6-10
「目が覚めたか、お嬢ちゃん」
覚醒しきらないまま、声のした方を見る。部屋のドアが開けられ、そこにある男がいた。
はじめ、ジュリアーナにはそれが誰だかわからなかった。起きたばかりというのもあるが、ジュリアーナの知るその人が、決して見せなかった表情をしていたことが大きい。
しばらくして、それが誰だか気付くと、驚きでぼやけていた頭がはっきりした。
「アンバーさま」
赤い髪に琥珀の目の男。アンバーはにやりと笑ってジュリアーナに答えると、部屋の中に入って来た。ドアは開け放たれたままだった。
上体を起こして辺りを見回す。どこか知らない部屋だ。見たところ、貴族の屋敷ではないだろう。少し上等なものが置かれてはいるが、庶民的である。
「俺の家だよ。中に入れたことはなかったか」
粗末だろ、と笑ったが、アンバーは自らの暮らしに文句をつけることを許さない目をしていた。
「……外観より、広いようですね」
何を言うべきかわからなくなって、そんな感想を口にする。アンバーが満足そうにした。これであっていたらしい。
その表情が不思議だった。アンバーは掴みどころのない、ほんの少しこちらを馬鹿にしたような、見下したような笑みを浮かべている。シェルナンドほどではないものの、見る者が見れば不気味でならない表情だ。
ジュリアーナの知るアンバーは、こんな顔をしたりはしなかった。いつも思いつめたような、何かにいらついているような表情だった。今のように、軽い声で話すこともなかった。
そんなジュリアーナの疑問に気付いたらしいアンバーが、いっそう笑みを深める。
「操られていたようなもんさ。お嬢ちゃんならわかるだろ?」
「……あの男ですか」
「ああ、あの男だ。かの賢王シェルナンドに、俺は半ば無理やり従わされた
少しの沈黙。
そして、アンバーは笑みを消した。
「お嬢ちゃん、俺はあんたとおんなじことを望んでる。でも俺だけじゃそれは叶わない。だからな、お嬢ちゃん。ちょっと俺に協力してくねえか」
「……何を」
「そう難しいことじゃあねえよ。お嬢ちゃんはただ、俺に情報をくれりゃあいい」
アンバーはこちらが知りたいことは言おうとしなかった。それなのに、ジュリアーナは頷いてしまいそうになる。
同じ望みを持っていると言っていた。それが何なのかは、なんとなく察しが付く。
アンバーの目には憎しみが滲んでいる。琥珀色のきらめきと同居する深いその憎しみの瞳に、ジュリアーナは釘付けになってしまう。
「賢王シェルナンドを殺す」
それが望みを叶えるためには必要なのだと、アンバーは言う。
来いと言われて部屋を出、ある一室に案内された。
中は他の部屋より質素だった。本棚にはリゼルヴィンの部屋と同じようにぎっしりと本が詰められ、窓からは花が咲く小さな庭が見える。質素ながらあらゆる工夫が施された、温かみのある部屋だった。むしろ、他の方が冷たく寂しい空気が流れている。
ベッドの上には、珍しい黒髪の女性が眠っている。病的なまでに白い肌と、塗りつぶしたような黒髪は、誰かを思い出させる。
「俺の嫁さんだ」
「……ご結婚なさっていたのですか」
「まあな。しばらくこの通りなもんだから、そりゃ意外だろうよ」
琥珀は暖かな色をした。細められた目の向けられた先、眠る女性はそれに気付いたのだろうか。ほんの少し、気のせいかと思うほど、小さく口元が動いた。
「お嬢ちゃんには特別だ。俺のこと、望みのことを、話してやる」
女性の力の入っていない手を優しく握りながら、アンバーはジュリアーナを見ずにそう言った。
それはあまりに完成された情景で、ジュリアーナを味方に引き入れるには充分だった。
目が、似ていたのだ。リゼルヴィンが何かを悲しむときのそれに。
