夢
史郎は夢を見ていた。それは7年前の出来事を追体験するような夢だった。
家族でピクニックということで、まだ小学校4年の史郎、史郎の姉で中学生になったばかりの真実、そして両親の計4人で高尾山にいった日の思い出だ。
この日はまだ幼い子がいるということで、一家は山の中腹まではリフトで登り、あとは少し頑張って山頂を目指すという計画であった。
リフトは二人掛けなので真実と史郎が先に来たリフトに、後ろのリフトにふたりの父母が乗ることになった。
残暑もなくなり、気持ちのいい秋晴れの空が広がっている。
そして青い空とは対照的に、リフトの周りの針葉樹は見事な秋色に染まっていた。
「うわぁ」史郎は足下を見て言った「すごく高いよ!」
「大人しく座っているのよ」
真実は右に座る史郎の顔を見ながら言った。
「大丈夫大丈夫」史郎は意に介せず答えた。「すごいよ! 紅葉が真っ赤っか!」
「紅葉を見るピークだからな。ほら、左手の方には富士山も見えるぞ」
後ろから父の声が聞こえてきた。すると真実も少し身を乗り出して、左の山々を見つめた。
「あ、本当だ! てっぺんが白い山がある! 富士山だ!」
「え、富士山、どこどこ?」
史郎も少し身体を乗り出して、きょろきょろと山々を見渡す。
「ほら、あそこの木の上よ!」真実はそう言って、左側の木のてっぺんあたりを指で指した「……あ、でも、あんたからは見えないかもね」
「えー、富士山見たいよ!」
「無理よ。あんたはチビなんだから」
真実はたしなめるように史郎に言ったが、この言葉は幼き史郎のプライドを大いに傷つけた。
そして史郎はなにを思ったのか、それまで座っていたリフトの細い座席の上に立ち上がろうとしたのである。
「絶対見るもん!」
「こら!」するとすぐに、後ろのリフトにいる母の怒鳴り声が聞こえてきた「危ないわ! やめなさい!」
「お母さんの言う通りよ、座りなさい!」
真実もそう言って史郎を捕まえようと手を伸ばした。
ちょうどその瞬間、史郎と真実が乗っているリフトのワイヤが、この区間で30本ほどある中継柱の一本ににさしかかった。
がががががっと音を立てながら、リフトが細かく振動する。
「あっ!」
そう叫んだのは史郎だった。
史郎はバランスを崩し、両足をリフトから滑らせてしまったのだ。
史郎はかろうじて両手でリフトの端をつかむことができたのだが、リフトから宙づりのような格好になってしまった。
「ああああああ!」
史郎は悲鳴をあげた。
「史郎!」
後ろのリフトから両親の叫び声が聞こえてくる。
しかし真実はパニックに陥ることもなく左手でリフトの横の手すりをしっかりと掴むと、史郎に対して右手を差しのばして言った。
「史郎! つかまるのよ」
「姉ちゃん!」
史郎は右手で真実の右手を必死に掴んだ。そして真実もその手は絶対に手を離さないつもりであった。
史郎はその状態のまま下を見た。地面はそこからさらに3メートルくらい下であり、しかもとても立っていられないような急斜面の上であった。落ちたらとても無傷ではいられないであろうことはすぐにわかった。
「こわいよ、真実姉ちゃん!」
真実は怯える弟をそのままなんとか持ち上げようとしたが、それはできなかった。少女の筋力では、相手が小学生とはいえ、片手で持ち上げるのは無理があったのだ。
「だめ! 片手じゃ持ち上げられない!」
真実はそう言って、後ろのリフトの両親にすがるような表情を見せた。
しかし、そう言われても両親にはどうすることもできなかった。
母も
「ああ……」
と言ったまま、手を合わせ、目を閉じてしまった。
真実は母の態度にますます絶望を感じた。史郎を掴む右手も疲れ、力が入らなくなってきたが、目を閉じ、歯を食いしばって、なんとか耐えようとした。
しかし、限界を感じたのか何度か頭を横に振ったあとに、目を開いて史郎に告げた。
「史郎! 少し痛いかもしれないけど、我慢するのよ」
そう言うと真実はリフトの横の手すりから左手を離し、右手だけでなく左手でも史郎の右手を掴んだ。そして全体重を後ろにかけ、両手でネギの右手を一気に引き上げようとした。
そして一瞬、史郎の身体が少し持ち上がった。真実もその瞬間だけは、「助かった!」と思った。
しかし、両手を離したままリフトの上でバランスを取るのは困難であった。
真実は重心を前後に動かしてバランスを取ろうとしたが、抵抗むなしく体勢を大きく崩し、リフトから落ちた。
二人は一緒に地面に落ちたのだが、真実が史郎をかばうように抱きしめていたため、史郎は地面に接触することはなかった。その代わりに真実は肩から地面に激突し、一瞬息ができないほどの打撃を受けた。それで終わりというわけではなく、二人はそこからさらに斜面に沿って転がっていった。10メートルほど転がったところに岩があり、その岩に激突することで、二人の転落はようやく終了した。
二人はしばらく仰向けになって寝そべったまま動かなかった。父親が遠くから声をかけ続けているようだったが、なにを言っているのかは聞き取れなかった。
「史郎……大丈夫? 怪我はない?」
先に声を出したのは真実だった。
「え……ああ。僕は全然大丈夫だよ!」史郎はそう言って、上半身を起こした「それより、真実姉ちゃんの足が……」
「……え?」
真実は史郎の指摘を受けて自分の右足を見た。縦に10センチほどの切り傷ができており、全体から血が流れていた。
「ああ。これはやっちゃったかもね。残っちゃうかも」
真実は少しだけ悲しそうな表情をして言った。
「一生消えないってこと?」
「うん……。でもいいのよ。これくらいの傷。史郎、あなたが無事だったんだからね」
「うう……」
「どうしたの、どこか痛いの?」
史郎は、頭を横に振った。
「どうしたのよ?」
「……怪我をさせちゃってごめんなさい」
史郎は涙を流していた。
「ありがとう」真実は言った。「でもいいのよ。私は周りの人を幸せにさせるような人間になりたいの。あなたが幸せな生活を送れるのなら私も幸せになれる。だから今のことはもう気にしないで」
「……僕、立派な大人になるよ」
涙を拭いながら史郎は言った。
「え?」
「僕、大きくなったら、絶対真実姉ちゃんのことを守るような大人になるよ……だから……」