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Sinner E  作者: 藤 子
【序章】
1/47

1.日常崩壊

 らっきょう玉をパチンと鳴らし、がま口を閉めて、エマはにんまり笑った。

 家を出て、軽い足取りで石畳の緩やかな階段を下りていく。柔らかい黒髪を揺らしながら向かった先は、裏通りにある小さな雑貨店だった。


「おじさん! あれまだ売れてない?」


 まるで自分の家のように店のドアを開けて声をかけると、カウンターの奥で店主の男がゆっくりとスツールから立ち上がった。


「まだ残ってるよ」


 整った口髭が口角とともに上がり、品のいい笑顔で返された言葉に、エマは両手でガッツポーズをとって飛び跳ねた。


「良かった! 間に合ったぁ!」


 心から嬉しそうに喜ぶエマに、店主は目尻のしわを深めてカウンターのショーケースからひとつの髪飾りを取り出した。蝶を模った繊細なデザインの基盤に、小さなガラスの粒が敷き詰められている。窓から差し込む日差しにかざすと、表面がきらきらと虹色に輝いた。


「買うかい?」

「もちろん! 買う買う!」


 すぐに代金を払って受け取ると、自分の掌に乗った蝶を間近で見つめてうっとりした。ウェーブがかった髪の毛を手櫛でとかして耳にかけ、そこにそっと髪飾りをつけてみる。ショーケースの上に置かれていた丸い鏡を覗き込むと、さらにうっとり微笑んだ。


「よく似合ってるよ」


 なんて店主が言うものだから、ますます気分が良くなって、エマは上機嫌で店を出た。


 が。


 鼻歌を歌いながら自宅に戻り、家のドアを開けた瞬間、時が止まった。

 我が家のダイニング兼リビングで、中年の色男が長い足を組んでくつろいでいる。もう四十も半ばだというのに、年を感じさせない若々しさがあった。

 長い睫に深みのある黒い瞳。すっと通った鼻立ちに無造作に流れる黒い髪。小麦色に日焼けした肌は、よく見ると無数の傷痕がついていた。左の薬指には、金縁に銀の指輪がはめられている。


「お帰り。エマ」


 低くて落ち着いた声に呼ばれ、エマは顔を引きつらせて口を開いた。


「一応……、伺いますけど、用件は?」

「お前を迎えに来たんだ。一緒に――」


 最初の言葉を聞いただけで、すぐにドアを閉めた。


「なかったことにしよう」


 くるりと体の向きを変え、猛ダッシュで階段を駆け下りる。突き当たりの塀に突っ込みそうな勢いだったが、塀の前に数人の男が現れてエマは方向転換した。

 右足を軸に九十度向きを変え、狭い横道に進路を変える。細い階段を飛び下りて、着地と同時に走り出した。長い黒髪が前後左右に激しく揺れ、蝶の髪飾りがはずれて宙を舞う。


「うわっと!」


 慌てて掴んで留め直すと、近くの窓ガラスに映った自分を見てチェックした。


「うん! やっぱり可愛い!」


 買って良かったと改めて納得すると、近くから男たちの野太い声が響いた。


「いたぞ!」

「やば。見つかった」


 急いで逃げようとすると、前からも数人の男たちが迫ってきた。


「しつこいなー」


 挟み撃ちにされかけたところで、エマは地面を蹴って跳躍した。捕まえようと手を伸ばしてきた男を踏み台に、難なく追手の壁を飛び越える。


「残念でしたー」


 前のめりになって転びかけた男を尻目に、エマは軽い足取りで走り去った。


「小娘だからって、舐めてもらっちゃ困るわよ」


 自分で言うのも何だけど、身の軽さと足の速さには自信がある。遺伝的なものが大いにあると思うが、親への感謝は湧かなかった。

 追手をまいて港に着くと、エマはふぅっと息をついてビットに座った。


「これからどうしようかな」


 家にあの男がいる以上、今日はもう帰れない。

 過去の経験から考えて、ニ、三日は帰宅をやめた方がいいだろう。幸いなことに、財布は持っている。このままどこか宿でもとって隠れていようか。

 彼らの縄張りは隣国の祇利那(シトナ)だ。祇利那の外で、とある海賊の母港であるこの華朝(カチョウ)にいつまでも停泊はできないだろう。長くても一週間くらいか。それくらい経てば、彼らもさすがに居づらくなって帰るはずだ。着替えと食料だけ買っておけば、なんとかなる。


