を起こす。昨夜はさすがに疲れたのか、うっかり化粧をしたまま寝てしまった。そのせいで、今朝は顔中に脂が浮いてテカテカだ。早いところ化粧を落とし、顔を洗ってさっぱりしたいと思いながら、部屋を出たところで立ち止まった。
どこで洗うの?
基本的に、船には水がないのだ。仮に海水淡水化装置があるとしても、それで作られた水は貴重なため、毎日洗顔用に分けてもらうのは無理だろう。
多分、いや、きっと、ほかの人たちは顔なんて洗わないんだろうな。
面倒だからしない人もいるだろうけど、洗わないのは節水のためでもあるだろう。洗顔はどうすればいいかなんて、聞くだけ無駄だ。
「ちょっと待って。顔を洗えないっていうことは……」
風呂はもちろん、化粧を落とすための水もない。
「あり得ない」
水がないなら化粧をしなければいいだけだけど、年頃の女の子がノーメイクなんてあり得ない。誰にも会わなくたって、朝起きたら薄化粧くらいするのが常識だ。
「うわー。どうしよう」
困惑してその場でおろおろしていたら、突然背後から声が聞こえた。
「何がだ?」
「ひやあっ!」
飛び上がって振り返り、ふたたび飛び上がりそうになって後ずさる。目の前には、石壁のような大男――銀がいた。
「お、おぉおはようございます……」
こんな近くに来るまで気づかなかったなんて。ただでさえ怖いのに、気配を消して近づかないで欲しい。
「は、早いですね」
どうにか自分を落ち着かせ、笑顔で声をかけたのに、銀は無表情で冷めた目をしていた。
「何かあったのか?」
「あ、えと……」
どうしよう。顔を洗いたいなんて、間違っても言えない雰囲気だ。これじゃあ化粧の相談なんて問題外だし、っていうか自分テカテカだった!
「ぎゃー!」
慌てて部屋に駆け戻った。……見られた。化粧が崩れてテッカテカの脂ぎった顔!
「おい……」
「入んないで!」
銀の声とノックの音が聞こえたけど、閉めたドアに張りついてエマは叫んだ。
「ごめんなさい! 私のことは放っといて!」
室内では、エマの悲鳴に起こされたジュリとセスが不思議そうな顔でこっちを見ている。うわあ、みんなこっちを見ないで!
「な、何でもないから!」
まずは化粧! 何より化粧だ!
生まれたばかりの仔馬のように、おぼつかない動きで自分のスペースまで移動すると、急いで引き出しをあさってタオルを取り出し、顔を拭いて化粧をした。やっぱりちゃんと洗わないと化粧ののりが悪いな。厚化粧になっちゃうけど仕方ない。ついでに先日買った蝶の髪飾りも取り出し、梳いた髪を耳にかけて留める。最後に鏡を覗いて確認し、いつもの顔が出来上がるとやっと気持ちが落ち着いた。
「もう……、朝から最悪」
化粧が崩れた顔も、すっぴんと同じくらい見られたくないのに。肩を落とし、言葉をなくしてへこんでいると、またノックの音が耳に届く。
「どうかしたか?」
今度は銀じゃなかった。低めの落ち着いた声で、歯切れのいい話し方だ。エマの叫び声を聞いて来てくれたんだろうけど、誰だろう。
そっとドアを開けて顔を出すと、短い黒髪の男が立っていた。昨日甲板や食堂で見かけたけど、話をするのは初めてだ。確か、ミリが准と呼んでいたのを覚えている。この人も海賊っぽくないから、なんとなく印象に残っていた。体格が良くて身長もそこそこ高いけど、銀のような威圧感は感じない。生成りのシャツをラフに着こなし、姿勢良く佇む姿に罪人臭はなかった。この人なら、普通に話せるかしら。
「お、おはようございます……」
「何かあったのか?」
「銀は……」
「銀?」
辺りを見ると、銀はもういなかった。もしかして、誤解させちゃったかな。
何もされていないけど、結果的には逃げたわけだし。顔を見られたくなかったとはいえ、申し訳ないことをしてしまった。
「あいつに何か言われたか?」
准は屈み込んでエマと目線の高さを合わせると、少しだけ首を傾げた。なんだか、面倒見のいいお兄ちゃんみたいだ。
「えっと、実は……」
思い切って事情を話すと、彼は腹を抱えて笑い出した。
「そんなに笑わなくても」
「悪い悪い。でもそういうことなら、早く言えば良かったのに」
そう言われても、今日が初めての朝だったのだ。昨日は部屋のことで頭がいっぱいだったし、水も使わなかったんだから仕方ないじゃない!
半ば八つ当たり的な気分でいたら、准は笑顔でエマに言った。
「水なら一緒に来いよ。俺もこれから顔を洗いに行くし」
「え? 顔洗うの?」
彼の意外な言葉に驚いた。だって水は貴重なはずだ。いくらクルーが少なくても、毎日みんなで使っていたらあっという間になくなるだろうに。
「なんだよ。俺らはそんなに不潔だと思われてたのか?」
だって、そもそも海賊ってそういうものでしょ? だから肌は浅黒いし、髪の毛は脂ぎっていて体臭もきつい。って、あれ? パールクイーンは臭くない?
「どういうこと?」
不思議に思って尋ねたら、准は甲板に続くドアを開けた。エマも彼について出て行くと、外に出ると同時にはっとした。
「分かったか?」
にやりと口角を上げた准が、なんだか恨めしくなる。なんで気づかなかったんだろう。水ならいくらでもあったのだ。パールクイーン号は川に停泊してるんだから。自己嫌悪に陥ったエマの前で、彼は船を降りて顔を洗った。バシャバシャと頭から水を浴びて寝癖も直し、うがいをして口をすすぐと、気持ち良さそうにタオルで拭きながら上がってきた。
「エマも洗ってきたらどうだ?」
なんて、当てつけに言われて彼を睨む。もう化粧をしたあとで、改めて顔を洗う気にはなれなかった。
「でもさ、海に出てるときはどうするの?」
ずっとここにいるならまだしも、海にいる時間の方が長いはず。パールクイーンがほかの海賊と違うことは分かったけど、海に出たら水がないのはみんな同じだ。
「水が欲しいときは陸に上がればいいだけだろ」
確かに、そうなんだけど。
「そんなにうまくいくもの?」
「うちはちょこちょこ陸に立ち寄るから、あまり不自由はないと思うぜ。もし海のど真ん中で水不足になったとしても、そのときは海水淡水化装置があるだろ」
「でも、その装置だけで賄えるの?」
「十人くらいなら余裕だ。雨水濾過装置も積んでるし」
というか、船は小さいし頻繁に陸にも上がるから、宝の持ち腐れになっている。どちらも無駄にでかくて場所をとるので、邪魔でしかないというのが現状らしい。それならなんで積んでいるのかと思ったけど、船長が商人の口車に乗せられてクルーに内緒で買ってしまったんだとか。
「陸に着くたびに水の補給もしてるし、近くに船が見つかればそいつらから頂くことだってあるしな」
一応海賊だからと付け足すように言われたけど、なんだか拍子抜けしてしまった。どうやら、船の上でも生活レベルを下げる必要はなさそうだ。
これって、海賊修行になるのかしら?