アンバーは何かとリゼルヴィンを思い出させる目をする。そして、誰かを協力させる能力に長けている。ジュリアーナが、断れるはずがなかった。
「はじまりは二十六年前、もうそろそろ二十七年になるか。一年の終わりが見えてきた頃のことだ。こいつの眠りが長くなり始めた」
アンバーは静かに語り始め、ジュリアーナも耳を澄ませてそれを聞く。
木々によって棘を抜かれた陽光が、窓辺のベッドに落ちる。開け放たれた窓からは穏やかな風が吹き込み、幸福を象徴するかのようなこの光景は、しかし妻が目覚めない夫の悲しみで満ちていた。
「こいつには呪いがかけられている。もうきっと解けやしない。それでもしばらくは、もうしばらくは効果のないままでいるはずだった。俺も、こいつも、驚いたさ。予定にない。予測もしていない上に絶対に起きないはずのことだった。驚かないやつがいるか。それから調べてみりゃあ、『黒い鳥』が生まれただなんだと騒がれてる。また二人で驚いた」
二人とも、『黒い鳥』はしばらく生まれないと知っていた。それなのに生まれてしまったということは、何かが間違って、何かが狂ったということだ。それでも黒い髪を持つ女は喜んだ。人の誕生は喜ぶべきであり、祝うべきものだと笑ったという。
「仕方のないことだと、受け入れることにした。そういうことも、まあ、あるだろう。こいつが受け入れたんなら、俺も受け入れるしかない。だが、何かがおかしかった。そして、狂った部品を見つけたときには、もう戻れないところまで来ていた」
五年ほど、女は目覚めを得ていた。毎日少しずつ起きられなくなってはいたが、女の顔に悲しみは一つもなかった。
違和感を覚えたアンバーは密かに調査を続け、女の身に何が起きているのか知ったとき、すでに女は眠りについていた。死に最も近い眠りだ。アンバーですら、起こすことは出来なかった。
「こいつを眠らせたのは、こいつにもともとかけられていた呪いじゃあなく、賢王の呪いだった。あの男はそれを『愛』だなんだと正当化しようとしたが、紛れもなくありゃあ呪いだ。すぐにでもなんとかしたかったが、不意を突かれて『再教育』だ。あの男の罠にはまっちまって、こいつを助けられなかった。だから俺はあの男を殺す。ひとの嫁さん取ろうだなんて男を、許すわけにはいかんわな。そもそも、この俺に喧嘩売った時点で、いずれこうなることはわかってたはずなんだ。覚悟も出来てるだろ」
死んだわけではない。ただ、眠っていただけ。
それでもアンバーにとっては死と同じだった。アンバーにとって、この女は何者にも代えがたい大切な女だ。一時的であれ、眠りは死であり、恐怖であった。
「まあ、これだけじゃあないが、これが一番の理由であり、望みだ。俺はこいつを起こしたい。だからあの男を殺す。お嬢ちゃん、あんたもそうだろ?」
手を離し、ジュリアーナに向き合うアンバー。その目は、女を見ていたときより冷たい。
小さく息を吐いて、ジュリアーナも覚悟した。
「わかりました。私の望みも、あの男を殺すことです。出来る限り、お手伝いします」
正直のところ、アンバーの望みなどどうでもよかったのだが、何故だか心を惹かれてしまう。助けたいと思ってしまうのだ。
何より、アンバーはかなりの力を持つ者だと知っている。無力に近いジュリアーナだけでは、シェルナンドを殺すなど夢のまた夢だ。殺すためなら何をするのも躊躇わない。
「そうくると思ってたよ。お嬢ちゃん、俺の望みはあんたの望みと同じであり、あんたのすべての望みに繋がる。――教えてやるよ、こいつと、リゼルヴィンの関係を」
アンバーに手を引かれ、女の手と重ねられる。
そして、理解した。冷たい手に、触れただけでわかる。
「――こいつこそ、リゼルヴィンの元になった女だ」