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ノックの手が微かに震えた。未だ恐れを消せてはいないのだと、思い知らされる。
中にいるはずのレベッカの返事を待たず、ほんの少しの期待を持ちながら、扉を開ける。
その期待に裏切られるのは、予想通りだった。
「リゼル、まだ開けていいなんて言っていないわよ」
「……元気そうで安心したわ、レベッカ」
「お姉さまと呼びなさい。いつからあなたは姉より偉くなったの?」
「……あなたが我が家を捨てた日からよ」
レベッカはいかにも不機嫌な顔でリゼルヴィンを睨む。けれど、リゼルヴィンが同じようなことをしても比べ物にならないほど、可愛らしいものだった。
妬んでも何にもならない。溜め息を吐き、こちらも不機嫌さを前面に出しながら、まだ寝衣のままのレベッカに近付く。
「準備をして。しばらく街屋敷の方へ行くわよ」
「どうして? シーズンはもう少し先でしょう?」
「事情があるの。いいからさっさと準備をして。時間がないわ」
「何よ、もう。侍女も来ないから待っていたのよ」
「……あなた、まだ一人で着替えられないのね」
呆れたリゼルヴィンの声に、レベッカは悪びれる様子もなく、そうよ、と答えた。
レベッカは生粋のご令嬢だ。貴族の娘として生まれ、貴族の娘として育てられ、ここまで生きてきた。一度外へ飛び出しはしたものの、身を寄せていた修道院でも、他の修道女たちに手助けばかりしてもらっていたという。家にふらりと戻って来たかと思えばすぐ結婚し、その先でも甘えた生活ばかり送っていた。そんな人間が、レベッカなのである。
そうやって甘ったるいことばかりで生きている人間は、周囲の者から疎まれることも多い。しかし不思議とレベッカは、それが許される人間だった。何故かはわからない。ただ、皆口をそろえて、レベッカだから仕方がないと言うのだ。
リゼルヴィンとは、まったく違う、正反対の女。それが、レベッカだ。
「今日はみんな忙しいの。ほら、仕方がないから私が手伝ってあげるわ。いい機会だし、ちゃんと自分で出来るように、次から練習しなさい」
「どうしてそんなことをしなきゃならなの。私の着替えを手伝うのも、使用人の仕事だわ。リゼル、それを奪うあなたの方が、おかしいのよ」
「……どちらがおかしいかなんて、どうでもいいわ。早く済ませるわよ」
レベッカから目を離し、衣裳部屋へ向かう。
質素を好むリゼルヴィンとは違い、レベッカは派手なデザインを好む。色も赤を初めとする暖色系、それも鮮やかなものを選ぶ。
リゼルヴィンは薄桃色の服を手に取り、レベッカにこれでいいかと尋ねた。すぐ手前に、赤い服があって、レベッカはそれがいいと言う。
「赤は駄目よ、派手すぎるわ」
飛び出た言葉は鋭かった。リゼルヴィンも、それほど強く言ってしまったことに驚く。
けれど、レベッカは少しの間ぽかんとした後、にんまりと笑った。
「リーゼールー? それは、もしかして、嫉妬、かしらあ?」
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと済ませましょう。私は時間がないの」
何か言い続けるレベッカのすべての言葉を聞き流し、淡々と作業を始める。
服を着させるだけで、こんなにも時間を使ってしまった。精神をすり減らしてしまった。これから王城へ向かい、ぎりぎりの交渉を行うというのに。
レベッカは喋り続ける。話題は次々に変わり、行ったり来たりを繰り返す。
まるで子供だ。年上の、姉であるはずなのに、まだ夢見る少女のような性格をしている。現実の汚さなど見えていないかのように、レベッカはどこまでも明るく、なるほどだから人に好かれるのかと納得してしまう。リゼルヴィンとは、やはり真逆の存在だ。
「ねえ、リゼル」
着替えを終わらせたとき、ふとレベッカが、それまでとは違った声色でリゼルヴィンを呼んだ。
「私ね、本当に、アルベルトさまのこと、好きなのよ」
こちらを振り返って、恥ずかしそうに笑いながら、レベッカは言った。
スカートが揺れる。風もないのに、リゼルヴィンはレベッカの甘い匂いを感じた。
「……そう」
絞り出した言葉はそれだけだった。
俯いて、気付かれないように深くゆっくりと、静かに息を吐く。
「あなたなら、どんな男も手に入れられるでしょうね」
不思議と苦しくはなかった。もう、三年前に見てしまったからだろうか。
貴族として普通の感覚、持つべき常識があれば、あなたのような女性は絶対に選ばれないでしょうに、みんな馬鹿なのね、一番の馬鹿は、あなただけれど。
心の中で呟く。どろどろしたものが、胸にあふれた。
顔を上げる前に笑顔を作って、ごく自然に前を向く。レベッカは何も考えていなさそうな笑みのまま、こちらを見つめている。
「何も持たなくていいわ。街屋敷に、昔私が着ていた服があるから、今日はそれで我慢してちょうだい。あなたには少し大きいでしょうし、古い物を着させてしまうのは私も嫌だけれど、あいにくここ三年の私は黒ばっかりなのよね。明日になってから買いに行きましょう。今日は、忙しいの」
早口で言い終え、レベッカの手を取って部屋を出る。レベッカの手は、温かかった。
ちょうどいい機会だからと、かつて『マティルダ・ドール』と呼ばれた少女、メリアを王都まで連れてきた。人並みに活動出来るくらいには回復した今、ウェルヴィンキンズに残るにしても、外に出ていくにしても何かしら職に繋がるものを持っていなければならない。しばらくの間、街屋敷で侍女として働かせることにしたのだ。主にレベッカの世話係である。メリア本人も働くことに積極的で、ウェルヴィンキンズにいた頃からパルミラに侍女としての仕事を教えてもらっており、手際も良い。明るい性格であるから、レベッカにもすぐに受け入れられるだろうと思ってのことだった。
レベッカは一人では何も出来ない女だ。街屋敷の管理は一人の男に頼んでいて、その他に使用人はいない。ほとんどの使用人たちをジュリアーナの捜索に回している今は、メリアをあてがうのが一番だった。
エニーはウェルヴィンキンズに置いてきた。リゼルヴィンが長年求めていたものを持つ幼い子供を、極力危険にさらさないためだ。エンジットで一番危険な街であるウェルヴィンキンズだが、それは外の者にとってであり、一度住人になってリゼルヴィンが手を出すなと言えば最も安全な街である。
地下の『彼』は、声をかけても返事がなかった。しばらく放置していても大丈夫そうだったため、そのままにしている。
街屋敷にメリアとレベッカを置いて、リゼルヴィンはそのまま王城へ向かった。
城内は緊張が張りつめていた。そして、その緊張はリゼルヴィンが現れたことで更にピンと張る。
四大貴族の正装でいる間は特に大きな問題を起こすつもりもないが、今回のハント・ルーセンとの戦いでのリゼルヴィンの噂はすでに広がってしまっている。功績を讃えられることはない。あれほどに殺す必要はなかったと、リゼルヴィンも理解している。恐れられて当然の所業であるとも。