「もう……、ただでさえ金欠なのに」


 先ほど高い買い物をしたばかりだ。また当分は節約しなきゃならないというのに、余計な出費にため息がこぼれてしまう。しかし、エマの大事な平和を守るため、こればかりは仕方がない。自分自身に言い聞かせ、改めて髪飾りを手に取った。


「見れば見るほど素敵だよねぇ」


 日の光を浴びてきらきら揺らめく波のように、エマの掌でガラス細工の蝶もきらきらと輝いている。あまりにも綺麗で、このまま何時間でも見ていたい気分だったが。


「見つけたぞ」


 頭上から、聞き慣れた人物の声が降ってきた。

 錆びたブリキ人形のように、エマはギギギと不自然な動きで振り返る。後ろでは、先ほど家にいた中年男が口元を綻ばせて微笑んでいた。


「こ、これ、可愛くない? 苦労してお金貯めて、やっと今日買ったんだよ?」

「ああ。よく似合ってる。お前の美しい黒髪にぴったりだな。ところでエマ」

「でしょ? これだけじゃなくて、夕顔通りの露店にも可愛い小物がいっぱい売ってるんだ。そこの靴も狙ってて、でも今日これ買っちゃったから、またお金貯めないとそっちは買えないんだよね」

「それなら後で買ってやる。だからエマ」

「えー、悪いからいいよ。ちゃんと自分のお金で買うから」

「エマ」

「……見逃してくれない?」

「駄目だ」


 笑顔で返された言葉に、むくれて頬をふくらませた。


「そんな河豚みたいな顔をするな。俺がいじめてるみたいじゃないか」

「いじめてるのと同じでしょ」


 嫌がる娘を無理矢理連れ戻そうとしているのだから。


「久しぶりの親子の再会だっていうのに、つれない奴だな」


 反抗期か? と真顔で聞かれ、エマはむくれた顔を強張らせて言った。


「海賊の勧誘に来るような父親と、どう再会を喜べって?」


 エマがこの世に生まれて二十年。その間ずっと思ってきた。


 なんで私は海賊の娘に生まれたんだろう。

 それも、船長の一人娘だなんて。


 父を見た友だちからは決まって素敵なお父さんで羨ましいと言われたが、自慢に思ったことは一度もない。何しろ、この人に関わって良かったことなんて何もないのだ。

 母は海賊同士の抗争に巻き込まれて早死にしたし、エマだって何度役人に捕まりかけたか。それだけでも十分迷惑なのに、今度は薔薇色の未来を灰色に塗り替えられようとしている。となれば、再会を拒む気持ちこそあれ、喜ぶ気持ちなんて全くなかった。


「そうは言うけどな、これはとっくの昔から決まっていたことじゃないか。お前だって、幼いころから聞いていただろう?」


 そんな困った顔で言われても、こっちが困る。


「だからって、いきなり来てすぐに来いって言われても、無理だよ」


 せめて気持ちの整理をする時間くらいくれてもいいじゃないか。と訴えたけど。

 父の目が据わった。


「我らがシーウルフは社会勉強のために三年だけ残りたいと言ったお前の要望を受け入れた。その後もなんだかんだと理由をつけて陸に居座るお前を甘受してさらに二年。約束の期限はとっくに過ぎてる。ばあさんもお冠だぞ」

「う……」


 そう言われると、こちらも辛い。けど。


「嫌なものは嫌なんだもん!」


 野蛮な海坊主と結婚なんて。

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